2026年10月28日水曜日

15. 「人生いたるところ青山あり」

 (47歳)「子会社の係長から、いきなり人事課長?」

 私は47歳で兵庫製油所人事課長を拝命、経営危機下で「製油所閉鎖前の人事対応」がミッションでした。子会社の電気係長から、いきなり「250人製油所の閉鎖を担う人事課長」です。何という無茶苦茶人事かと唖然としました。

 昭和30年代後半、かって兵庫製油所建設時には家島漁港が建設大反対し「魚カギ」を持った漁民が大挙押し寄せて、出光社員が体を張ってピケで守り、ようやく建設できた製油所です。 佐三店主は「大阪・神戸の大消費地を控えた姫路に、徳山の次の第2番目の製油所建設が不可欠」と建設計画しましたが、地元反対で遅れ千葉の方が先に建設されました。そういう悔しさから当地の従業員は頑張り屋が多く、のちに取組んだTPM活動のレベルは極めて高く、製油所には当たり前の「トラップの蒸気」「油臭さ」は全くないため、審査員の「大島東工大教授と佐山岡山大学教授」は、「蒸気漏れ・油臭さの全くない改善日本一の製油所だ!」と絶賛していました。・・こういう立派な製油所が閉鎖となった理由は、二代目社長がRFCC装置建設を北海道に決めたからでした。重脱装置がある兵庫なら500億円で建設できるところ、重脱・RFCC全部を建設する北海道では1,500億円もかかってしまい、バブル崩壊後の経営危機の一因になりました。

 私の仕事は「姫路が大好きで、仕事仲間も最高の兵庫製油所で一生働こう」と入社した従業員と家族を、全国各地に異動させなければならない気の滅入る仕事です。「下手をすると三井三池争議の二の舞か」と覚悟して赴任しました。同時赴任した製油所トップは「部下殺し」の異名をとる凄まじいパワハラ所長でした。噂通り、直属の副所長は連続二人潰れて出社できなくなり異動になりました。私は元々子会社係長なので、虚心坦懐に仕え徐々に信頼されるようになり、やがて所長室でじっくり話相手をする唯一の存在になっていました。現場の若者が人事課に相談に来て私がいないと、女性社員は「課長は今お仕置き部屋(所長室)に入っています」と答えていたそうです。(笑) 副所長が呼ばれたときは「お前が行って代わりに話を聴いてきてくれ」と私が所長の相手をすることになっていました。

 当時入社5年の、冷静沈着、思慮深く優秀な辻君は、千葉に転勤し兵庫の何倍も大きな工場で努力して最近副所長となりました。まるで自分の事のように嬉しいニュースでした。

(53歳)『役職者使命は、部下が仕事し易い様にすること」

 47歳の新任役職者研修では、当時社長の出光裕治さんから「出光の役職者は上ではなく、下(部下)を見て仕事をせよ。部下が仕事し易い様にするのが君達の使命だ」と訓示され、これが私の役職者使命となりました。そして6年後、それを試される大試練が待ち受けていましたが、一歩も引かず組織簡素化の一端を担いました。その結果、私は北海道へ島流しになりました(笑)以下はその背景・経緯です。

 私の長年勤務した製油所・石油化学工場は、「運転(交替勤務)と保全(事故故障対応)が車の両輪」です。もし車の両輪が簡素強力に機能しなければ、プラントは、ただの大きな鉄屑です。

 昭和50年末、オイルショック後の不況対策として、外工事受注目的の工事会社=出光エンジニアリングが設立されました。新会社発足早々は、外工事は中々受注できないので、工場内の運転(興産)と保全(エンジ)とを分離して、従来工場経費一括りだった保全費をエンジ元請売上げとしました。当時分社化されたエンジ社員の本音は、こうでした。

「同じ仕事なのに、従来直接報告していた事故報告や工事完了報告を、一旦エンジ本社の裁可を受けて興産側に報告するのは無駄な仕事だ」 「クイックリスポンスの使命が果たせなくなった。」 「子会社だから今までの同僚・後輩をサン付けで呼べ? そんなバカなことできるか!」

 エンジ保全員は、そう思いながら、約20年我慢し続けた分社体制でした。

その後バブル崩壊して、出光は2兆円超の有利子負債を抱え、ムーディーズに「投資不適格」と格付けされ銀行が融資を渋るという経営危機が訪れました。しかし出光の底力は社員自身も驚くほどのものでした。色々な資産を売却し経費を切り詰め、社員は給与減額、OBは企業年金減額までして2年間で有利子負債を清算しました。更に資本金2000億円超の一部上場会社となり経産省を始め経済界を驚かせました。

 これほどの経営危機では、当然各部門は創業者理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」を徹底すべきです。しかし私が所属した子会社の社長・幹部は「現状維持の保全別会社存続方針」でした。(「本体復帰すると年間売り上げが200~300億円減となり重役ポストも少なくなる」ので、末端従業員の本音を知ろうとしませんでした)

 子会社でも社長が物事を最終決定します。一課長の私には力はありません。しかし「自分の部下たちにとって何が一番幸せか」を常に最優先するのは役職者としての責務です。そこで私は、直属部下と協力会社に『あなた達は、エンジ現状体制と興産復帰体制のどちらが仕事がしやすいですか?』と問いました。当然その結果は次の通りでした。

①部下40名全員 =クイックリスポンスの『興産直属体制に戻してもらいたい』

②全協力会社所長  =エンジ元請けは仕事が極めてやりにくいので『我々元請専門業者に戻して欲しい』

この現場の声をエンジ・興産本社に訴えて「保全の興産復帰」が実現しました。そして私はエンジ本社から出頭命令が出て、本社方針に反して行動した理由を問われました。(所謂 軍法会議です) 私は現場保全員が日頃本音で思っていることを包み隠さず述べ、約2時間一歩も引きませんでした。

〇佐三店主理念に基き「簡素強力な組織」は当然である

〇社長・役職者の役割責任は、社員が働きやすいようにすること

 そして決定権がある興産製造部長は「保全の興産復帰」を最終決断し、私は北海道の関係会社へ出向となりました。エンジ社長・部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありませんでした。

私は北海道大好人間なので『高倉健さんの映画と同じ境遇になったので、網走に挨拶に行かねば・・』と、赴任早々に網走刑務所を訪問しました。刑務所獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と、夫婦で納得でした。(汗)

【20歳代後半、初めて本社人事部に勤務した時の上司は地獄の閻魔様も恐れる出光最強の厳しい(パワハラ?)上司でした。部下で辞表を書かなかった者は一人もいません。

この上司の口癖が『24時間思考を停止するな!それが出光だ!』でした。2年間仕えましたが、その後もずっと夢の中に出てきてうなされた恐ろしい上司でした(笑) 53歳まで「出光らしい仕事漬け人生の25年間!」でした。】 

そして53歳で石油備蓄基地勤務となり、初めて週末に行楽に出かけられる人間らしい生活になりました。市内から30分の支笏湖にほぼ毎週末に出かけ、樽前山には3年間で50回以上登りました。『こういうのが本当の豊かな人生だよな!』と、しみじみ思いました。このまま定年まで7年間、この大自然の中で人間らしい生活を送るはずでしたが・・

(56歳)本社製造部で大量採用企画、動かぬ部長に愛想を尽かす】 

 備蓄勤務は僅か3年で本社製造部に呼び戻されました。新たな仕事は、「5年間停止していた大量採用の再開」=団塊の世代の補充で年200人×10年間採用再開を企画推進することでした。ところが社長説明資料をいくら作っても、部長が全く動かず、苦悩・格闘の日々が始まりました。当時会社経営再建ができたばかりで、「経営コスト最たる大量採用・人件費高騰は経営トップの逆鱗に触れる・・」と、彼は放置・保身を決め込んでいたのでしょう。目前に団塊世代退職を控えながら全く動かない部長を許せず「こんな部長の下では役割責任を果たせない」と、私は決然と早期退職届を出しました。


(57歳~)団塊の世代が出光を救い、定年制を撤廃した

ところが人事部で退職届がストップされ、当時の人事部次長(現会長)から「50歳代研修=60歳退職希望80%を、65歳勤務延長80%に意識転換させる」という重要ミッションを与えられました。そして4年間で46回、のべ600人の意識改革研修を行い、人事部次長から与えられた使命通り「65歳勤務延長者80%を達成」しました。いまでは70歳を超えても現役で働いている猛者が多数います。

 出光佐三氏は生前「出光には定年制がない」と公言されていました。しかし会社規模が大きくなって従業員が1万人前後の大所帯になってからは、60歳定年制が慣例化して「依願退職」(実態は定年制)という形式をとっていました。

 私は団塊世代の大量退社時期に直面して「大量採用と技術伝承・教育のためには団塊世代が不可欠」という人的課題を担うことになりました。その唯一の解決策が「団塊世代大半の勤務延長」でした。 出光佐三店主の「人間尊重・家族主義の出光に定年制はいらない。働けなくなったら自ら歯車から外れよ。」という出光らしい仕事観・人生観の理念に基づいた勤務延長は「実質的な定年制撤廃」という理想の実現でした。

 私の早期退職届を握りつぶし、この重要ミッションを与えてくれた当時の人事部木藤次長(現会長)に、いまも心から感謝しています。




2026年10月20日火曜日

9. 芸術に生きる学友・富夫君と作品群

 高校同窓の河野富夫君が、国内最大の美術展「二紀展」に、50年連続出展し続け、ついに最高栄誉の「委員推挙」を受けました。

 彼は元母校日向学院の美術教師の傍ら、2002年から120号(1900×1300)クラスの大作を制作出展し続け、今年は885名の絵画出展者のなかで最上位「第79回二紀展(2026年) 委員推挙」され展覧会場の最上位に展示されています。宮崎県からは16年ぶり3人目の快挙です。「二紀展」は「二科展」と並ぶ国内最大級の美術展で「戦前の旧二科会の活動を第一期とし、戦後新しく第二期の紀元を画する!」という壮大で意気軒高な構想で発足し発展してきました。

第79回の今年も、1階から3階まで
出展者約900名の大展覧会で、その主張通り独創的で見事な作品のオンパレードで見飽きることはありません。今回最上位の委員推挙6名の一人となった河野富夫君の作品は「ラプソディ in南郷2026」で、会場に入ると、いきなりの真正面に掲示されて目を引いていました。

富夫君の絵には、必ず隠し絵の「平原綾香」と「お孫さん」が登場します。彼は2010年(60歳)と、2019年(69歳)の2回、脳梗塞に襲われ、利き手の自由を奪われました。画家として絶望する中、平原綾香の澄んだ力強い歌声と、可愛いお孫さんがその絶望から立ち直らせ、左手で描こうと決心しました。

それ以来、従来のテーマ「聖アントニウスの誘惑」から、明るく力強い生命力あふれるテーマ「ラプソディin南郷」へと脱皮しました。

その感謝を込めて、彼の絵には天使の様な平原綾香とお孫さんが必ず登場します。また色々な動物、植物が描かれ、沢山の恐竜たちが一緒に登場して生命力溢れる楽しい絵となっています。『この世は太古の昔から現代までの魂や生命に満ち溢れている』という彼の眼には、このように世界が見えているのでしょう。「遠くからみて楽しみ、近寄って隠し絵を楽しむ」何度も楽しめる実にユニークで楽しい作品です。

今回は中央に子供達に大人気のティラノザウルスが主役になって描かれています。丁度宮崎で開催されていた恐竜展に通いつめデッサンを重ねて到達した新しい境地です。


「芸術に生きる学友・富夫君と作品群」    記:令和5年10月10日
高校卒業後50年間、顔を合わせることのなかった学友との再会は、誠に驚きの連続です。同じ高校で3年間共に過ごし、ある程度分かったつもりでいた学友が「彼は高校時代、本当はこういう事を考えていたのか!」と初めて知ることばかりでした。また「夫々が卒業後どのような人生を送ったか・・」を垣間見ることができ、自分の残りの人生充実の糧にすることができます。「ああ、自分も、あるいはこういう人生も送れたんだ!」と・・

今回は、高校卒業後美術家の道を歩き、約40年間母校の美術教師だった「河野富夫君」の半生と作品群を紹介します。

 彼はS40年学院中入学、当時は成績順に座席が決められ、常に右端の最前列で学年トップの秀才だったようです。私は高校からのつきあいで、3年間同クラスでしたが、彼はガリベンには興味のない哲学者然としていました。高校時代の成績上位は、努力家の下村君, 甲斐君, 河野修君、英人君、重文君らが占め、富夫君は私と同じようにアップダウン激しく、超然とした雰囲気を持つ大人しい性格だったので3年間話したことはありませんでした。・・そして私は宮大工学部へ、富夫君も宮大教育学部に進学し、キャンパスで数回すれ違ったくらいでした。その富夫君と再会したのは学院卒業50周年記念クラス会でした。「学院で美術の先生をしていました」という自己紹介にビックリ! ・・その彼は退職後2010年、2019年と2回脳梗塞で入院し、利き手の右が使えない後遺症のなかで今も制作活動を続けています。今回はその不屈の画家「河野富夫画伯の作品群」を紹介します。

1.「アントニウスの誘惑」シリーズ  1998年~2009年

富夫画伯は、宮崎日日新聞社が創設した宮崎県美術海外留学賞の第一回受賞者で、1997~1998の1年間イタリア留学派遣、ローマ歴史遺跡やルネッサンス美術などを学びます。そして「聖アントニウスの誘惑」を主要テーマとする取組み沢山の作品を生み出しました。「聖アントニウス」は有名な聖人で、その修行中にしばしば悪魔の誘惑にさらされて信仰心を試されました。西欧ではよく取り上げられる題材で、空想的な魔物や魔女が登場しますが、富夫画伯は、あたかも自分が聖アントニウスの試練を受けているような強烈さで私達に迫ってきます。

富夫君が描く「聖アントニウスの誘惑」は、悪魔の誘惑というよりも、この世の破滅を見せつける悪魔の脅迫のように感じます。あのおとなしい富夫君のどこにこんなエネルギーが秘められていたのでしょう!2009年のシリーズ最後の作品では、この世を亡ぼした悪魔は、全てを天空に巻き上げて拡散させます。よく見ると竜巻の中に色々な悪魔や恐竜や蛇などが混ざって瓦礫を食い荒らしているように見えます。

2002年 「どんなところにも目に見えない生きものが沢山いる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

 

2003年 「ローマのコロッセオとたくさんの生き物を組み合わせて画面を構成したいと思っています。巨大建築は構造的に生き物を感じさせます。建物の崩壊は生き物の死を連想させます。コロッセオの空間に満ちた生き物たちは、建物のエネルギーの変容かも知れません。」 

2004年 「ものは常に変化している。頑強に構築されていた、不動のように見えていた塔もまた、今変容しようとしている。その一部は翼となり天に広がり、一部は水となり滝となって地上に降り注ごうとする。不変を期待する自分と変化を待つ自分があって、どちらともつかないものの内側にあるものを描きたかったのかも知れない。」

2005年 「青い空の下、海が割れて巨大な艦橋が現われる。やがてそれは暴発しありとあらゆるものが吹き出してくる。それらは相手を求めて追いすがり追い越し待ち構えて飲みつくそうとする。攻撃をかわしたものは逆に相手をつかみ、果てへ飛び去ろうとする。・・・それらの荒々しいものたちをキャンバスに閉じこめたいと思う。」

2009年 「中庭のまわりに数本の糸杉が植えてある。数十年毎日目にしていたものだが、ある日その木肌が気になった。凹凸のある節くれだった表面はある形状を見せている。ゆるやかに時計まわりにラセンをえがく。数本の糸杉がすべてラセンをえがき頭上で大きく枝を広げる。電子顕微鏡の世界でなく気象衛星の画像でなくほんの身近なところにラセンがあった。」 

2.脳梗塞を乗り越えて  2010年

 2010年60歳となった富夫君は脳梗塞で入院。 同じころ発生した宮崎の口蹄疫は、日本一の宮崎牛を約30万頭も殺処分する非常事態となりました。自身の不安に追打ちをかけ、誕生後60年間過ごす宮崎が未曽有の大危機です。公私ともに極限の絶望の中で、右手が使えず 慣れない左手で描きあげた渾身の傑作がこの絵です。日向灘で巨大なクジラが「こんなことに負けるな!」と大きなジャンプをしてエールを送っています。彼はこの絵で自分自身や宮崎を鼓舞するだけでなく、あらゆる人々を「フェニックス(不死鳥)のように何度も生き返れ!」と元気づけてくれています。・・当時、彼はこの絵を次のように解説しています。

「2010みやざき(堀切峠)」100F(1,620×1,303)
「自分の身の上に起きた出来事と宮崎に発生した口蹄疫の惨状を重ね合わせてこの半年を過ごした。生まれたばかりの子豚が眠ったように死んでいる。新聞の写真を見たとき、気持ちを抑えきれず紙面を破り取りちり箱へ投げ入れた。不安感がこみ上げてくる夕刻、左手で描きなぐるままにできていたのがこの絵のラフスケッチだった。おのれと宮崎の再生を込めて紺碧の日向灘をバックにしたフェニックスの風景を描いた。」 

3.平安への祈り 「ラプソディ・イン南郷」シリーズ 2011~20018

 2010年 脳梗塞の衝撃、宮崎口蹄疫、2011年新春早々新燃岳が大噴火、3月東日本大震災・大津波・・社会不安は増々大きくなっていきます。しかしその前年、人生の不安を乗り切った富夫君の心は微動だにしませんでした。彼のメインテーマは「大好きな南国宮崎の青島海岸、南郷亜熱帯植物園とそこの潜む妖精たち」になっていきます。・・彼には常人にない霊能力があるのでしょうか。・・彼はかってローマの地でこう述べています。

 「どんなところにも目に見えない生きものがたくさんいる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

この常人にない眼差しが、南国宮崎の穏やかな大自然に向けられていきます。それが「ラプソディin南郷」の連作です。

2011「ラプソディー・イン・南郷」150F

「広い太平洋を見下ろす丘の上にある小さな亜熱帯植物園、そこに何かがあると思ってスケッチに行った。彼らは枝を伸ばし葉を茂らせ思い思いの色彩を身につけて「生」を謳歌していた。その生命力に沿うように鉛筆を滑らせ絵具を流していく。気持ちとは裏腹に指先はぎこちない動きをするが、彼らの生きる力は少しずつ画面の上に再構成されていく。渡しはキャンバスのプリンティングの中に動物を追いかけイメージを定着させる。」

2012年 「プリンティングでキャンバスを覆ってしまうと、下書きの植物たちは消えてしまい取り留めのない絵の具の模様がだだっ広く広がっているだけ。その前に立つとこれから先どうなるかと不安に襲われる。しかし、何者かがすぐにうごめき始める。アイチアカの根元に潜むのは獣脚類の仲間か?葉陰にたたずむ耳の長い人影は妖精?それともウサギのお化け?彼らは続々と亜熱帯植物の吐き出す熱気のようにキャンバスの中に満ち溢れてくる。」

2013年 「描き続けていくとますます上手くなっていくと思っていたが、そうでもないことに気付いた。中心になる植物の周りに脇役の羊歯が繁茂している。主役を引き立てるには面倒でもこの雑多に見える面々をしっかりした植物に仕立て上げなくてはならない。庭先から最適な個体を選び出し根こそぎとってきて、キャンバスの隣に据える。何度も描き直しながら名脇役へと育て上げる。役者がそろったところで幕が上がり舞台が始まる。」

2014年 「モチーフは突然向こうからやってくる。初夏のある日、良く知っている道路沿いの海外にマッコウクジラが漂着したニュースを聞いた。朝早く出かけた。それは朝日の逆光の中波打ち際に横たわっていた。時折大きな波が巨体を揺らす。スケッチを進めるうち足下に波が打ち寄せ、逃げそこなって転倒した。起き上がると全身が油にまみれ、動物の臭いに包まれる。クジラの何かに追われるように車を走らせて帰った。彼の昇天の図を描いた。

4.「 旧都城市民会館レクイエム」 シリーズ 2019年~2023年

富夫君は、2019年再び脳梗塞に襲われます。2010年1回目の時は宮崎口蹄疫と次の年に東日本大震災が発生、今回は次の年に『新型コロナ』が世界中を危機に陥れています。・・今思うに、感性の鋭い富夫君は、この人類未曽有の危機を事前に感じ取り、2度の脳梗塞になったのではないでしょうか。・・幸い2度目は比較的軽く心機一転、その頃老朽撤去が決まった「旧都城市民会館」が、彼の新たなモチーフになります。

 旧都城市民会館は1966年に建設され、当時日本発の建築運動「メタボリズム」(新陳代謝を意味する)の中心的存在だった菊竹清訓の代表的建築物です。旧都城市民会館は世界的にも有名で「存続か撤去か」で20年以上もめてきましたが、具体的活用案がなく市民アンケートでも83.5%が解体に賛成で撤去が決定しました。・・市民に愛されながら撤去されていく貴重なモニュメントに、富夫君は限りない哀惜を込めて描き続けています。 

 2019年、間もなく撤去される前の市民会館です。人間の構築物が撤去される・・それは植物や動物たちの永遠の生命の輪廻と混ざり合うこと・・そういう暖かい眼差しで富夫君は見つめています。

2020年 この年から、コロナ禍が全世界を恐怖に陥れます。しかし2度の大病を乗り越えた富夫君は微動だにしませんでした。「命あるもの、いつかは命が尽き、形あるものは、いつかは大自然に戻る・・」彼の眼には、そういう悠久の時間を超えたいのちの営みが、混然一体となって見えているようです。

2021年 左の大木に溶け込んでいる美人は歌手の平原綾香。富夫君が脳梗塞から蘇りリハビリを続けているとき、たまたま宮崎で公演があり3回も出かけたという事です。そしてその天使の歌声に生きる力を呼び覚まされたと言います。それ以来、彼の絵画には、色々な場所に平原綾香が顔を出しています。


2022年 近代都市の都城市も、太古の昔は大木生い茂るジャングル、やがて人間が移り住み、都城市民会館ができ、撤去され、そして未来へ・・すべては悠久の大自然の中にある・・そういうことをこの一枚は教えてくれます。ここにも左下に愛してやまないお孫さんが、コロナ予防のマスクをつけて登場・・元気に遊びまわる筈の子供たちも我慢の生活でした。

5.「2026二紀展」開催のお知らせ

  河野画伯が2002年から出展している「2026二紀展」が国立新美術館で開催されています。「二紀会」とは、戦前の美術界の頂点であった「二科会」が戦時下の1944年に解散し、戦後再結成する際に、主張の異なる9名が分離独立して創立したものです。旧二科会の活動を一期とし、戦後新しく第2の紀元を画するという主旨のもとに毎年秋に展覧会を開催しています。現在は「美術の価値を流派の新旧に置かず、また具象、非具象を論じない」という主張を掲げて、全国で活躍する多くの美術家から共感を得て、毎回約1000点の斬新な作品が展示される一大美術展となっています。

2026年は、10月14日~26日の間、「国立新美術館」で開催されています。勿論河野富夫画伯も出展しますので、ぜひご来展戴きたいとお誘いいたします。


2026年10月3日土曜日

1. 若者への応援歌の目的

                Riv.20260320  (Start:20120201 )

本ブログ目的は、混迷し不安な現代を力強く生きる為の応援・助言です。特に若い皆さんが、プラス思考で行動し、実践的になって活躍し、新たな未来を切り開くために役立つ道標や、元気になる話、偉人の逸話、最新情報などについて調査紹介することです。この報文が『若い人の成長』に、また上司・先輩の皆様方の『部下・後輩指導・育成』に、少しでも役立つことができたら望外の喜びです。

 色々な切り口から、若い皆さんに役立つ話題を提供していきます。下のタイトルをクリックすると本文が出てきます。本ブログ読後感想・ご意見等ありましたら、是非次のメールアドレスにコメントください。  hidechiyo915a@gmail.com 

             【ページビュー】
1.はじめに

  • 1-5.仕事と成長と人生
  • 12.私の人生・健康、心の友 

厳しい環境の中、将来に夢を持てない若者が増えています。

・家庭では 父母が仕事で忙しくて じっくり話を聴いてくれず孤独
・学校では 目立つといじめが怖いから 本当の自分は隠す
・大人や社会は 若者の孤独感・閉塞感に 全く関心がなく忙しそうだ

 日本青少年研究所が2023年6月に行った日米中韓の高校生約12,000人対象の 『自分はダメな人間だと思うことがあるか?(Sometime I feel like a failure)』の調査結果では、日本は 78%が 『そう思う』とネガティブ回答しています。米国…61%、中国…55%、韓国…48%です。【2011年は、日本82.7%、米国52.8%、中国39.2%、韓国31.9%】 この結果から、日本の若者がダントツに閉塞感を感じ、自分に自信をもてない現実が見えてきます。 しかしこれは若者だけの責任でなく、こういう社会環境にした我々大人の責任です。

 社会矛盾や大問題を抱えた各国の若者大半がネガティブ思考です。しかし日本の若者がダントツに多く『自分はネガティブだ=約80%』の結果には違和感があります。・・特に『新型コロナ拡散源の隠蔽、ウィグル・チベット・内モンゴルのジエノサイド、南・東シナ海の強奪、台湾へ侵攻恫喝、環境大汚染、経済破綻等を隠蔽する軍事独裁国家の中国がネガティブ55%』、『核・ミサイル開発・配備を急ぐ独裁北朝鮮の脅威を軽視、恨文化で満足感謝のない韓国が48%』、「多民族・多様価値観の分断で自閉症となった米国が61%』などを考えると不自然です。

 むしろ世界一安全で豊かな日本にあっても、世界レベルの危機や困難に真直ぐに目を向け、不安や危機感や孤独感の中にある日本の若者の方が、よほどまともな感受性を持ち、世の中を改革・変革していく潜在能力・可能性があり、世界から期待される存在です。