史上最年少で米国第35代代大統領に就任し、今も絶大な人気を誇る J・F・ケネディは、約100年前の1917年5月29日に生まれました。
その娘のキャロライン・ケネディ氏が駐日大使として着任したのは 2013年11月22日、奇しくも50年前の1963年11月22日は、父親のJ・F・ケネディ元大統領がダラスで凶弾に倒れた日でした。
歴史に残る偉大なこの大統領が大変な親日家であった事は良く知られていますが、江戸時代中期の上杉鷹山を心から尊敬していたという事はあまり知られていません。 大学でその話をしますと『なぜケネディは鷹山を知っていたのですか?』と質問する学生がいました。この『何故?』と疑問に思うことが、大きく成長・発展する原点です。若者は本当に素晴らしいと思う瞬間です。
そこで今回は、ケネディが敬愛した上杉鷹山に触れてみたいと思います。
歴史に残る偉大なこの大統領が大変な親日家であった事は良く知られていますが、江戸時代中期の上杉鷹山を心から尊敬していたという事はあまり知られていません。 大学でその話をしますと『なぜケネディは鷹山を知っていたのですか?』と質問する学生がいました。この『何故?』と疑問に思うことが、大きく成長・発展する原点です。若者は本当に素晴らしいと思う瞬間です。
そこで今回は、ケネディが敬愛した上杉鷹山に触れてみたいと思います。
第二次世界大戦後の日米は敗戦国と戦勝国の関係で、アメリカは日本を評価もしなければ信頼もしませんでした。一方日本国内の反米感情は、現在とは比較にならないほど過激なもので、この状態がそのまま継続していたら今日の日本の繁栄はなかったに違いありません。
当時の日本にとってアメリカは疑わしい同盟国でした。朝鮮戦争で中国に惨憺たる目にあったアメリカは、日本に中国と距離を置くよう要求し、危険性が増すソ連との核戦争に日本を引きずり込みかねませんでした。不安が頂点に達したのは60年の日米安保条約改定で、冷戦の危機感が日本人を脅かし反米感情は最高潮となりました。
また本記事と関連するブログ 『ウィリアムテルと日本人】 も是非目を通してください。
東洋史研究者のエドウィン・ライシャワー(後の駐日大使)は、こうした危うい日米関係を懸念し、より広範囲で強固な関係を築くべきだと提唱し、これに共感したのがケネディ大統領でした。当時ケネディは64年の大統領選での再選を見据え、外交的な成果を狙っていました。そこで現職大統領として初となる訪日を計画、それに先立ち弟で司法長官のロバートと、その妻エセルの訪日を62年に実現させました。 ロバート夫妻は形式的な会見を避け、一般の日本人と積極的に交流や対話を重ね、親しみやすさで人々を魅了し、日米関係が大きく進展するきっかけとなりました。
ロバートは、日本の労働者や左翼学生団体など、最も手ごわい反対派にすら好印象を与え、特に学生の怒号が飛び交う中で行われた早稲田大学の講演では、反対派にも堂々と議論を呼び掛け、強い印象を残しました。
ケネディ大統領は63年に凶弾に倒れ、自身の訪日は叶いませんでしたが、ロバートの訪日後、日米は協力してさまざまな団体を設立し、より深く広範囲な交流を展開して国民の支持を得るようになっていきました。
キャロライン・ケネディ元駐日大使は、父親の故ケネディ大統領や叔父ロバートの遺志を継ぎ、オバマ大統領の広島慰霊を実現させるなど、米国大使として日米関係を発展・進化させる抜群の実績を残しました。
キャロライン・ケネディ元駐日大使は、父親の故ケネディ大統領や叔父ロバートの遺志を継ぎ、オバマ大統領の広島慰霊を実現させるなど、米国大使として日米関係を発展・進化させる抜群の実績を残しました。
上杉鷹山
大戦後多くの日本人が忘れ去っていたこの人物を、心から尊敬していたのがケネディ大統領でした。 しかし一体どうやってケネディはこの人物を知ったのでしょう? それは、明治時代の世界的に著名なクリスチャン内村鑑三の名著 『代表的日本人』 を読んだからです。
大戦後多くの日本人が忘れ去っていたこの人物を、心から尊敬していたのがケネディ大統領でした。 しかし一体どうやってケネディはこの人物を知ったのでしょう? それは、明治時代の世界的に著名なクリスチャン内村鑑三の名著 『代表的日本人』 を読んだからです。
内村鑑三は、この本で 『混乱の時代にあっても高い志を持ち、公平無私を貫き、世の為に生涯をささげ、温かさと峻厳さを併せ持ち、誠実で情熱にあふれる偉大な5人の日本人の生涯』 に肉薄し、世界の人達に英文で紹介しました。 本書は同時代の新渡戸稲造 『武士道』 と共に、世界的名著として知られています。 当の我々日本人がその事をあまり知らないのは恥ずかしい事ですが、この機会に是非読んでみたいものです。
この本には、まさにいま現代人が探し求めている本当の生き方、そして気骨のある21世紀のリーダー像が克明に記されています。 その数節を紹介します。
【出典】『代表的日本人』 内村鑑三:著 (講談社インターナショナル)
『上杉鷹山』 童門冬二:著 (集英社文庫)
1【序章】
かって西洋の知恵がもたらされる前に、この国は既に和の道を知っており、「人の道」 が実践され、「敗者を労わり、奢る者を砕き、平和の律法を築き、死を恐れぬ勇者」
がいました。日向(宮崎)の小大名高鍋藩に生まれた鷹山は、10歳で上杉藩の養子になり、弱冠17歳で領地も家格も遥かに大きい上杉家の藩主となり、全国でも例がないほどの重責をになう事になりました。
元々日本統一を伺う実力者であった上杉謙信の没後、上杉家は秀吉により会津100万石に転封され、関ケ原敗戦後は米沢藩30万石に減封、鷹山が藩主になった頃は15万石にまで減らされていました。 それでも100万石当時と変わらない数の家臣を抱え、古い慣例を全て踏襲していたのです。従って藩の財政は支えられず、その負債は何百万両にもおよび、領民は厳しい税の取り立てに恐れをなして逃出し、領内全域を貧困が覆い藩は崩壊寸前でした。
2【一筋の光明】
藩主になり初めての国入りで、荒れ果てた村を通り過ぎる度に若い鷹山は衝撃を受けます。 その晩、家来を集め次のように駕籠の中で消えかかっていた火鉢の炭の話をしました。
「わが民の惨状を目の当たりにして絶望していた時、目の前の炭が消えかかっているのに気付いた。それを大事に取上げ、そっと辛抱強く息を吹きかけていると炭の火は蘇り実に嬉しかった。 『同じようにして、わが民と領地を蘇らせる事ができないだろうか』 と自問すると希望が湧いてきたのだ。」
この話に感動した家臣は、鷹山からその炭の火を分けてもらい、夫々の家で大事に燈し続け、藩を再生させようという藩主と思いを一つにしました。
【藩政改革】
いつの世も、どの国でも人は変革を嫌うものです。 しかし若き鷹山には変革以外に救済の道はありませんでした。 当面の問題は財政で、秩序や信用を回復するには可能な限り倹約するしかないのです。藩主自ら生活費を1050両から209両に切詰め、50人いた奥女中を9人に減らし、着物は木綿に限り、食事は1汁1菜と決めました。家臣もこれに習い手当てを半分に減らして積りに積もった負債返済に充て、それを16年間も実行したのです。
一方で鷹山は能力のある人物を登用し乏しい財源から手当を支給し、3種類の役職を設けました。 上級職には行政全般一切を監督させ、「民の父母として慈愛の心を以て行政に当たれ」と訓示しました。 中級職は教導出役で、領民に「道徳や礼儀、親孝行、寡婦・孤児への慈悲、婚姻・葬儀等」を教え、国中に活気を与え、温かい血を通わせるべく各地を巡回し、その進捗状況を藩主に報告しました。 3番目の職は警察役で、領民の悪事や犯罪を突き止め、罪状に応じて厳しく罰する事でした。 この新しい統治制度は5年間実施され、新たな秩序が生まれ、社会が回復するかもしれないという希望が甦ってきました。
しかしそこにとてつもない試練が待ち受けていました。 旧態にしがみつく保守派重臣7名が反撃に出て、新体制をすぐに廃止するようにと鷹山に詰め寄りました。 そこで鷹山は 「自分の評価は民の判断に委ねよう」 と、直ちに家臣全員を招集し城内に何千人もの家臣が集まりました。そして 「自分の政治の方針は天意に背いているか」 と尋ねたところ、執政も城代も三千宰配頭も三十人頭も異口同音に 『いいえ』 と答えました。家臣は鷹山の大改革を支持していたのです。 民の声は神の声です。鷹山は満足し決断しました。 7名の重臣を呼出し、5名は家禄半分に、首謀者2名は切腹を命じました。こうして保守派や不満分子は一掃され事態は大きく好転することになるのです。
3【産業改革 2つの方針】
(1).領内に荒れ地を残さないこと
(2).民の中に怠け者を無くすこと
元々肥沃でない土地でしたが、鷹山は自分と領民の努力で15万石の領地から30万石の収穫は可能と考えました。そこで武士にも荒れた耕地を復旧させ、耕作に向かない土地には和紙の原料のコウゾを植え、また武家の庭や寺の境内で漆栽培を命じて短期間で100万本以上も領内に植えさせました。 さらに自藩を全国有数の絹織物産地にすべく、桑の木を領内に植える余地がなくなるまで植え尽くしました。今日の米沢の発展、特に絹織物、漆器の名産品が、鷹山の忍耐と仁愛を証明しています。
それでも領内に残る荒れ地を活かす為に、この時代の日本で最大級の土木工事を2つ計画し完成させました。 まず高い堤防を延々と築き、全長45kmに及ぶ堰を作って水を引くという、水力工学技術の粋を集めた大土木工事を行いました。 もう一つは、堅い岩盤を360mも掘り抜いたトンネルで川の流れを変える大工事で20年をかけて完成させました。これにより荒れ地にも花が咲き、鷹山の領地には豊かな実りを生むようになりました。それ以来今日まで、東北地方で米沢だけは水不足に見舞われたことはありません。
さらに領民の幸福の為に、品種改良馬を生産し、池や小川で鯉や鰻を飼い、紅花を植えて染料とし、他国から坑夫や職工を集め領内のあらゆる資源を生かして地場産業を興しました。 その結果、領内には怠け者は全くいなくなって皆が働き者になり、かっては全国で最も貧しい土地だった米沢が、鷹山の晩年には模範的な生産性の高い藩となり、現在もそれは変わりません。
4【鷹山の晩年】
この勤勉な節制家は健康に恵まれて70年の人生を全うし、若き日の望みは殆ど叶えました。 藩政は安定し、民の暮らしは楽になり、領内に豊かさが満ち満ちるようになりました。
かっては藩をあげても5両の金さえ工面できなかった貧乏藩が、今や一声で即座に1万両も集められるようになっていました。このような人物の最後が安らかでない筈がありません。1822年3月、鷹山は最後の息を引き取りました。
「民はよき祖父母を失ったかのように泣いた。身分を問わず誰もが悲嘆にくれる様子は、筆に尽くしがたい。葬儀の日、何万人もの人が沿道を埋め尽くし葬列を見送った。合掌し頭を垂れ、一斉に号泣する人につられ、草木もこぞってこれに和した」
と、伝えられています。
J・F・ケネディは、この東洋の傑物の生涯を知り、心を大きく揺り動かされたものと思われます。次のケネディの名演説は、まさにこの上杉鷹山の生涯と見事に一致します。 そして今もなお、私達一人ひとりの心に深く語りかけ、問い直しています。
『大事なのは国家が諸君に何をなすかではなく、諸君が国家に何をなすかだ』
『物を失えば小さく失う。 信頼を失えば 大きく失う。 勇気を失えば 全てを失う』
また本記事と関連するブログ 『ウィリアムテルと日本人】 も是非目を通してください。
【2013年11月28日読売新聞掲載記事より】
キャロライン駐日大使は27日、就任後初めての講演会で、次のエピソードを話しました。 『 父の J・F・ケネディ元大統領は、江戸時代 米沢藩の名君 上杉鷹山を尊敬していた。そして「あなたが国家に対して何ができるかを自問して欲しい』
と述べた就任演説に代表される考え方に大きな影響を受けた。』
巻5第9 『倹約』
上杉鷹山は、十歳の時に高鍋藩上月家から上杉家へ養子に来ました。
十四歳の時から細井平洲を先生として学問に励みました。十七歳の時、米沢藩主となり、良い政治をして評判の高かった人であります。 鷹山が藩主になった頃は、上杉家には借財が多く、そのうえ凶作が続いて領民は大そう難儀をしていました。 鷹山は、このままにしておいては家の亡びるのを待つよりほかはないと考えて、倹約によって家を立て直し、領民の難儀を救おうと堅く決心しました。
鷹山は、先ず江戸にいる藩士を集めて、
鷹山は、先ず江戸にいる藩士を集めて、
『このまま当家の亡びるのを待っていて人々に難儀をかけるのは誠に残念である。 これ程衰えた家は立て直す見込みがないと誰も申すが、しかし此のまま亡びるのを待つよりも、心をあわせて倹約をしたら、あるいは立ち行くようになるかもしれない。 将来の為に、今日の難儀は忍ばなければならない。 心を一つにして、みんな一生懸命に倹約を実行しよう。』
と言いきかせました。
しかし、藩士の中には、鷹山に従わないで、
と言いきかせました。
しかし、藩士の中には、鷹山に従わないで、
『殿様は小藩にお育ちになったから大藩の振まいを御存じない。』
『皆の喜ばない事は、お止めになった方がよろしゅうございます。』
などと、悪口をいったり、諌める者もありました。 しかし鷹山は少しも志を動かさず、倹約の大切な事を良く説き聴かせ、領内に倹約の命令を出しました。 そうして、まず自分の暮らし向きを切詰めて、大名でありながら、食事は一汁一菜、着物は木綿物と決めて、実行の手本を示しました。 鷹山は誠実に倹約を守っていましたが、立派な大名が、まさか上着はもちろん下着までも木綿を用いようとは、側役の人達の外、誰も信じませんでした。
ある日、鷹山の側役の者の父が知合の人の家に泊まったことがありました。その人が風呂に入ろうとして着物を脱いだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、丁寧に屏風にかけて置きました。 主人は不思議に思って、
『どうして襦袢だけそんなに大事になさいますか。』
と尋ねますと、客は、
と尋ねますと、客は、
『この襦袢は、殿様がお召しになっていたものを戴いたのですから、』
と答えました。 主人は、それを聴いて、大そう藩主の倹約に感じ入り、その襦袢を家内の人たちにも見せて、倹約するように戒めました。
それから、藩士は勿論、領内の人々が此の話を伝え聞いて、鷹山の倹約の普通でない事を知り、互いに慎み、よく倹約を守るようになったので、しまいには、上杉家も領内一般もとても豊かになりました。
『精選 尋常小学修身書』 八木秀次:監修 (小学館文庫)
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