ラベル 10. 美しきふるさと の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 10. 美しきふるさと の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年6月3日水曜日

1. 私のカントリーロード、愛する故郷

 この世に生を受け、親の愛に育まれ、物心ついたころに目に入る「故郷の風景、家族生活、遊び仲間、学校生活、大人達の仕事姿・・」は、永遠に不動だと思えました。・・やがて中学生になり、同窓の6割は集団就職で故郷を離れ、その殆どは一生会えなくなりました。・・私自身も6人兄弟の5番目、「やがては就職して故郷を離れ、故郷とは縁のない遠隔地で生活し生涯を終える運命」と痛切に感じるようになりました。

 不思議なもので、故郷から遠く離れた地で50年以上も生活すると、故郷への思いは日ごとに強くなっていきます。あの青春時代に共感したジョン・デンバーの「カントリーロード」が切なく胸に響きます。

 15年前、企業を退職した年に「山田中 古希同窓会」で帰省し、心の故郷として一番大事だった実家の荒廃状況を見て絶句しました。思い返せば、幼い時から父母兄姉弟と共に暮らした『心の故郷』です。父の遺言で兄が継承したはずですが、高校教師50年にかまけて放置していたのです。 



 いまさら兄を恨んでもどうにもなりません。私は『天国の父母が悲しまないように、自分にできることは何でもやろう!』と、家屋撤去整地・譲渡に取り組んできました。しかし権利者の兄とは意見が合わないことが多く、近所の撤去業者(有田氏)の工事遅延と素人意見(雨漏れの家は瓦2~3枚を取り換えれば使える云々。実際は5年持たせる部分屋根補修でも145万円必要なため撤去した)等に振り回されて大変な道のりでした。 

 1.私が生まれ育った家、私たち家族の生活記

 父が編纂した「山田町郷土史」によると、安藤家と母方の桂木家とは戦国時代から助け合ってきました。 特に天文12年(1543年)の島津北郷氏と伊東北原氏の山田城攻防戦で、安藤・桂木家は目覚しい戦功があり、山田神社の権現座主と権現大宮司に任ぜられるという、輝かしい歴史を持った旧家です。(山田神社とS46初詣 兄姉と21歳の私:セーター姿)



 父は武彦・ウメヨの長男として明治42年7月5日出生。成績抜群で農業継承よりも教師を志し、親の反対を10日の黙行で認めてもらい、学費免除の朝鮮京城師範(現ソウル大学)に進学、トップクラスの成績で卒業しました。

しかしその間、祖父の遊興で実家は没落し破産。15軒の高利貸への借金返済と実家の弟妹生活費で給料は全て注ぎ込むという極貧の生活が続きました。そういう中で昭和8年4月28日隣家の桂木シツ(大正4年2月3日出生)と結婚したのは、母の父の篤志家 桂木斉二翁が側面的に安藤家の没落を救援する為でした。 この極貧のなか懐妊した母は、朝鮮ではとても出産育児はできないため山田町の母実家にて昭和9年1013日長男晃が生まれ、そのまま3年間母子は母の実家で過ごしました。 3年後ようやく母子は朝鮮に帰りましたが、その9カ月後に幼子は疫痢にかかり医者に診てもらうお金もなく、6日後の昭和12年9月6日に急逝しました。享年満3歳。以後母の 『命を懸けた6人の子育て苦闘人生』 が始まりました。

⑭父母・姉の旅立、故郷の荒廃 

(美千代姉 S61 12. 22没、父 S63 .1 .7没、 母 H7 .1. 29没) 

 父母の死後、山田の実家は武千郎兄が継承し、他の姉弟は相続放棄しました。しかし長兄は宮崎市在住、平成24年3月(70歳)退職まで高校教師として多忙で、平成25年隣家の桂木日出雄氏から 『安藤家家屋が荒れて朽ち果てている』 との連絡を受けるまで約20年間 放置していました。旧本家も、居住していた従兄の森茂修氏が生活保護で老人ホーム入居後10年間の放置で荒れ放題。父が昭和43年退職金で建てた家は屋根瓦劣化で2か所以上雨漏れが激しく、床は足の踏場もないほど腐り劣化が進み廃屋化していました。

    そこで平成25年の馬屋撤去・孟宗竹林伐採を手始めとして、次男の私が家屋・土地・山林・田圃の譲渡を計画し、地元の友人の協力を得て、廃屋の撤去・整地、譲渡広告などを進めてきました。

〇H25年・・馬屋撤去、孟宗竹林伐採

〇H26年・・残した平屋東側壁補修(トタン板張)

〇R1年5月 ・・ネット無償譲渡広告。 某婦人下見、屋内荒廃見て破談

〇R1年11月・・家屋2棟・氏神様・神木・墓石撤去お祓い神事

〇R2年9月・・旧本家・氏神様・神木・墓石撤去(有田氏遅延で解約)

〇R3年7月・・S43築雨漏家屋撤去、残す家ガラクタ撤去(松本建業)

〇R3年12月 ・・音楽家「山内達哉氏」に正式譲渡契約

2.安藤家の家屋等が荒れ放題状況 H25年(201310

この年 兄は70歳で高校教師を退職し、ようやく山田の不動産名義を【武千代⇒武千郎】とした。それまで放置していた実家の荒廃・雨漏れがひどく、兄は今後益々管理できない状態の為、『山田実家の建屋・宅地・田・山林の譲渡売却』を真剣に考える事が必要となりました。 この写真は当時の各建屋の荒れ具合です。


3.家屋2棟、神木、氏神様のお祓い R11031

 令和元年5月帰省時、兄と英千代夫婦、従兄の日出雄ちゃん夫婦、川畑俊郎ちゃん夫婦らと現物確認し、『今後管理できず売却・譲渡しかない』 という認識で一致しました。そこでインターネットで 『宅地600坪、古民家3棟現状維持無償で譲ります』 の広告を出しましたが、碌な引合いはありませんでした。

(1) ライダーハウス・・騒音で地域に迷惑がかかる

(2) 東南アジア労働者宿舎 ・・地域と外国人のトラブル懸念

(3) 太陽光パネル用地・・土地が荒れ地域の発展に寄与せず

(4) 子供と住みたい(母子家庭)・・唯一有望な引合いと思われた

唯一残った(4) が、兄・弓削社長(高校友人)・田中操君(中学友人)立合いで現物確認したが、建屋内部を一目見るなり凝固。 内部の荒れ具合や父母等の生活臭に,強い拒否反応があり破談。荒廃家屋の撤去と、残す家(義祖父譲渡)の家具等を撤去して、売却しやすくするしかないと判断しました。


4.雨漏家屋の屋根瓦状況  R2年(2020) 4月記録

 昭和43年(1968)に建設した最も新しい家屋ですが、10数年前から屋根の雨漏れが始まり、台所の床フローリングが劣化して足の踏み場もないほどになっていました。弓削建設などの専門家3者が屋根診断しましたが、いずれも 『人の住める状態ではない』 の評価で、令和2年7月に当家屋は松本建設にて発注額117万円で撤去しました。この写真は撤去前の屋根の状態です。 『耐用年数5年の条件で部分補修しても8割の補修=145万円が必要』 という評価でした。


5.斉二翁譲渡家屋を残し全撤去 R211月~R311



6.唯一残した家の歴史と内部ガラクタ撤去  R3年(2021)1210

令和3年1215日をもって、山田町の安藤家資産は全て音楽家:山内達哉氏に権利移転することになり、『立つ鳥跡を濁さず』の精神で、唯一残した建屋の内部ガラクタを撤去・清掃しました。撤去施行業者は雨漏家撤去を請負った松本建設で、内部撤去費20万円が示す通り膨大なガラクタでした。

この家は、母方の曽祖父『桂木大右衛門さん』の隠居屋として大正時代に建てられたもので、梁や柱は立派なものを使い、数件の引き合下見客から『この家は残した方が良い』と言われました。また私達兄弟にとっても、戦後の苦しい時期に、小姑の酷い嫁いびりを見かねた母方祖父斉二 さんが『ここで暮らせ』と無償譲渡、私達家族の『心の母港』としてきた重要な家屋で、当然なき父母のみならず兄姉弟6人を救った家屋でした。

(参考:父の遺言手記より)「出戻り妹の苛烈な嫁いびり」

「終戦後、長崎原爆で夫を亡くした叔母が息子を連れて出戻り、大変な嫁いびりが始まりました。叔母も苛烈な不幸を背負っていました。尋常小学校卒業後 紡績会社に勤め、縁あって財部町に嫁ぎ一子を設けましたが離縁されて出戻りました。暫く実家で暮らしていましたが。その後母子もろとも一緒に引取るという奇特な森茂家に再婚しました。しかし夫は単身長崎に勤務することになり、再び実家に出戻ってきました。(この2度目の夫は長崎原爆で死亡) 叔母の嫁いびり目的は、母を実家から追出し生活基盤を獲得することで苛烈を極めました。父は昼学校勤務で全く知りませんでした。母がご飯を炊いていると焚き木をすり消し、子供の洗濯物を干すと泥水に突っ込む。祖母に「嫁から出て行けと言われた」と告げ口する。(勿論母はそんなことは言っていない)」

そういう酷い状態を救ったのは、またもや義祖父の斉二さんでした。私達家族は曾祖父の桂木大右衛門さん隠居屋に転居し、安藤家の父母妹弟とは別居して暮らす事になりました。そして桂木家の田を安藤家(父)に小作させて自活の道を開いてくれました。その大恩ある大事な家を残すことにしたのは子孫の当然の義務でした

7.唯一残した家の内部ガラクタ撤去状況




そして父祖伝来のふるさとに、新たな歴史が始まる!】

 荒廃した3棟の撤去がようやく終わり、唯一残す家の内部撤去・清掃が完了した令和3年111日、「霊峰高千穂の峰を望む素晴らしい土地・家屋を引き取ってくれる方はいませんか?」と、私のフェイスブックに投稿したところ、翌日の112日に「山内達哉氏から、ぜひ譲って欲しい!」というメッセージが届きました。山内氏のお母さんが私のFBを見て達哉さんに紹介し、「家族で直ぐ住みたい!」という話になったそうです。思いもよらない衝撃のありがたい申し入れでした。

お母さんの朱美さんは「山田のかかし劇団」10年来の主要メンバーで、山田町発展の恩人「石川理紀之助先生の伝記劇を10年以上演じ、息子の達哉氏は劇中音楽を作曲・演奏してきており、「このすばらしい物語の舞台=山田町に住みたい」と思われていました。何という偶然、邂逅、何という奇跡でしょう!

 

『ふるさとの山に向かひて言うことなし』 R3年111 FB投稿

 令和310月末、都城市山田町の実家に帰省していました。3年前から取組んでいる実家の整理(実家3棟のうち廃屋2棟撤去、神木・氏神様・墓石群のお祓い撤去、跡地の整地、除草、役所届け出等)の為です。その間、幼少から畏敬の念で仰ぐ高千穂の峰が、昔と全く変わらぬ神々しい姿で見守ってくれていました。・・啄木の『ふるさとの山に向かいていふことなし ふるさとの山はありがたきかな』を思い浮かべ、すぐ近くには少年時代遊んだ清流の山田川・・『できたらここで生涯を終えたい』という思いがこみ上げてきますが・・『老いては妻子に従え』で千葉が終の棲家です。『このような鄙びた田園を気に入り暮らしたいという奇特な方がおられたら、喜んで無償で譲ります』と、後ろ髪を引かれる思いで千葉に帰ってきました。

1.実家北側空地からの高千穂の峰」  2.西東側からの残した1棟

私には常に「世界一美しい山」です  手前の平屋でS20から8人家族居住



3.西側から、 4.北西側見た残した実家1棟

 思い出多き実家の1棟は残しました。結果的に山内達哉氏はこの一棟が気に入り、そのまま残してリフォームされ、ご家族5人が暮らすことになりました。 この一棟は、元々は母実家の曽祖父の隠居屋で大正時代に建てられ、太い柱や梁を使った贅沢な作りの家屋です。戦前朝鮮から引き揚げてきた父母が、出戻りの妹(母にとっては小姑)に意地悪の限りをされているのを見かねた母の父が『隠居屋をやるからこちらに住め』と無償譲渡してくれたものです。のちに母の実家(隣家)からウィンチで約50m引っ張ってこの位置に移動しました。当時5歳だった私は、この家に乗せられて『うわー、面白い!』と感動したことを鮮明に覚えています。



5.(左)東側から見た実家

 手前の広場には、S43年に父が退職金で建てた実家がありましたが、父母の死後25年放置したために屋根の雨漏りが酷くなり、床もあちこち腐ってきたため撤去しました。何しろ実家の敷地から見る霊峰『高千穂の峰』は美しく一番の誇りです。

6.(右)北側の田圃から見た『安藤家の全貌』

 中央土手の下には、幅1.5mのコンクリート製農業用水路があります。元々はこの土手とその上2~3mの範囲で孟宗竹林がありました。長年放置して鬱蒼としてきたので、この時の5年ほど前に全て伐採してすっきりとしました。



7.実家から歩いて2分の山田川の清流
 山田川は春夏に田畑を潤すので多少濁っていますが・・稲刈りが終わり冬になるとこのように信州の梓川にも負けない清流を取り戻します。


8.『山田のイチョウ』(県指定天然記念物)
 実家の近くにあり、晩秋になると地面には踏み場もないほど銀杏で埋め尽くされます。樹高47m、幹回り8mで、樹齢は700年以上と推定されています。鎌倉時代、藩主に付き添い出陣した兵士が負傷し、杖として使い持ち帰ったイチョウの杖を畑の差したところ、いつの間にか根付いたと言い伝えられています。







安藤家廃屋撤去整備と譲渡引渡しを振り返り R4年1月3日

15年前の中学古希同窓会で帰省した時、実家3軒の荒廃状況を見て絶句しました。思い返せば『幼い時から父母兄姉弟と共に暮らした心の故郷』です。父の遺言で兄が継承したはずですが、高校教師50年にかまけて何も対処してこなかったのを痛感し、『天国の父母が悲しまないように、自分にできることは何でもやろう!』と取り組んできました。しかし権利者の兄とは意見が合わないことも多く、近所の撤去業者(有田氏)の工事遅延と素人意見(雨漏れの家は瓦2~3枚を取り換えれば使える云々。実際は5年持たせる部分屋根補修でも145万円必要なため撤去した)等に振り回されて大変な道のりでした。 

廃屋3軒は仏壇や位牌や食器・衣類など生活臭が色濃く残っており、そのままでは引取り手は全く現れませんので撤去整備が必要でした。・・平成25年から、馬屋撤去に30万円、従兄の森茂修氏が住んでいた家撤去に75万円、父が建てた雨漏家撤去に117万円、残した家のガラクタ撤去に20万円、1年放置した広場の草刈りに7万円等々・・譲渡できるレベルに整備する為には、とにかくお金が必要でした。 兄は80歳年金生活者で老後の貯え激減を心細く思い、あまりの出費の多さに拒否反応を示したり、電話連絡不能になったりしました。私も同じく年金生活10年目で1回の帰省で概略15万円はかかり、3年間で5回の帰省。兄に事前にメール連絡しても、ガラ携で少し長いメールは「読んでない、理解していない」。結果2~3行のショートメールでしかコミュニケションできない・・やはり帰省して地元の友人と連携して一歩でも進めるしかないと、ここ3年位はそういう事を集中的に進めました。

でも兄貴には、私にない優れた点=『とにかく優しくて思いやり深い。弟の私を信頼して任せてくれる徳性』 があります。世事に疎い兄貴が『プライドだけの偏屈男』だったら、私は面倒で放置したでしょう・・・宮崎の 『ほっとけない兄』 と千葉在住の 『ちょっと一言多い弟』 とが信頼しあいながら進めてきたので、最終的に著名なヴァイオリニストの山内達哉氏のような素晴らしい方と巡り遇い譲渡することができました。 

新たな住人となる山内達哉さんは、都城出身のヴァイオリニスト作曲家音楽プロデューサー

『日本の歴史や失われつつある原風景を音楽にのせて届けたい』 と、日本の心を ヴァイオリンと尺八など和楽器との共演スタイルで、音楽界に新たな息吹を吹き込んでいます。全国を旅しながら、訪れた地をテーマに作曲するその作風は「ふるさと」を思い起こさせ、これまで手掛けた、「校歌」や「地域の曲」など日本中多くの人々に親しまれています。

山内さんは、都城市山田町で10年前に旗揚げした 『山田のかかし笑劇団』 が演じる石川理紀之助翁(明治中期に山田の貧困を救った秋田の農聖人)に意気投合して劇中音楽を作曲するなど、すっかり山田好きになりました。令和3年1025日の『劇団創立10周年記念イベント・コンサート』の後の挨拶で 『私は山田町に住もうと思っている』 と明言されたとのことです。丁度そのころ実家整備を終えた私の111日FB投稿が山内さんの目に触れ、翌日引き合いがあり吃驚仰天しました。その後トントン拍子に話が進み、今でも『本当に奇跡的な有難いめぐり逢い』と感謝しています。私は、ようやく長年の肩の荷が降りて、心からゆったりした日々を送っています。

https://youtu.be/syiCNKXfHns?si=gZ4JTp94qqEk6boj








2026年5月3日日曜日

1-5. 苦境を励まし力を与える樹々

私達は生きていく中で、『神も仏もないのか!』 と思うような苦境に何回かは遭遇します。 そういう絶望の真只中で、ふと見上げた木々の葉が風にサラサラと心地よい音楽を奏で、その透き通った美しさに見とれている内に、肩の力が取れ不思議な力が湧いてくることがあります。物言わぬ樹々ですが大地にしっかりと根を張り、どんな厳しい環境でも愚痴も言わず黙々と生き抜く姿を見ていると、『苦難も成長のための試練と頑張って生きていれば、やがて私のように堂々とした大木になれるよ!』 と元気づけてくれます。
 今回は、そのような 『苦境を励まし生きる力を与えてくれる樹々』 を紹介します。

皆様方の苦難を乗り越えていく力の一助になれば・・・と思います。

1.「雪彦山・地蔵岳山頂の松」
 私は、初めて課長を拝命した時 会社生活最大の苦境に陥りました。全社で最も強烈な職圧で部下を何人も潰したという噂があり、また本人も 「かって東名高速で暴走族とカーチェイスをやり相手は自爆して死んだ!」 と自慢するような強烈な個性の所長の下で働く事になったのです。  その工場は数年後に閉鎖されることになっており、私の秘密のミッションは、従業員を動揺させること無く閉鎖準備を進めるというまことに難しい気の滅入る職務でした。 所長は噂に違わず何をやっても激怒するばかりで、土日含め深夜0時過ぎまで頑張っても課題が増え続け地獄のような毎日でした。 そのままだったら神経衰弱になり、私も潰れてしまったことでしょう。 今考えると、所長自身が何をどう進めたらよいか分からず混乱していたのでしょう。 ある時 『このままでは死んでしまう!』 と、全てを投出して登った山が雪彦山です。
雪彦山は兵庫県姫路市にあり、弥彦山(新潟県)、英彦山(福岡・大分県)共に日本三彦山として知られる霊山・修験の山です。1000mに満たないのですが、その岩峰は険しくロッククライマーの隠れたメッカとして人気があります。 そのピークの一つ『地蔵岳』は約300mの切り立った一枚岩の岩壁で、見上げるだけで足が竦む険しい岩峰です。 比較的楽に登れる裏側からピークに立つと、直径20cmにも成長した2本の黒松が、ひとかけらの土もない岩の割れ目に しっかりと根を張り立っています。 その厳しい環境にもめげず逞しく生きる姿に感動し、『よし!俺も負けるものか!』 と心の底から力が湧いてきました。 
 それ以降、『所長よりも、従業員にとって最善・最良の対応は何か』 という本筋最優先に徹することにしました。 そして仕事で行詰まり落込む度に雪彦山に登り、孤高に生きる松の木から勇気と力を貰いました。

2.「支笏湖丸山麓の二重根」
50歳台になって勤務した北海道では、車で30分のところに支笏湖国立公園があり、週末には樽前山・風不死山・恵庭岳・紋別岳に登っていました。中でも樽前山には色々なルートから3年間で30回以上登りました。  冬の厳しい雪景色、待ちわびた芽吹き、鬱蒼たる濃緑の森、真赤に染まるナナカマド・・・いつ行っても感動の風景ですが、2004年の台風18号で支笏湖周辺の木々がなぎ倒され一変しました。特に有名だった支笏湖手前の優美な白樺林が全て根こそぎ倒れてしまったのはショックでした。
支笏湖周辺は、約100年に1回 樽前山が大噴火してできた火山灰の大地で、100年間でようやく30cm程度の腐葉土層が成長するのです。 白樺林は観光用に植林されてから約30~40年目で根が火山灰に阻止されて横にしか延びず、 この台風18号に遭遇し全て根こそぎなぎ倒されたものでした。
しかしその中で直径50~100cmの大木が何事もなかったように生き残っており不思議に思っていたところ、支笏湖ビジターセンターの 『2重根』 の展示物で合点が行きました。 100年に1回の大噴火で1~2mの火山灰に埋もれた木々が、その上に成長する薄い腐葉土層に幹から根を出し二重根の逞しい木となっているのです。 私達もこの二重根の大木ように、絶望的な状況に陥っても、めげないで逞しく根を張って生きたいものです。

3.「羊蹄山の風雪に耐える樹々」
蝦夷富士と称えられる羊蹄山は、どの方角から見ても円錐形で美しく、1回は登ってみたい山です。 しかし平野部から標高差1700mの登山となりますので、かなりの体力を要します。これ程の標高差があると、麓と山頂では植生が大きく異なってきます。 山麓では大木に育っているダケカンバも、五合目あたりから風雪に耐える為に地を這った姿に変わります。 葉を見ると確かにダケカンバですが、全く違う木に見間違います。 さらに八、九合目になるとハイマツが岩土にへばり付く様にして生きています。 こういう厳しさの中で生き抜く木々を見るたびに、『少々の逆境で弱音を吐いたり愚痴を言ったりするのは恥ずかしい』 と思うようになり、腹の底から力が湧いてきます。

4.「田原坂の大楠」
 『雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂』 と民謡に謳われる。明治10年西南戦争で17日間も攻防を繰り広げた最激戦地の田原坂。弾丸同士が正面からぶち当たりくっついてしまった弾丸が残されているほど敵味方の銃弾が無数に飛び交う大激戦でした。この楠も無数の弾丸を浴び、主幹は大砲で吹き飛ばされて地上6m付近でなくなり、そこから大小の枝を横に大きく伸ばして直上し、美しい樹形を作っています。 この木を見ると、人間の争いのむなしさと、理不尽な逆境をものともせず、何事もなかったように生き抜く大楠の生命力に只々驚かされます。

5.「盛岡の石割桜」
 周囲22mもある大石を真二つに引き裂いて、大石を抱きかかえるように太い枝を広げている樹齢350年、幹回り4.3mの桜の大木です。 石の割れ目に落ちた桜の種が芽吹き、成長につれて石を割っていったらしく、樹の成長と共に割れ目は広がっていると言われます。 まさに『石割桜』 で、そのエネルギーには脱帽です!

6.「屋久島の縄文杉」
  世界遺産屋久島に君臨する日本最長老の巨木。 見るものを威圧するような重量感、ごつごつした瘤がいくつも盛り上がって波打つ樹肌、上に「超」を幾つもつけたくなる樹木の王者です。樹高25.3m、幹回り16.1m、推定樹齢7200年から、縄文時代から生き抜いてきたことを示す縄文杉の名が付きました。一説には、その間に近くの喜界カルデラの大火砕流で屋久島の殆どの植物が焼き尽くされた為、樹齢は4000年未満とする説がありますが、その際にも樹肌を焼かれながら生き残り、驚異的な生命力で現在まで生き延びているとも言われます。

7.蒲生の大楠=日本一の大樹
鹿児島県蒲生八幡神社境内にそびえ立つ大楠は、樹齢約1,500年、根周り33.5メートル、目通り幹囲24.22メートル、高さ約30メートルと巨大で、環境庁が昭和63年に実施した巨樹・巨木林調査で日本で一番大きな樹木に認定されています。

蒲生八幡神社が建立された1123年にすでに大木であったことから考えても、樹齢千年を超える堂々たる老木です。蒲生の地を訪れた和気清麻呂が手にした杖を大地に突き刺したところ、それが根付いて大楠になったとも伝わっています。 国特別天然記念物(昭和27年指定)
 樹根部分には、8畳分もの大きな空洞があり、下から見上げる壮大さと、地にどっしりと根をはった力強さは、神秘的で不思議な感覚を抱かせ、私達に身震いするような生きる力を与えてくれます。

2026年3月3日火曜日

3. 蜜柑園復興に取組む(久保さん)

  誰しもが物心ついたころから親しんだ美しい心の故郷があります。

しかし就職して異郷の地で暮らし、家庭を持ち年老いていくうちに足遠くなり、父母の旅立ちにより 故郷はすっかり色あせて見え、『親(特に母)がいたからこそ、懐かしい故郷だったのだ!』と痛感します。そういう中で、父母が汗水たらして頑張ってきた故郷が荒れていくのを放置できず、早期退職して復興に尽力されている方々がいます。

今回は瀬戸内海の周防大島で79歳となった今も第2の人生を「故郷のミカン園復興」に努力されている久保哲夫さんの紹介です。

 

久保さんは、昭和21年に山口県周防大島のミカン農家に生まれました。

そして昭和40年出光興産に入社当然近くの徳山製油所に勤務できると思ったら、何と遠く離れた千葉製油所配属でした。

気さくな親分肌で、独身寮の久保さんの部屋は後輩の溜り場でした。結婚式前夜も後輩達との飲み会となり、酔った勢いで3階の窓枠を伝って隣の部屋にアクロバット渡りを始めてしまいました。それならボクもと久保さんが渡り始めると足を踏み外し下の植え込みに墜落して即入院となり結婚式ドタキャンです。 既に千葉に来ていた花嫁のひろみさんは、結婚式も取りやめで、新郎の看病生活が始まりました。『知り合いが一人もいなかったので心細かったのよ』と笑いながら述懐されます。植え込みへの落下が不幸中の幸いで比較的早く回復しました・・が、今度は新婚社宅独身後輩の溜まり場となっていました。 実は私もその一人で、30年後周防大島で再会した奥さんは「ああ、あの音の出ない尺八の英千代さんね!」と、しっかり覚えていました! (汗、汗・・)

 

 昭和55年に徳山工場に転勤されポリスチレン装置の直長。その後保全課(BTX静機)を担当されました。

父上のご逝去で実家の蜜柑園を継がなくては・・と思っていた矢先、平成2年の19号台風で、蜜柑の木が全滅しああ、これで跡継ぎの必要がなくなった。と、内心ホッとされたそうです。しかし故郷大島の高齢化が進行し、次々と蜜柑園をやめた故郷の山々が荒れ放題、孟宗竹林に浸食されていくのが耐え切れず、平成12年に早期勇退してゼロから蜜柑園の再興に取組み始めました。そして約1ヘクタールの畑に600本を植付けさあ、これから本格的に収穫出来る!と思った矢先の平成1711月、パート勤務していたJA農協)で約1トンの肥料パレットが突然崩れ、足を完全骨折し3ケ月入院されました。

 この時、出光徳山の同僚や、奥様が10年取組んでおられた特養障害者ボランティア仲間が『本当に親身になって助けてくれたと述懐されます。大挙して収穫を手伝い、色々な販売ルートを開拓してくれたそうです。


やっぱり職場仲間は有難い! 

是非、徳山や千葉の仲間に、自慢の美味しい蜜柑を味わって貰いたい。

大島に蜜柑もぎにおいで! いつでも泊めてやるよ!

と話しておられました。 因みに私は言葉に甘え、第16回50歳台研修のあと久保さん宅を訪れて大歓迎を受け、無料で泊めて戴きました。

また次の年には、出光徳山の現役仲間と再訪問し『ミカン狩り』を楽しみました。

2007年3月17日の中国新聞 の第一面に、久保さんの特集記事が掲載されましたので紹介します。是非ご一読下さい。

 

【村は問う 第3話 『親の畑を守る』】

 5月に久保さんの農園を訪れるとミカンの収穫中、季節外れではない。5月が収穫期の蜜柑だ。『1年通して収入があるのは有難い事、サラリーマン時代は思いもせんかったですがね』と、すっかりミカン農家の顔だ。

昭和40年に高校卒業し石油会社に就職。当時は高度成長期の真っ只中だ。長男だが迷うことなく島を出た。70アールのミカン畑を世話する両親も止めはしなかった。

 千葉で13年、周南市で24年、コンビナートの街で暮らす。団塊世代の常として猛烈に働いた。それが子供が成人に達した頃、古里への思いが頭をもたげ始める。

亡き父母が丹精込めた畑が荒れ始めたからだ。周囲の山を見渡せば、ミカン畑を竹林が侵食している。『このままなら、みな竹山になる。やり切れんかったんです。』

 親の手伝いはしてきたが、専門知識や技術はない。それをサポートしたのが2002年にスタートした『周防大島ミカンいきいき営農塾』。毎年50人程度の塾生を募り、土づくりから収穫まで、一年を通じて町内の農家が手取り足取り指導してくれるシステム、そこに第一期生として飛び込んだ。

町内の就農支援はこれだけではない。2006年4月、町と地元農協、舎田布施農林事務所で「周防大島担い手支援センター」を設立、農地の斡旋にも取り組んでいる。島を挙げた受け入れ態勢である。

背景には老いる島の現実がある。高齢化率は45%を超え、農業者平均年齢は70歳を超える。島を支えてきたミカン栽培も低迷の一途だ。 2005年の柑橘類栽培面積は1220haで、この十年間で30%減、その内の20%が荒廃している。農業再生は島の最重要課題だ。

久保さんも近所の農家のアドバイスを受けながらやってきた。今は不在地主の畑20アールの世話をするなど、集落を守る存在にもなっている。

 

『古里への思いを、いかに奥さんと共有化するかがカギ』 周防大島担い手支援センター長の中原氏はこうアドバイスする。 夫以上に地域に根を張っているのが妻。そのつながりを断ち切っての帰郷に加え、ムラの人間関係は濃く 難しい。

久保家の場合、妻のひろみさんは、10年来 周南市で福祉ボランティアを続けてきた。仲間とのつながりが薄れるのはつらく、ためらいもした。『でも 荒れていく畑を守りたいっていう夫の気持ちはよくわかるしね・・』

久保さんは『あれがおってくれたから、ここまでやれたんです。』と述懐する。ひろみさんは『まあ、初めて聞いた』と屈託なく笑い、こう続けた。

『地域と仲良くやっていくには、どんな会合にも顔を出すこと。覚えてもらって可愛がってもらう事。そうしたら村も楽しくなるよ。』

それまで虫も触れなかった妻は今、6アールの畑で玉ねぎを育て、ミカン畑の肥料代でミカンづくりを支えている。

 

(参考) 

『周防大島ミカンいきいき営農塾

    https://www.town.suo-oshima.lg.jp/data/open/cnt/3/2644/1/kouhou201803_08.pdf?20180308133726

周防大島担い手支援センター』 (TEL0820-79-1007

「周防大島みかんいきいき営農塾」では周防大島町内の退職帰郷者や町外に在住しながら町内での就農や農作業支援を希望する方を対象に、柑きつ生産技術の研修を1年間にわたって行っています。 卒塾生は第1期から現17期まで延べ600人を超え、周防大島町の柑橘産地において中心的な役割を担っています。

 

3. 「豪雪地の親友と“北越雪譜”」

 現在、日本列島は記録的大雪で覆われ、各地で尊い命が失われています。そこで今回は豪雪地 南魚沼の友人と、南魚沼が生んだ名著『北越雪譜』(鈴木牧之)の「吹雪」を紹介します。



私は宮崎出身で千葉在住50年、70歳まで雪国の大変さに関心がありませんでした。それが6年前に南魚沼市在住の関川さんとFBを通じて「大事な兄弟」のように身近に感じるようになりました。そして4年前からヴァイオリニスト山内達哉氏の「南魚沼市内の小学校コンサート」へ毎年関川さんと行くようになり、益々「南魚沼は大事な第2の故郷」と思うようになりました。山内氏は私の宮崎実家を譲渡した方で、「関川さんと山内さんと私の出会い」は本当に不思議なご縁です。



新潟県は豪雪地ですが、田植えの季節から11月の紅葉の秋までは、関東と殆ど変わらない気候・景色で、夏はフェーン現象で関東よりも高温となります。ところが西高東低の真冬になると、大陸寒気団による雪雲が谷川岳連山で阻まれ、南魚沼地方は連日大雪となります。これは有史以前から続く厳しい冬現象ですが、大雪は空中のミネラル分を含み、雪解け水は「日本一美味しい南魚沼産米」を育みます。またその豊かな雪解け水を集めた魚野川は集積されたコメを胴高船が運び、またその名の通り鮭・マスが沢山獲れる豊かな恵みの川でした。

こういう江戸時代の暮らしぶりを、江戸中期に塩沢宿で越後縮問屋・質屋を営んでいた鈴木牧之は「北越雪譜」を発表し、当時のベストセラーとなりました。そしてこの本は、昔も今も変わらぬ厳しい南魚沼の豪雪暮らしぶりや、その中で育まれた互いに支え助け合う村人たちの温かい心などが余すところなく描かれています。

それは物質的には豊かでも、お互いの心の交流が薄くなり孤独になっていく一方の現代人に「大事なことを忘れていないか?」と問いかけています。

その中から最初に「吹雪」を紹介します。晴天だったのに急に吹雪になり遭難する若夫婦の悲しい話ですが、舅姑や村人たちの温かく優しい人間模様に胸が熱くなります。

 

北越雪譜より「吹雪」(現代語訳:田村賢一 元六日町小学校教諭)

吹雪は、樹木に積もった雪が風に吹かれて飛び散るさまを言いますが、その美しさゆえ落花になぞらえて花吹雪とも言い、古い歌にもたくさん詠まれています。しかし、これは雪の少ない国での話です。雪の多いこの越後では、雪を巻き上げる旋風のことを吹雪と言っています。雪の季節の一番の苦しみで、このために死者が後を絶たず、毎年悲しい話が伝わります。その例の一つを紹介して、吹雪を愛でる人々に豪雪地の吹雪の恐ろしさを話しましょう。 

 私(牧之)の住む塩沢からそれほど遠くない村に、一人の百姓がいました。実直な一人息子がいて両親にも良く仕えていました。22歳の冬、2里(約8km)先の村から嫁を迎えましたが、温順な性格で容姿も良く、そのうえ機織りの技術にも優れていました。

そのために夫の両親からも愛され、夫婦仲も円満で、翌年の九月には珠のような可愛い男の子が生まれました。家の中は春が巡って来たような喜びに包まれ、産婦も日ごとに元気になり、子供も十分な母乳を吸って日に日に成長していきます。長寿を願う名前も付けてやりました。この家の人々はみな親切で正直、しかも、農業と機織りに精を出して働きましたので、小農ながらも生活は安定していました。両親は孝行息子を持ち、よい嫁を迎え、可愛い孫をもうけたと村人の羨望を集めていたのでした。 

 ところが、人の運命とは分らぬものです。この家に思いがけない災難が襲ってきました。

 さて、子供が生まれてしばらくたったある日のこと、連日の雪がやんで久しぶりに眩しいほどの青空が広がりました。可愛い子供を実家の親にも見せたいと思っていた嫁が夫に、

「久しぶりに良く晴れたので、子供をつれて実家に行きたいのだけど、やらせてもらえますか」と言います。傍らで聴いていた舅が、

「そうだ。それはいい。向こうの両親がどんなに待っているかわからない。せがれも一緒に行きなさい。お母さんに孫の顔を見せて喜ばせて、ついでに、うんと自慢してきたらいい」

 嫁はすっかり嬉しくなって、姑にもこのことを話しました。姑は早速、土産の品を用意し始め、嫁は嫁で髪を結い、着物を着換えて綿の入った木綿の帽子も上手にかぶって用事を懐に抱き入れようとします。姑がそばから、

「乳をよく飲ませてからにしたがいい。道中では腹を空かせても飲みにくかろう」という言葉にも、初孫を慈しむ心がこもっていました。

 夫は衰、笠、藁のすねあて藁くつを履き、土産物を背負って両親に挨拶をして夫婦揃って出発しました。これが親子の終の別れになりました。そして返らぬ悲嘆の種になったのでした。 

 家を出ると夫は妻を従えて道を急ぎます。夫が、

「今日は、珍しくいい天気になったもんだ。よく思い立った。あちらの両親は、まさか三人そろってやってくるとは思ってもいないだろうから、孫の顔を見たらどんなに喜ばれるだろう」と言います。

「父さまはいつぞや来られたけど、母さまはまだ赤ん坊の顔を見ていらっしゃらないから、どんなに喜ばれるでしょう。もし暗くなるようでしたら一晩泊って良いですか。あなたも泊ってくださいな」

「だが、そうしてもいられまい。両親が心配して待っているだろうから私は帰る」

 夫婦でこんなやり取りをしながら歩いていきます。途中で子供が泣きだしたので乳首を含ませて、なおも道を急いで行きました。

美佐島という野原にさしかかった時です。空がにわかに曇ってきたのを夫が見て「これは吹雪になる。どうしようか」とためらっているうちに、たちまち激しい吹雪になりました。

地を吹き抜ける風は雪を舞い上げて、白龍が山の峰を登るような勢いです。先ほどまでの好天は、まるで嘘のように天地が荒れ狂って、寒風は肌を貫く槍と化し、凍った雪は体を射るようなすさまじさです。夫はあっという間に蓑、笠を飛ばされ、妻は帽子を引きちぎられて髪は乱れ、雪は遠慮容赦なく目や口、襟、袖、果ては裾にも吹き込んできます。 

たちまち全身が凍えて呼吸が苦しくなり、下半身は雪の中に埋まっていきました。

夫婦は声を限りに、「ホーイ、ホーイ」と泣き叫びましたが、通る人もなく人家も離れているので、助けに来てくれる人とてありません。次第に凍えて枯れ木のように強風に吹き倒され、夫婦とも頭を並べて雪の中で息絶えてしまいました。



この吹雪は夕方にはやみ、あくる日は晴天になりましたので、近所の人四、五人がこの場所を通りかかると、雪の中より赤ん坊の泣き声が漏れてきます。恐ろしさのあまり逃げ出そうとする人もいましたが、勇気のある人が声のするあたりを掘っていきました。

間もなく女の髪が現れました。「さては昨日の吹雪で行き倒れになったものに違いない」とみんなで掘っていきますと、夫婦が手を取り合って死んでいました。幼児は母の懐にしっかりと抱かれて、しかも母の袖に頭を包まれていました。雪にまみれずに、凍死を免れて両親にはさまれるようにして、また、声をあげて泣きだしました。雪中の死体なので、まるで生きているようでした。見知っている者がいて、夫婦であることが分かりました。 

幼児を雪から守り手を放さずに死んでいる、この若夫婦の心の内が思いやられて、涙を落とさぬ者はありませんでした。幼児を母の懐からそっと抱き取り、二人の遺体は蓑に包んで、夫の家へと背負っていきました。夫の家では、夫婦して嫁の家に泊まったものとばかり思っていたのに、この変わり果てた姿に一瞬声を失って立ち、やがて二人の遺体に取りすがって激しく泣き出しました。とても涙なしには見られぬ気の毒な光景でした。

仲間の一人が、懐の中に抱き入れていた幼児を取り出して、泣いている姑に声をかけて渡すと、涙にぬれた顔を孫の頬に押し当てて、嬉しいやら悲しいやら、一層激しく泣き出したということです。

吹雪が人の命を奪うのは、おおかたこのようにしてです。連日の好天も一瞬のうちに吹雪に変わるのは雪国の常です。そして吹雪の力は木を倒し、家をも押しつぶします。吹雪の為に雪国の人々は、どれほど苦しめられるか枚挙にいとまがありません。