2026年10月25日日曜日

16. 『豪快で神秘的な支笏湖』

 今回は20年前、私が3年住んだ苫小牧市街から車で30分の『支笏湖の魅力』を紹介します。支笏・洞爺国立公園と命名されていますが、洞爺湖の優美で女性的な景観や国内屈指の温泉街に比べて、支笏湖は粗削りな男性的景観です。温泉も少なく大自然がそのまま残されており、四季折々の魅力にあふれています。私は中でも黄葉の支笏湖と、極寒の景色=『青々と湖水を蓄える不凍湖の支笏湖と 白く大きく聳える3兄弟火山(恵庭岳・風不死岳・樽前山)』の景観が大好きです。

1.ふたたび羽田から千歳空港に向かう苫小牧上空
 

左中段の純白の優美な山が最も新しい『樽前山1041m』、その右後ろが最も古い『風不死岳1102m』、湖の向こうが『恵庭岳1320m』3つの火山は南北に一列に並んでいるのが分かります。
 これは支笏湖カルデラ噴火の後に、南北に断層ができ、そこに同じマグマだまりから噴火した3兄弟の火山であることを示しています。

2.4万年前に支笏カルデラ大噴火

 この時の大火砕流は、札幌地区から苫小牧地区まで埋め尽くし、この当時太平洋側に流れていた石狩川を遮断し日本側へ流れ込むように変えました。

 支笏カルデラは噴火後の大規模な陥没でできた直径約12 kmの凹地で,そこに雨水がたまり支笏湖となりました。湖面の海抜は248 m,湖の最大水深は363 mで、湖底は海面よりも100m以上深いことになります。支笏湖は千歳空港から近く、その風光明媚さから、札幌圏の代表的な観光地となっています。

3.湖の向こう中央が『風不死岳1102m』

 約4万年前から火山活動が始まり、約8,500年前にマグマ水蒸気爆発、約4,500年前に水蒸気爆発が起き、その後は活動が停止して浸食がすすみ全山灌木に覆われています。風不死岳にはヒグマが生息しており、特に春先に冬眠から覚めた空腹のヒグマとの遭遇は極めて危険です。1976年6月、根曲竹のタケノコ狩りに来た4家族11人がヒグマに襲われ2名が死亡(熊に食べられていた!)という悲惨な事故が起きました。私も風不死岳には1回だけ登りましたが、それで十分だと思っています。

4.その左が最も新しい『樽前山1041m』


 約9000年前に活動が始まり、2回のプリニー式噴火により大量の火砕物噴出と火砕流が発生しました。約6000年休止の後約2500年前から3回のプリニー式噴火が発生し、火砕流、火砕サージを噴出後休止しました。 そして1667年、1739年に再び大規模なマグマ噴火が起きています。1909年(明治42年)の噴火では、山頂に大きな溶岩ドームが形成されました。写真でデベソのように盛り上がっている部分で、まるで大きな酒樽の木栓のようです。神様が「しばらく大人しくしておけ!」と、栓をしたのでしょう。きっと!

5.支笏湖対岸の『恵庭岳1320m』

約2万年前に溶岩流噴出により火山体の原型が形成、約1万5千年前に大規模なプリニー式噴火が起こり、10㎦の大量の火山灰や軽石を噴出しました。約2千年前に西側に溶岩が流れ、山麓のオコタンペ川を堰き止めオコタンペ湖を形成しました。17-18世紀には水蒸気爆発が継続、これにより山頂東部が崩壊し東西700m、南北500mの東側に開いた馬蹄形の火口が形成されました。写真でも白く噴煙が確認されている通り、また噴火する可能性があります。
 札幌冬季オリンピックでは、恵庭岳の斜面を切り開いて大回転スキーコースが作られました。『国立公園内の自然破壊』と非難する声も多かったのですが、今はすっかり元通りの原生林に戻って跡形もありません。

6.4万年前支笏カルデラ噴火後の3火山成長

 この3万年間、風不死岳・恵庭岳・樽前山の3つの大きな火山が生まれ活発な噴火を繰り返してきました。支笏湖の遥か深い地底では、大量のマグマが今も蓄積されており、樽前山の大噴火から約100年が経過した今、「ふたたび大噴火がいつ起きてもおかしくない」と備えることが必要です。

7.高い透明度の支笏湖

支笏湖は平地が少なく、温泉も小規模なため温泉街が発達せず、水質が良く澄み切っており、摩周湖と1・2を争う透明度です。この透明度を楽しもうとグラスボート、最近はカヌー・カヤックを楽しむ若者がふえています。かって雅子皇后陛下も支笏湖が大好きで、独身時代によく訪れられたそうです。

8.グラスボートからの支笏湖底

透明度が高く、この柱状節理の湖底が遠くまで見渡せます。しかし右側に目をやると、急に崖が切れ落ちており、奈落の底に落ちていくような深い闇へと繋がっています。

9.『水清ければ魚棲まず』

かって支笏湖は、その清冽な水質と、湖岸からいきなりの急崖で360mという水深から、魚は住んでいないと言われていました。しかし誰かが放流したのかもしれませんが、ヒメマスの群影が確認されるようになりました。グラスボートで毎回見られるわけではありませんが、運が良ければこのようなヒメマスの回遊と遭遇することもあります。澄み切った支笏湖で釣れたヒメマスを一度有名なそば屋さんで食べたことがありますが、『幻の美味』と噂されるだけあると感激しました。

10. 『苔の洞門』

1739年の樽前山の噴火活動によって生じた溶結凝灰岩が、土石流によって次第に浸食されることで作られた回廊状の涸れた峡谷です。 高さは約10m、エビゴケやエゾチョウチンゴケをはじめ80種以上のコケが密生している姿は幻想的で美しく、2014年8月には「日本の貴重なコケの森」(日本蘚苔類学会)に選定されました。 第1洞門(延長約420m)と第2洞門(延長約600m)がありますが、苔の洞門内部は落石や崩落の危険があるため、見学は苔の洞門入口に設置された観覧台までとなっています。

11. 支笏湖ビジターセンター近くの公園の紅葉

黄金色に輝く見事な紅葉が続く素晴らしい散歩道です。「こういう美しいところでずっと暮らしたい!」と思いますが、見事な紅葉は1週間も続きません。そういう短い命だから、ひときわ鮮やかなのでしょう。

12.同じく「支笏湖ビジターセンター近くの公園

どこもかしこも素晴らしく、何枚でも写真に撮って記録したくなりますが・・残念ながら本物の見事さは写真に写せません。

13.支笏湖から流れ出す千歳川の始点=湖畔公園

王子製紙は、この水量の多い千歳川を利用して5つの発電所を建設し、その電力で苫小牧に巨大なパルプ工場を建設しました。周囲に森林資源は豊富にあり電源も確保でき、日露戦争後の新聞紙需要拡大期でもあったため、苫小牧工場は飛躍的に発展し、また苫小牧市の発展にも大きく貢献しました。

14. 支笏湖周辺古木の「二重根」


 支笏湖に来たら必ず「支笏湖ビジターセンター」を訪れましょう。特筆すべきは、ここに展示されている「二重根」です。頻繁な樽前山噴火による火山灰で植物が枯渇する中、逞しく生き延びた古大木は深く根を張り、堆積した火山灰に栄養分がなくてもその下の土壌から養分を吸い上げて逞しく生き延びてきたのです。これは2004年9月の台風18号により、支笏湖周辺の美しい白樺林は根こそぎ倒木して全滅した時も、「二重根」の古木はびくともせず力強い生命力を証明しました。

私はのちに、出光勤務最後のミッションとして人事部主催「退職前の社員研修=50歳代研修:エバーフレッシュセミナー」を全46回約600人対象に行いました。そのとき受講生に「二重根の支笏湖の古木のようにしっかりと根を張り、生涯現役で活躍しよう!」と紹介しました。

 30歳前後から『24時間思考を停止するな!』 と追いまくられてきた出光での仕事人生でした。53歳のころ石油備蓄基地勤務となり、初めて週末に行楽に出かけられるようになり、紅葉の季節は必ず支笏湖に出かけました。『こういうのが豊かな人生だよな!』と、つくづく思いました。そのまま定年まで6年間、この大自然の中で人間らしい生活を送るはずでした、が・・

 僅か3年で本社製造部に呼び戻され、人員削減策で5年間停止していた大量採用の再開、「団塊の世代の補充で年200人×10年間採用再開」を企画推進することになりました。ところが、いくら社長説明資料を作っても、部長が全く動かず格闘地獄の日々が始まりました。当時会社経営再建ができたばかりで、経営コストの最たる「大量採用・人件費高騰は経営トップの逆鱗に触れる」と、放置するに如かずの保身を決め込んでいたのです。目前に団塊世代退職を控えながら全く動かない部長を許せず私は早期退職届を出しました。

 ところが人事部で退職届が留まり、当時の人事部次長から「50歳代研修=60歳退職希望80%を、65歳勤務延長80%に意識転換させる」という重要ミッションを与えられました。そして4年間で46回、のべ600人の意識改革研修を行い、人事部次長から与えられた使命通り「65歳勤務延長者80%を達成」しました。いまでは70歳を超えても現役で働いている猛者も多数います。

 出光佐三氏が対外的には「出光には定年制がない」と公言していましたが、現実は60歳定年制が厳然として存在し、「依願退職」という形式でお茶を濁していました。私は出光佐三店主の「働けけなくなった時に自ら歯車から外れる=実質的な定年制撤廃」という理想実現の役割を与えてくれた人部次長(現会長)に、いまも心から感謝しています。

2026年10月24日土曜日

16. インディアン水車でサケ資源保護

  最近サンマが不漁で庶民魚が高級魚になってしまいました。その原因は、中国・韓国の大型漁船が、日本へ回遊前のサンマを太平洋上で乱獲しているからで資源枯渇が危惧されます。その中国は原発処理水放流を政治問題化して、自国では10倍以上高濃度の汚染水を放流しながら「日本の海産物輸入禁止」、一方で日本沖の太平洋上でサンマ乱獲を続け「中国産」と称して中国内で食べています。こういう手前勝手な国相手の貿易は速やかに縮小し、国内消費を増やし、他の友好国と連携を強めるべきです。・・と思っていたら、高市政権になってから急に中国自ら「レアアース禁輸、渡日規制・帰国命令」など矢継ぎ早に反日施策を強化しています。お陰で傍若無人の煩い人々の来日が止まり、日本本来の静かな心穏やかな日々が戻ってきました。ただ日本近海での乱獲や怪しげな軍事・スパイ行動は強化されており、しっかりと国防を整え備える必要があります。

かって日本は、乱獲による資源枯渇をニシン漁で経験しています。明治時代から1957年まで、ニシンは北海道の水産業を支え、最盛期は年100万トン近い漁獲量を誇っていました。留萌・小樽はシーズン中 活気に溢れ、ソーラン節や小樽ニシン御殿はその頃の繁栄を今に伝えます。しかし1897年をピークにニシンの資源は消えていきました。極端な乱獲が原因と言われています。

 サケも資源枯渇の危機がありましたが、サケの『生まれた川へ遡上する習性を利用』して捕獲、採卵・孵化させて川へ放流する増殖事業で資源が復活しました。ここ千歳のインディアン水車は年間およそ20万尾のサケを捕獲し人工ふ化させて数億匹の稚魚を放流しています。(サケ遡上は9月下旬~11月中旬までの約2か月です)

1.   「千歳川を遡上するサケの大群」

秋のサケ遡上最盛期、千歳川のインディアン水車前は、このように遡上サケのラッシュ状態となります。

遡上するサケは、このインディアン水車の水路以外はブロックされて遡上できないので一網打尽です。 47年前、尊敬する下山さんに案内されて訪れた時、『サケが可哀そう。自然のままにしておけばよいのに・・』と思いましたが、下山さんに『サケ資源の確保のためには捕獲・採卵・孵化養殖・放流しかないんだ』と教えられ、日本人の知恵に心底感服しました。

「インディアン水車」は、北海道庁初代水産課長となった伊藤一隆氏が、明治19年、水産事情調査のためにアメリカに渡った際、西海岸のコロンビア川で実際に見学し、日本に紹介したのが始まりです。
 明治20年に帰国した伊藤は、自ら千歳川の調査を始め、古くからサケの天然産卵場として知られていた千歳郡烏柵舞村(うさくまいむら:現在の資源管理センター千歳支所の辺り) を、ふ化場建設の地に選定しました。そして明治21年、千歳川でサケのふ化事業が始まりました。

インディアン水車でサケを捕獲する水産事業者たち。捕獲されたサケは、生きたままトラックですぐに『サケマス孵化場』に運ばれ、採卵・受精させます。採卵採精した後の成体は、殆んど痛んでいませんので、食用として市場に出回ります。(自然に産卵地まで遡上させたサケはボロボロに傷つき、産卵・受精後は力尽き消耗しきって死滅し、とても食用にはなりません。)

2.   大人気の「インディアン水車見学」

この季節になると、遡上するサケの大群と、インディアン水車で捕獲される様子を見学する為に、このように大勢の観光客が押し寄せます。

3.   「千歳水族館」の水中観察ゾーン

千歳川の真横からサケの遡上を観察した後は「千歳水族館」で、千歳川の水中真横から遡上するサケを観察しましょう。その後は、大水槽で淡水魚たちの大遊泳を楽しみましょう。千歳空港から車で20分、北海道を秋に訪れたら、(季節外れでも)是非立ち寄りたい観光スポットです。これは千歳水族館地下1階の『水中観察ゾーン』から千歳川の中をガラス越しに見た映像です。

4. 北太平洋のサケ・マス漁獲量と放流量

 明治21年から千歳川で始まったふ化事業ですが、技術や経済的な事情から、日本のサケは200~500万匹を守る低迷期が約80年も続きます。

 ところが昭和45年を過ぎから回帰するサケの数がどんどん増えました。これに「自然の仕組みを見極める」事により達成されました。それからは5年で2倍超えの勢いで増え、現在は北海道だけでも7,000万匹に達します。しかも、以前は帰って来る率(回帰率)が1%以下だったのですが、現在は4~5%になっています。

5.   錦多峰川の鮭捕獲籠「ウライ」

インディアン水車は、川の水流で回転させてサケを捕獲しますので、千歳川のような水量の多い川でしか使えません。苫小牧市西部の錦多峰川のような小さな川では「ウライ」という方式を使っています。

苫小牧漁業協同組合の「さけ・ますふ化場」が使うウライは、川幅全部を魚が上れないようにして一部にすき間を作り、そこにつかまえるしかけをしておくことで、川を上る魚をとらえる仕組みです。 もともと、ウライはアイヌの人たちの漁法でした。 アイヌのウライは、川幅のせまい小川にくいを何本か打ちこみ、そこにヤナギの枝などをからませて作ったといいます。

6.   「錦多峰川を遡上するサケ」

海岸から約500m先に「ウライ」が仕掛けられて一網打尽に捕獲されるとも知らず、順番を守り整然と遡上します。家内と見学に行ったとき家内がしみじみと言いました。、

『人間が行列を作ったら、必ず我先にと割り込む不届き者がいるのに・・サケは割り込みもせず整然と順番通りに遡上する! 人間よりもエライ!』

7.鉄籠ウライでサケを捕獲している様子」

鉄籠内の魚は巨大な網を使ってすくい上げた後、専用のクレーンを使って川岸にある高さ約3メートルの作業台へ移動。雄、雌の選別をします。 通常1日で200~400匹を捕獲し、暫くふ化場内で飼育し、10月下旬に1回目の採卵作業を行います。 毎年11月下旬までに親魚約15,000~20,000匹を捕獲し、卵で約400~500万粒の確保を目標にしています。




2026年10月20日火曜日

9. 芸術に生きる学友・富夫君と作品群

国立新美術館「第79回 二紀展」 開催中!(10月14~26日)

 高校同窓の河野富夫君が、国内最大の美術展「二紀展」に、35年連続出展し続け、ついに最高栄誉の「委員推挙」を受けました。

 彼は元母校日向学院の美術教師の傍ら、2002年から120号(1900×1300)クラスの大作を制作出展し続け、今年は885名の絵画出展者のなかで最上位「第79回二紀展(2026年) 委員推挙」され展覧会場の最上位に展示されています。宮崎県からは16年ぶり3人目の快挙です。「二紀展」は「二科展」と並ぶ国内最大級の美術展で「戦前の旧二科会の活動を第一期とし、戦後新しく第二期の紀元を画する!」という壮大で意気軒高な構想で発足し発展してきました。

第79回の今年も、1階から3階まで
出展者約900名の大展覧会で、その主張通り独創的で見事な作品のオンパレードで見飽きることはありません。今回最上位の委員推挙6名の一人となった河野富夫君の作品は「ラプソディ in南郷2026」で、会場に入ると、いきなりの真正面に掲示されて目を引いていました。

富夫君の絵には、必ず隠し絵の「平原綾香」と「お孫さん」が登場します。彼は2010年(60歳)と、2019年(69歳)の2回、脳梗塞に襲われ、利き手の自由を奪われました。画家として絶望する中、平原綾香の澄んだ力強い歌声と、可愛いお孫さんがその絶望から立ち直らせ、左手で描こうと決心しました。

それ以来、従来のテーマ「聖アントニウスの誘惑」から、明るく力強い生命力あふれるテーマ「ラプソディin南郷」へと脱皮しました。

その感謝を込めて、彼の絵には天使の様な平原綾香とお孫さんが必ず登場します。また色々な動物、植物が描かれ、沢山の恐竜たちが一緒に登場して生命力溢れる楽しい絵となっています。『この世は太古の昔から現代までの魂や生命に満ち溢れている』という彼の眼には、このように世界が見えているのでしょう。「遠くからみて楽しみ、近寄って隠し絵を楽しむ」何度も楽しめる実にユニークで楽しい作品です。

今回は中央に子供達に大人気のティラノザウルスが主役になって描かれています。丁度宮崎で開催されていた恐竜展に通いつめデッサンを重ねて到達した新しい境地です。


「芸術に生きる学友・富夫君と作品群」    記:令和5年10月10日
高校卒業後50年間、顔を合わせることのなかった学友との再会は、誠に驚きの連続です。同じ高校で3年間共に過ごし、ある程度分かったつもりでいた学友が「彼は高校時代、本当はこういう事を考えていたのか!」と初めて知ることばかりでした。また「夫々が卒業後どのような人生を送ったか・・」を垣間見ることができ、自分の残りの人生充実の糧にすることができます。「ああ、自分も、あるいはこういう人生も送れたんだ!」と・・

今回は、高校卒業後美術家の道を歩き、約40年間母校の美術教師だった「河野富夫君」の半生と作品群を紹介します。

 彼はS40年学院中入学、当時は成績順に座席が決められ、常に右端の最前列で学年トップの秀才だったようです。私は高校からのつきあいで、3年間同クラスでしたが、彼はガリベンには興味のない哲学者然としていました。高校時代の成績上位は、努力家の下村君, 甲斐君, 河野修君、英人君、重文君らが占め、富夫君は私と同じようにアップダウン激しく、超然とした雰囲気を持つ大人しい性格だったので3年間話したことはありませんでした。・・そして私は宮大工学部へ、富夫君も宮大教育学部に進学し、キャンパスで数回すれ違ったくらいでした。その富夫君と再会したのは学院卒業50周年記念クラス会でした。「学院で美術の先生をしていました」という自己紹介にビックリ! ・・その彼は退職後2010年、2019年と2回脳梗塞で入院し、利き手の右が使えない後遺症のなかで今も制作活動を続けています。今回はその不屈の画家「河野富夫画伯の作品群」を紹介します。

1.「アントニウスの誘惑」シリーズ  1998年~2009年

富夫画伯は、宮崎日日新聞社が創設した宮崎県美術海外留学賞の第一回受賞者で、1997~1998の1年間イタリア留学派遣、ローマ歴史遺跡やルネッサンス美術などを学びます。そして「聖アントニウスの誘惑」を主要テーマとする取組み沢山の作品を生み出しました。「聖アントニウス」は有名な聖人で、その修行中にしばしば悪魔の誘惑にさらされて信仰心を試されました。西欧ではよく取り上げられる題材で、空想的な魔物や魔女が登場しますが、富夫画伯は、あたかも自分が聖アントニウスの試練を受けているような強烈さで私達に迫ってきます。

富夫君が描く「聖アントニウスの誘惑」は、悪魔の誘惑というよりも、この世の破滅を見せつける悪魔の脅迫のように感じます。あのおとなしい富夫君のどこにこんなエネルギーが秘められていたのでしょう!2009年のシリーズ最後の作品では、この世を亡ぼした悪魔は、全てを天空に巻き上げて拡散させます。よく見ると竜巻の中に色々な悪魔や恐竜や蛇などが混ざって瓦礫を食い荒らしているように見えます。

2002年 「どんなところにも目に見えない生きものが沢山いる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

 

2003年 「ローマのコロッセオとたくさんの生き物を組み合わせて画面を構成したいと思っています。巨大建築は構造的に生き物を感じさせます。建物の崩壊は生き物の死を連想させます。コロッセオの空間に満ちた生き物たちは、建物のエネルギーの変容かも知れません。」 

2004年 「ものは常に変化している。頑強に構築されていた、不動のように見えていた塔もまた、今変容しようとしている。その一部は翼となり天に広がり、一部は水となり滝となって地上に降り注ごうとする。不変を期待する自分と変化を待つ自分があって、どちらともつかないものの内側にあるものを描きたかったのかも知れない。」

2005年 「青い空の下、海が割れて巨大な艦橋が現われる。やがてそれは暴発しありとあらゆるものが吹き出してくる。それらは相手を求めて追いすがり追い越し待ち構えて飲みつくそうとする。攻撃をかわしたものは逆に相手をつかみ、果てへ飛び去ろうとする。・・・それらの荒々しいものたちをキャンバスに閉じこめたいと思う。」

2009年 「中庭のまわりに数本の糸杉が植えてある。数十年毎日目にしていたものだが、ある日その木肌が気になった。凹凸のある節くれだった表面はある形状を見せている。ゆるやかに時計まわりにラセンをえがく。数本の糸杉がすべてラセンをえがき頭上で大きく枝を広げる。電子顕微鏡の世界でなく気象衛星の画像でなくほんの身近なところにラセンがあった。」 

2.脳梗塞を乗り越えて  2010年

 2010年60歳となった富夫君は脳梗塞で入院。 同じころ発生した宮崎の口蹄疫は、日本一の宮崎牛を約30万頭も殺処分する非常事態となりました。自身の不安に追打ちをかけ、誕生後60年間過ごす宮崎が未曽有の大危機です。公私ともに極限の絶望の中で、右手が使えず 慣れない左手で描きあげた渾身の傑作がこの絵です。日向灘で巨大なクジラが「こんなことに負けるな!」と大きなジャンプをしてエールを送っています。彼はこの絵で自分自身や宮崎を鼓舞するだけでなく、あらゆる人々を「フェニックス(不死鳥)のように何度も生き返れ!」と元気づけてくれています。・・当時、彼はこの絵を次のように解説しています。

「2010みやざき(堀切峠)」100F(1,620×1,303)
「自分の身の上に起きた出来事と宮崎に発生した口蹄疫の惨状を重ね合わせてこの半年を過ごした。生まれたばかりの子豚が眠ったように死んでいる。新聞の写真を見たとき、気持ちを抑えきれず紙面を破り取りちり箱へ投げ入れた。不安感がこみ上げてくる夕刻、左手で描きなぐるままにできていたのがこの絵のラフスケッチだった。おのれと宮崎の再生を込めて紺碧の日向灘をバックにしたフェニックスの風景を描いた。」 

3.平安への祈り 「ラプソディ・イン南郷」シリーズ 2011~20018

 2010年 脳梗塞の衝撃、宮崎口蹄疫、2011年新春早々新燃岳が大噴火、3月東日本大震災・大津波・・社会不安は増々大きくなっていきます。しかしその前年、人生の不安を乗り切った富夫君の心は微動だにしませんでした。彼のメインテーマは「大好きな南国宮崎の青島海岸、南郷亜熱帯植物園とそこの潜む妖精たち」になっていきます。・・彼には常人にない霊能力があるのでしょうか。・・彼はかってローマの地でこう述べています。

 「どんなところにも目に見えない生きものがたくさんいる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

この常人にない眼差しが、南国宮崎の穏やかな大自然に向けられていきます。それが「ラプソディin南郷」の連作です。

2011「ラプソディー・イン・南郷」150F

「広い太平洋を見下ろす丘の上にある小さな亜熱帯植物園、そこに何かがあると思ってスケッチに行った。彼らは枝を伸ばし葉を茂らせ思い思いの色彩を身につけて「生」を謳歌していた。その生命力に沿うように鉛筆を滑らせ絵具を流していく。気持ちとは裏腹に指先はぎこちない動きをするが、彼らの生きる力は少しずつ画面の上に再構成されていく。渡しはキャンバスのプリンティングの中に動物を追いかけイメージを定着させる。」

2012年 「プリンティングでキャンバスを覆ってしまうと、下書きの植物たちは消えてしまい取り留めのない絵の具の模様がだだっ広く広がっているだけ。その前に立つとこれから先どうなるかと不安に襲われる。しかし、何者かがすぐにうごめき始める。アイチアカの根元に潜むのは獣脚類の仲間か?葉陰にたたずむ耳の長い人影は妖精?それともウサギのお化け?彼らは続々と亜熱帯植物の吐き出す熱気のようにキャンバスの中に満ち溢れてくる。」

2013年 「描き続けていくとますます上手くなっていくと思っていたが、そうでもないことに気付いた。中心になる植物の周りに脇役の羊歯が繁茂している。主役を引き立てるには面倒でもこの雑多に見える面々をしっかりした植物に仕立て上げなくてはならない。庭先から最適な個体を選び出し根こそぎとってきて、キャンバスの隣に据える。何度も描き直しながら名脇役へと育て上げる。役者がそろったところで幕が上がり舞台が始まる。」

2014年 「モチーフは突然向こうからやってくる。初夏のある日、良く知っている道路沿いの海外にマッコウクジラが漂着したニュースを聞いた。朝早く出かけた。それは朝日の逆光の中波打ち際に横たわっていた。時折大きな波が巨体を揺らす。スケッチを進めるうち足下に波が打ち寄せ、逃げそこなって転倒した。起き上がると全身が油にまみれ、動物の臭いに包まれる。クジラの何かに追われるように車を走らせて帰った。彼の昇天の図を描いた。

4.「 旧都城市民会館レクイエム」 シリーズ 2019年~2023年

富夫君は、2019年再び脳梗塞に襲われます。2010年1回目の時は宮崎口蹄疫と次の年に東日本大震災が発生、今回は次の年に『新型コロナ』が世界中を危機に陥れています。・・今思うに、感性の鋭い富夫君は、この人類未曽有の危機を事前に感じ取り、2度の脳梗塞になったのではないでしょうか。・・幸い2度目は比較的軽く心機一転、その頃老朽撤去が決まった「旧都城市民会館」が、彼の新たなモチーフになります。

 旧都城市民会館は1966年に建設され、当時日本発の建築運動「メタボリズム」(新陳代謝を意味する)の中心的存在だった菊竹清訓の代表的建築物です。旧都城市民会館は世界的にも有名で「存続か撤去か」で20年以上もめてきましたが、具体的活用案がなく市民アンケートでも83.5%が解体に賛成で撤去が決定しました。・・市民に愛されながら撤去されていく貴重なモニュメントに、富夫君は限りない哀惜を込めて描き続けています。 

 2019年、間もなく撤去される前の市民会館です。人間の構築物が撤去される・・それは植物や動物たちの永遠の生命の輪廻と混ざり合うこと・・そういう暖かい眼差しで富夫君は見つめています。

2020年 この年から、コロナ禍が全世界を恐怖に陥れます。しかし2度の大病を乗り越えた富夫君は微動だにしませんでした。「命あるもの、いつかは命が尽き、形あるものは、いつかは大自然に戻る・・」彼の眼には、そういう悠久の時間を超えたいのちの営みが、混然一体となって見えているようです。

2021年 左の大木に溶け込んでいる美人は歌手の平原綾香。富夫君が脳梗塞から蘇りリハビリを続けているとき、たまたま宮崎で公演があり3回も出かけたという事です。そしてその天使の歌声に生きる力を呼び覚まされたと言います。それ以来、彼の絵画には、色々な場所に平原綾香が顔を出しています。


2022年 近代都市の都城市も、太古の昔は大木生い茂るジャングル、やがて人間が移り住み、都城市民会館ができ、撤去され、そして未来へ・・すべては悠久の大自然の中にある・・そういうことをこの一枚は教えてくれます。ここにも左下に愛してやまないお孫さんが、コロナ予防のマスクをつけて登場・・元気に遊びまわる筈の子供たちも我慢の生活でした。

5.「2026二紀展」開催のお知らせ

  河野画伯が2002年から出展している「2026二紀展」が国立新美術館で開催されています。「二紀会」とは、戦前の美術界の頂点であった「二科会」が戦時下の1944年に解散し、戦後再結成する際に、主張の異なる9名が分離独立して創立したものです。旧二科会の活動を一期とし、戦後新しく第2の紀元を画するという主旨のもとに毎年秋に展覧会を開催しています。現在は「美術の価値を流派の新旧に置かず、また具象、非具象を論じない」という主張を掲げて、全国で活躍する多くの美術家から共感を得て、毎回約1000点の斬新な作品が展示される一大美術展となっています。

2026年は、10月14日~26日の間、「国立新美術館」で開催されています。勿論河野富夫画伯も出展しますので、ぜひご来展戴きたいとお誘いいたします。


2026年10月16日金曜日

16. 「たおやかな樽前山」と心の大先輩

  羽田から千歳空港に向かう途中「着陸姿勢に入りました」のアナウンスと共に、左手前方に北海道の大地が見えてきて、海岸線の近くに大きな支笏湖が確認できます。その周りの3つの大きな山が印象的です。

手前から樽前山、風不死岳、湖の向こうが恵庭岳です。支笏湖は4万年前の支笏カルデラ大噴火の名残です。その後、南北に走る割れ目から風不死火山、次いで恵庭火山、最後に樽前火山が誕生しました。一列に並んだ3つの火山は、同じ支笏カルデラの底にあるマグマから誕生した兄弟火山であることが良くわかります。

そして千歳空港に降り立つと、西遠方に印象的な山が見えます。赤茶けた大きな火山の頂上に『真黒な木栓が打ち込まれたような異様な山体」、これが「樽前山1041m」です。まるで神様が『しばらくおとなしくしておけ!』と火口に栓をしたようです。

私の北海道初体験は30歳、人事部主催の直長研修を白老研修施設で行った時です。研修終了後、苫小牧在住の尊敬する下山さんを訪ねたところ、「よく来たな、一番北海道らしいとこに行こう!」と連れて行ってもらったのが支笏湖です。

支笏湖は不凍湖で、冬の澄んだ青空よりも、さらに深く澄み切った群青色の美しい湖です。その向こうには「神々しい恵庭岳」、左手には純白のベールをまとった「巨大な樽前山」が聳え立っていました。あれから47年たちますが、あの震え立つ感動は今も鮮明です。

雅子皇后陛下が独身時代、支笏湖が大好きで何回も訪れられたのが納得の美しい国立公園です。

千歳から苫小牧にかけては、4万年前の支笏カルデラ噴火の分厚い火砕流平原の上にありますので、どこからでも樽前山の奇異な山容が確認できます。

私は北海道勤務時代、樽前山を見るたびに『これが俺の新たな故郷の山だ!』と思いながら過ごしました。1041mの7合目までは車で行けるので手軽に登山でき、春は高山植物の美しい花を、夏は汗かきに、秋は紅葉と、3年間で50回以上も登りました。北海道に降り立ったら、是非車で1時間弱の「支笏湖・樽前山」に訪れましょう。「ああ、北海道に来たのだ!」と感動すること間違いなしです。

1.   樽前山は、世界でも珍しい三重式火山

約9100年前に大きな噴火と共に誕生しました。約2500年前や1667年と1739年にも大きな噴火があったことがわかっています。1739年の大噴火の際にできた火口の縁は現在の外輪山にあたります。その中はその後の噴火により埋め尽くされ、中央部には1909年の噴火により溶岩ドームが造られました。最近の噴火は1981年に起こりました。真ん中の溶岩ドームからは、数か所からゴーゴーと盛んに噴煙が出ており、雪が降っても地熱が高い為、直ぐ溶けて黒い姿に戻ります。

樽前山は1041mと低いのに、頻繁に噴火を繰り返すので、8合目以上は赤茶けた火山噴出で覆われ、まだ植物が育っていません。比較的なだらかな斜面なので、冬 雪が積もると上手なスキーヤーが、この頂上からシュプールを描く姿も見られます。(ボーゲン専門の私には羨ましい限りです。)

2.「風不死岳1,102 m」樽前山登山道から

 支笏湖カルデラ噴火のあと最初に活動を開始した側火山です。ずっと以前に活動を停止し、山頂まで樹木に覆われ、ヒグマが沢山生息しており、山菜狩りの人が襲われる事件が頻発します。美味しい「根曲り竹の筍」狩りの人が山に入るのですが「根曲り竹の筍」は冬眠から覚めたヒグマの一番のごちそうなのです。ヒグマに譲ってほしいものです。

 私はあの山容からどうしても一度登りたくて、秋口に1回だけ登りました。その頂上からの絶景は忘れられません。まるで天上から支笏湖を見下ろしている神様の様な気分に浸りました。真下には国道276号線を走る車が豆粒のようです。何度でも行きたい素晴らしい絶景ですが・・ヒグマが怖いので二度と登ろうとは思いません。

3 登山小屋から北登山道5分、突然視界が開けて絶景

標高差によって植生が異なり、湖に近い標高300~400mくらいまでは黄葉のカツラ、シラカバ、ダテカンバ等、それ以上になるとナナカマドの真っ赤な紅葉が主人公となっています。
支笏湖と千歳平原の遠望も魅力的です。

4.苫小牧から見た樽前山

『白きたおやかな峰』は北杜夫の魅力あふれる登山随行作品です。カラコルムの未踏峰ディラン峰7273mに挑んだ登山隊のドクターの視点から描かれた遠征記です。ドクトルマンボウの『青春記』『航海記』に続く『登山記』です。これが元になり魅力的な大人のメルヘン『さびしい王様』が生まれました。学生時代 北杜夫が大好きで夢中になって読みました。しかし『白きたおやかな峰』の名前が一番似合うのは、真っ白に雪化粧した樽前山ではないでしょうか。
 たおやか=姿がしなやかで優しく上品なさま

5. 樽前山は危険な活火山

今は「たおやかな美しい山」の樽前山ですが、実は国内でも危険な活火山の一つです。支笏湖カルデラの3番目の側火山として約400年前から活発な噴火活動を続けています。これは明治44年(1909年)噴火時の苫小牧から写された記録写真です。これで小規模噴火で、溶岩ドームが吹き飛ばされた後、再び現在の溶岩ドームが形成されました。小規模でもこの噴煙です。中規模、大規模の噴火は想像を絶します。

6. 「神々しい恵庭岳」 1,320m

30歳の頃、尊敬する下山さんのお陰で北海道を代表する絶景の支笏湖と3つの火山のとりこになりました。そして43歳で1年間、53歳で3年間北海道勤務となり、樽前山には気軽に50回以上登りましたが・・恵庭岳だけは、その神々しい山容から登るのが憚れました。爆裂火口の上部からは今も噴煙が確認され、山頂直下崩壊で頂上に立てないのも、神様が「見るだけにしなさい」と言っているように思えました。

しかし56歳で本社製造部への異動がきまり、「お別れに一度は登らないと!」と意を決しました。恵庭岳は典型的な成層火山で、札幌オリンピックの時に大回転の競技場に選ばれた厳しい山で延々と続く直登に難儀しました。頂上直下には「この先崩落しており立ち入り禁止」の防護柵がありましたが、そこから見下ろす支笏湖・風不死岳・樽前山の絶景は忘れられません。この写真は紋別岳山頂からの恵庭岳です。

7. 支笏湖対岸に聳える『紋別岳866m』
 

この山は 支笏カルデラの外輪山ではなく、4万年以前に活動していた古い火山です。頂上に電波中継基地があり、その保守点検用にループ状の車道が頂上まであり、比較的楽に登山でき中高年の女性登山愛好家に人気の山です。支笏湖や樽前山・風不死岳の絶景を楽しめ、中高年登山者に人気の山です。ただ自家用車の乗り入れは禁止されていますので、入り口ゲートが開いていても支笏湖畔に駐車して登山する必要があります。

8. 樽前山 溶岩ドームの向こうに羊蹄山!

山頂溶岩ドームの向こうには羊蹄山、その向こうにはニセコ連山が見えます。

山頂溶岩ドーム南側斜面上の B 噴気孔群(写真の左の噴煙)からは高温ガスが噴出し,砂礫と共にドーム斜面を約 100 m 流下する珍しい現象が確認されています。私も苫小牧市街から、夜間このあたりを遠望していると、青白い炎が揺らめいているのを何回も目撃しました。B 噴気孔群を赤外熱映像装置で観測した表面温度は「 458°C」 と極めて高温だったそうです。

9. 近くで見る溶岩ドーム

明治42年の噴火の最期に押し出てきた巨大な溶岩ドーム。「真黒な溶岩のドームに二つのツノが!」こちら側から見るとまるで悪魔が怒っているように見えます。ドーム溶岩は高さ134m,体積約2,000万立方メートルと見積られています。遠望も間近で見ても、何とも強烈な印象が残り、何回登っても飽きない火山です。私は苫小牧勤務の3年間で50回くらい登っています。

10. 樽前神社

あまりに荒々しい樽前山を鎮める為に、苫小牧市高丘に荘厳な「樽前神社」があります。ご神体は樽前山。私も正月、例大祭には必ず参拝に行きました。

 20数年前に出光が経営困難に陥った時、北海道製油所ではコストカッター所長があらゆるコスト削減を進め、危険域の保全費削減、更に市民祭参加や、構内氏神様の例大祭までやめてしまいました。

 ちょうどそのころからエアフィン大火災、重脱配管噴破大火災、ナフサタンク大火災と、大事故火災が頻発し、市民から「出光は出て行け!」という厳しい声が上がりました。私はそのころ関係会社の備蓄基地総務課長で頻繁に樽前神社にお世話になりました。そのとき樽前神社宮司さんから「言いにくいことですが」と、厳しいことをしみじみと言われました。

「工場や職場に氏神様や神棚を祭り、正月や春秋例大祭を執り行うのは、所員の心を一つにして仕事の成就や安全を決意するという大きな意味があります。そういうものをすべてやめた出光さんは、それまでの”所員が心を一つにする”という大切なことを等閑にしたのではないでしょうか。」

そして新たに赴任した所長は、真っ先に樽前山神社の公式参拝、氏神様の毎朝の礼拝、例大祭の復活、そして市民祭りへの復活を果たしました。市民祭りでは「出光さんお帰り!」の垂れ幕で暖かく迎えられました。

11.  江戸時代以降の樽前山噴火史

この100年大噴火は起きていませんが小噴火は頻発しており、中規模の噴火の可能性が高まっています。