2026年10月5日月曜日

16. 激しい噴火を繰り返す有珠山

  昭和新山が可愛い赤ちゃん火山なら、有珠山は厳しい親火山です。その有珠山が生んだ洞爺湖温泉は、 美しい景観で国内トップクラスの観光地です。

洞爺湖の元々の始まりは約11万年前の破滅的洞爺カルデラ噴火です。また5万年前には 中心で中島火山が活動し巨大な溶岩ドーム島を残しました。そして2万年前頃に有珠山が活動を開始し富士山のような成層火山ができましたが、約7千年前に山体崩壊し 南側に直径約1.8 kmの馬蹄形カルデラを形成しました。

有珠山は1600年代頃から約30年に1回の大噴火を繰り返す活発な火山です。1945年に誕生した昭和新山は有珠山の小さな側火山です。その32年後の1977年には有珠山頂で大噴火が発生、またその23年後の2000年には西山が噴火しました。

こういう危険で大災害が繰り返されている有珠山すぐ近くの洞爺湖温泉ですが、そこに住む人々は『生涯3度は大噴火に遭遇する過酷な運命』にも拘らず、必ず洞爺湖に戻り洞爺湖を愛し続けています。 30年ほど前、火山博物館に勤務する地元女性に「生涯で3~4回は大噴火に見舞われるのに、何故ほかの地に移り住まないのですか?」と質問したところ「洞爺湖が大好きです。ここを離れるなんて考えられません!」とニコニコしながら話されたのがとても印象に残っています。故郷ってそういうものなのですね。

1.    洞爺湖と羊蹄山の絶景

洞爺湖の面積は日本で9番目、カルデラ湖としては屈斜路湖、支笏湖に次いで国内3番目の大きさです。東西約11㎢、南北約9㎢ のほぼ円形の湖で、有珠山・昭和新山・洞爺湖温泉などがあり北海道有数の観光地域となっています。中央に浮かぶ「中島」(4.85㎢)の最高点はトーノシケヌプリ455mです。中島には昭和35年頃2世帯6人定住者がいましたが、現在定住者はなく鹿の楽園となっています。

2.    昭和52年大噴火した有珠山

昭和52年8月6日、有感群発地震が発生する最中、翌7日に山頂カルデラ、小有珠斜面からのプリニー式噴火が始まりました。前兆の地震から32時間後の噴火でした。 8月14日未明まで4回の大きな噴火を含む16回の噴火が断続。噴煙高さは最高12,000 mに達し、火口周辺地域には多量の軽石や火山灰が堆積し、家屋が破壊されました。

3.大噴火以前の美しい「銀沼」

昭和52年大噴火前の銀沼周辺は、手ごろなハイキングやキャンプ地として人気がありました。

4.銀沼周辺の牧場

このあたりは牛が放牧され、のどかなハイキングや池遊びを楽しめる絶好の行楽地でした。昭和52年「有珠山の火山性微動が始まった」というニュースと共に、この乳牛たちが山から下りていくTV映像が鮮明に記憶に残っています。

5.    主噴火口の『銀沼火口』

昭和52年大噴火は、それまで有珠山のカルデラ内にあった美しい「銀沼」から発生しました。この噴火後の光景は、まさに「天国から地獄」の恐ろしい自然の驚異、人間の無力を見せつけています。降灰は北海道内119市町村に降り注ぎ、農作物に多大な被害を発生させました。

6. 噴火後の有珠山の様子

銀沼火口からは現在も噴煙が上がっています。カルデラ中央の左側砂っぽい山が新しくできた小有珠ドームの有珠新山です。その右側が元々の大有珠ドームで、それまでの大有珠ドームを東側に押しやりました。まさに「山が山を押しのけ移動させた!」わけです。本当に自然の力の大きさに驚きます。

7.大噴火で破壊された有珠山ロープウェイ

以前から、有珠山ロープウェイは、山頂からの絶景や、気軽な火口散策で洞爺湖観光の目玉でした。それが昭和52年大噴火の噴石でこのようにボロボロに破壊されました。

有珠山噴火の特徴的噴火予兆は、火山性群発地震が2~3日間続くことです。昭和52年も、大噴火に備えて住民全員が避難して、死者・けが人は一人も出ませんでした。昭和52年大噴火の時に放置された車の上には、火山灰が降り積もり、このような無残な姿になりました。

8.そして23年後の「西山噴火」

昭和52年の大噴火から23年後、平成12年(2000年)に西山噴火が始まりました。これは避難を呼びかける消防隊員です。住民は事前に完全撤退し、人的被害は一人も出ませんでした。 

9.危険な火山に隣接する洞爺湖温泉街

洞爺湖温泉街のすぐ後ろは有珠山です。いやむしろ有珠山の上に洞爺湖温泉街があり、温泉街が噴火口になる危険性も十分にあります。平成12年に始まった西山噴火は、温泉街近くで複数の噴火口が開き、国道230号線上でも噴火し、国道をずたずたに引き裂いてライフラインが閉ざされました。

『こんな恐しいところに、よく高級ホテル群が!』と驚きますが、地元の人や観光業の方は『せいぜい噴火の1年避難して我慢するだけの事。その後30年はこの美しい洞爺湖と一緒に暮らせる、これ以上の住みたい場所はほかにはない』と、屈託なく笑って答えられます。

洞爺湖温泉街は、まさに危険な有珠山の懐の中にあります。しかし国内有数の絶景の中の大温泉街で、観光客にはあまり気にならないようです。(かくいう私も大好きな温泉街ですが・・)

10. 山上の豪華「ウィンザーホテル」

危険極まりない有珠山の対岸の山頂にあるのが「ウィンザーホテル」です。建設当初は「エイベックス・リゾート洞爺湖」として1993年にスタートしました。しかし融資元の拓銀がバブル放漫経営で破綻し 1998年ホテルは倒産しました。それから2年半の間ホテルは空き家となり「バブル崩壊の象徴」としなりました。当時、洞爺湖から見上げると、逆光で全体が黒く「悪魔が黒いマントを広げて山頂から挑みかかってくる」ように見え、まさにバブル崩壊の象徴的建物でした。
 そして2年半後、セコムグループがホテルを買取り、内外装を変更し高級リゾート「ウィンザーホテル」として2002年に再開業しました。価格は50億円とも言われ、初期投資額700億円との差額650億円は泡と消えました。まさにバブル崩壊です。

 その後「フムフム叔父さんの福田康夫首相」の時「洞爺湖サミット会場」として使われました。福田首相は何の仕事をしたのか・・このサミットの記憶しかありません。メルケル首相から「日本の首相は1年交代だから」と、ホスト国首相なのに無視された情けない姿が思い出されます。

11. ウィンザーホテルのロビー

巨大な窓からは雄大な洞爺湖、有珠山、羊蹄山の素晴らしい眺望が独り占めです。初代は会員制の、一般の人には無縁の高級リゾートホテルでした。しかしバブル崩壊後に経営会社が変わり、コンセプトを換えてからは誰でも利用できるようになりました。北海道を旅行するときは、一度は滞在したいホテルです。このロビーは宿泊客でなくても利用でき、私たち夫婦も時々ここでドイツ人演奏家のチェロとピアノの生演奏を聴きながらケーキセットを楽しみました。(もう20年も前の事になります。)

ウィンザーホテルの客室は、洞爺湖側と内浦湾側があり、それぞれ名称は洞爺湖を見下ろす客室がレイクサイド、内浦湾を見下ろす客室がシーサイドと呼ばれています。この写真はシーサイドの眺望です。目の前はホテル経営のゴルフ場で、噴火湾に向かって打ち下ろす爽快な大人気のコースです。(ゴルフ下手くその私は、この傍を通るだけで、残念ながらプレーしたことはありません・・) 冬はスキーもできます。

2026年10月2日金曜日

9. 畏友が心血注いだ博多駅再開発

  令和6年末、博多で高校同窓の甲斐君と再会しました。

 博多在住の畏友総治郎君(総ちゃん)が心血を注いだ博多駅周辺再開発の足跡を案内してもらい、家内と感動・感激の連続でした。新技術や熱い思いが至るところにさりげくモニュメント化され、利用客が気付かない温かいもてなしの心がちりばめられていました。その一部を紹介しますので、総ちゃんたち鉄道マンの九州発展センターとして、博多駅ビルへの熱い心意気をぜひ感じてください。

 元々博多駅は沢山の路線が集中し、繁華街や商業施設が作れず、天神地区約2000億円の売り上げに対し博多駅周辺は、その10分の1でした。一番のネックは再開発用地がなかったことです。
そこで線路を統合共用して半分の面積にして、駅ビルや駅前広場用地を確保しました。そして床面積で6倍の巨大な駅ビルが完成しました。
そして14年、いまでは天神3000億円、博多駅ビル2500億円とほぼ同格の繁華街として発展を続けています。

『なぜ福岡市の中心の駅が博多駅なのか?』

その疑問への説明に、私達夫婦は初めて合点がいきました。 博多は古代から発展した商業、貿易の都市。江戸時代に黒田家が那珂川の西側に城下町を築き福岡藩、維新後は福岡県、福岡市となった。その後、福岡市を博多市にしたいという運動が起きたが、最終的に『福岡市』と決まり、その代わり経済中心となる鉄道駅は『博多駅』と決定した。(博多人は名を譲り実を取った訳です。また福岡と言えば『黒田節』ですね。

「福岡国際マラソン歴代優勝者の足跡」

 福岡国際マラソン大会歴代優勝の足形。懐かしい選手探すのが楽しいです。クレイトン、広島日出国、寺沢秀雄、瀬古など・・自分の足を重ねると、意外と小さいのです。

「子を抱く母」(左) ヘンリー・ムーア

 折角の名作が、柵と電飾に邪魔されて鑑賞できません。・・もう少し芸術品に配慮が欲しいです。
ヘンリー・ムーアといえば、箱根彫刻の森の作品が有名ですね(右)

「雨だれ境界」・・在来線(JR九州)と新幹線(JR西日本)の境界

 駅構内で足元に気を付けていると、床タイルが変わるところがあり、この標示に気が付きます。
総ちゃんによると、これは軒下の雨だれカーテンのように、通路には目に見えない「在来線(JR九州)と新幹線(JR西日本)」の境界です。 床タイル、壁模様、テナントまで「雨だれ境界」で分かれています。もちろん行き交う人は、足元を見つめることもなく、誰も気づかず通り過ぎています。(経営トップは本当に変なところで自己主張するものですね)

「駅構内の壁・柱を彩る千住博」

千住博氏監修による壁床柱のテーマ画。無機質な壁柱床に豊かな森のイラストを配し、優しい寛ぎの空間を創出しています。「木の葉、草、花、鳥、虫、魚」をテーマに、市民からイラストを募集して、その作品がちりばめられています。応募した人にとっては「あ、私の作品だ!」と見つける楽しさも盛り込んであります。

「狭い再開発用地確保の決定打」

 元々博多駅は沢山の路線が集中し、繁華街や商業施設が作れず、天神地区約2000億円の売り上げに対し博多駅周辺は、その10分の一でした。一番のネックは再開発用地がなかったことです。そこで線路を統合共用して半分の面積にして、駅ビルや駅前広場用地を確保しました。そして床面積で6倍の巨大な駅ビルが完成しました。
そして14年、いまでは天神3000億円、博多駅ビル2500億円とほぼ同格の繁華街として発展を続けています。

「博多駅ビル屋上」

 近代的高層ビル屋上に出たとたんにこの光景です。我が妻が思わず「この稲は本物?作り物?」と聴くと総ちゃんは「もちろん本物だよ。収穫して神社に奉納後ご飯にしていただくよ。格別に美味しいよ!」



「七福童子」

 鉄道神社の前で電車ごっこして遊ぶ七福童子には、「鉄道網を介して、九州7県がともに発展する!という思いが籠められています。過疎の宮崎県人の私は思わず感涙です。

「2代目博多駅で使われていた柱(左)」

「JR博多シティ建設従事者名板(右)」

 先人の尊い足跡をしっかり残そうという強い思いが感じられます。

 総ちゃんは、「博多駅再開発が成功したのは、一部門のみの都合に固執せず各系統が一致して協力体制を敷き、意識レベルを合致させたことが大きい。高い意識を有する専門家集団が目標に向かって一丸となって進めた時の力はうかがい知れないものがある。この建設従事者名板には上司も部下も関係なく、発注者も元請けも下請けもない。これらを象徴的に表している」と、感慨深げに話しました。 もちろん「甲斐総治郎」の名前も10名くらいの「甲斐さん」の中に控えめに刻まれていました。

「くうてん」 博多駅ビル9、10階はレストラン街

 博多を代表する名店が軒を連ね、最近は天神地区以上のグルメスポットとなっています。(手前の後姿は我妻。小食ですが「どこも美味しそう!」と全部味わいたい様子

総ちゃんお勧め「華都飯店」

 にこやかな話好きな総ちゃん節が止まりません。多種多彩な話題に引き込まれた私達夫婦、我妻は「さすがに大会社JR九州の元重役さんね。一サラリーマンのあなたとは風格が違った」と・・

「目に入れても痛くない美人の娘さん」

 スマホ録画で、音大出身の奥様の素晴らしい歌唱と、低音の魅力の総ちゃんの「君恋し」に酔いしれたあとの話題は可愛い娘さんのスマホ写真。私達夫婦は異口同音で「うわー綺麗!奥さん似かしら?」と言ってしまいましたが・・総ちゃん気を悪くしないでください。あなたも男らしいイケメンです!


9. 常に真摯な人生を生きる(甲斐君)

 高千穂太郎氏(甲斐君)から川柳集「あるがままに」が届きました。

 彼が古川柳に取り組み始めてから8年、令和2年の第1集に続く、この3年間の心の遍歴を余すところなく詠み込んだ胸を打つ作品集です。その表題のように「あるがままに」の境地に達して、74年間の人生の折々に思いを馳せて詠んだ川柳満載です。(なお「俳句=自然の写生、川柳=人生の写生」で、 川柳は人間風詠といわれます。最近はやりのサラリーマン川柳とは違います.。)

 何回読んでも感動で胸があつくなります。甲斐君の74年の人生が凝縮されていると感じます。これは私一人で楽しんでいては申し訳ないので 皆さんへ紹介するものです。しかし90ページの大作ですので全部という訳に行かず 少し編集して紹介します。

1.   生い立ち

 甲斐総治郎君は、昭和24年神話の里 高千穂町に生まれました。


高千穂町は宮崎県北の山深い山村ですが、町の発展の為に無我無私で働くお父さんの姿に、彼自身も物心ついたころから人一倍努力することが当たり前と思って育ちました。またそういう総治郎少年をお母さんは、いつも暖かく優しく愛に包みこみながら応援しました。そして一昨年お父さんが旅立ち、お母さんは93歳となられ、甲斐君は古希を過ぎてもなお奮闘努力の生き方を貫き通しています。

〇古希迎えなお越えられぬ父の壁

〇病む老母今なお祈る子の未来 

2.中学生時代

彼は生来の真面目な性格と、お父さんの刻苦勉励の姿に学び、小学・中学校とも高千穂町始まって以来の秀才で、町の期待を一身に背負いました。中学時代、延岡・日向市を含めた県北統一模試では常に上位でした。また高千穂は剣道が盛んで、彼は中学時代に初段を獲得、文武両道に秀でていました。

〇ふるさとの期待背負って数十年

〇五十年期待の星の重荷負う

〇のぼり旗郷土の華と見送られ

小学6年生の時、担任の先生から「中学になったらラジオ英会話を聴くように」とアドバイスされましたが、当時彼の自宅にはラジオもテレビもなく、町民向けの有線放送しかありませんでした。丁度その頃、お父さんが技能教育実習で真空管式ラジオを作ったので、早速これを使って英会話の勉強を始めました。(お父さんは息子の話を聴いて、急遽制作されたのでしょう。)そして夕方、剣道の稽古が終わって帰宅すると、ラジオ英会話を聴取するようになります。これはのちに日向学院に進学し、米国人の神父さんに中学3年間ネイティブ英語を学んだ学友にも、一歩も引けを取らない英語力の元となりました。

  〇手作りのラジオで学ぶ基礎英語

  〇剣道のあとに汗かく英会話

  〇ラジオ聴く部活の後の英会話



他方高千穂中の学友は、経済的に恵まれず殆ど中卒で集団就職しました。日本の高度成長を支えてきた労働力は、東北や九州の中卒の集団就職組、金の卵と言われた次男・三男・女児で、京浜・阪神・中京地区に大量に送り込まれました。高千穂中も大半は中卒就職組で「総治郎君は高校に行けていいな」などとつぶやく友もいました。

 〇集団で就職の友いまいずこ

 〇中卒で集団就職友いずこ

3,高校生時代

高校は学生寮のある日向学院に進学、そこでも常に学年1・2番を争う秀才でした。高1の中間試験中に、大好きだった祖父が逝去したと寮監に知らされ、試験終了後すぐ帰路につきます。

〇試験明け家路を急ぐ報受けて

〇家路つく祖父の逝去報を受け

日豊本線で宮崎市から延岡へ、さらにローカルの日之影線、更にバスを乗り継ぎ、高千穂町の自宅についたときは既に葬儀は終わっていました。「おじいちゃんを偲んでお別れしたい」と思って帰宅した息子に、お父さんは葬儀の後片付けをしながら、つっけんどんに「早く学校に帰れ」と言います。お父さんは(こっちのことは良いから気にせず勉学に励め)という思いと、お父さん自身が弔問対応を終え、漸く父の死と向き合っていたのでしょう。

  〇「はよ帰れ」葬儀の後の父の言

やむなく後ろ髪ひかれる思いで宮崎市へ帰路につきます。延岡からは夜行の鈍行列車となり、切ない思いで、お母さんの心のこもった赤飯の握り飯を頬張ります。塩味に涙が加わったのでしょう、彼の心にはいつまでも しょっぱさが残りました。

  〇塩辛い夜汽車に揺られ握り飯

  〇赤飯の握りに込めた母心

  〇両親の思いを込めた握り飯

 当時の日向学院は「鹿児島ラサールに追いつけ!」と受験勉強一色でした。数学・英語は高2までに3年間の教科書を全て終え、高3は実戦形式の模擬試験、3年間テストテストで有名大学合格目的の授業でした。徳育を忘れたこういう教師に彼は幻滅し、期待せず、いつも超然としていました。しかし心温かい高千穂の地で育まれた彼の人柄は、心を大切にする学友を惹き付けました。・・先年その親友の永友君が逝去したとの報を悼み、共に大淀川の土手をサイクリングした懐かしい思い出の句を残しています。

  〇夢を乗せ走る自転車川堤

  〇並走す大淀川の爽風(かぜ)うけて

  〇夢語る大淀川の川堤

  〇爽風受けて宮崎弁で語る君

  〇友の逝く大淀川の爽風寒し



4. 大学受験

 高校3年間 抜群の成績で、全国模試でも上位常連だった甲斐君と下村君は、当然のごとく東大を受験し、誰もが二人は絶対合格と確信していましたが・・下村君は文Ⅲ合格、甲斐君は理Ⅰ不合格で駿台予備校へ。しかしこの年の秋から大学紛争が激化、安田講堂事件が発生して昭和44年度入試は中止、彼はやむなく東工大へと進学します。(下村君は安田講堂に籠って戦い中退、その後進学塾を経営しています。つくづく「人生万事塞翁が馬」と感じます。)



「もしあの時東大入試が実施され合格していたら、どんな人生を辿っただろうか・・」と、彼は時々考えます。

  〇一度だけ開かぬ赤門道を変え

  〇一浪に閉ざす赤門道を変え

 この2句から、不運にも大学紛争で入試中止となった口惜しさが伝わります。実施されていれば彼のことだから必ず合格して、建設省(国土交通省)か、通産省(経済産業省)に入省、次官・大臣になって、もうとっくにリニアは運行開始していたことでしょう!・・でも東大ではなく、東工大から国鉄~JR九州専務~九鉄工業社長として活躍し、その一方で古川柳に取り組み「あるがまま」を追求している今の彼の人生の方が『甲斐君らしい生き方だ!』と、川柳集を通読して、私はそう思います。




5. 国鉄入社、国鉄分割民営化へ

東工大で土木工学を修めた彼は『新幹線網を全国展開し国の発展に寄与したい!』と旧国鉄に入社。土木技術を生かせる建設部門志願でしたが、意に反して『保線部門』に配属されました。保線とは『列車が安全に走行するために、人知れず肉体を駆使して、主に深夜に線路状態を維持・改善工事をおこなう』労務中心の大変な仕事です。例えば、当時の列車は垂れ流しだったので、保線職員は汚物に暴露されるような劣悪な環境の仕事でした。甲斐君はそういう色々な問題をかかえる保線部門の管理者として、劣悪環境の改善や労使関係改善に尽力しました。この苦労・経験が、のちの国鉄改革・民営化に優れた経営手腕を発揮します。

旧国鉄は『親方日の丸』で やる気のない職場となっており、国労・動労が支配して仕事よりも組合活動が優先され、経営陣の統率が取れず、真面目に働く人が馬鹿を見る破綻した職場でした。もはや一刻の猶予もなく『国鉄分割民営化』が進みますが、彼は中堅管理者として重要な役割を担いました。全国規模の分割民営化なので、配置転換、出向転籍、早期退職などの大規模な人員整理が必要となります。対応を間違うと三井三池争議以上の労働争議になりかねず、日本の交通は長期的にマヒしてしまいます。この頃寝食を忘れて部下と共に対応尽力した彼の姿が次の句でよくわかります。(現代では想像もつかない凄い上司です)

 〇はしご酒シメはもちろん部下の家

 〇酒びんを持って訪問部下の家

 〇真夜中の家庭訪問ゆがむ笑み

 〇仕事終え家に帰らず部下の家  (妻 詠む)

(分割民営化前後は、社員の処遇、今後の効率的な体制、社内規定・ルール見直しなど、勤務時間はあってもなきが如しだった。勤務後一・二軒飲み屋で議論を続け、最後のシメは部下の家へ家庭訪問。今までの議論に加え、仕事への熱意を互いに確認し、奥方や家族を知り、今後の赴任地の可能性も探った)

6. JR九州、九鉄工業、そして現在

昭和62年に旧国鉄は、6旅客会社、1貨物会社、鉄道総研などの11経営形態に分割されました。分割スタート時は赤字会社と見込まれた『九州・四国・北海道』でしたが、甲斐君はJR九州の経営陣として、主に施設関係の体制づくりに腐心し、関連事業を拡大させるために駅ビル建設・運営・不動産開発、マンション・戸建て住宅事業、ホテル、飲食、流通など多方面の事業開発・運営に尽力しました。その結果、平成28年には売上3829億円、経常利益605億円となり、東証一部に株式上場する優良会社となりました。



甲斐君はJR九州専務を最後に、九鉄工業㈱社長に就任。その後会長・相談役・顧問を経て、令和2年6月退任しました。



現在は、分岐器・レール溶接が専門の鉄道関連会社に勤め、仲間内のゴルフ、会食で級友を温めるほか、ウォーキング、OB会活動、町内会活動,オヤジバンドの発表会など多彩な活動に取り組んでいます。

中でも九鉄工業時代から、ロータリー活動で主導的役割を果たし、またその後の“懇親・精神鍛錬の場”として『川柳同好会=イブ川会』を8年前に立上げ、会長・世話役を務めてきました。その8年間の句作の集大成が 『あるがままに』 川柳集(2)です。



A4版90ページにびっしりと、作品・随想が盛り込まれています。古川柳が『人生の写生」を目指している通り、彼の74年の濃密な人生の集大成です。その中心には甲斐家の温かく深い絆が貫かれており読むたびに胸が熱くなります。

なお表題の『あるがままに』 は、4度目の転職で仕事が思い通り進まぬ甲斐君に、奥さんが「あるがままに生きていけば」とアドバイスされ、その一言にハッと目覚め生き方を変えたことにちなんでいます。なんと謙虚で柔軟な心を持った男なのでしょう!『この大人物の陰に、この良妻賢母あり!』ですね。「転んでも立ってもお釈迦のたなごころ」は、きっとその奥様を詠んだ一句なのでしょう。

7, 最後に・・愛する奥様への熱い思い溢れる句の紹介

 〇おかあちゃんやっぱりあんたでよかったよ

   〇新鮮だ!突然のハグ誕生日

 〇薔薇よりも桔梗のような君が好き

 〇食に惚れ雰囲気に惚れ妻に惚れ

〇昔妻いまは俺泣く夫婦愛

〇ちょっとした妻の動きに思い知り (我家は下5:ビクビクし)

〇「あれ、あれ!」にピンとくるまで40年

 〇歳重ね虚心に順応妻(カミ)の声

 〇妻(カミ)の技 炊事洗濯風呂掃除

 〇忘れ物無いかと車中で妻が問う

 〇家事家計しっかり者のゴリョウサン

〇忖度す妻と二人の三が日

〇手料理に愛しい妻が味見する

〇華やかな薔薇より痛い妻の棘

 〇夜更けまで薔薇百万本を唄う君

 〇惚れ直す舞台の妻の晴れ姿


9. 高校・剣道勝ち抜戦の想い出

  私の母校は成績重視の高校で、印象に残る事が少ない3年間でした。

しかし体育の綾部先生はスポーツへの熱意が凄く、またクラス全員がスポーツ音痴に近いガリ勉タイプでしたので、スポーツ苦手の私でも、少し努力すれば面白さを満喫出来ました。

1. ラグビー・・よく県大会に出場していた俊足の河野義和君にボールが渡ると独走になるので、私はその前にタックルする役割に徹し、鈍足の私でも『確かに男らしいスポーツだ!』と実感しながら夢中になりました。

2. 剣 道・・私が大好きなTVドラマ 「半沢直樹」 は甲斐総治郎君とダブります。 甲斐君は剣道盛んな高千穂出身、中学時代に有段者で、初めて防着をつける私達は赤子のようなものでした。 しかし綾部先生の 『授業の最後にクラス全員の勝ち抜き戦をやる』 の宣言に、『よし、甲斐君に勝ってクラスの剣道トップに立つぞ!』 と、負けず嫌いの私は燃えました。

それから下宿に帰ってから1~2時間、綾部先生から指導を受けた素振り、足さばきの練習を繰り返し『これなら竹刀のスピードは甲斐君にも負けない』というところまで来ました。しかし目標は有段者の甲斐君に勝つことです。基本の練習だけではとても勝てません。

『なにか得意技=秘剣が必要だ・・』 と考え付いたのが、佐々木小次郎の 『燕返し』です。甲斐君の鋭い第一撃を強く払いのけ、その反動で鋭く 横面か小手 をとる・・これを何回も練習しました。そして実際に試してみたいのですが、残念ながらイワツバメがいません。しかし格好の練習相手を見つけました。夕方に下宿前を何十匹ものコウモリが飛び交うのです。コウモリは自前のレーダーを持っており、障害物があってもひらりとかわして身の安全を確保します。『よし、あれを切り落とせば秘剣完成だ。名付けてコウモリ返しだ!』。そして精神を統一して正面に飛んでくるコウモリに切りつけました。 

コウモリが当然のようにヒラリとかわし、横をすり抜けるのを 『小手!』 と払うとバサリと手ごたえがありました。左足元を見ると翼を折られたコウモリがモソモソとうごめいています。

『できた!』 満足感から覚めると、コウモリの祟りはないか心配になり、そっと傷ついたコウモリを森に逃がしました。(コウモリ仲間に助けてもらえよ・・と念じながら) 

そして待ちわびた剣道最終日、名簿順の勝ち抜き戦が始まりました。

安藤英人君、五十嵐君、石崎君、稲井君、岩切君・・と順調に退け勝進みました。5人とも密かに研鑽を積んだ私の相手ではなく『あと4人で甲斐君だ・・』と思っていたところに、思わぬ落とし穴がありました。それは浦元君(現同窓会会長のお兄さん)です。真面目でおとなしい中高一貫組の中では規格外の西都の野生児です。『構えて、始め!』 の声がかかると、構えも何もあったものではありません。へっぴり腰で『ワー、ワー!』と大声でわめきながら、そこら中を動き回り、まるでガキ大将のチャンバラです。『これは剣道じゃない、どうするか・・』と思っているところに、無茶苦茶振り回していた彼の竹刀が腕に当たりました。

『小手、一本!』綾部先生の無慈悲な声が響きました。

『えー、それはないよ!』・・しかし体育の武道体験授業で判定は覆りませんでした。そのあと甲斐君が勝ち進んでいきましたが、私は放心状態で興味を失っていました。

 『敵わないまでも、甲斐君にコウモリ返しを使ってみたかった』いまでもそう残念に思っています。 

(エピローグ)

〇甲斐君:旧国鉄民営化に尽力、JR九州専務、九鉄工業社長・会長歴任

〇浦元君:国際的活躍、ユニセフ、ILOアジア局長、上智大特任教授