小学生の頃『できたてホヤホヤの昭和新山』という火山の写真を見て『今すぐ見に行きたい!』と思いました。今考えると私が生まれる5年前に出現し、まさに私と同世代の生まれたてホヤホヤの新火山です。
しかし子供のころから憧れた「昭和新山」に対面できたのは、30年後の42歳 北海道製油所・重質油分解装置建設PJ勤務のときでした。想像以上の迫力に度肝を抜かれました。その後、北海道を訪れるたびにこの山に会うのが最高の楽しみです。また家族全員で3回ほど北海道旅行しましたが、私の子供達もこの山の大ファンになりました。
・・かつて有珠山の東麓には平坦な麦畑や集落が広がっていました。
しかし昭和18年12月末、突如として激しい群発地震が始まりました。年が明けると、大地が徐々に盛り上がり始め、6月には最初の水蒸気爆発が起こり、その後も数か月にわたって噴火を繰り返しました。やがて地中から粘り気の強いマグマが押し上げられて巨大な溶岩ドームを形成、昭和20年の秋に活動が終息すると、かつての麦畑は標高約400メートルの赤茶けた火山へと変貌を遂げていました。わずか2年足らずの間に、日常の風景が「世界一大きな野外展示物」へと姿を変えたのです。
当時は第二次世界大戦の最中であり、世の中は火山の調査どころではありませんでした。専門家すら近づくことが困難な時代に誕生した新山ですが、当時郵便局員だった三松正夫氏が山の成長過程を克明に記録しました。これが戦後「ミマツダイヤグラム」として世界を驚かすことになります。
なお、溶岩ドーム形成当初は全山が不毛の土地でしたが、登山などで山が荒らされるのを危惧した三松正夫さんは私財をなげうって全山を買い取り、自由な人の立入を禁じて保護しました。その後も三松家が大事に保護し、現在もこの姿を保っています。
形成から70年以上経った現在では、山麓の大部分が草木で覆われてきました。
1. 壮瞥町側から向かう道路からの昭和新山
赤茶けた山肌は、もともと平地だった畑の土が、溶岩ドームの熱により赤く変質したものです。素焼きの陶器のようなものですね。
2. 間近にみる昭和新山の雄姿
1944年の噴火から82年が経過するのに、山頂近くからはいまだに湯気が立っており、「若い出来立ての火山(溶岩ドーム)」であることを誇示しているかのようです。私が一番ワクワクする「北海道を代表する絶景」です。手前は、昭和新山の生成過程を克明に観察記述した「三松ダイアグラム」で世界を驚かせた三松正夫氏の銅像です。
3.「三松正夫記念館」初代館長の三松三朗氏
4.. 正夫の曾孫「三松靖志さん」が新館長に
三松三朗さんが令和7年8月逝去され記念館は休館となっていましたが、今年4月に息子の靖志さん(正夫の曾孫60歳)が新館長となり、「正夫たちの強い思いを後世に引き継ぐ」と力を込められます。
記念館の入場者は修学旅行生が多いですが、年間売り上げは100万円ほどで、「親父はよくやってきたな」と靖志さんは語られます。「恐ろしい噴火も事前に備えれば避難や対処ができる。火山の秘密や面白さを伝えたい』という正夫や父三朗の熱い思いを引き継ぎたい」と抱負を述べられます。
北海道を訪れる機会がありましたら、是非「昭和新山記念館」を旅行コースに加えて頂きますようお願いします。
5. 昭和30年代の写真
山肌は全て赤茶けていますが、現在基盤部は草木が生え緑に覆われています。
6.「昭和新山の成長過程」を克明に記録した三松正夫氏
第二次世界大戦最中、当時郵便局長だった三松さんは「この貴重な火山生成の記録を残せるのは自分しかいない」と、測量機を買い込み、毎日 全稜線隆起の測量記録を残しました。そして三松さんは、世界的にも貴重な火山の徹底的な保護と、家と農地を失った住民の生活の支援のために、民家から山になってしまった土地の買い取りを行いました。このため昭和新山は三松家の私有地です。
ニュージーランドのホワイト島等と同じく、世界でも珍しい私有地内にある火山なのです。
7.新山を定点観測する若き三松正夫さん
8.昭和新山の断面図
約80年経後も、昭和新山からは噴煙が立登っています。「一体あの溶岩ドームの下はどうなっているのだろう!」といつも疑問に思っていました。それが左の断面図です。 有珠山には、大有珠溶岩ドーム、小有珠溶岩ドーム、潜在溶岩ドームの明治新山(オガリ山)などがあり、マグマ噴火の終末期には粘性の高いデイサイトがせりあがってくること示しています。その熱が80年経過しても溶岩ドームの表面まで伝わり、噴煙を上げているわけです。
9.昭和新山クマ牧場の60頭ヒグマ















































