2026年10月20日火曜日

9. 芸術に生きる学友・富夫君と作品群

国立新美術館「二紀展」 開催!(令和8年10月14~26日)

 高校同窓の河野君から今年の「二紀展」の招待状が届きました。

 彼は元母校日向学院の美術教師の傍ら、2002年から120号(1900×1300)クラスの大作を制作し出展しています。「二紀展」は「二科展」と並ぶ国内最大級の美術展です。「戦前の旧二科会の活動を第一期とし、戦後新しく第二期の紀元を画する!」という壮大な構想で発足し発展してきました。

第78回の今年も、1階から3階まで出展者1000名近い大展覧会で、その主張通り独創的で見事な作品のオンパレードで見飽きることはありません。 勿論学友の河野富夫君も出展します。下は2年前の二紀展の作品「ラプソディ in南郷2013(旧都城市民会館5)」で、会場の目を引いていました。いつもの1階 第6展示室奥の指定席で、その温かい色調と幻想的な世界がひときわ目を引きます。





2年前は隠し絵の「平原綾香」が格別に素敵でした。またお孫さんと沢山の恐竜たちが一緒に登場しています。「遠くから楽しみ、近寄って隠し絵を楽しむ」何度も楽しめる実にユニークで楽しい作品です。

「芸術の候」、皆様も是非足を延ばして見られては如何でしょうか?

「国立新美術館」・・7東京メトロ千代田線乃木坂駅下車徒歩5分



「芸術に生きる学友・富夫君と作品群」    記:令和5年10月10日
高校卒業後50年間、顔を合わせることのなかった学友との再会は、誠に驚きの連続です。同じ高校で3年間共に過ごし、ある程度分かったつもりでいた学友が「彼は高校時代、本当はこういう事を考えていたのか!」と初めて知ることばかりでした。また「夫々が卒業後どのような人生を送ったか・・」を垣間見ることができ、自分の残りの人生充実の糧にすることができます。「ああ、自分も、あるいはこういう人生も送れたんだ!」と・・

今回は、高校卒業後美術家の道を歩き、約40年間母校の美術教師だった「河野富夫君」の半生と作品群を紹介します。

 彼はS40年学院中入学、当時は成績順に座席が決められ、常に右端の最前列で学年トップの秀才だったようです。私は高校からのつきあいで、3年間同クラスでしたが、彼はガリベンには興味のない哲学者然としていました。高校時代の成績上位は、努力家の下村君, 甲斐君, 河野修君、英人君、重文君らが占め、富夫君は私と同じようにアップダウン激しく、超然とした雰囲気を持つ大人しい性格だったので3年間話したことはありませんでした。・・そして私は宮大工学部へ、富夫君も宮大教育学部に進学し、キャンパスで数回すれ違ったくらいでした。その富夫君と再会したのは学院卒業50周年記念クラス会でした。「学院で美術の先生をしていました」という自己紹介にビックリ! ・・その彼は退職後2010年、2019年と2回脳梗塞で入院し、利き手の右が使えない後遺症のなかで今も制作活動を続けています。今回はその不屈の画家「河野富夫画伯の作品群」を紹介します。

1.「アントニウスの誘惑」シリーズ  1998年~2009年

富夫画伯は、宮崎日日新聞社が創設した宮崎県美術海外留学賞の第一回受賞者で、1997~1998の1年間イタリア留学派遣、ローマ歴史遺跡やルネッサンス美術などを学びます。そして「聖アントニウスの誘惑」を主要テーマとする取組み沢山の作品を生み出しました。「聖アントニウス」は有名な聖人で、その修行中にしばしば悪魔の誘惑にさらされて信仰心を試されました。西欧ではよく取り上げられる題材で、空想的な魔物や魔女が登場しますが、富夫画伯は、あたかも自分が聖アントニウスの試練を受けているような強烈さで私達に迫ってきます。

富夫君が描く「聖アントニウスの誘惑」は、悪魔の誘惑というよりも、この世の破滅を見せつける悪魔の脅迫のように感じます。あのおとなしい富夫君のどこにこんなエネルギーが秘められていたのでしょう!2009年のシリーズ最後の作品では、この世を亡ぼした悪魔は、全てを天空に巻き上げて拡散させます。よく見ると竜巻の中に色々な悪魔や恐竜や蛇などが混ざって瓦礫を食い荒らしているように見えます。


2002年 「どんなところにも目に見えない生きものが沢山いる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

 



2003年 「ローマのコロッセオとたくさんの生き物を組み合わせて画面を構成したいと思っています。巨大建築は構造的に生き物を感じさせます。建物の崩壊は生き物の死を連想させます。コロッセオの空間に満ちた生き物たちは、建物のエネルギーの変容かも知れません。」 



2004年 「ものは常に変化している。頑強に構築されていた、不動のように見えていた塔もまた、今変容しようとしている。その一部は翼となり天に広がり、一部は水となり滝となって地上に降り注ごうとする。不変を期待する自分と変化を待つ自分があって、どちらともつかないものの内側にあるものを描きたかったのかも知れない。」


2005年 「青い空の下、海が割れて巨大な艦橋が現われる。やがてそれは暴発しありとあらゆるものが吹き出してくる。それらは相手を求めて追いすがり追い越し待ち構えて飲みつくそうとする。攻撃をかわしたものは逆に相手をつかみ、果てへ飛び去ろうとする。・・・それらの荒々しいものたちをキャンバスに閉じこめたいと思う。」


2009年 「中庭のまわりに数本の糸杉が植えてある。数十年毎日目にしていたものだが、ある日その木肌が気になった。凹凸のある節くれだった表面はある形状を見せている。ゆるやかに時計まわりにラセンをえがく。数本の糸杉がすべてラセンをえがき頭上で大きく枝を広げる。電子顕微鏡の世界でなく気象衛星の画像でなくほんの身近なところにラセンがあった。」
 

2.脳梗塞を乗り越えて  2010年

 2010年60歳となった富夫君は脳梗塞で入院。 同じころ発生した宮崎の口蹄疫は、日本一の宮崎牛を約30万頭も殺処分する非常事態となりました。自身の不安に追打ちをかけ、誕生後60年間過ごす宮崎が未曽有の大危機です。公私ともに極限の絶望の中で、右手が使えず 慣れない左手で描きあげた渾身の傑作がこの絵です。日向灘で巨大なクジラが「こんなことに負けるな!」と大きなジャンプをしてエールを送っています。彼はこの絵で自分自身や宮崎を鼓舞するだけでなく、あらゆる人々を「フェニックス(不死鳥)のように何度も生き返れ!」と元気づけてくれています。・・当時、彼はこの絵を次のように解説しています。


「2010みやざき(堀切峠)」100F(1,620×1,303)
「自分の身の上に起きた出来事と宮崎に発生した口蹄疫の惨状を重ね合わせてこの半年を過ごした。生まれたばかりの子豚が眠ったように死んでいる。新聞の写真を見たとき、気持ちを抑えきれず紙面を破り取りちり箱へ投げ入れた。不安感がこみ上げてくる夕刻、左手で描きなぐるままにできていたのがこの絵のラフスケッチだった。おのれと宮崎の再生を込めて紺碧の日向灘をバックにしたフェニックスの風景を描いた。」 

3.平安への祈り 「ラプソディ・イン南郷」シリーズ 2011~20018

 2010年 脳梗塞の衝撃、宮崎口蹄疫、2011年新春早々新燃岳が大噴火、3月東日本大震災・大津波・・社会不安は増々大きくなっていきます。しかしその前年、人生の不安を乗り切った富夫君の心は微動だにしませんでした。彼のメインテーマは「大好きな南国宮崎の青島海岸、南郷亜熱帯植物園とそこの潜む妖精たち」になっていきます。・・彼には常人にない霊能力があるのでしょうか。・・彼はかってローマの地でこう述べています。

 「どんなところにも目に見えない生きものがたくさんいる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

この常人にない眼差しが、南国宮崎の穏やかな大自然に向けられていきます。それが「ラプソディin南郷」の連作です。

2011「ラプソディー・イン・南郷」150F



「広い太平洋を見下ろす丘の上にある小さな亜熱帯植物園、そこに何かがあると思ってスケッチに行った。彼らは枝を伸ばし葉を茂らせ思い思いの色彩を身につけて「生」を謳歌していた。その生命力に沿うように鉛筆を滑らせ絵具を流していく。気持ちとは裏腹に指先はぎこちない動きをするが、彼らの生きる力は少しずつ画面の上に再構成されていく。渡しはキャンバスのプリンティングの中に動物を追いかけイメージを定着させる。」


2012年 「プリンティングでキャンバスを覆ってしまうと、下書きの植物たちは消えてしまい取り留めのない絵の具の模様がだだっ広く広がっているだけ。その前に立つとこれから先どうなるかと不安に襲われる。しかし、何者かがすぐにうごめき始める。アイチアカの根元に潜むのは獣脚類の仲間か?葉陰にたたずむ耳の長い人影は妖精?それともウサギのお化け?彼らは続々と亜熱帯植物の吐き出す熱気のようにキャンバスの中に満ち溢れてくる。」


2013年 「描き続けていくとますます上手くなっていくと思っていたが、そうでもないことに気付いた。中心になる植物の周りに脇役の羊歯が繁茂している。主役を引き立てるには面倒でもこの雑多に見える面々をしっかりした植物に仕立て上げなくてはならない。庭先から最適な個体を選び出し根こそぎとってきて、キャンバスの隣に据える。何度も描き直しながら名脇役へと育て上げる。役者がそろったところで幕が上がり舞台が始まる。」


2014年 「モチーフは突然向こうからやってくる。初夏のある日、良く知っている道路沿いの海外にマッコウクジラが漂着したニュースを聞いた。朝早く出かけた。それは朝日の逆光の中波打ち際に横たわっていた。時折大きな波が巨体を揺らす。スケッチを進めるうち足下に波が打ち寄せ、逃げそこなって転倒した。起き上がると全身が油にまみれ、動物の臭いに包まれる。クジラの何かに追われるように車を走らせて帰った。彼の昇天の図を描いた。

4.「 旧都城市民会館レクイエム」 シリーズ 2002年~2009年

富夫君は、2019年再び脳梗塞に襲われます。2010年1回目の時は宮崎口蹄疫と次の年に東日本大震災が発生、今回は次の年に『新型コロナ』が世界中を危機に陥れています。・・今思うに、感性の鋭い富夫君は、この人類未曽有の危機を事前に感じ取り、2度の脳梗塞になったのではないでしょうか。・・幸い2度目は比較的軽く心機一転、その頃老朽撤去が決まった「旧都城市民会館」が、彼の新たなモチーフになります。

 旧都城市民会館は1966年に建設され、当時日本発の建築運動「メタボリズム」(新陳代謝を意味する)の中心的存在だった菊竹清訓の代表的建築物です。旧都城市民会館は世界的にも有名で「存続か撤去か」で20年以上もめてきましたが、具体的活用案がなく市民アンケートでも83.5%が解体に賛成で撤去が決定しました。・・市民に愛されながら撤去されていく貴重なモニュメントに、富夫君は限りない哀惜を込めて描き続けています。 


 2019年、間もなく撤去される前の市民会館です。人間の構築物が撤去される・・それは植物や動物たちの永遠の生命の輪廻と混ざり合うこと・・そういう暖かい眼差しで富夫君は見つめています。


2020年 この年から、コロナ禍が全世界を恐怖に陥れます。しかし2度の大病を乗り越えた富夫君は微動だにしませんでした。「命あるもの、いつかは命が尽き、形あるものは、いつかは大自然に戻る・・」彼の眼には、そういう悠久の時間を超えたいのちの営みが、混然一体となって見えているようです。


2021年 左の大木に溶け込んでいる美人は歌手の平原綾香。富夫君が脳梗塞から蘇りリハビリを続けているとき、たまたま宮崎で公演があり3回も出かけたという事です。そしてその天使の歌声に生きる力を呼び覚まされたと言います。それ以来、彼の絵画には、色々な場所に平原綾香が顔を出しています。



2022年 近代都市の都城市も、太古の昔は大木生い茂るジャングル、やがて人間が移り住み、都城市民会館ができ、撤去され、そして未来へ・・すべては悠久の大自然の中にある・・そういうことをこの一枚は教えてくれます。ここにも左下に愛してやまないお孫さんが、コロナ予防のマスクをつけて登場・・元気に遊びまわる筈の子供たちも我慢の生活でした。

5.「2026二紀展」開催のお知らせ

   河野画伯が2002年から出展している「2026二紀展」が国立新美術館で開催されます。「二紀会」とは、戦前の美術界の頂点であった「二科会」が戦時下の1944年に解散し、戦後再結成する際に、主張の異なる9名が分離独立して創立したものです。旧二科会の活動を一期とし、戦後新しく第2の紀元を画するという主旨のもとに毎年秋に展覧会を開催しています。現在は「美術の価値を流派の新旧に置かず、また具象、非具象を論じない」という主張を掲げて、全国で活躍する多くの美術家から共感を得て、毎回1000点以上の斬新な作品が展示される一大美術展となっています。

2026年は、10月14日~26日の間、「国立新美術館」で開催されます。勿論河野富夫画伯も出展しますので、ぜひご来展戴きたいとお誘いいたします。


2026年10月15日木曜日

16. 何故か懐かしい網走番外地

  50歳代で北海道勤務が決まった時、どうしても行きたかったのが『網走刑務所』です。今は監獄博物館ですが、「かって国内で最も厳しかった網走刑務所」を見てみたかったからです。その理由は・・若いころ、あの寡黙で正義感の強い高倉健が大好きで、理不尽な連中に我慢に我慢を重ね、ついには堪忍袋の緒が切れて『死んでもらいます』に心底惚れていました。

私は53歳で島流しになりました(笑)その背景は・・
 私の勤務した石油精製・石油化学の工場は、「運転(交替勤務)と保全(事故故障対応)が車の両輪」です。この両輪が簡素強力に機能しなければ、プラントは大きな鉄屑の塊です。
 昭和50年末、長引く不況対策として、外工事受注目的の工事会社=出光エンジニアリングが設立されました。最初は中々受注できないので、工場内の運転(興産)・保全(エンジ)と分離して、従来工場経費一括りだった保全費をエンジ元請売上げとしました。エンジ社員は本音では・・「同じ仕事なのに、従来直接運転課報告していた事故報告や工事完了報告を、一旦エンジ本社の裁可を受けて興産側に報告することになった。無駄な仕事が増え、クイックリスポンスの使命が果たせなくなった」と思いながら約20年我慢しました。・・その間バブル崩壊して、出光は2兆円超の有利子負債を抱え、ムーディーズに「投資不適格」の格付けされるという経営最難局・危機が訪れました。しかし出光の底力は社員も驚くものでした。色々な資産売却を行い経費を切り詰め、社員は給与減額、OBは企業年金減額までして2年間で有利子負債を清算するだけでなく、資本金2000億円超の一部上場会社となり経産省を始め経済界を驚かせました。
 こういう危機的状況では、創業者理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」が最優先すべきです。しかし私が所属したエンジ社長・幹部は「運転・保全別会社の現状維持方針」でした。そこで私は、直属部下と協力会社に問いました。『あなた達はどちらが仕事がしやすいですか?』その結果、
①部下40名全員=『クイックリスポンスの工場直属体制に戻してもらいたい』
②全協力会社所長=エンジ元請けは極めてやりにくい、我々元請専門業者に戻して欲しい』
この声をもとに、エンジ本社と興産本社に訴えて「運転・保全は20年前の姿に戻す一体化」が実現しました。そして私はエンジ本社出頭命令が出て、エンジ本社方針に反して行動した理由を問われました。(所謂 軍法会議です) 私は日頃現場保全員が本音で思っていることを述べ、約2時間一歩も引きませんでした。
〇出光佐三店主の理念に基き「簡素強力な組織」は当然の帰結である
〇社長・役職者の役割責任は、社員が働きやすいように行動すること
そして私は、北海道の関係会社へ異動になりました。エンジ社長・部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありませんでした。 私は北海道大好人間なので『健さんと同じ境遇になったので網走に挨拶に行かねば・・』という心境でした。網走刑務所の獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と、夫婦ともに納得でした。(汗)

1.   網走刑務所「放射状獄舎」

放射状に5つの獄舎棟が立てられ、その扇の要の部分に『看守室』があります。凶悪犯の独房だけで、逃亡は不可能なように厳重に作られていますので、少人数の看守で効率的に監視できるように作られています。

2.網走刑務所の発端
 明治維新後の日本は、内乱による国事犯や政治犯が続出したため、監獄は過剰拘禁となっていました。同時に「富国強兵」を掲げて西洋列強と肩を並べるためや、ロシア帝国による脅威を防ぐためには北海道の開拓が重要でした。そこで明治14年に「監獄則」改正を行って徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道に設置し、囚人を労働力として使役させて、北海道の防衛と開拓を進める政策を執りました。また刑を終えた後は、北海道に住み着いてくれれば良いという考えもありました。

 明治の初期当時、北海道最大の問題は内陸部に幹線道路がないことでした。そこで、太政官の金子堅太郎は、道路敷設に囚人を使うことを提案します。工事は「10数里の密林の伐採」「険岨の山嶺を平坦に」「谷地の排水」など重労働ですが『どうせ悪人どもなので、重労働で死んだら死んだで、刑務所の金が浮く』という全く非人道的な発想です。
 明治22年、道庁は「釧路集治監」に道路敷設を命令。明治24年網走に「釧路集治監網走分監」が設置され、最終的に1400人が集められました。これが網走監獄の始まりです。明治24年の記録では、集められた収容者1200人のうち、強盗628人、強姦致傷232人、放火90人、謀殺(計画殺人)74人、故殺(思わず殺した)34人となっています。

3.石北本線生田原〜金華間の常紋トンネル(S45年頃 高校同窓生撮影)

北海道の発展基盤つくりに網走刑務所の囚人が貢献したのは間違いありません。しかし戦前の囚人労役は牛馬以上に過酷でした。札幌~網走までの中央道路工事は、明治24年の1年間で網走から北見峠まで約160kmが開通し、過酷な労働条件による怪我や栄養失調が続出、死者は200人以上となったそうです。 特に石北本線生田原〜金華間にある「常紋トンネル」は難工事で死者続出、請負人が慰霊碑を渋ったことから、今でも幽霊が出ると恐れられています。写真はS45年頃のトンネル前の急坂と蒸気機関車D51ですが、ここも囚人たちが作ったものです。

4.当時のままの網走刑務所入口

本当の人間かと見まがう門番の警邏官は人形です。フォームの終わり

5.獄舎監視所


放射状に建てられた5棟の獄舎の扇の要の部分に設置されている看守部屋。ここで全ての獄舎が見通せます。全て独房で、まず脱獄は不可能ですが・・それでも不撓不屈の工夫と粘り強さで脱獄した伝説の脱獄犯
2人がいます。

①『五寸釘の寅吉』
 数々の事件を起こし投獄された寅吉は、脱獄して質屋に盗みに入った時見つかり、二階から飛び降りた際に五寸釘(訳15cm)を踏み抜きそのまま逃亡したという武勇伝から『五寸釘の寅吉』の仇名が付きました。その後も犯罪を犯し、網走刑務所に無期懲役で入獄。絶対不可能と言われた網走から2度も脱獄しています。
②昭和の脱獄王『白鳥由栄』

昭和の脱獄王『白鳥由栄』が逃亡した時の様子が蝋人形で展示されています。白鳥由栄は収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし、今日では「昭和の脱獄王」の異名で知られます。当時の看守の間で「一世を風靡した男」と評され、26年間もの服役中に4回の脱獄を決行、累計逃亡年数は3年にも及びました。
 青森、秋田刑務所で脱獄を繰り返し、難攻不落の網走刑務所に収監されました。ここでも、時折、看守の態度に腹を立てて、手錠を力任せに引きちぎり、そのため真冬に夏物の単衣一枚、夏には厚着をさせるという虐待を受けます。手錠や足錠は殆ど外されず蛆が湧いてくる対応に死を覚悟し、脱獄を決意します。 味噌汁の塩分で手錠と視察孔の釘を錆びさせた後に外し(味噌汁を視察孔の釘に吹き掛ける行為を一年間続けた)、関節を脱臼させ、監獄の天窓を頭突きで破り、煙突を引き抜いて1944年8月26日脱獄成功です。(3回目の脱獄。白鳥37歳)
 白鳥は、この後も、札幌、府中刑務所に収監。府中刑務所で白鳥は模範囚として刑に服し1961年に仮釈放。出所後は建設作業員として就労し、1979年2月、心筋梗塞で71歳の波乱の人生を閉じました。

6.上空からの網走刑務所

万が一脱獄しても、目の前には広大な網走湖、後輩地はヒグマの生息する広大な原生林・・とても逃亡できないような立地で、おとなしく真面目に服役するしかない最高に厳重な刑務所でした。

7.「食事風景」の蝋人形

食事は互いが親交を深めないように「教室スタイル」で、無言で食べる様に監視されています。(勿論全員蝋人形です)

8.『入浴の様子』の蝋人形

「ヤクザの殺人犯」など重犯罪者が多く、互いに交流(共謀)しないように、行動は全て一方通行で管理したようです。(背中の刺青が臨場感を醸し出しています)
 「次!」の号令で湯船の列は湯船を出る
 同号令で体を洗っていた列が湯船に入る
 同号令で待機中の列が洗い場で体を洗う」

9.明治時代の獄舎「三角小屋」の様子

中央の4人は食事中、食べ終わったら寝ている4人と交代です。もちろん私語は許されません。

10.明治時代の獄舎

この形、どこかで見たような・・そうです、知覧特攻基地の兵舎が全く同じだったという事に気付き愕然としました。網走の囚人は自業自得で仕方ないですが・・
終戦末期に「日本、家族を守る」と命を懸けて敵艦に体当たりした若者の最後の宿舎が、明治時代の最極悪犯獄舎と同じ作りの粗末な宿舎だったとは・・純粋な若者に対して、何と無慈悲な日本軍の幹部・上官たちだったことでしょう・・

11.「知覧特攻基地の三角兵舎」

 これは、「知覧特攻平和会館」にある、特攻隊員たちが出撃するまでの起居していた半地下式の三角兵舎を会館横の杉林に復元したものです。三角兵舎の中で隊員たちは、日の丸に寄せ書きを書いたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたりしていました。 大東亜戦争の敗戦濃厚で「比色濃厚な沖縄激戦を何とか挽回させよう!」と命を捧げる決心をした若者の最期の宿舎が、なんと明治期の網走刑務所と同じであったことに呆然としました。・・それを淡々と受け入れ、家族の命を国の命運をかけて飛び立っていった特攻隊の方々に、改めて感謝し尊敬の念を抱きます。

16. 「北の零年」:血汗涙の北海道開拓史

  私達が北海道に感動するのは、零下20~30度になる厳しい冬、ヒグマが出没する深い原生林に覆われた不毛の大地・・それを僅か3~4代前の明治期の先人達が木々を伐採し、根を掘り耕し、土壌を作り、コミュニティを築いて、今日の美しい豊かな北海道にしてきた血の滲む努力を垣間見るからです。まさに『美しい日本は、祖先が山林を切拓き、田畑を耕し、産業を興し、地域社会と精神文化を育み、時には命をかけて守って下さった長く尊い歴史の国』です。 

私達現代人の役割・使命は、その尊い先祖に感謝し、これから生まれてくる未来を担う子供たちの為に更に発展させていくことです。静内の広大な牧場に立ち『北の零年』を思う時、このことをしみじみと実感し感謝の念を抱きます。

その大事な北海道の大地が、いとも簡単に中国資本に売り渡されていく現実に限りない危機感を覚えます。あの不毛の静内原野を開拓していった明治初期の人々の苦労は、恐らく十勝平野・富良野・美瑛・真狩等も同じです。開拓者の方々の血と涙と汗で築いた並々ならぬ努力の結晶です。

それがいま、農業・酪農の後継者がなく、固定資産税が払えず中国資本に二束三文で売り渡されていく。これは中国新法で有事には中国の反乱拠点になります。微々たる固定資産税収の為に中国人に売り渡し、安全保障の脅威を内包・放置してきたわけです。それが鮮明になった今、これからは国が買い上げて国有地とし、半導体工場やAIデーターセンター建設、その膨大な電力供給源としての新型原発建設、その他の戦略的工場建設地とするのが日本の為に最善です。。そして決定打は『新副首都は札幌に決める!』です。北海道は広大な土地が安価に手に入り日本再生の起爆剤に最適です! 他の3候補地(福岡・大阪・名古屋)はすでに産業・行政が発展しており、副首都建設の恩恵を受けると第2の東京型集中都市の再来で、もう一つの目的「地方経済発展の起爆剤」にはなりません。

安全保障の面でも凶悪な中露朝の三国に睨みを利かす絶好の地で、古くから強力な陸上自衛隊第7師団が守り、万一に備えて日々訓練・鍛錬を積まれています。

心ある方は、高市首相にそのことを強く訴えましょう!

1. 『日本一の桜並木』(幅36m 長さ7km)
 明治の開拓住民が、付近の山から一本ずつ掘り起こした『蝦夷彼岸桜』をメイン通両側に植えていったものです。

7kmも続く桜並木は日本一の規模の桜並木で『20間道路』と名付けられ、静内住民の方々の誇りです。この桜並木の両側には、明治初頭(北の零年)に、この地に家臣団546名が入植し開拓した牧場が、やがて官営となり更に発展した広大な牧場が広がっています。
 私は北海道勤務の3年間、5月の花見の季節になると、必ず家内と訪れましたが、苫小牧の友人・知人達は『知っているけど行ったことはない』という無粋な者が多く、誠に勿体ないと慨嘆したものでした。(こういうところが、大事な北海道の国土の静岡県と同面積を中国人に買い占められている現状を生んでいるのかもしれません。)

2.    『静内牧場』と『日本一の桜並木=20間道路』(中段上の横一列の桜並木)

明治以降の開拓住民が、付近の山から一本ずつ掘り起こした『蝦夷彼岸桜』をメイン通両側に植えていったもので、7kmも続く桜並木は静内住民の方々の誇りです。

3.    『凌雲閣』: 戦前の迎賓館

明治中期、当牧場は御料牧場として宮中御料馬の生産、北海道産馬の改良の本務の他、日露戦役中には陸軍の軍馬を拠出していました。したがって皇族や高位高官の訪問が多く『凌雲閣』は貴賓の迎賓館として建てられました。翌年に韓国皇太子李艮殿下御臨場が予定された事が、この客舎の実現に拍車をかけました。

この目的から格式が建物の各部各所で取入れられ、高雅な二層の御殿造りとなっています。当時如何に重要であったかは 「凌雲閣」(りょううんかく)という命名に十分想像ができます。その後、数多くの名士高官が訪れ、特に大正・昭和天皇陛下が皇太子のときに行啓されました。宮中から遠く離れた牧場としてはまことに稀な事と言えるでしょう。

4.    『日本一の桜並木=20間道路』の最奥部

明治の開拓住民が、付近の山から一本ずつ掘り起こした『蝦夷彼岸桜』をメイン道路両側に植えていったものです。7kmも続く桜並木は『日本一の規模の桜並木』で、静内住民の方々の誇りです。

5.    『ゆったりと自由に育つ静内の馬たち」

この馬たちを眺めていると『せわしない人間よりも、静内の馬たちの方が、落ち着いた幸せな日々を送っている!』と痛感します。

「ふたたび現代の静内の牧場」 明治の開拓者の血の滲む苦労の結果、このように広大な『馬たちの楽園』に生まれ変わっています。

6.   新冠のハイセイコー

この静内の途中にある新冠町もまた競走馬の牧場が広がります。名馬ハイセイコーやオグリキャップもここで育ちました。また98万枚のレコードが収拾されている世界一のレコード館もぜひ訪れたい場所です。デジタル音源では味わえない柔らかな奥行きのあるレコード録音に時間を忘れてしまいます。一日過ごしても飽きないレコード館です。玄関前のハイセイコー銅像が迎えてくれます。

7-1 『北の零年』:2005年封切の映画

 明治3年5月13日に起こった淡路島:庚午事変に絡む処分により、明治政府により淡路島から北海道静内へ移住を命じられた稲田家と家臣の人々の苦労の物語です。

 元々は不毛の北海道を切り開いていったのは、明治2年、明治政府により創設された開拓使の政策により、諸藩や団体・個人による北海道開拓が始まりです。その中でも最も有名なのは、ここ新ひだか町静内への移住で、明治維新前後の徳島藩本家(佐幕)と淡路洲本城代家老であった稲田家家臣団(勤王)や、日蓮宗本門仏立講の渡辺伊平を団体とする兵庫団体の移住がきっかけです。
 維新で功績のあった洲本城代家老稲田家は、本家徳島藩と内乱(庚午事変・稲田騒動)となりました。明治新政府は稲田家の功績から、明治3年10月に北海道静内郡及び色丹島を賜り、開拓を命じ家臣団546名が先遣隊として派遣されました。・・ところが翌年『廃藩置県』この稲田家所領は没収、官有地とされ家臣団は荒野に放置されることになりました。食を失った武士、重課税に苦しむ農民たちの労苦は想像を絶する状況だったことでしょう。
 映画『北の零年』は、この稲田家家臣団(勤王)546人の移住と苦闘の史実を題材にしたものです。
小松原志乃:吉永小百合(主演)
小松原英明:渡辺謙(札幌に向かい行方不明)
アシリカ :豊川悦司(志乃を助ける謎の男)

7-2. 『淡路島から北海道に上陸した稲田家臣団』

 明治3年。庚午事変により、明治政府から北海道移住を命ぜられた淡路の稲田家主従546名。半月に及ぶ船旅の末、静内へと上陸した先遣隊は、家老・堀部賀兵衛と家臣・小松原英明(高橋)を中心に、未開の地に自分たちの国を作るべく理想と希望に燃えていました。

7-3. 『極寒の中で、英明を信じて待つ志乃・多恵』

未開の地に自分たちの国を作るべく理想と希望に燃えていた彼らの前に、様々な困難が立ちはだかります。稲はなかなか育たず、第二次移住団を乗せた船は難破、更に翌年の廃藩置県によって彼らの土地が明治政府の管轄となってしまいました。絶望の中、英明たちは自ら髷を落とし、新政府には頼らない道を選択。そして、英明は妻・志乃と娘・多恵を残し、静内でも育つ稲を求めて札幌の農園へと旅立ちました。

 しかし半年以上が経っても英明は帰らず、人々は深刻な食糧不足に見舞われます。「英明は我々を見捨てた」という風当たりは冷たい・・しかし夫を信じる彼女は、アイヌと共に暮らす謎の男・アシリカや牧畜指導者のダンらに助けられ、危機を乗り越えていきます・・

7-4 映画のワンシーン『集会所』

 厳冬期、薬売りの倉蔵(香川照之)が物資を運んで来た時の様子です。会所前に物資が積まれ、村人は生活必需品を買い求めています。倉蔵は、元稲田家の家臣でしたが、詐欺紛いの手法で荒金を稼ぎ、密かに憧れていた志乃に『お前の旦那は札幌で金持の娘と結婚して裕福に暮らしている』と伝え、「英明は忘れて俺と一緒になれ!」と迫っていきます。

7-5. 『謎の男:アシリカ』

 彼は元会津藩士。函館戦争で戦って生き残り、官軍の追っ手を避けながら、「慣れない静内の地で必死に暮らす志乃親子」を見守りながら、アイヌとしてひっそりと暮らしていました。
 そんなある日、英明が開拓使の役人として日露戦争の為の馬徴用にやって来ます。5年前、札幌に辿り着いたものの病に倒れた彼は、命を救ってくれた有力者の娘と再婚し、今は三原と名乗って新しい生活を送っていました。・・動揺を禁じえない志乃は、英明の立場を思い、ようやく軌道に乗ってきた牧場の馬を差し出す決意をします。
 ・・とその時、人々が英明の行く手を阻み、箱館戦争の残党であったアシリカこと高津政之が馬を放ちました。折しも、イナゴの大群の襲来で稲が全滅。この上、馬を召し上げられては生きる術を失ってしまいます。農民たちの命懸けの抵抗です。その気迫に押された英明は撤退を余儀なくされ、志乃たちは再び希望を胸に自分たちの国作りに挑むのでした。

7-6. 『映画のロケ地となった『夕張市鹿島地区』

 夕張市はかつて大夕張と呼ばれた炭鉱の街です。最盛期の昭和30年代には、12万人近くまで増えた人口も炭鉱閉山後は急速に過疎化が進み、現在6千人弱です。
 その後、鹿島地区は夕張シューパロダムの建設で湖底に沈むことが決まり、最後まで残っていた住民約350人も平成10年にこの地を去り無人の原野となり、映画はその時期にここをロケ地として作られました。夕張シューパロダムは、20年以上の歳月をかけて2015年に完成。鹿島地区は既に新ダムの建設で面積が拡大したシューパロ湖に沈んでいます。