「人類史上最悪の 一日死者10万人」そこまで非道になれる人類
TVも新聞も「東京大空襲の非道」を声高に報道することはありませんが、一晩で10万人を超える死者は、戦争犠牲者として人類史上で最悪の数です。あの東日本大震災の津波では2万人の人々が命を失いましたが、東京大空襲はその5倍の命が奪われました。地震や風水害の自然災害ではなく「人間が意図的に計画し 無抵抗の一般市民を標的に実行した無慈悲な人間の所業」です。
昭和20年3月10日未明、米爆撃機B29の約300機が現在の台東区、墨田区などの下町を一斉攻撃した東京大空襲。この写真は終戦直後の9月、現JR両国駅上空付近から東京湾方面を米軍が空撮したものです。
民間人を含む大量殺戮は、開戦前から計画されていました。当時の下町一帯は現在の2倍以上の1平方キロメートル当たり3万5000人という世界有数の人口密度でした。しかも密集するのは木造家屋です。米軍は江戸の大火や関東大震災を研究し、日本家屋を模した街の延焼実験まで行っていました。
そこに吹き付けたのが春先の強い北西風でした。煽られた炎は竜巻のような火災旋風を巻き起こし、午前2時すぎには台風並みの風速25メートルを記録、一夜にして27万戸、100万人を超える生活圏を焼き尽くしました。米軍はこの時期の「春一番」も予測していたとされますが、現実は机上の想定をはるかに超え、人類史上最悪の大破壊を生み出したのです。
欧州戦線最大の独ドレスデン爆撃の死者は2万5000人、ナチスのガス室は1日最大6000人。
一度に10万人以上が即死した広島の原爆投下を含め、わが国全体の空爆による犠牲者は50万人以上に及びます。今も世界各地では戦火が止みませんが、私たちが忘れてはならないのは、人類はそこまで非道になれるということです。
写真をよく見ると…… 写真右側は隅田川。中央の運河とともに数カ月前は焼死体で埋め尽くされていました。写真手前に残る民家はあえて周囲を取り壊す建物疎開によるもので、医療施設などを守る盾になりました。円形の建物は旧両国国技館。現在も使われている天皇賜杯は力士たちが燃え盛る炎の中で守り抜いたといいます。
よく見ると路上に人が行き来している。焦土から一歩を踏み出したばかりの80年前の日本人の姿です。隅田川の輝きとともに、撮影した米兵は何を思ったのでしょうか。(3月8日産経新聞 皆川豪志 記)
もう一つの写真は、銀座四丁目の歌舞伎座付近です。
焼け残った歌舞伎座の手前が、この当時の出光興産本社ビルです。真に不思議なことながら奇跡的に焼け残り、出光佐三氏は終戦後もここを拠点に戦後復興の陣頭指揮を執りました。大陸や東南アジアから800人の復員社員を「社員は家族」と一人も馘首することなく、あらゆる仕事(旧海軍タンク底油回収、ラジオ修理、牧場、印刷業・・)を見つけて糊口をしのぎました。
「この《過ちは繰返さぬ》とは、日本人が日本人に謝っている。しかし、日本人がどんな過ちを犯したというのか?」
そこで、本照寺の住職が、『過ちは繰り返しませぬ』に代わる碑文を書いていただきたいと懇願されたところ、パール博士は快く引き受けられ 次の詩を揮毫されました。
※ 【大亜細亜悲願之碑】 1952年11月5日 ラダビノード・パール
(前半略)・・抑圧されたアジア解放のため、その厳粛なる誓いに、いのち捧げた魂の上に幸あれ。 ああ真理よ あなたはわが心の中に在る。 その啓示に従って我は進む
※靖国神社にもパール判事碑があります。
「時が熱狂と偏見を和らげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう」
「東京裁判」=勝者による極東国際軍事裁判において、法と正義に対し国際法の権威たるパール判事は、揺るぎない力強いメッセージを残しました。碑文の意は、「勝者・敗者によって変動するイカサマな正義ではなく、“時の経過”と“理性による再評価”のもとで初めて真の平衡が現れる」と永遠の真理を述べています。
日本で最大は「島原の乱」37,000人、関ケ原の戦いはこれ以下です。





