2026年11月5日木曜日

16. お年寄から孫まで楽しめる登別温泉

  北海道の魅力は紅葉の絶景だけではありません。日本人が寛ぎ癒されるのは何と言っても「温泉」。その国内人気NO.1を常に争う登別温泉、ドリフの「いい湯だな」は「つめてーな、ここは北国 登別の湯」から始まります。中でも一番のお勧めは第一滝本館の大浴槽から眺める「地獄谷」 こんな贅沢はありません。(残念ながらこの絶景は男湯だけですが・・)

 登別温泉は、地獄谷火口跡から噴き出す豊富な泉源を使った温泉です。いわば休眠中の噴火口内で温泉を楽しんでいるわけで、まさに『地獄の極楽』です。・・温泉に飽きたら、近くの『登別・伊達時代村』で孫たちと忍者遊びが楽しめます。

 元々この一帯は約8万~4万5千年前まで複数の火口で火砕流を伴う大規模な噴火を繰り返しました。そして約4万年前までの活動で周囲8kmの真円火山=クッタラカルデラを形成しました。その後、湖の西側にある後輩のカルデラ火山である登別火山(日和山、大湯沼、地獄谷など)が噴気活動を続け、最近8,500年間は平均700年に一回程度の割合で水蒸気噴火が発生しています。最新の噴火は日和山—大湯沼—裏地獄火口列で発生、約200年前の活動と推定されています。

1.   その名も恐ろしい「地獄谷」

 この一帯は常時観測火山「登別火山」で、地獄谷は爆裂火口の中心部で、今も盛んに噴煙を上げています。まさに『地獄』の様相です。登別温泉の豊富な温泉泉源になっています。

2.美しい紅葉とアンバランスな地獄谷の噴煙

地獄谷は爆裂火口跡です。この噴煙から、まだまだ活発な活動を秘めた火山であることを示します。その真只中に遊歩道を設け散歩する私達人間の、何と豪胆な事か!そういう私が一番興奮して、激しい噴煙を見に行きます。

3.地獄谷をライトアップした『鬼の散歩道』

『オニが出るか、閻魔様が出るか・・このまま進んだら本当に地獄に行くのではないか・・』鬼気迫る散歩に、背中ゾクゾクです! このアングルは、あたかも、地獄から天国を見る光景ですね。地獄で苦しむ衆生は、こういう視線で天国を見ているのではないでしょうか・・私も夢の中で何度も見たような光景でした・・ということは?・・(汗)

4.日本一の「いい湯だな!」

『地獄谷の噴煙を見ながら温泉に浸る!』これ以上の贅沢は考えられません。ここは登別温泉の一等地に建つ『第一滝本館』。5つの泉質の温泉と35の浴槽がある、登別最大の温泉宿です。日帰り入湯もOKなので、別のホテルに泊まっても必ずこの第一滝本館の湯船を楽しんでください。苫小牧から1時間ですので、私たち夫婦は日帰り温泉組でした。入湯料2250円/人の元手を取ろうと、2時間くらい楽しみ、いつもふやけていました。(その後遺症で、最近皴が増えて困ります(笑)

5. 地獄谷から車で5分登った『大湯沼』

湖底から100度以上の温泉が噴き出しており湖面でも高温です。私はここに来ると、小学生のころ観た映画「赤銅鈴之助」が悪役の一本足の怪人と戦って破り、怪人が沸騰する温泉池の中に落ちていく場面を思い出します。確かこういう湯の池でした。・・子供の頃 "たけうち つなよし" の描く「赤銅鈴之助」は、私たち悪童仲間の憧れの英雄で、「ウー、ヤー、ター!」と「真空切り」や「稲妻切り」を一生懸命練習していました。中々つむじ風は起こりませんでしたが・・(笑)

そして77歳の今も、「♬ 剣を取っては日本一の 夢は大きな少年剣士 親はいないが元気な笑顔 弱い人には味方する(オウ!)頑張れ強いぞ 僕らの仲間 赤銅鈴之助 ♬」と歌うと元気が出ます。

6. 人影のない神秘的な静寂の「クッタラ湖」

この一帯を作った『クッタラカルデラ』大噴火の痕跡です。羽田空港から千歳空港に向かう途中、高度を下げ始めたころ、眼下の北海道の海岸近くに真円の湖が「クッタラ湖」で印象的です。

具多楽湖は、周囲8km、水面標高258m、最大水深148m、透明度19m、殆ど真円のカルデラ湖で、流れ込む川がなく澄み切っており、摩周湖と透明度1,2を争い、湖岸は平地がないため観光地化を阻み、大自然のままの素晴らしい景観を保っています。 元々この一帯は約8万~4万5千年前まで複数の火口で火砕流を伴う大規模な噴火を繰り返しました。そして約4万年前までの活動で周囲8kmのクッタラカルデラを形成しました。

道南旅行で道東の摩周湖に行けず残念なとき、是非このクッタラ湖を訪れて欲しいと思います。その景観や感動はほぼ同じで、摩周湖の深い霧に閉ざされて残念な思いをすることはありません。

7.登別クマ牧場

登別温泉を満喫したら、是非訪れたいのが「登別クマ牧場」です。温泉街の一角にロープウェイ駅があり山上駅に着くと、そこがクマ牧場です。沢山のヒグマが立ち上がって餌をねだるポーズが何とも可愛いくぜひ訪れたいところです。私が勤務した石油備蓄の社内旅行で来ましたが、普段厳格・真面目そうな所長・副所長が何回も餌袋を買いエサを与えている姿が微笑ましく、何枚も証拠写真を撮りました(笑)
 近年、本州ではツキノワグマ被害が頻発していますが、獰猛なヒグマでさえ隔離して飼育すればこういうふうになります。やはり捕獲隔離(または駆除)するしかないと思います。

8.『登別伊達時代村』

『登別伊達時代村』は、伊達政宗が統治した仙台藩の建物を再現。かなり大掛かりな江戸時代の町が忠実に再現されており、何となく郷愁を覚える街並みです。

「忍者かすみ屋敷、日本伝統文化劇場、大江戸劇場」などでは、アクションやパフォーマンス、コメディなどを観ることができ、「江戸屋・体験道場」ではこけしやこまの絵付けや弓矢術や手裏剣などの遊びを体験したりできます。

他には、「刀資料館や忍者資料館」などで歴史を学ぶこともできます。時代村のエンターテインメントのスタッフたちが、私達を江戸時代のロマンに誘ってくれます。

登別温泉に飽きたら、子供や孫と童心に帰って江戸時代の遊びに興じ、懐かしい日本を満喫しましょう。私は子供時代『隠密剣士』に夢中で、霧のとん兵衛、風魔小太郎が大好きでした。大学時代では、月刊誌『ガロ』掲載の忍者武芸帳(白戸三平)に夢中で、ガロの発売日は講義が上の空で身に入りませんでした。 小さな子供達もすっかり『忍者』になって楽しんでいます。吹き矢や輪投げなど昔ながらの縁日の遊びができる「遊戯館」、手裏剣の投げ方を学べる「体験道場」は子どもに特に人気です。忍者屋敷の攻防・・忍者好きの私にはたまりません! 服部半蔵、猿飛佐助、霧隠才蔵、隠密剣士、忍者武芸長・・あの世界にタイムスリップです。

15. 「人生いたるところ青山あり」

 (47歳)「子会社の係長から、いきなり人事課長?」

 私は47歳で兵庫製油所人事課長を拝命、経営危機下で「製油所閉鎖前の人事対応」がミッションでした。子会社の電気係長から、いきなり「250人製油所の閉鎖を担う人事課長」です。何という無茶苦茶人事かと唖然としました。

 昭和30年代後半、かって兵庫製油所建設時には家島漁港が建設大反対し「魚カギ」を持った漁民が大挙押し寄せて、出光社員が体を張ってピケで守り、ようやく建設できた製油所です。 佐三店主は「大阪・神戸の大消費地を控えた姫路に、徳山の次の第2番目の製油所建設が不可欠」と建設計画しましたが、地元反対で遅れ千葉の方が先に建設されました。そういう悔しさから当地の従業員は頑張り屋が多く、のちに取組んだTPM活動のレベルは極めて高く、製油所には当たり前の「トラップの蒸気」「油臭さ」は全くないため、審査員の「大島東工大教授と佐山岡山大学教授」は、「蒸気漏れ・油臭さの全くない改善日本一の製油所だ!」と絶賛していました。・・こういう立派な製油所が閉鎖となった理由は、二代目社長がRFCC装置建設を北海道に決めたからでした。重脱装置がある兵庫なら500億円で建設できるところ、重脱・RFCC全部を建設する北海道では1,500億円もかかってしまい、バブル崩壊後の経営危機の一因になりました。

 私の仕事は「姫路が大好きで、仕事仲間も最高の兵庫製油所で一生働こう」と入社した従業員と家族を、全国各地に異動させなければならない気の滅入る仕事です。「下手をすると三井三池争議の二の舞か」と覚悟して赴任しました。同時赴任した製油所トップは「部下殺し」の異名をとる凄まじいパワハラ所長でした。噂通り、直属の副所長は連続二人潰れて出社できなくなり異動になりました。私は元々子会社係長なので、虚心坦懐に仕え徐々に信頼されるようになり、やがて所長室でじっくり話相手をする唯一の存在になっていました。現場の若者が人事課に相談に来て私がいないと、女性社員は「課長は今お仕置き部屋(所長室)に入っています」と答えていたそうです。(笑) 副所長が呼ばれたときは「お前が行って代わりに話を聴いてきてくれ」と私が所長の相手をすることになっていました。

 当時入社5年の、冷静沈着、思慮深く優秀な辻君は、千葉に転勤し兵庫の何倍も大きな工場で努力して最近副所長となりました。まるで自分の事のように嬉しいニュースでした。

(53歳)『役職者使命は、部下が仕事し易い様にすること」

 47歳の新任役職者研修では、当時社長の出光裕治さんから「出光の役職者は上ではなく、下(部下)を見て仕事をせよ。部下が仕事し易い様にするのが君達の使命だ」と訓示され、これが私の役職者使命となりました。そして6年後、それを試される大試練が待ち受けていましたが、一歩も引かず組織簡素化の一端を担いました。その結果、私は北海道へ島流しになりました(笑)以下はその背景・経緯です。

 私の長年勤務した製油所・石油化学工場は、「運転(交替勤務)と保全(事故故障対応)が車の両輪」です。もし車の両輪が簡素強力に機能しなければ、プラントは、ただの大きな鉄屑です。

 昭和50年末、オイルショック後の不況対策として、外工事受注目的の工事会社=出光エンジニアリングが設立されました。新会社発足早々は、外工事は中々受注できないので、工場内の運転(興産)と保全(エンジ)とを分離して、従来工場経費一括りだった保全費をエンジ元請売上げとしました。当時分社化されたエンジ社員の本音は、こうでした。

「同じ仕事なのに、従来直接報告していた事故報告や工事完了報告を、一旦エンジ本社の裁可を受けて興産側に報告するのは無駄な仕事だ」 「クイックリスポンスの使命が果たせなくなった。」 「子会社だから今までの同僚・後輩をサン付けで呼べ? そんなバカなことできるか!」

 エンジ保全員は、そう思いながら、約20年我慢し続けた分社体制でした。

その後バブル崩壊して、出光は2兆円超の有利子負債を抱え、ムーディーズに「投資不適格」と格付けされ銀行が融資を渋るという経営危機が訪れました。しかし出光の底力は社員自身も驚くほどのものでした。色々な資産を売却し経費を切り詰め、社員は給与減額、OBは企業年金減額までして2年間で有利子負債を清算しました。更に資本金2000億円超の一部上場会社となり経産省を始め経済界を驚かせました。

 これほどの経営危機では、当然各部門は創業者理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」を徹底すべきです。しかし私が所属した子会社の社長・幹部は「現状維持の保全別会社存続方針」でした。(「本体復帰すると年間売り上げが200~300億円減となり重役ポストも少なくなる」ので、末端従業員の本音を知ろうとしませんでした)

 子会社でも社長が物事を最終決定します。一課長の私には力はありません。しかし「自分の部下たちにとって何が一番幸せか」を常に最優先するのは役職者としての責務です。そこで私は、直属部下と協力会社に『あなた達は、エンジ現状体制と興産復帰体制のどちらが仕事がしやすいですか?』と問いました。当然その結果は次の通りでした。

①部下40名全員 =クイックリスポンスの『興産直属体制に戻してもらいたい』

②全協力会社所長  =エンジ元請けは仕事が極めてやりにくいので『我々元請専門業者に戻して欲しい』

この現場の声をエンジ・興産本社に訴えて「保全の興産復帰」が実現しました。そして私はエンジ本社から出頭命令が出て、本社方針に反して行動した理由を問われました。(所謂 軍法会議です) 私は現場保全員が日頃本音で思っていることを包み隠さず述べ、約2時間一歩も引きませんでした。

〇佐三店主理念に基き「簡素強力な組織」は当然である

〇社長・役職者の役割責任は、社員が働きやすいようにすること

 そして決定権がある興産製造部長は「保全の興産復帰」を最終決断し、私は北海道の関係会社へ出向となりました。エンジ社長・部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありませんでした。

私は北海道大好人間なので『高倉健さんの映画と同じ境遇になったので、網走に挨拶に行かねば・・』と、赴任早々に網走刑務所を訪問しました。刑務所獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と、夫婦で納得でした。(汗)

【20歳代後半、初めて本社人事部に勤務した時の上司は地獄の閻魔様も恐れる出光最強の厳しい(パワハラ?)上司でした。部下で辞表を書かなかった者は一人もいません。

この上司の口癖が『24時間思考を停止するな!それが出光だ!』でした。2年間仕えましたが、その後もずっと夢の中に出てきてうなされた恐ろしい上司でした(笑) 53歳まで「出光らしい仕事漬け人生の25年間!」でした。】 

そして53歳で石油備蓄基地勤務となり、初めて週末に行楽に出かけられる人間らしい生活になりました。市内から30分の支笏湖にほぼ毎週末に出かけ、樽前山には3年間で50回以上登りました。『こういうのが本当の豊かな人生だよな!』と、しみじみ思いました。このまま定年まで7年間、この大自然の中で人間らしい生活を送るはずでしたが・・

(56歳)本社製造部で大量採用企画、動かぬ部長に愛想を尽かす】 

 備蓄勤務は僅か3年で本社製造部に呼び戻されました。新たな仕事は、「5年間停止していた大量採用の再開」=団塊の世代の補充で年200人×10年間採用再開を企画推進することでした。ところが社長説明資料をいくら作っても、部長が全く動かず、苦悩・格闘の日々が始まりました。当時会社経営再建ができたばかりで、「経営コスト最たる大量採用・人件費高騰は経営トップの逆鱗に触れる・・」と、彼は放置・保身を決め込んでいたのでしょう。目前に団塊世代退職を控えながら全く動かない部長を許せず「こんな部長の下では役割責任を果たせない」と、私は決然と早期退職届を出しました。


(57歳~)団塊の世代が出光を救い、定年制を撤廃した

ところが人事部で退職届がストップされ、当時の人事部次長(現会長)から「50歳代研修=60歳退職希望80%を、65歳勤務延長80%に意識転換させる」という重要ミッションを与えられました。そして4年間で46回、のべ600人の意識改革研修を行い、人事部次長から与えられた使命通り「65歳勤務延長者80%を達成」しました。いまでは70歳を超えても現役で働いている猛者が多数います。

 出光佐三氏は生前「出光には定年制がない」と公言されていました。しかし会社規模が大きくなって従業員が1万人前後の大所帯になってからは、60歳定年制が慣例化して「依願退職」(実態は定年制)という形式をとっていました。

 私は団塊世代の大量退社時期に直面して「大量採用と技術伝承・教育のためには団塊世代が不可欠」という人的課題を担うことになりました。その唯一の解決策が「団塊世代大半の勤務延長」でした。 出光佐三店主の「人間尊重・家族主義の出光に定年制はいらない。働けなくなったら自ら歯車から外れよ。」という出光らしい仕事観・人生観の理念に基づいた勤務延長は「実質的な定年制撤廃」という理想の実現でした。

 私の早期退職届を握りつぶし、この重要ミッションを与えてくれた当時の人事部木藤次長(現会長)に、いまも心から感謝しています。




2026年11月4日水曜日

16. 苫小牧市は 北海道活力の源泉

今回は、逆境の私を2度も救ってくれた大恩の苫小牧市の紹介です。

第1回目の勤務は42歳の時です。社運を賭けた1500億円の大建設PJがあり「この重要電気設計は私にしかできない」と宣言、人事発令もなく自主的にPJ参加し現地で大歓迎を受けました。当時私は胃癌手術後2年間戦力外で、上司は厄介払いできたと何も言いませんでした。現地PJでは毎日夜中の零時を超えるハードな仕事でしたが『人生で一度しかない大仕事』を楽しみました。そして長年特命発注の富士電機当初見積70億円を、最先端技術を数多く要求したにもかかわらず、出光初顔の東芝が29億円で落札しました。当時の寺畠エンジ社長は「安藤は生涯賃金を何回分も稼いでくれた」と言われましたが、出光は生活給なので給与アップはありませんでした(笑)私はかって厄介扱いしていた上司を見返すことができ愉快でした。

 第2回目の勤務は50歳半ば、リーマンショック後の子会社復帰問題で本社幹部と対立し「20年前から保全分社化で現場は苦しんでおり、元通り興産復帰させるべき」という私の主張が通り、元の職場仲間は無駄な仕事から解放され、本来業務に専念出来るようになりました。私は北海道の石油備蓄会社出向となりましたが、大好きな苫小牧で人間らしい生活を獲得し『人生いたるところ青山あり』を実感しました。

1.   苫小牧市の中心部

苫小牧港は、幅500m、奥行き6㎞の人工の大港湾です。元々は苫小牧港を物流拠点にして、この右側に大コンビナートが建設されるはずでしたが・・オイルショック後の長い不況で、進出予定の殆どの工場が進出を断念して、その端に大石油備蓄基地があるのみです。しかしそれでも苫小牧港は北海道物流の大拠点となり、北海道内の港湾取扱貨物量の約50 %を占めているほか、全国でも第4位の港湾取扱貨物量になっています。

中央の三角地帯にあるタンク群が出光北海道製油所、右下の海上に腕を伸ばした海上構築物が「北海道製油所 外洋シーバース」で、30万トン級のVLCCが着桟できます。

2.苫小牧上空からの写真

「間もなく千歳空港です」の機内アナウンスが入ると眼下にこの苫小牧港が確認できます。苫小牧港は、高度成長真只中の昭和38年に開港した世界初の内陸掘込港湾です。幅500m奥行き6kmの巨大な港湾で、『苫東コンビナートの入出荷港』として期待されましたが、オイルショックやバブル崩壊でコンビナート計画は中止となりました。
 新千歳空港まで車で約30分、札幌市まで車や鉄道で1時間圏内に位置し、高速道路整備で北海道全域の物流をカバーしています。北海道内の港湾取扱貨物量の約50 %を占めているほか、全国でも第4位の港湾取扱貨物量になっています。また、内航取扱貨物量において全国第1位の取扱量になっているなど、北日本で最大の国際貿易港です。

3.ウトナイ湖サンクチュアリ
 千歳空港から国道35号線を苫小牧に向け20分走ると左側にウトナイ湖が見えてきます。

 アイヌ語で「あばら骨の川の沼」という名前の通り、「ウトナイ湖」を水源として数多くの小河川が平らな湿地帯の四方へと広がっています。ウトナイ湖と苫小牧周辺の湿地帯は、260種類以上の鳥類が保護される、日本初のバードサンクチュアリでもあり、渡り鳥の中継地点としても知られています。3月から4月には白鳥も降り立つことから、この美しい渡り鳥を目にしようとバードウォッチャーや観光客が苫小牧へ数多く訪れます。実際にバードウォッチングがしたくなったら、双眼鏡や長靴レンタルができます。ラムサール条約にも登録されているウトナイ湖畔でのバードウォッチングはきっといい観光の思い出になります。

4.苫小牧発展を牽引した王子製紙

苫小牧市は『王子製紙』を抜きには語れません。延岡市の「旭化成」、周南市(徳山)の出光興産、君津市の新日鉄 etc. と同じように、王子製紙の城下町とも言えます。この苫小牧工場は、初代王子製紙により明治43年9月に操業を開始。豊富な森林資源と、支笏湖から流れ出す千歳川の水力発電で大きく発展しました。
 太平洋戦争後の占領政策によって初代王子製紙は昭和24年に解体、苫小牧工場は苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)が継承しました。その後、王子HDは春日井・米子・富岡・日南工場を傘下に収め、年商1兆9千億の業界ダントツの大企業として発展しています。この苫小牧工場は市の中心に位置する為、特に異臭対策が徹底され、低公害工場として有名です。また市内最大の『王子総合病院』や『ホテルニュー王子』その他、色々な面で市民生活向上・安定のために尽力しています。

5.『出光北海道製油所』昭和48年竣工

日石室蘭製油所閉鎖後、北海道唯一の製油所として貴重な存在です。しかし平成15年9月『ナフサタンク大火災』が発生し市民を恐怖に陥れてしまいました。 その原因は、十勝沖地震(M8)の長周期波揺れ「タンク スロッシング」により、このタンク群の右側にある3万トンのナフサタンクの浮き屋根が破壊されて大火災になったものです。石油タンク大火災は消火する術もなく、すべてのナフサが燃え尽きるまで約40時間燃え続けました。内湾を挟んだ対岸は苫小牧の中心街で「他のタンクまで延焼すると市街地まで火災が広がるのでは・・」との恐怖が広がりました。勿論苫小牧港は入港不可能となり北海道の物流が遮断されました。不可抗力の大地震が原因とは言え、コンビナートの弱点が露呈しました。 その後、タンク大火災に備えて『➀大容量泡放射砲の設置。➁スロッシングに耐える浮き屋根へ強化。➂タンクレベルを下げて運用』を、日本の全コンビナートが適用するように法改正となりました。

6.『日本一の石油備蓄』と 北共備の世界一職場

 1970年代に2度の「石油危機(オイルショック)」がありました。1973年の第4次中東戦争、1978年のイラン革命によるもので、世界的に「中東原油の供給逼迫・原油価格の高騰」に伴い、世界経済全体が大混乱に陥りました。特に中東原油が90%以上を占めていた日本経済の混乱は激しく「石油備蓄の重要性」から、『石油備蓄法』が昭和50年12月27日に制定されました。

そして昭和54年「北海道石油共同備蓄(北共備)」に11万KLタンク33基356万klが、昭和59年~63年「苫東国家石油備蓄」に57基640万kl の合計 90基900万kl の日本最大石油備蓄基地が誕生しました。この「約990万kl の備蓄」だけで、日本の全需要を28日分供給できます。なお日本全体備蓄量は約7,655万kl で、約244日(2021年3月末現在)です。

 2003年4月北共備蓄に赴任した時、社員の相互信頼、勤勉さ、改善意欲、チームワークetc. に本当に驚きました。「日本プラントメンテナンス協会の鈴木会長」は、3年に一回のTPM審査会に必ず訪れてこう褒めちぎりました。
 「この職場は世界一素晴らしい職場だ。あらゆる改善が完璧でも、3年後にはそれを超える信じられない改善がなされている。発表内容も社員の姿勢も、これ以上の職場は見たことがない!」
 当時の北共備社員は全員、会社所有バスで出勤(自家用車出勤は禁止)、正門を入ったら全社員揃って静川神社に参拝、そして玄関に整列・朝礼、輪番で「3分間スピーチ」を行います。3カ月で再び順番が来ますので、みんな色々なことを考えて披歴して感動の朝スタートとなります。これはかって親会社の出光の製油所では当たり前の朝のセレモニーでしたが、今では全くその習慣はなくなっていました。それが北共備に脈々と受け継がれていることに本当に驚き「これが出光本来の職場だ! いまや出光本体はとても敵わない!」と痛感しました。

2026年2月28日に米国・イスラエルがイラン指導者ハメネイ師など指導層爆殺で始まったイラン戦争・ホルムズ海峡封鎖では、世界中が石油高騰・経済混乱の中、高市政権は、国内初の石油備蓄放出を決定し、今もガソリン価格70円/Ⅼを維持しています。日本が世界最大の石油備蓄を保持し経済安定していることは世界中が注目し、高市首相は世界備蓄戦略を提唱し世界中から共感・支持を得ています。

7.北海道物流の拠点「苫小牧港」

苫小牧港は、高度成長真只中の昭和38年に開港した世界初の内陸掘込港湾です。幅500m奥行き6kmの巨大な港湾で『苫東コンビナートの入出荷港』として期待されましたが、オイルショックやバブル崩壊でコンビナート計画は中止となりました。 新千歳空港まで車で約30分、札幌市までトラックや鉄道による移動の1時間圏内に位置しており、高速道路などの交通網によって北海道全域の物流をカバーしています。

8.北海道海の玄関口「苫小牧フェリー発着所」

関東からは、茨木県大洗港から苫小牧まで約18時間の「サンフラワー号」が夕方19:45発、深夜便01:45発と、2便出ていて便利です。

私の2回目の苫小牧勤務は、大洗港からサンフラワー号に乗って苫小牧港到着から始まりました。苫小牧港には尊敬する下山夫婦が待っており、そのままときわ町の下山さん宅で歓迎されました。「苫小牧」は、何かと下山さんの思い出がダブります。

9.「苫小牧市科学センター」

 ここには、世界で1機しかない本物の宇宙ステーション『ミール』(予備機)が展示されており、科学好きにはたまらないスポットです。ミールは1986年2月に打ち上げられ、無重力環境で様々な実験が行われ、2001年に老朽化のため南太平洋に落下して使命を終えました。これは実際のミールの予備機として製造されたもので、すぐにでも代替打上げできた実物です。

これは『2台の宇宙往還機をドッキングした状態のミール宇宙ステーション立体図』です。

『なぜ苫小牧にミールがあるのか?』それは、2024年まで苫小牧市長を5期目務めた「岩倉博文氏」が、若いころの日本青年会議所副会頭時代にソ連から購入したためです。当時崩壊寸前だったソ連が外貨獲得の為ミールを売りに出した時、岩倉副会頭が『日本の若い世代に科学の夢を持たせたい』と購入を決めました。その2年後の1991年にソ連は崩壊、まさに危機一髪の購入でした。・・その後 岩倉博文氏は岩倉建設社長となり1998年10月に苫小牧市に寄贈、1999年12月に科学センターミール館に展示されました。素晴らしい市長です。 このミールは世界に一つしかないため、旧ソ連時代の宇宙飛行士たちも良く見学に訪れたそうです。

「ミール宇宙ステーションの操縦室」

無駄なくコンパクトに配置されています。まだコンピューターが発達していない30年前の設計とは思えない斬新な操縦室となっています。

10. 一度は行きたい苫小牧漁港の「マルトマ食堂」

苫小牧で新鮮な海鮮料理を食べたかったら「マルトマ食堂」がお勧めです。苫小牧漁港市場の近くにあるため、新鮮な旬の素材を味わえる「マルトマ丼」や、水揚げ量日本一のホッキ貝を使用した名物の「ホッキカレー」が人気です。ボリュームや安さだけでなく、地元の人が毎日通うお店として有名で観光客も多く訪れます。本来漁港関係者向けの食堂なので早朝は関係者優先です。その為早朝は一般客の行列ができて1時間待ちもあります。(なお私は「マルトマ食堂」のまわしもの・営業マンではありません 笑)



2026年11月3日火曜日

1. 若者への応援歌の目的

                Riv.20260320  (Start:20120201 )

本ブログ目的は、混迷し不安な現代を力強く生きる為の応援・助言です。特に若い皆さんが、プラス思考で行動し、実践的になって活躍し、新たな未来を切り開くために役立つ道標や、元気になる話、偉人の逸話、最新情報などについて調査紹介することです。この報文が『若い人の成長』に、また上司・先輩の皆様方の『部下・後輩指導・育成』に、少しでも役立つことができたら望外の喜びです。

 色々な切り口から、若い皆さんに役立つ話題を提供していきます。下のタイトルをクリックすると本文が出てきます。本ブログ読後感想・ご意見等ありましたら、是非次のメールアドレスにコメントください。  hidechiyo915a@gmail.com 

             【ページビュー】
1.はじめに

  • 1-5.仕事と成長と人生
  • 12.私の人生・健康、心の友 

厳しい環境の中、将来に夢を持てない若者が増えています。

・家庭では 父母が仕事で忙しくて じっくり話を聴いてくれず孤独
・学校では 目立つといじめが怖いから 本当の自分は隠す
・大人や社会は 若者の孤独感・閉塞感に 全く関心がなく忙しそうだ

 日本青少年研究所が2023年6月に行った日米中韓の高校生約12,000人対象の 『自分はダメな人間だと思うことがあるか?(Sometime I feel like a failure)』の調査結果では、日本は 78%が 『そう思う』とネガティブ回答しています。米国…61%、中国…55%、韓国…48%です。【2011年は、日本82.7%、米国52.8%、中国39.2%、韓国31.9%】 この結果から、日本の若者がダントツに閉塞感を感じ、自分に自信をもてない現実が見えてきます。 しかしこれは若者だけの責任でなく、こういう社会環境にした我々大人の責任です。

 社会矛盾や大問題を抱えた各国の若者大半がネガティブ思考です。しかし日本の若者がダントツに多く『自分はネガティブだ=約80%』の結果には違和感があります。・・特に『新型コロナ拡散源の隠蔽、ウィグル・チベット・内モンゴルのジエノサイド、南・東シナ海の強奪、台湾へ侵攻恫喝、環境大汚染、経済破綻等を隠蔽する軍事独裁国家の中国がネガティブ55%』、『核・ミサイル開発・配備を急ぐ独裁北朝鮮の脅威を軽視、恨文化で満足感謝のない韓国が48%』、「多民族・多様価値観の分断で自閉症となった米国が61%』などを考えると不自然です。

 むしろ世界一安全で豊かな日本にあっても、世界レベルの危機や困難に真直ぐに目を向け、不安や危機感や孤独感の中にある日本の若者の方が、よほどまともな感受性を持ち、世の中を改革・変革していく潜在能力・可能性があり、世界から期待される存在です。