私は北海道苫小牧に2度勤務し、姫路と共に第3の故郷となりました。(第1は宮崎県都城市、第2は千葉県市原市)
苫小牧市は人口17万人の大都市ですが、市街地のすぐ北側には 27㎢の広大な北海道大学研究林(演習林)が広がります。私は2度の北海道勤務の際、市街地北の高丘にある社宅に住んでいました。独身寮と3棟の社宅(現在は売却)、福祉施設の体育館は市民に開放され市民交流の場になっています。その社宅から10分歩けば、自然を満喫できる北大研究林です。
初めて北海道勤務したのは平成3年4月です。出光北海道製油所に重質油分解装置を建設することになり、建設PJに参加して電気基本設計を行うためです。本当は実際の建設も担当する必要があったのですが、電気設備の特殊性を理解できない上司の帰還命令があり、1年後に若手との交代人事に従わざるを得なかったのです。(彼は建設完了後愛知転勤となり、保全現場経験不足による感電事故で悲惨な重傷を負いました。「苫小牧勤務2回」のいきさつは後段で・・)
私は 2回の北海道勤務の計4年間、毎朝30分散策したあと出勤しました。春夏秋は勿論、雪深い冬もスノーブーツを履いての散策は心地よく『無心の境地で心を清め、仕事へスイッチを切り替える』そういう習慣が身についた、懐かしく有難い景色です。
1.北大研究林(演習林)の概要
北大苫小牧研究林は、明治37年、内務省が札幌農学校へ国有林の所管換えを行い「苫小牧演習林」として発足し、現在の面積は約2,700ha です。苫小牧市街地に隣接し、札幌から約60km と研究林の中では大学キャンパスから最も近い位置にあります。森林の約25%は人工林で、その他は広葉樹二次林と天然林で占められています。落葉広葉樹が優占する天然林もその多くが風害跡などに成立した林で、ほぼ全域が火山灰性土壌で覆われ、冬期は積雪が少なく土壌は深く凍結します。複数の湧水河川が流れ、大規模な湿原にも隣接しており、初夏には水芭蕉が咲き乱れます。
現在は、生物群集の維持メカニズムの解明、森林と河川の相互作用、生物遺伝子資源の保全手法の開発、森林の多目的利用と共生系のモデル作りなどを課題とした研究を行っています。
2.「苫小牧研究林」見取り図
3.研究隣中央を流れる「幌内川」
幌内川は小さな小川ですが、その両側には散歩道が整備されており、小川はところどころに淀みや池を形成しているため、水鳥・野鳥が多く、自然を愛する市民の憩いの場となっています。その苫小牧のほぼ中央を流れる小川「幌内川」に沿って北大研究林(演習林)があります。
ここでは、数多くの大規模野外操作実験や長期観測が行われています。その一方で、市街地から近い為に研究棟周辺は一般開放され市民の憩いの場ともなっています。
4.「演習林」か「研究林」か?
以前、苫小牧に住まわれていた甲府の長谷川さんから質問されましたが、現在の正式名は「研究林」です。しかし明治37年、内務省から国有林が札幌農学校に所管換を受け「苫小牧演習林」としてスタートしたことから、苫小牧市民には「演習林」が定着し、いまでもそう呼ばれています。 研究林(演習林)入り口から勇振取水場までの市道は、このような美しい紅葉の林が続きます。
5.落葉のじゅうたん
6.「小滝と下の大池」
研究林の入り口から近い、一番大きな「下の大池」に流れこむ小滝。冬は水鳥たちの楽園になります。
7.研究林事務棟の近くの「樹木園」
8.幌内川の淀みと岸辺の草紅葉
木に絡まるツタの紅葉・・堪らない自然の美しさです。
9.研究隣沿道の紅葉
この季節、研究林入り口から勇振取水場までの市道は、このような美しい紅葉に彩られます。
10. 苫小牧市の中心街地図
市街地から離れると広大な原生林ですのでヒグマが出没します。数年前に幌内川を下ったヒグマが市街地のあちこちに出没し大騒ぎになったことがあります。数日後「餌が少ない」とあきらめたのか、ヒグマは再び幌内川をさかのぼって原生林に消えていったとの事です。
11. (エピローグ①)私の初苫小牧勤務経緯・・42歳
私は平成元年9月「40歳人間ドック」で胃癌が見つかり胃全摘出手術を受けました。胃全摘出手術後腸閉塞を起こし1年後に再手術、その後1年間は戦力にならず上司から(状況人員)とお荷物扱いされました。精神が弛んでいると禅寺での座禅を勧められ、「これが出光佐三店主の家族主事・人間尊重を学んだはずの出光上司の実体か!」と心底ガッカリしました。
再手術2年後、何とか現場復帰できる身体になり上司を見返してやろうと、北海道に建設決定した重質油分解装置建設PJ(1,500億円)に、「この出光の命運をかけたBIG PJ最重要な電気設計を担当できるのは私しかいない!」と名乗り出、上司に有無を言わせず、人事発令もないのに苫小牧の現地建設PJに乗り込みました。勿論現地は大歓迎です。
そして当時の最高技術で設備設計し、5大電機メーカーの工場調査を含む徹底調査をしたうえで厳正な競争見積もりを行い、S32年徳山製油所建設以来40年間特命でズブズブの関係だった「F電機概算見積もり75億円」を打破し、最終的に国内最高技術メーカーT社に発注出来ました。T社は重電特許70%を握る国内最高の世界的メーカーで「29億円」で受注しました。何とF社の40%で世界最高技術の受変電設備が建設できました。改めて「特定会社との特命は,狎れ合い・癒着を生み、コスト高になる」ことが社内に周知されました。しかしこれは従来の癒着体質を暴露することでもあり、従来F社最優先で仕事をしてきて面子を潰された上司・先輩からは「あのクソ安藤が!」と陰口叩かれたようです。(他の人には絶対できない達成感で、痛くも痒くもないですが(笑))
建設工事は「良い設備を、安く、計画期間で無事故で仕上げることが使命」です。当時の出光エンジ社長の故寺畠さんは「安藤は生涯賃金を10回分稼いだ」と言ってくれたそうです。でも「出光は生活給の会社」なので、給与・ボーナスの加増は全くありませんでした。(少しは還元しろよ・・笑)
11. (エピローグ②)2度目の苫小牧勤務経緯・・53歳、
私の役職者ポリシーは、平成15年兵庫製油所人事課長拝命時に、出光裕治社長から訓話された「出光の役職者ミッションは、ヘッドアップせず、部下が働きやすくすること」でした。兵庫閉鎖決定はバブル崩壊後経営難に陥り、2兆円超の有利子負債処理の一環でした。その後エンジ千葉電計課長となり「工場内屋上屋解消。出光エンジの元請・子会社体制は不効率で部下が働きにくいため存続すべきでない。元々の本体体制に戻すべきだ」と主張し、部下や協力会社の声を集約して訴え、エンジ幹部の抵抗はありましたが、興産本体が決断し組織簡素化が実現しました。
この時課長職で無力な私だったので、組合のない会社で組合委員長の様な非常手段を使ったため、私は苫小牧の関係会社出向となりました。あちこちから左遷だと噂されましたが、簡素強力な体制づくりに貢献、部下が「働きやすくなった」と言ってくれたので大満足でした。
喜寿の今、当時を振り返えり「エピローグ①、②ともに、私でなければできなかったこと」と、懐かしく満足しています。










