2026年10月29日木曜日

16. 苫小牧市は 北海道活力の源泉

今回は、逆境の私を2度も救ってくれた大恩の苫小牧市の紹介です。

第1回目の勤務は40歳代前半、社運を賭けた1500億円の大建設PJがあり「この重要電気設計は私にしかできない」と宣言、人事発令もなく自主的にPJ参加し現地で大歓迎を受けました。当時私は胃癌手術後2年間戦力外で、上司は厄介払いできたと何も言いませんでした。現地PJでは毎日夜中の零時を超えるハードな仕事でしたが『人生で一度しかない大仕事』を楽しみました。

 第2回目の勤務は50歳半ば、リーマンショック後の子会社復帰問題で本社幹部と対立し「20年前から保全分社化で現場は苦しんでおり、元通り興産復帰させるべき」という私の主張が通り、元の職場仲間は無駄な仕事から解放され、本来業務に専念出来るようになりました。私は北海道の石油備蓄会社出向となりましたが、大好きな苫小牧で人間らしい生活を獲得し『人生いたるところ青山あり』を実感しました。

1.   苫小牧市の中心部

苫小牧港は、幅500m、奥行き6㎞の人工の大港湾です。元々は苫小牧港を物流拠点にして、この右側に大コンビナートが建設されるはずでしたが・・オイルショック後の長い不況で、進出予定の殆どの工場が進出を断念して、その端に大石油備蓄基地があるのみです。しかしそれでも苫小牧港は北海道物流の大拠点となり、北海道内の港湾取扱貨物量の約50 %を占めているほか、全国でも第4位の港湾取扱貨物量になっています。

中央の三角地帯にあるタンク群が出光北海道製油所、右下の海上に腕を伸ばした海上構築物が「北海道製油所 外洋シーバース」で、30万トン級のVLCCが着桟できます。

2.苫小牧上空からの写真

「間もなく千歳空港です」の機内アナウンスが入ると眼下にこの苫小牧港が確認できます。苫小牧港は、高度成長真只中の昭和38年に開港した世界初の内陸掘込港湾です。幅500m奥行き6kmの巨大な港湾で、『苫東コンビナートの入出荷港』として期待されましたが、オイルショックやバブル崩壊でコンビナート計画は中止となりました。
 新千歳空港まで車で約30分、札幌市まで車や鉄道で1時間圏内に位置し、高速道路整備で北海道全域の物流をカバーしています。北海道内の港湾取扱貨物量の約50 %を占めているほか、全国でも第4位の港湾取扱貨物量になっています。また、内航取扱貨物量において全国第1位の取扱量になっているなど、北日本で最大の国際貿易港です。

3.ウトナイ湖サンクチュアリ
 千歳空港から国道35号線を苫小牧に向け20分走ると左側にウトナイ湖が見えてきます。

 アイヌ語で「あばら骨の川の沼」という名前の通り、「ウトナイ湖」を水源として数多くの小河川が平らな湿地帯の四方へと広がっています。ウトナイ湖と苫小牧周辺の湿地帯は、260種類以上の鳥類が保護される、日本初のバードサンクチュアリでもあり、渡り鳥の中継地点としても知られています。3月から4月には白鳥も降り立つことから、この美しい渡り鳥を目にしようとバードウォッチャーや観光客が苫小牧へ数多く訪れます。実際にバードウォッチングがしたくなったら、双眼鏡や長靴レンタルができます。ラムサール条約にも登録されているウトナイ湖畔でのバードウォッチングはきっといい観光の思い出になります。

4.苫小牧発展を牽引した王子製紙

苫小牧市は『王子製紙』を抜きには語れません。延岡市の「旭化成」、周南市(徳山)の出光興産、君津市の新日鉄 etc. と同じように、王子製紙の城下町とも言えます。この苫小牧工場は、初代王子製紙により明治43年9月に操業を開始。豊富な森林資源と、支笏湖から流れ出す千歳川の水力発電で大きく発展しました。
 太平洋戦争後の占領政策によって初代王子製紙は昭和24年に解体、苫小牧工場は苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)が継承しました。その後、王子HDは春日井・米子・富岡・日南工場を傘下に収め、年商1兆9千億の業界ダントツの大企業として発展しています。この苫小牧工場は市の中心に位置する為、特に異臭対策が徹底され、低公害工場として有名です。また市内最大の『王子総合病院』や『ホテルニュー王子』その他、色々な面で市民生活向上・安定のために尽力しています。

5.『出光北海道製油所』昭和48年竣工

日石室蘭製油所閉鎖後、北海道唯一の製油所として貴重な存在です。しかし平成15年9月『ナフサタンク大火災』が発生し市民を恐怖に陥れてしまいました。 その原因は、十勝沖地震(M8)の長周期波揺れ「タンク スロッシング」により、このタンク群の右側にある3万トンのナフサタンクの浮き屋根が破壊されて大火災になったものです。石油タンク大火災は消火する術もなく、すべてのナフサが燃え尽きるまで約40時間燃え続けました。内湾を挟んだ対岸は苫小牧の中心街で「他のタンクまで延焼すると市街地まで火災が広がるのでは・・」との恐怖が広がりました。勿論苫小牧港は入港不可能となり北海道の物流が遮断されました。不可抗力の大地震が原因とは言え、コンビナートの弱点が露呈しました。 その後、タンク大火災に備えて『➀大容量泡消火器の設置。➁スロッシングに耐える浮き屋根へ強化。➂タンクレベルを下げて運用』を、日本の全コンビナートが適用するように法改正となりました。

6.『日本一の石油備蓄タンク群』と備蓄戦略
 1970年代に2度の「石油危機(オイルショック)」がありました。1973年の第4次中東戦争、1978年のイラン革命によるもので、世界的に「中東原油の供給逼迫・原油価格の高騰」に伴い、世界経済全体が大混乱に陥りました。特に中東原油が90%以上を占めていた日本経済の混乱は激しく「石油備蓄の重要性」から、『石油備蓄法』が昭和50年12月27日に制定されました。

そして昭和54年「北海道石油共同備蓄㈱ 」に11万KLタンク33基356万klが、昭和59年~63年「苫東国家石油備蓄㈱」に57基640万kl の合計 90基900万kl の日本最大石油備蓄基地が誕生しました。この「約990万kl の備蓄」だけで、日本の全需要を28日分供給できます。なお日本全体備蓄量は約7,655万kl で、約244日(2021年3月末現在)です。

2026年2月28日に米国・イスラエルがイラン指導者ハメネイ師など指導層爆殺で始まったイラン戦争・ホルムズ海峡封鎖では、世界中が石油高騰・経済混乱の中、高市政権は、国内初の石油備蓄放出を決定し、今もガソリン価格70円/Ⅼを維持しています。日本が世界最大の石油備蓄を保持し経済安定していることは世界中が注目し、高市首相は世界備蓄戦略を提唱し世界中から共感・支持を得ています。

7.北海道物流の拠点「苫小牧港」

苫小牧港は、高度成長真只中の昭和38年に開港した世界初の内陸掘込港湾です。幅500m奥行き6kmの巨大な港湾で『苫東コンビナートの入出荷港』として期待されましたが、オイルショックやバブル崩壊でコンビナート計画は中止となりました。 新千歳空港まで車で約30分、札幌市までトラックや鉄道による移動の1時間圏内に位置しており、高速道路などの交通網によって北海道全域の物流をカバーしています。

8.北海道海の玄関口「苫小牧フェリー発着所」

関東からは、茨木県大洗港から苫小牧まで約18時間の「サンフラワー号」が夕方19:45発、深夜便01:45発と、2便出ていて便利です。

私の2回目の苫小牧勤務は、大洗港からサンフラワー号に乗って苫小牧港到着から始まりました。苫小牧港には尊敬する下山夫婦が待っており、そのままときわ町の下山さん宅で歓迎されました。「苫小牧」は、何かと下山さんの思い出がダブります。

9.「苫小牧市科学センター」

 ここには、世界で1機しかない本物の宇宙ステーション『ミール』(予備機)が展示されており、科学好きにはたまらないスポットです。ミールは1986年2月に打ち上げられ、無重力環境で様々な実験が行われ、2001年に老朽化のため南太平洋に落下して使命を終えました。これは実際のミールの予備機として製造されたもので、すぐにでも代替打上げできた実物です。

これは『2台の宇宙往還機をドッキングした状態のミール宇宙ステーション立体図』です。

『なぜ苫小牧にミールがあるのか?』それは、2024年まで苫小牧市長を5期目務めた「岩倉博文氏」が、若いころの日本青年会議所副会頭時代にソ連から購入したためです。当時崩壊寸前だったソ連が外貨獲得の為ミールを売りに出した時、岩倉副会頭が『日本の若い世代に科学の夢を持たせたい』と購入を決めました。その2年後の1991年にソ連は崩壊、まさに危機一髪の購入でした。・・その後 岩倉博文氏は岩倉建設社長となり1998年10月に苫小牧市に寄贈、1999年12月に科学センターミール館に展示されました。素晴らしい市長です。 このミールは世界に一つしかないため、旧ソ連時代の宇宙飛行士たちも良く見学に訪れたそうです。

「ミール宇宙ステーションの操縦室」

無駄なくコンパクトに配置されています。まだコンピューターが発達していない30年前の設計とは思えない斬新な操縦室となっています。

10. 一度は行きたい苫小牧漁港の「マルトマ食堂」

苫小牧で新鮮な海鮮料理を食べたかったら「マルトマ食堂」がお勧めです。苫小牧漁港市場の近くにあるため、新鮮な旬の素材を味わえる「マルトマ丼」や、水揚げ量日本一のホッキ貝を使用した名物の「ホッキカレー」が人気です。ボリュームや安さだけでなく、地元の人が毎日通うお店として有名で観光客も多く訪れます。本来漁港関係者向けの食堂なので早朝は関係者優先です。その為早朝は一般客の行列ができて1時間待ちもあります。(なお私は「マルトマ食堂」のまわしもの・営業マンではありません 笑)



2026年10月28日水曜日

15. 「人生いたるところ青山あり」

 (47歳)「子会社の係長から、いきなり人事課長?」

 私は47歳で兵庫製油所人事課長を拝命、経営難局下で「製油所閉鎖前の人事対応」がミッションでした。子会社の電気係長から、いきなり「250人製油所の閉鎖を担う人事課長」です。何という無茶苦茶人事かと唖然としました。

 「姫路が大好きで、この地で一生働こう」と入社した従業員と家族を、全国各地に異動させなければならない気の滅入る仕事です。「下手をすると三井三池争議の二の舞か」と覚悟して赴任しました。同時赴任した製油所トップは「部下殺し」の異名をとる凄まじいパワハラ所長でした。噂通り、直属の副所長は連続二人潰れて出社できなくなり異動になりました。私は元々子会社係長なので、虚心坦懐に仕え徐々に信頼されるようになり、やがて所長室でじっくり話相手をする唯一の存在になっていました。現場の若者が人事課に相談に来て私がいないと、女性社員は「課長は今お仕置き部屋(所長室)に入っています」と答えていたそうです。(笑) 副所長が呼ばれたときは「お前が行って代わりに話を聴いてくれくれ」と私が所長の相手をすることになっていました。

(53歳)『役職者使命は、部下が仕事し易い様にすること」

 新任役職者研修では当時社長の出光裕治さんから「出光の役職者は上ではなく、下(部下)を見て仕事をせよ。部下が仕事し易い様にするのが君達の使命だ」と訓示され、これが私の役職者使命となりました。そして6年後、それを試される大試練が待ち受けていましたが、一歩も引かず組織簡素化の一端を担いました。その結果、私は北海道へ島流しになりました(笑)以下はその背景・経緯です。

 私の長年勤務した製油所・石油化学工場は、「運転(交替勤務)と保全(事故故障対応)が車の両輪」です。もし車の両輪が簡素強力に機能しなければ、プラントは、ただの大きな鉄屑です。

 昭和50年末、オイルショック後の不況対策として、外工事受注目的の工事会社=出光エンジニアリングが設立されました。新会社発足早々は、外工事は中々受注できないので、工場内の運転(興産)と保全(エンジ)とを分離して、従来工場経費一括りだった保全費をエンジ元請売上げとしました。当時分社化されたエンジ社員の本音は、こうでした。

「同じ仕事なのに、従来直接報告していた事故報告や工事完了報告を、一旦エンジ本社の裁可を受けて興産側に報告するのは無駄な仕事だ」 「クイックリスポンスの使命が果たせなくなった。」 「子会社だから今までの同僚・後輩をサン付けで呼べ? そんなバカなことできるか!」

 エンジ保全員は、そう思いながら、約20年我慢し続けた分社体制でした。

その後バブル崩壊して、出光は2兆円超の有利子負債を抱え、ムーディーズに「投資不適格」と格付けされ銀行が融資を渋るという経営危機が訪れました。しかし出光の底力は社員自身も驚くほどのものでした。色々な資産を売却し経費を切り詰め、社員は給与減額、OBは企業年金減額までして2年間で有利子負債を清算しました。更に資本金2000億円超の一部上場会社となり経産省を始め経済界を驚かせました。

 これほどの経営危機では、当然各部門は創業者理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」を徹底すべきです。しかし私が所属した子会社の社長・幹部は「現状維持の運転・保全別会社存続方針」でした。(「本体復帰すると年間売り上げが200~300億円減となり重役ポストも少なくなる」ので、末端従業員の本音を知ろうとしませんでした)

 子会社でも社長が物事を最終決定します。一課長の私には力はありません。しかし「自分の部下たちにとって何が一番幸せか」を常に最優先するのは役職者としての責務です。そこで私は、直属部下と協力会社に『あなた達は、エンジ現状体制と興産復帰体制のどちらが仕事がしやすいですか?』と問いました。当然その結果は次の通りでした。

①部下40名全員 =クイックリスポンスの『興産直属体制に戻してもらいたい』

②全協力会社所長  =エンジ元請けは仕事が極めてやりにくいので『我々元請専門業者に戻して欲しい』

この現場の声をエンジ・興産本社に訴えて「保全の興産復帰」が実現しました。そして私はエンジ本社から出頭命令が出て、本社方針に反して行動した理由を問われました。(所謂 軍法会議です) 私は現場保全員が日頃本音で思っていることを包み隠さず述べ、約2時間一歩も引きませんでした。

〇佐三店主理念に基き「簡素強力な組織」は当然である

〇社長・役職者の役割責任は、社員が働きやすいようにすること

 そして決定権がある興産製造部長は「保全の興産復帰」を最終決断し、私は北海道の関係会社へ出向となりました。エンジ社長・部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありませんでした。

私は北海道大好人間なので『健さんと同じ境遇になったので網走に挨拶に行かねば・・』と、赴任早々に網走刑務所を訪問しました。刑務所獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と、夫婦で納得でした。(汗)

【20歳代後半、初めて本社人事部に勤務した時の上司は地獄の閻魔様も恐れる空前絶後のパワハラ上司でした。部下で辞表を書かなかった者は一人もいません。この上司の口癖が『24時間思考を停止するな!』 でした。2年間仕えましたが、その後もずっと夢の中に出てきてうなされました(笑) 53歳まで「出光らしい仕事漬け人生の25年間!」でした。】 

そして53歳で石油備蓄基地勤務となり、初めて週末に行楽に出かけられる人間らしい生活になりました。市内から30分の支笏湖にほぼ毎週末に出かけ、樽前山には3年間で50回以上登りました。『こういうのが本当の豊かな人生だよな!』と、しみじみ思いました。このまま定年まで7年間、この大自然の中で人間らしい生活を送るはずでしたが・・

(56歳)本社製造部で大量採用企画、動かぬ部長に愛想を尽かす】 

 備蓄勤務は僅か3年で本社製造部に呼び戻されました。新たな仕事は、「5年間停止していた大量採用の再開」=団塊の世代の補充で年200人×10年間採用再開を企画推進することでした。ところが社長説明資料をいくら作っても、部長が全く動かず、苦悩・格闘の日々が始まりました。当時会社経営再建ができたばかりで、「経営コスト最たる大量採用・人件費高騰は経営トップの逆鱗に触れる・・」と、彼は放置・保身を決め込んでいたのでしょう。目前に団塊世代退職を控えながら全く動かない部長を許せず「こんな部長の下では役割責任を果たせない」と、私は決然と早期退職届を出しました。


(57歳~)団塊の世代が出光を救い、定年制を撤廃した

ところが人事部で退職届がストップされ、当時の人事部次長(現会長)から「50歳代研修=60歳退職希望80%を、65歳勤務延長80%に意識転換させる」という重要ミッションを与えられました。そして4年間で46回、のべ600人の意識改革研修を行い、人事部次長から与えられた使命通り「65歳勤務延長者80%を達成」しました。いまでは70歳を超えても現役で働いている猛者が多数います。

 出光佐三氏は生前「出光には定年制がない」と公言されていました。しかし会社規模が大きくなって従業員が1万人前後の大所帯になってからは、60歳定年制が慣例化して「依願退職」(実態は定年制)という形式をとっていました。

 私は団塊世代の大量退社時期に直面して「大量採用と技術伝承・教育のためには団塊世代が不可欠」という人的課題を担うことになりました。その唯一の解決策が「団塊世代大半の勤務延長」でした。 出光佐三店主の「人間尊重・家族主義の出光に定年制はいらない。働けなくなったら自ら歯車から外れよ。」という出光らしい仕事観・人生観の理念に基づいた勤務延長は「実質的な定年制撤廃」という理想の実現でした。

 私の早期退職届を握りつぶし、この重要ミッションを与えてくれた当時の人事部木藤次長(現会長)に、いまも心から感謝しています。




2026年10月25日日曜日

16. 『豪快で神秘的な支笏湖』

 今回は20年前、私が3年住んだ苫小牧市街から車で30分の『支笏湖の魅力』を紹介します。支笏・洞爺国立公園と命名されていますが、洞爺湖の優美で女性的な景観や国内屈指の温泉街に比べて、支笏湖は粗削りな男性的景観です。温泉も少なく大自然がそのまま残されており、四季折々の魅力にあふれています。私は中でも黄葉の支笏湖と、極寒の景色=『青々と湖水を蓄える不凍湖の支笏湖と 白く大きく聳える3兄弟火山(恵庭岳・風不死岳・樽前山)』の景観が大好きです。

1.ふたたび羽田から千歳空港に向かう苫小牧上空
 

左中段の純白の優美な山が最も新しい『樽前山1041m』、その右後ろが最も古い『風不死岳1102m』、湖の向こうが『恵庭岳1320m』3つの火山は南北に一列に並んでいるのが分かります。
 これは支笏湖カルデラ噴火の後に、南北に断層ができ、そこに同じマグマだまりから噴火した3兄弟の火山であることを示しています。

2.4万年前に支笏カルデラ大噴火

 この時の大火砕流は、札幌地区から苫小牧地区まで埋め尽くし、この当時太平洋側に流れていた石狩川を遮断し日本側へ流れ込むように変えました。

 支笏カルデラは噴火後の大規模な陥没でできた直径約12 kmの凹地で,そこに雨水がたまり支笏湖となりました。湖面の海抜は248 m,湖の最大水深は363 mで、湖底は海面よりも100m以上深いことになります。支笏湖は千歳空港から近く、その風光明媚さから、札幌圏の代表的な観光地となっています。

3.湖の向こう中央が『風不死岳1102m』

 約4万年前から火山活動が始まり、約8,500年前にマグマ水蒸気爆発、約4,500年前に水蒸気爆発が起き、その後は活動が停止して浸食がすすみ全山灌木に覆われています。風不死岳にはヒグマが生息しており、特に春先に冬眠から覚めた空腹のヒグマとの遭遇は極めて危険です。1976年6月、根曲竹のタケノコ狩りに来た4家族11人がヒグマに襲われ2名が死亡(熊に食べられていた!)という悲惨な事故が起きました。私も風不死岳には1回だけ登りましたが、それで十分だと思っています。

4.その左が最も新しい『樽前山1041m』


 約9000年前に活動が始まり、2回のプリニー式噴火により大量の火砕物噴出と火砕流が発生しました。約6000年休止の後約2500年前から3回のプリニー式噴火が発生し、火砕流、火砕サージを噴出後休止しました。 そして1667年、1739年に再び大規模なマグマ噴火が起きています。1909年(明治42年)の噴火では、山頂に大きな溶岩ドームが形成されました。写真でデベソのように盛り上がっている部分で、まるで大きな酒樽の木栓のようです。神様が「しばらく大人しくしておけ!」と、栓をしたのでしょう。きっと!

5.支笏湖対岸の『恵庭岳1320m』

約2万年前に溶岩流噴出により火山体の原型が形成、約1万5千年前に大規模なプリニー式噴火が起こり、10㎦の大量の火山灰や軽石を噴出しました。約2千年前に西側に溶岩が流れ、山麓のオコタンペ川を堰き止めオコタンペ湖を形成しました。17-18世紀には水蒸気爆発が継続、これにより山頂東部が崩壊し東西700m、南北500mの東側に開いた馬蹄形の火口が形成されました。写真でも白く噴煙が確認されている通り、また噴火する可能性があります。
 札幌冬季オリンピックでは、恵庭岳の斜面を切り開いて大回転スキーコースが作られました。『国立公園内の自然破壊』と非難する声も多かったのですが、今はすっかり元通りの原生林に戻って跡形もありません。

6.4万年前支笏カルデラ噴火後の3火山成長

 この3万年間、風不死岳・恵庭岳・樽前山の3つの大きな火山が生まれ活発な噴火を繰り返してきました。支笏湖の遥か深い地底では、大量のマグマが今も蓄積されており、樽前山の大噴火から約100年が経過した今、「ふたたび大噴火がいつ起きてもおかしくない」と備えることが必要です。

7.高い透明度の支笏湖

支笏湖は平地が少なく、温泉も小規模なため温泉街が発達せず、水質が良く澄み切っており、摩周湖と1・2を争う透明度です。この透明度を楽しもうとグラスボート、最近はカヌー・カヤックを楽しむ若者がふえています。かって雅子皇后陛下も支笏湖が大好きで、独身時代によく訪れられたそうです。

8.グラスボートからの支笏湖底

透明度が高く、この柱状節理の湖底が遠くまで見渡せます。しかし右側に目をやると、急に崖が切れ落ちており、奈落の底に落ちていくような深い闇へと繋がっています。

9.『水清ければ魚棲まず』

かって支笏湖は、その清冽な水質と、湖岸からいきなりの急崖で360mという水深から、魚は住んでいないと言われていました。しかし誰かが放流したのかもしれませんが、ヒメマスの群影が確認されるようになりました。グラスボートで毎回見られるわけではありませんが、運が良ければこのようなヒメマスの回遊と遭遇することもあります。澄み切った支笏湖で釣れたヒメマスを一度有名なそば屋さんで食べたことがありますが、『幻の美味』と噂されるだけあると感激しました。

10. 『苔の洞門』

1739年の樽前山の噴火活動によって生じた溶結凝灰岩が、土石流によって次第に浸食されることで作られた回廊状の涸れた峡谷です。 高さは約10m、エビゴケやエゾチョウチンゴケをはじめ80種以上のコケが密生している姿は幻想的で美しく、2014年8月には「日本の貴重なコケの森」(日本蘚苔類学会)に選定されました。 第1洞門(延長約420m)と第2洞門(延長約600m)がありますが、苔の洞門内部は落石や崩落の危険があるため、見学は苔の洞門入口に設置された観覧台までとなっています。

11. 支笏湖ビジターセンター近くの公園の紅葉

黄金色に輝く見事な紅葉が続く素晴らしい散歩道です。「こういう美しいところでずっと暮らしたい!」と思いますが、見事な紅葉は1週間も続きません。そういう短い命だから、ひときわ鮮やかなのでしょう。

12.同じく「支笏湖ビジターセンター近くの公園

どこもかしこも素晴らしく、何枚でも写真に撮って記録したくなりますが・・残念ながら本物の見事さは写真に写せません。

13.支笏湖から流れ出す千歳川の始点=湖畔公園

王子製紙は、この水量の多い千歳川を利用して5つの発電所を建設し、その電力で苫小牧に巨大なパルプ工場を建設しました。周囲に森林資源は豊富にあり電源も確保でき、日露戦争後の新聞紙需要拡大期でもあったため、苫小牧工場は飛躍的に発展し、また苫小牧市の発展にも大きく貢献しました。

14. 支笏湖周辺古木の「二重根」


 支笏湖に来たら必ず「支笏湖ビジターセンター」を訪れましょう。特筆すべきは、ここに展示されている「二重根」です。頻繁な樽前山噴火による火山灰で植物が枯渇する中、逞しく生き延びた古大木は深く根を張り、堆積した火山灰に栄養分がなくてもその下の土壌から養分を吸い上げて逞しく生き延びてきたのです。これは2004年9月の台風18号により、支笏湖周辺の美しい白樺林は根こそぎ倒木して全滅した時も、「二重根」の古木はびくともせず力強い生命力を証明しました。

私はのちに、出光勤務最後のミッションとして人事部主催「退職前の社員研修=50歳代研修:エバーフレッシュセミナー」を全46回約600人対象に行いました。そのとき受講生に「二重根の支笏湖の古木のようにしっかりと根を張り、生涯現役で活躍しよう!」と紹介しました。

 30歳前後から『24時間思考を停止するな!』 と追いまくられてきた出光での仕事人生でした。53歳のころ石油備蓄基地勤務となり、初めて週末に行楽に出かけられるようになり、紅葉の季節は必ず支笏湖に出かけました。『こういうのが豊かな人生だよな!』と、つくづく思いました。そのまま定年まで6年間、この大自然の中で人間らしい生活を送るはずでした、が・・

 僅か3年で本社製造部に呼び戻され、人員削減策で5年間停止していた大量採用の再開、「団塊の世代の補充で年200人×10年間採用再開」を企画推進することになりました。ところが、いくら社長説明資料を作っても、部長が全く動かず格闘地獄の日々が始まりました。当時会社経営再建ができたばかりで、経営コストの最たる「大量採用・人件費高騰は経営トップの逆鱗に触れる」と、放置するに如かずの保身を決め込んでいたのです。目前に団塊世代退職を控えながら全く動かない部長を許せず私は早期退職届を出しました。

 ところが人事部で退職届が留まり、当時の人事部次長から「50歳代研修=60歳退職希望80%を、65歳勤務延長80%に意識転換させる」という重要ミッションを与えられました。そして4年間で46回、のべ600人の意識改革研修を行い、人事部次長から与えられた使命通り「65歳勤務延長者80%を達成」しました。いまでは70歳を超えても現役で働いている猛者も多数います。

 出光佐三氏が対外的には「出光には定年制がない」と公言していましたが、現実は60歳定年制が厳然として存在し、「依願退職」という形式でお茶を濁していました。私は出光佐三店主の「働けけなくなった時に自ら歯車から外れる=実質的な定年制撤廃」という理想実現の役割を与えてくれた人部次長(現会長)に、いまも心から感謝しています。

2026年10月24日土曜日

16. インディアン水車でサケ資源保護

  最近サンマが不漁で庶民魚が高級魚になってしまいました。その原因は、中国・韓国の大型漁船が、日本へ回遊前のサンマを太平洋上で乱獲しているからで資源枯渇が危惧されます。その中国は原発処理水放流を政治問題化して、自国では10倍以上高濃度の汚染水を放流しながら「日本の海産物輸入禁止」、一方で日本沖の太平洋上でサンマ乱獲を続け「中国産」と称して中国内で食べています。こういう手前勝手な国相手の貿易は速やかに縮小し、国内消費を増やし、他の友好国と連携を強めるべきです。・・と思っていたら、高市政権になってから急に中国自ら「レアアース禁輸、渡日規制・帰国命令」など矢継ぎ早に反日施策を強化しています。お陰で傍若無人の煩い人々の来日が止まり、日本本来の静かな心穏やかな日々が戻ってきました。ただ日本近海での乱獲や怪しげな軍事・スパイ行動は強化されており、しっかりと国防を整え備える必要があります。

かって日本は、乱獲による資源枯渇をニシン漁で経験しています。明治時代から1957年まで、ニシンは北海道の水産業を支え、最盛期は年100万トン近い漁獲量を誇っていました。留萌・小樽はシーズン中 活気に溢れ、ソーラン節や小樽ニシン御殿はその頃の繁栄を今に伝えます。しかし1897年をピークにニシンの資源は消えていきました。極端な乱獲が原因と言われています。

 サケも資源枯渇の危機がありましたが、サケの『生まれた川へ遡上する習性を利用』して捕獲、採卵・孵化させて川へ放流する増殖事業で資源が復活しました。ここ千歳のインディアン水車は年間およそ20万尾のサケを捕獲し人工ふ化させて数億匹の稚魚を放流しています。(サケ遡上は9月下旬~11月中旬までの約2か月です)

1.   「千歳川を遡上するサケの大群」

秋のサケ遡上最盛期、千歳川のインディアン水車前は、このように遡上サケのラッシュ状態となります。

遡上するサケは、このインディアン水車の水路以外はブロックされて遡上できないので一網打尽です。 47年前、尊敬する下山さんに案内されて訪れた時、『サケが可哀そう。自然のままにしておけばよいのに・・』と思いましたが、下山さんに『サケ資源の確保のためには捕獲・採卵・孵化養殖・放流しかないんだ』と教えられ、日本人の知恵に心底感服しました。

「インディアン水車」は、北海道庁初代水産課長となった伊藤一隆氏が、明治19年、水産事情調査のためにアメリカに渡った際、西海岸のコロンビア川で実際に見学し、日本に紹介したのが始まりです。
 明治20年に帰国した伊藤は、自ら千歳川の調査を始め、古くからサケの天然産卵場として知られていた千歳郡烏柵舞村(うさくまいむら:現在の資源管理センター千歳支所の辺り) を、ふ化場建設の地に選定しました。そして明治21年、千歳川でサケのふ化事業が始まりました。

インディアン水車でサケを捕獲する水産事業者たち。捕獲されたサケは、生きたままトラックですぐに『サケマス孵化場』に運ばれ、採卵・受精させます。採卵採精した後の成体は、殆んど痛んでいませんので、食用として市場に出回ります。(自然に産卵地まで遡上させたサケはボロボロに傷つき、産卵・受精後は力尽き消耗しきって死滅し、とても食用にはなりません。)

2.   大人気の「インディアン水車見学」

この季節になると、遡上するサケの大群と、インディアン水車で捕獲される様子を見学する為に、このように大勢の観光客が押し寄せます。

3.   「千歳水族館」の水中観察ゾーン

千歳川の真横からサケの遡上を観察した後は「千歳水族館」で、千歳川の水中真横から遡上するサケを観察しましょう。その後は、大水槽で淡水魚たちの大遊泳を楽しみましょう。千歳空港から車で20分、北海道を秋に訪れたら、(季節外れでも)是非立ち寄りたい観光スポットです。これは千歳水族館地下1階の『水中観察ゾーン』から千歳川の中をガラス越しに見た映像です。

4. 北太平洋のサケ・マス漁獲量と放流量

 明治21年から千歳川で始まったふ化事業ですが、技術や経済的な事情から、日本のサケは200~500万匹を守る低迷期が約80年も続きます。

 ところが昭和45年を過ぎから回帰するサケの数がどんどん増えました。これに「自然の仕組みを見極める」事により達成されました。それからは5年で2倍超えの勢いで増え、現在は北海道だけでも7,000万匹に達します。しかも、以前は帰って来る率(回帰率)が1%以下だったのですが、現在は4~5%になっています。

5.   錦多峰川の鮭捕獲籠「ウライ」

インディアン水車は、川の水流で回転させてサケを捕獲しますので、千歳川のような水量の多い川でしか使えません。苫小牧市西部の錦多峰川のような小さな川では「ウライ」という方式を使っています。

苫小牧漁業協同組合の「さけ・ますふ化場」が使うウライは、川幅全部を魚が上れないようにして一部にすき間を作り、そこにつかまえるしかけをしておくことで、川を上る魚をとらえる仕組みです。 もともと、ウライはアイヌの人たちの漁法でした。 アイヌのウライは、川幅のせまい小川にくいを何本か打ちこみ、そこにヤナギの枝などをからませて作ったといいます。

6.   「錦多峰川を遡上するサケ」

海岸から約500m先に「ウライ」が仕掛けられて一網打尽に捕獲されるとも知らず、順番を守り整然と遡上します。家内と見学に行ったとき家内がしみじみと言いました。、

『人間が行列を作ったら、必ず我先にと割り込む不届き者がいるのに・・サケは割り込みもせず整然と順番通りに遡上する! 人間よりもエライ!』

7.鉄籠ウライでサケを捕獲している様子」

鉄籠内の魚は巨大な網を使ってすくい上げた後、専用のクレーンを使って川岸にある高さ約3メートルの作業台へ移動。雄、雌の選別をします。 通常1日で200~400匹を捕獲し、暫くふ化場内で飼育し、10月下旬に1回目の採卵作業を行います。 毎年11月下旬までに親魚約15,000~20,000匹を捕獲し、卵で約400~500万粒の確保を目標にしています。