2026年10月22日木曜日

16. 「たおやかな樽前山」と心の大先輩

  羽田から千歳空港に向かう途中「着陸姿勢に入りました」のアナウンスと共に、左手前方に北海道の大地が見えてきて、海岸線の近くに大きな支笏湖が確認できます。その周りの3つの大きな山が印象的です。

手前から樽前山、風不死岳、湖の向こうが恵庭岳です。支笏湖は4万年前の支笏カルデラ大噴火の名残です。その後、南北に走る割れ目から風不死火山、次いで恵庭火山、最後に樽前火山が誕生しました。一列に並んだ3つの火山は、同じ支笏カルデラの底にあるマグマから誕生した兄弟火山であることが良くわかります。

そして千歳空港に降り立つと、西遠方に印象的な山が見えます。赤茶けた大きな火山の頂上に『真黒な木栓が打ち込まれたような異様な山体」、これが「樽前山1041m」です。まるで神様が『しばらくおとなしくしておけ!』と火口に栓をしたようです。

私の北海道初体験は30歳、人事部主催の直長研修を白老研修施設で行った時です。研修終了後、苫小牧在住の尊敬する下山さんを訪ねたところ、「よく来たな、一番北海道らしいとこに行こう!」と連れて行ってもらったのが支笏湖です。

支笏湖は不凍湖で、冬の澄んだ青空よりも、さらに深く澄み切った群青色の美しい湖です。その向こうには「神々しい恵庭岳」、左手には純白のベールをまとった「純白の巨大な樽前山」が聳え立っていました。あれから47年たちますが、あの震え立つ感動は今も鮮明です。

雅子皇后陛下が独身時代、支笏湖が大好きで何回も訪れられたのが納得の美しい国立公園です。

千歳から苫小牧にかけては、4万年前の支笏カルデラ噴火の分厚い火砕流平原の上にありますので、どこからでも樽前山の奇異な山容が確認できます。

私は北海道勤務時代、樽前山を見るたびに『これが俺の新たな故郷の山だ!』と思いながら過ごしました。1041mの7合目までは車で行けるので手軽に登山でき、春は高山植物の美しい花を、夏は汗かきに、秋は紅葉と、3年間で50回以上も登りました。北海道に降り立ったら、是非車で1時間弱の「支笏湖・樽前山」に訪れましょう。「ああ、北海道に来たのだ!」と感動すること間違いなしです。

1.   樽前山は、世界でも珍しい三重式火山

約9100年前に大きな噴火と共に誕生しました。約2500年前や1667年と1739年にも大きな噴火があったことがわかっています。1739年の大噴火の際にできた火口の縁は現在の外輪山にあたります。その中はその後の噴火により埋め尽くされ、中央部には1909年の噴火により溶岩ドームが造られました。最近の噴火は1981年に起こりました。真ん中の溶岩ドームからは、数か所からゴーゴーと盛んに噴煙が出ており、雪が降っても地熱が高い為、直ぐ溶けて黒い姿に戻ります。

樽前山は1041mと低いのに、頻繁に噴火を繰り返すので、8合目以上は赤茶けた火山噴出で覆われ、まだ植物が育っていません。比較的なだらかな斜面なので、冬 雪が積もると上手なスキーヤーが、この頂上からシュプールを描く姿も見られます。(ボーゲン専門の私には羨ましい限りです。)

2.「風不死岳1,102 m」樽前山登山道から

 支笏湖カルデラ噴火のあと最初に活動を開始した側火山です。ずっと以前に活動を停止し、山頂まで樹木に覆われ、ヒグマが沢山生息しており、山菜狩りの人が襲われる事件が頻発します。美味しい「根曲り竹の筍」狩りの人が山に入るのですが「根曲り竹の筍」は冬眠から覚めたヒグマの一番のごちそうなのです。ヒグマに譲ってほしいものです。

 私はあの山容からどうしても一度登りたくて、秋口に1回だけ登りました。その頂上からの絶景は忘れられません。まるで天上から支笏湖を見下ろしている神様の様な気分に浸りました。真下には国道276号線を走る車が豆粒のようです。何度でも行きたい素晴らしい絶景ですが・・ヒグマが怖いので二度と登ろうとは思いません。

3 登山小屋から北登山道5分、突然視界が開けて絶景

標高差によって植生が異なり、湖に近い標高300~400mくらいまでは黄葉のカツラ、シラカバ、ダテカンバ等、それ以上になるとナナカマドの真っ赤な紅葉が主人公となっています。
支笏湖と千歳平原の遠望も魅力的です。

4.苫小牧から見た樽前山

『白きたおやかな峰』は北杜夫の魅力あふれる登山随行作品です。カラコルムの未踏峰ディラン峰7273mに挑んだ登山隊のドクターの視点から描かれた遠征記です。ドクトルマンボウの『青春記』『航海記』に続く『登山記』です。これが元になり魅力的な大人のメルヘン『さびしい王様』が生まれました。学生時代 北杜夫が大好きで夢中になって読みました。しかし『白きたおやかな峰』の名前が一番似合うのは、真っ白に雪化粧した樽前山ではないでしょうか。
 たおやか=姿がしなやかで優しく上品なさま

5. 樽前山は危険な活火山

今は「たおやかな美しい山」の樽前山ですが、実は国内でも危険な活火山の一つです。支笏湖カルデラの3番目の側火山として約400年前から活発な噴火活動を続けています。これは明治44年(1909年)噴火時の苫小牧から写された記録写真です。これで小規模噴火で、溶岩ドームが吹き飛ばされた後、再び現在の溶岩ドームが形成されました。小規模でもこの噴煙です。中規模、大規模の噴火は想像を絶します。

6. 「神々しい恵庭岳」 1,320m

30歳の頃、尊敬する下山さんのお陰で北海道を代表する絶景の支笏湖と3つの火山のとりこになりました。そして43歳で1年間、53歳で3年間北海道勤務となり、樽前山には気軽に50回以上登りましたが・・恵庭岳だけは、その神々しい山容から登るのが憚れました。爆裂火口の上部からは今も噴煙が確認され、山頂直下崩壊で頂上に立てないのも、神様が「見るだけにしなさい」と言っているように思えました。

しかし56歳で本社製造部への異動がきまり、「お別れに一度は登らないと!」と意を決しました。恵庭岳は典型的な成層火山で、札幌オリンピックの時に大回転の競技場に選ばれた厳しい山で延々と続く直登に難儀しました。頂上直下には「この先崩落しており立ち入り禁止」の防護柵がありましたが、そこから見下ろす支笏湖・風不死岳・樽前山の絶景は忘れられません。この写真は紋別岳山頂からの恵庭岳です。

7. 支笏湖対岸に聳える『紋別岳866m』
 

この山は 支笏カルデラの外輪山ではなく、4万年以前に活動していた古い火山です。頂上に電波中継基地があり、その保守点検用にループ状の車道が頂上まであり、比較的楽に登山でき中高年の女性登山愛好家に人気の山です。支笏湖や樽前山・風不死岳の絶景を楽しめ、中高年登山者に人気の山です。ただ自家用車の乗り入れは禁止されていますので、入り口ゲートが開いていても支笏湖畔に駐車して登山する必要があります。

8. 樽前山 溶岩ドームの向こうに羊蹄山!

山頂溶岩ドームの向こうには羊蹄山、その向こうにはニセコ連山が見えます。

山頂溶岩ドーム南側斜面上の B 噴気孔群(写真の左の噴煙)からは高温ガスが噴出し,砂礫と共にドーム斜面を約 100 m 流下する珍しい現象が確認されています。私も苫小牧市街から、夜間このあたりを遠望していると、青白い炎が揺らめいているのを何回も目撃しました。B 噴気孔群を赤外熱映像装置で観測した表面温度は「 458°C」 と極めて高温だったそうです。

9. 近くで見る溶岩ドーム

明治42年の噴火の最期に押し出てきた巨大な溶岩ドーム。「真黒な溶岩のドームに二つのツノが!」こちら側から見るとまるで悪魔が怒っているように見えます。ドーム溶岩は高さ134m,体積約2,000万立方メートルと見積られています。遠望も間近で見ても、何とも強烈な印象が残り、何回登っても飽きない火山です。私は苫小牧勤務の3年間で50回くらい登っています。

10. 樽前神社

あまりに荒々しい樽前山を鎮める為に、苫小牧市高丘に荘厳な「樽前神社」があります。ご神体は樽前山。私も正月、例大祭には必ず参拝に行きました。

 20数年前に出光が経営困難に陥った時、北海道製油所ではコストカッター所長があらゆるコスト削減に走り、危険域の保全費削減だけでなく、市民祭参加や、構内氏神様の例大祭までやめてしまいました。

 ちょうどそのころからエアフィン大火災、重脱配管噴破大火災、ナフサタンク大火災と、大事故火災が頻発し、市民から「出光は出て行け!」という厳しい声が上がりました。私はそのころ関係会社の備蓄基地総務課長で頻繁に樽前神社にお世話になりました。そのとき樽前神社宮司さんから「言いにくいことですが」と、厳しいことをしみじみと言われました。

「工場や職場に氏神様や神棚を祭り、正月や春秋例大祭を執り行うのは、所員の心を一つにして仕事の成就や安全を決意するという大きな意味があります。そういうものをすべてやめた出光さんは、それまでの”所員が心を一つにする”という大切なことをなおざりにしたのではないでしょうか。」

そして新たに赴任した所長は、真っ先に樽前山神社の公式参拝、氏神様の毎朝の礼拝、例大祭の復活、そして市民祭りへの復活を果たしました。市民祭りでは「出光さんお帰り!」の垂れ幕で暖かく迎えられました。

11.  江戸時代以降の樽前山噴火史

この100年大噴火は起きていませんが小噴火は頻発しており、中規模の噴火の可能性が高まっています。




2026年10月20日火曜日

9. 芸術に生きる学友・富夫君と作品群

国立新美術館「第79回 二紀展」 開催中!(10月14~26日)

 高校同窓の河野富夫君が、国内最大の美術展「二紀展」に、35年連続出展し続け、ついに最高栄誉の「委員推挙」を受けました。

 彼は元母校日向学院の美術教師の傍ら、2002年から120号(1900×1300)クラスの大作を制作出展し続け、今年は885名の絵画出展者のなかで最上位「第79回二紀展(2026年) 委員推挙」され展覧会場の最上位に展示されています。宮崎県からは16年ぶり3人目の快挙です。「二紀展」は「二科展」と並ぶ国内最大級の美術展で「戦前の旧二科会の活動を第一期とし、戦後新しく第二期の紀元を画する!」という壮大で意気軒高な構想で発足し発展してきました。

第79回の今年も、1階から3階まで
出展者約900名の大展覧会で、その主張通り独創的で見事な作品のオンパレードで見飽きることはありません。今回最上位の委員推挙6名の一人となった河野富夫君の作品は「ラプソディ in南郷2026」で、会場に入ると、いきなりの真正面に掲示されて目を引いていました。

富夫君の絵には、必ず隠し絵の「平原綾香」と「お孫さん」が登場します。彼は2010年(60歳)と、2019年(69歳)の2回、脳梗塞に襲われ、利き手の自由を奪われました。画家として絶望する中、平原綾香の澄んだ力強い歌声と、可愛いお孫さんがその絶望から立ち直らせ、左手で描こうと決心しました。

それ以来、従来のテーマ「聖アントニウスの誘惑」から、明るく力強い生命力あふれるテーマ「ラプソディin南郷」へと脱皮しました。

その感謝を込めて、彼の絵には天使の様な平原綾香とお孫さんが必ず登場します。また色々な動物、植物が描かれ、沢山の恐竜たちが一緒に登場して生命力溢れる楽しい絵となっています。『この世は太古の昔から現代までの魂や生命に満ち溢れている』という彼の眼には、このように世界が見えているのでしょう。「遠くからみて楽しみ、近寄って隠し絵を楽しむ」何度も楽しめる実にユニークで楽しい作品です。

今回は中央に子供達に大人気のティラノザウルスが主役になって描かれています。丁度宮崎で開催されていた恐竜展に通いつめデッサンを重ねて到達した新しい境地です。


「芸術に生きる学友・富夫君と作品群」    記:令和5年10月10日
高校卒業後50年間、顔を合わせることのなかった学友との再会は、誠に驚きの連続です。同じ高校で3年間共に過ごし、ある程度分かったつもりでいた学友が「彼は高校時代、本当はこういう事を考えていたのか!」と初めて知ることばかりでした。また「夫々が卒業後どのような人生を送ったか・・」を垣間見ることができ、自分の残りの人生充実の糧にすることができます。「ああ、自分も、あるいはこういう人生も送れたんだ!」と・・

今回は、高校卒業後美術家の道を歩き、約40年間母校の美術教師だった「河野富夫君」の半生と作品群を紹介します。

 彼はS40年学院中入学、当時は成績順に座席が決められ、常に右端の最前列で学年トップの秀才だったようです。私は高校からのつきあいで、3年間同クラスでしたが、彼はガリベンには興味のない哲学者然としていました。高校時代の成績上位は、努力家の下村君, 甲斐君, 河野修君、英人君、重文君らが占め、富夫君は私と同じようにアップダウン激しく、超然とした雰囲気を持つ大人しい性格だったので3年間話したことはありませんでした。・・そして私は宮大工学部へ、富夫君も宮大教育学部に進学し、キャンパスで数回すれ違ったくらいでした。その富夫君と再会したのは学院卒業50周年記念クラス会でした。「学院で美術の先生をしていました」という自己紹介にビックリ! ・・その彼は退職後2010年、2019年と2回脳梗塞で入院し、利き手の右が使えない後遺症のなかで今も制作活動を続けています。今回はその不屈の画家「河野富夫画伯の作品群」を紹介します。

1.「アントニウスの誘惑」シリーズ  1998年~2009年

富夫画伯は、宮崎日日新聞社が創設した宮崎県美術海外留学賞の第一回受賞者で、1997~1998の1年間イタリア留学派遣、ローマ歴史遺跡やルネッサンス美術などを学びます。そして「聖アントニウスの誘惑」を主要テーマとする取組み沢山の作品を生み出しました。「聖アントニウス」は有名な聖人で、その修行中にしばしば悪魔の誘惑にさらされて信仰心を試されました。西欧ではよく取り上げられる題材で、空想的な魔物や魔女が登場しますが、富夫画伯は、あたかも自分が聖アントニウスの試練を受けているような強烈さで私達に迫ってきます。

富夫君が描く「聖アントニウスの誘惑」は、悪魔の誘惑というよりも、この世の破滅を見せつける悪魔の脅迫のように感じます。あのおとなしい富夫君のどこにこんなエネルギーが秘められていたのでしょう!2009年のシリーズ最後の作品では、この世を亡ぼした悪魔は、全てを天空に巻き上げて拡散させます。よく見ると竜巻の中に色々な悪魔や恐竜や蛇などが混ざって瓦礫を食い荒らしているように見えます。

2002年 「どんなところにも目に見えない生きものが沢山いる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

 

2003年 「ローマのコロッセオとたくさんの生き物を組み合わせて画面を構成したいと思っています。巨大建築は構造的に生き物を感じさせます。建物の崩壊は生き物の死を連想させます。コロッセオの空間に満ちた生き物たちは、建物のエネルギーの変容かも知れません。」 

2004年 「ものは常に変化している。頑強に構築されていた、不動のように見えていた塔もまた、今変容しようとしている。その一部は翼となり天に広がり、一部は水となり滝となって地上に降り注ごうとする。不変を期待する自分と変化を待つ自分があって、どちらともつかないものの内側にあるものを描きたかったのかも知れない。」

2005年 「青い空の下、海が割れて巨大な艦橋が現われる。やがてそれは暴発しありとあらゆるものが吹き出してくる。それらは相手を求めて追いすがり追い越し待ち構えて飲みつくそうとする。攻撃をかわしたものは逆に相手をつかみ、果てへ飛び去ろうとする。・・・それらの荒々しいものたちをキャンバスに閉じこめたいと思う。」


2009年 「中庭のまわりに数本の糸杉が植えてある。数十年毎日目にしていたものだが、ある日その木肌が気になった。凹凸のある節くれだった表面はある形状を見せている。ゆるやかに時計まわりにラセンをえがく。数本の糸杉がすべてラセンをえがき頭上で大きく枝を広げる。電子顕微鏡の世界でなく気象衛星の画像でなくほんの身近なところにラセンがあった。」
 

2.脳梗塞を乗り越えて  2010年

 2010年60歳となった富夫君は脳梗塞で入院。 同じころ発生した宮崎の口蹄疫は、日本一の宮崎牛を約30万頭も殺処分する非常事態となりました。自身の不安に追打ちをかけ、誕生後60年間過ごす宮崎が未曽有の大危機です。公私ともに極限の絶望の中で、右手が使えず 慣れない左手で描きあげた渾身の傑作がこの絵です。日向灘で巨大なクジラが「こんなことに負けるな!」と大きなジャンプをしてエールを送っています。彼はこの絵で自分自身や宮崎を鼓舞するだけでなく、あらゆる人々を「フェニックス(不死鳥)のように何度も生き返れ!」と元気づけてくれています。・・当時、彼はこの絵を次のように解説しています。

「2010みやざき(堀切峠)」100F(1,620×1,303)
「自分の身の上に起きた出来事と宮崎に発生した口蹄疫の惨状を重ね合わせてこの半年を過ごした。生まれたばかりの子豚が眠ったように死んでいる。新聞の写真を見たとき、気持ちを抑えきれず紙面を破り取りちり箱へ投げ入れた。不安感がこみ上げてくる夕刻、左手で描きなぐるままにできていたのがこの絵のラフスケッチだった。おのれと宮崎の再生を込めて紺碧の日向灘をバックにしたフェニックスの風景を描いた。」 

3.平安への祈り 「ラプソディ・イン南郷」シリーズ 2011~20018

 2010年 脳梗塞の衝撃、宮崎口蹄疫、2011年新春早々新燃岳が大噴火、3月東日本大震災・大津波・・社会不安は増々大きくなっていきます。しかしその前年、人生の不安を乗り切った富夫君の心は微動だにしませんでした。彼のメインテーマは「大好きな南国宮崎の青島海岸、南郷亜熱帯植物園とそこの潜む妖精たち」になっていきます。・・彼には常人にない霊能力があるのでしょうか。・・彼はかってローマの地でこう述べています。

 「どんなところにも目に見えない生きものがたくさんいる。野原に行けば草むらや石ころの陰にひそんでいる。ローマのコロッセオを歩いても、石柱の下にアーチの暗がりにそれらが息づいていた。ここではコロッセオのいたるところに感じられた見えない彼らに、聖アントニウスの誘惑の場面を借りて演じてもらった。」

この常人にない眼差しが、南国宮崎の穏やかな大自然に向けられていきます。それが「ラプソディin南郷」の連作です。

2011「ラプソディー・イン・南郷」150F

「広い太平洋を見下ろす丘の上にある小さな亜熱帯植物園、そこに何かがあると思ってスケッチに行った。彼らは枝を伸ばし葉を茂らせ思い思いの色彩を身につけて「生」を謳歌していた。その生命力に沿うように鉛筆を滑らせ絵具を流していく。気持ちとは裏腹に指先はぎこちない動きをするが、彼らの生きる力は少しずつ画面の上に再構成されていく。渡しはキャンバスのプリンティングの中に動物を追いかけイメージを定着させる。」

2012年 「プリンティングでキャンバスを覆ってしまうと、下書きの植物たちは消えてしまい取り留めのない絵の具の模様がだだっ広く広がっているだけ。その前に立つとこれから先どうなるかと不安に襲われる。しかし、何者かがすぐにうごめき始める。アイチアカの根元に潜むのは獣脚類の仲間か?葉陰にたたずむ耳の長い人影は妖精?それともウサギのお化け?彼らは続々と亜熱帯植物の吐き出す熱気のようにキャンバスの中に満ち溢れてくる。」

2013年 「描き続けていくとますます上手くなっていくと思っていたが、そうでもないことに気付いた。中心になる植物の周りに脇役の羊歯が繁茂している。主役を引き立てるには面倒でもこの雑多に見える面々をしっかりした植物に仕立て上げなくてはならない。庭先から最適な個体を選び出し根こそぎとってきて、キャンバスの隣に据える。何度も描き直しながら名脇役へと育て上げる。役者がそろったところで幕が上がり舞台が始まる。」

2014年 「モチーフは突然向こうからやってくる。初夏のある日、良く知っている道路沿いの海外にマッコウクジラが漂着したニュースを聞いた。朝早く出かけた。それは朝日の逆光の中波打ち際に横たわっていた。時折大きな波が巨体を揺らす。スケッチを進めるうち足下に波が打ち寄せ、逃げそこなって転倒した。起き上がると全身が油にまみれ、動物の臭いに包まれる。クジラの何かに追われるように車を走らせて帰った。彼の昇天の図を描いた。

4.「 旧都城市民会館レクイエム」 シリーズ 2002年~2009年

富夫君は、2019年再び脳梗塞に襲われます。2010年1回目の時は宮崎口蹄疫と次の年に東日本大震災が発生、今回は次の年に『新型コロナ』が世界中を危機に陥れています。・・今思うに、感性の鋭い富夫君は、この人類未曽有の危機を事前に感じ取り、2度の脳梗塞になったのではないでしょうか。・・幸い2度目は比較的軽く心機一転、その頃老朽撤去が決まった「旧都城市民会館」が、彼の新たなモチーフになります。

 旧都城市民会館は1966年に建設され、当時日本発の建築運動「メタボリズム」(新陳代謝を意味する)の中心的存在だった菊竹清訓の代表的建築物です。旧都城市民会館は世界的にも有名で「存続か撤去か」で20年以上もめてきましたが、具体的活用案がなく市民アンケートでも83.5%が解体に賛成で撤去が決定しました。・・市民に愛されながら撤去されていく貴重なモニュメントに、富夫君は限りない哀惜を込めて描き続けています。 

 2019年、間もなく撤去される前の市民会館です。人間の構築物が撤去される・・それは植物や動物たちの永遠の生命の輪廻と混ざり合うこと・・そういう暖かい眼差しで富夫君は見つめています。

2020年 この年から、コロナ禍が全世界を恐怖に陥れます。しかし2度の大病を乗り越えた富夫君は微動だにしませんでした。「命あるもの、いつかは命が尽き、形あるものは、いつかは大自然に戻る・・」彼の眼には、そういう悠久の時間を超えたいのちの営みが、混然一体となって見えているようです。

2021年 左の大木に溶け込んでいる美人は歌手の平原綾香。富夫君が脳梗塞から蘇りリハビリを続けているとき、たまたま宮崎で公演があり3回も出かけたという事です。そしてその天使の歌声に生きる力を呼び覚まされたと言います。それ以来、彼の絵画には、色々な場所に平原綾香が顔を出しています。


2022年 近代都市の都城市も、太古の昔は大木生い茂るジャングル、やがて人間が移り住み、都城市民会館ができ、撤去され、そして未来へ・・すべては悠久の大自然の中にある・・そういうことをこの一枚は教えてくれます。ここにも左下に愛してやまないお孫さんが、コロナ予防のマスクをつけて登場・・元気に遊びまわる筈の子供たちも我慢の生活でした。

5.「2026二紀展」開催のお知らせ

  河野画伯が2002年から出展している「2026二紀展」が国立新美術館で開催されています。「二紀会」とは、戦前の美術界の頂点であった「二科会」が戦時下の1944年に解散し、戦後再結成する際に、主張の異なる9名が分離独立して創立したものです。旧二科会の活動を一期とし、戦後新しく第2の紀元を画するという主旨のもとに毎年秋に展覧会を開催しています。現在は「美術の価値を流派の新旧に置かず、また具象、非具象を論じない」という主張を掲げて、全国で活躍する多くの美術家から共感を得て、毎回約1000点の斬新な作品が展示される一大美術展となっています。

2026年は、10月14日~26日の間、「国立新美術館」で開催されています。勿論河野富夫画伯も出展しますので、ぜひご来展戴きたいとお誘いいたします。


2026年10月15日木曜日

16. 何故か懐かしい網走番外地

  50歳代で北海道勤務が決まった時、どうしても行きたかったのが『網走刑務所』です。今は監獄博物館ですが、「かって国内で最も厳しかった網走刑務所」を見てみたかったからです。その理由は・・若いころ、あの寡黙で正義感の強い高倉健が大好きで、理不尽な連中に我慢に我慢を重ね、ついには堪忍袋の緒が切れて『死んでもらいます』に心底惚れていました。

私は53歳で島流しになりました(笑)その背景は・・
 私の勤務した石油精製・石油化学の工場は、「運転(交替勤務)と保全(事故故障対応)が車の両輪」です。この両輪が簡素強力に機能しなければ、プラントは大きな鉄屑の塊です。
 昭和50年末、長引く不況対策として、外工事受注目的の工事会社=出光エンジニアリングが設立されました。最初は中々受注できないので、工場内の運転(興産)・保全(エンジ)と分離して、従来工場経費一括りだった保全費をエンジ元請売上げとしました。エンジ社員は本音では・・「同じ仕事なのに、従来直接運転課報告していた事故報告や工事完了報告を、一旦エンジ本社の裁可を受けて興産側に報告することになった。無駄な仕事が増え、クイックリスポンスの使命が果たせなくなった」と思いながら約20年我慢しました。・・その間バブル崩壊して、出光は2兆円超の有利子負債を抱え、ムーディーズに「投資不適格」の格付けされるという経営最難局・危機が訪れました。しかし出光の底力は社員も驚くものでした。色々な資産売却を行い経費を切り詰め、社員は給与減額、OBは企業年金減額までして2年間で有利子負債を清算するだけでなく、資本金2000億円超の一部上場会社となり経産省を始め経済界を驚かせました。
 こういう危機的状況では、創業者理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」が最優先すべきです。しかし私が所属したエンジ社長・幹部は「運転・保全別会社の現状維持方針」でした。そこで私は、直属部下と協力会社に問いました。『あなた達はどちらが仕事がしやすいですか?』その結果、
①部下40名全員=『クイックリスポンスの工場直属体制に戻してもらいたい』
②全協力会社所長=エンジ元請けは極めてやりにくい、我々元請専門業者に戻して欲しい』
この声をもとに、エンジ本社と興産本社に訴えて「運転・保全は20年前の姿に戻す一体化」が実現しました。そして私はエンジ本社出頭命令が出て、エンジ本社方針に反して行動した理由を問われました。(所謂 軍法会議です) 私は日頃現場保全員が本音で思っていることを述べ、約2時間一歩も引きませんでした。
〇出光佐三店主の理念に基き「簡素強力な組織」は当然の帰結である
〇社長・役職者の役割責任は、社員が働きやすいように行動すること
そして私は、北海道の関係会社へ異動になりました。エンジ社長・部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありませんでした。 私は北海道大好人間なので『健さんと同じ境遇になったので網走に挨拶に行かねば・・』という心境でした。網走刑務所の獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と、夫婦ともに納得でした。(汗)

1.   網走刑務所「放射状獄舎」

放射状に5つの獄舎棟が立てられ、その扇の要の部分に『看守室』があります。凶悪犯の独房だけで、逃亡は不可能なように厳重に作られていますので、少人数の看守で効率的に監視できるように作られています。

2.網走刑務所の発端
 明治維新後の日本は、内乱による国事犯や政治犯が続出したため、監獄は過剰拘禁となっていました。同時に「富国強兵」を掲げて西洋列強と肩を並べるためや、ロシア帝国による脅威を防ぐためには北海道の開拓が重要でした。そこで明治14年に「監獄則」改正を行って徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道に設置し、囚人を労働力として使役させて、北海道の防衛と開拓を進める政策を執りました。また刑を終えた後は、北海道に住み着いてくれれば良いという考えもありました。

 明治の初期当時、北海道最大の問題は内陸部に幹線道路がないことでした。そこで、太政官の金子堅太郎は、道路敷設に囚人を使うことを提案します。工事は「10数里の密林の伐採」「険岨の山嶺を平坦に」「谷地の排水」など重労働ですが『どうせ悪人どもなので、重労働で死んだら死んだで、刑務所の金が浮く』という全く非人道的な発想です。
 明治22年、道庁は「釧路集治監」に道路敷設を命令。明治24年網走に「釧路集治監網走分監」が設置され、最終的に1400人が集められました。これが網走監獄の始まりです。明治24年の記録では、集められた収容者1200人のうち、強盗628人、強姦致傷232人、放火90人、謀殺(計画殺人)74人、故殺(思わず殺した)34人となっています。

3.石北本線生田原〜金華間の常紋トンネル(S45年頃 高校同窓生撮影)

北海道の発展基盤つくりに網走刑務所の囚人が貢献したのは間違いありません。しかし戦前の囚人労役は牛馬以上に過酷でした。札幌~網走までの中央道路工事は、明治24年の1年間で網走から北見峠まで約160kmが開通し、過酷な労働条件による怪我や栄養失調が続出、死者は200人以上となったそうです。 特に石北本線生田原〜金華間にある「常紋トンネル」は難工事で死者続出、請負人が慰霊碑を渋ったことから、今でも幽霊が出ると恐れられています。写真はS45年頃のトンネル前の急坂と蒸気機関車D51ですが、ここも囚人たちが作ったものです。

4.当時のままの網走刑務所入口

本当の人間かと見まがう門番の警邏官は人形です。フォームの終わり

5.獄舎監視所


放射状に建てられた5棟の獄舎の扇の要の部分に設置されている看守部屋。ここで全ての獄舎が見通せます。全て独房で、まず脱獄は不可能ですが・・それでも不撓不屈の工夫と粘り強さで脱獄した伝説の脱獄犯
2人がいます。

①『五寸釘の寅吉』
 数々の事件を起こし投獄された寅吉は、脱獄して質屋に盗みに入った時見つかり、二階から飛び降りた際に五寸釘(訳15cm)を踏み抜きそのまま逃亡したという武勇伝から『五寸釘の寅吉』の仇名が付きました。その後も犯罪を犯し、網走刑務所に無期懲役で入獄。絶対不可能と言われた網走から2度も脱獄しています。
②昭和の脱獄王『白鳥由栄』

昭和の脱獄王『白鳥由栄』が逃亡した時の様子が蝋人形で展示されています。白鳥由栄は収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし、今日では「昭和の脱獄王」の異名で知られます。当時の看守の間で「一世を風靡した男」と評され、26年間もの服役中に4回の脱獄を決行、累計逃亡年数は3年にも及びました。
 青森、秋田刑務所で脱獄を繰り返し、難攻不落の網走刑務所に収監されました。ここでも、時折、看守の態度に腹を立てて、手錠を力任せに引きちぎり、そのため真冬に夏物の単衣一枚、夏には厚着をさせるという虐待を受けます。手錠や足錠は殆ど外されず蛆が湧いてくる対応に死を覚悟し、脱獄を決意します。 味噌汁の塩分で手錠と視察孔の釘を錆びさせた後に外し(味噌汁を視察孔の釘に吹き掛ける行為を一年間続けた)、関節を脱臼させ、監獄の天窓を頭突きで破り、煙突を引き抜いて1944年8月26日脱獄成功です。(3回目の脱獄。白鳥37歳)
 白鳥は、この後も、札幌、府中刑務所に収監。府中刑務所で白鳥は模範囚として刑に服し1961年に仮釈放。出所後は建設作業員として就労し、1979年2月、心筋梗塞で71歳の波乱の人生を閉じました。

6.上空からの網走刑務所

万が一脱獄しても、目の前には広大な網走湖、後輩地はヒグマの生息する広大な原生林・・とても逃亡できないような立地で、おとなしく真面目に服役するしかない最高に厳重な刑務所でした。

7.「食事風景」の蝋人形

食事は互いが親交を深めないように「教室スタイル」で、無言で食べる様に監視されています。(勿論全員蝋人形です)

8.『入浴の様子』の蝋人形

「ヤクザの殺人犯」など重犯罪者が多く、互いに交流(共謀)しないように、行動は全て一方通行で管理したようです。(背中の刺青が臨場感を醸し出しています)
 「次!」の号令で湯船の列は湯船を出る
 同号令で体を洗っていた列が湯船に入る
 同号令で待機中の列が洗い場で体を洗う」

9.明治時代の獄舎「三角小屋」の様子

中央の4人は食事中、食べ終わったら寝ている4人と交代です。もちろん私語は許されません。

10.明治時代の獄舎

この形、どこかで見たような・・そうです、知覧特攻基地の兵舎が全く同じだったという事に気付き愕然としました。網走の囚人は自業自得で仕方ないですが・・
終戦末期に「日本、家族を守る」と命を懸けて敵艦に体当たりした若者の最後の宿舎が、明治時代の最極悪犯獄舎と同じ作りの粗末な宿舎だったとは・・純粋な若者に対して、何と無慈悲な日本軍の幹部・上官たちだったことでしょう・・

11.「知覧特攻基地の三角兵舎」

 これは、「知覧特攻平和会館」にある、特攻隊員たちが出撃するまでの起居していた半地下式の三角兵舎を会館横の杉林に復元したものです。三角兵舎の中で隊員たちは、日の丸に寄せ書きを書いたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたりしていました。 大東亜戦争の敗戦濃厚で「比色濃厚な沖縄激戦を何とか挽回させよう!」と命を捧げる決心をした若者の最期の宿舎が、なんと明治期の網走刑務所と同じであったことに呆然としました。・・それを淡々と受け入れ、家族の命を国の命運をかけて飛び立っていった特攻隊の方々に、改めて感謝し尊敬の念を抱きます。