2026年11月8日日曜日

9. 萩原政人君の真摯な人生に学ぶ

  萩原君59歳の旅立ちから10年、 元職場仲間6人で墓参しました。

 史上初女性の高市首相が登場し1年、日本中に活気が出てきました。 国のトップが「働いて働いて働きぬいていきます!」と力強く宣言、その言葉通りトランプも習近平にも臆することなく堂々と渡り合い、諸悪の根源だった公明党が離脱して自民・維新の会の共闘で先の衆議院選挙では350名の圧倒的支持を得て、特別国会では選挙公約重要法案と次々と可決成立させ、「国力充実、世界から尊敬される日本」へと力強く牽引しています。 

日本人は、元来「働くことに喜びを持つ国民」です。近年「楽して働かず、人の為でなく自分の為だけ、補助金は欲しい、悪いのは全て政府」とする他責・自己中が蔓延ってきました。しかし高市政権はそういう暗雲を吹き飛ばし、政権1年目にして支持率は65%、若者に限れば80%以上を堅持しています。

私達出光興産に勤務したものは、佐三店主から 「一生働け! ”働く” とは、人の為に動くという意味、傍(はた:周囲)を楽にすることだ」 と教わり、その代表選手の一人が「萩原政人君」でした。

 萩原君は高度成長末期のS51年入社、先輩20人の職場で最年少状態が30年以上続きました。平成20年代になり世代交代で漸く新人が入社し始め、構造不況下の人件費削減のために10数名となった極めて困難な時代「この難しい状況のリーダーは萩原君しかいない!」 と、先輩達を率いる電気係長に抜擢されました。使命感が強く仕事熱心で人間的魅力にあふれ、甲府出身であることから、私は密かに 『現代の武田信玄!』 と尊敬していました。

 これは平成9年6月、以前電気係長だった山口輝昭さんが退職後タンク清掃会社を設立、出光エンジ事務所に来訪された時の写真です。(山口さんも今年10月旅立たれました。合掌)
 この時萩ちゃん40歳の大ベテランですが、それまで後輩の採用はなく、22年目の「最若手社員」でした💦 (左から、竹内君41歳、萩ちゃん40歳、山口さん60歳、山田君44歳、森木君41歳)・・山口さんは親父のような存在で、部下の実家近くに出張や旅行で行くと、必ず部下の実家訪問され、ご両親に「元気に頑張っていますよ!」と近況や活躍状況を報告されました。そういう家庭的な職場の中で萩ちゃんは育ち実力をつけていきました。

私は平成5~9年の5年間千葉電気係長でしたが、電気係員として経験が全くなく、現場作業のできない係長でした。そういう私の片腕となってバックアップしてくれたのが若い萩原君でした。 工場は停電で全装置が停止します。私の係長5年間の間でも様々な全停電危機状況がありました。 

1.    製油所工場変電所 低圧盤制御基板焼損対応

その一つが平成6年6月、係長1年目の「FCC変電所の低圧盤プリント基板の焼損事故」でした。メーカー耐熱設計不良によるもので、同じ基盤が製油所工場全体で2700台に使われており、これらが一斉に焼損すると製油所・工場すべてが停止し、メーカー対応も不可能で生産再開に1~2年はかかります。「このままでは 出光最大の生産拠点が長期間機能しなくなる!」 という私の75年人生で最大の危機でした。今思い出しても身の毛がよだちます。

「現場経験のない私が電気係長となったのは、この重大試練に対処せよという天の采配だ!」と覚悟しました。何より心強いのは、萩原君たち職場仲間が固く結束していることでした。

 本件は、別途詳しく報告しますが、係長の私はメーカー(明電舎)の重役と協議を重ねて緊急で新製品を設計製作させ、1年後のSDM(定期補修工事)1カ月で2700台を一気に交換する工事段取りを進めました。その工事監督・最終設定確認は千葉だけでは到底対応できないので、徳山・兵庫・愛知・北海道の電気係から6名の応援を出してもらい何とかクリアできました。この6名が「二度と千葉には応援に来たくない!」と悲鳴を上げるほどの繊細でハードな工事でした。この6人への工事手順説明・バックアップを精力的に務めたのが萩原君で、彼の行き届いた仕事に助けられ本当に心強く思いました。

2.    台風暴風雨による変電所雨漏れ多発危機

もう一つが、平成8年8月台風5号の大雨による変電所建屋の雨漏れ多発トラブルでした。30か所以上ある二次変電所の10か所で雨漏れが発生したのです。

中でもHD(3)変電所はひどく、天井から滝のような雨漏れがあり直流盤が水浸しとなりプラント停止したのです。同様の危険性が全変電所で危惧されました。中でも萩原君が担当するPP変電所は電気設備が多く、同様の停電が起きたら会社に与える損害は膨大となります。・・そう思いながらPP変電所に確認に行くと天井からの雨漏りが始まっていましたが、すでにブルーシートが被せてありました。そして萩原君が「PP変電所は危険予知して対策を進めていましたから大丈夫です。ほかの変電所担当者を支援してください。私も後から応援に行きます」と言うのです。私は「この危機的状況にも動ぜず 何と凄い男だ!」と心から感服しました。

現代社会において「電気」は便利で欠かせないものですが、技術理論は専門的過ぎ、取扱いは極めて繊細で難しく、一般社会 とりわけ工場の運転課からは常日頃「電気は空気や水と同じように存在して当然」と思われています。従って電気トラブルが起きるたびに「何やっている!」と激しく非難される 誠に損な見返りの少ない職種です。しかしそれを不満に思う電気担当者は一人もいません。そういう重要な技術分野であるからこそ、人に理解されずとも「電気トラブル・故障ゼロ」を自らに課し、人知れず黙々と努力を積み重ねる「求道者のようなサムライ人生が、電気係員の役割使命」なのです。

私は僅か5年間の電気係長で、そのあと兵庫製油所人事課長となり電気現場から離れました。しかし萩原君はじめ電気係員は、入社以来40年(今では70歳まで50年以上)、こういう大変な仕事に対処しています。それだからこそ会社を辞めて10数年経過した今も、再会すると現役時代そのままの率直な会話がはずみます。


 萩ちゃんは平成28年(2016)11月5日、59歳の働き盛りに突然逝去しました。『何故?まだまだこれからの人生なのに!』 と本当に驚き残念でした。そして告別式の奥様の話で、改めて 『本当に偉大な男だった!』 と驚嘆しました。彼は末期がんで死期を悟り、死後に家族に迷惑のかからないよう 永眠するお寺と葬儀段取と樹木葬を決めて旅立ったのです! 何という見事な覚悟!何という夫婦愛・家族愛でしょう!

かっての同僚・友人が毎年墓参し10年目になります。今年も6名参加し墓標の周りに花を植え供養しました。今年の墓参も『私達も潔く思いやり深い萩ちゃんのような人生を目指して頑張るよ!』と誓いあいました。

『萩ちゃん、この配置でいいかな?』
『ありがとうございます。皆さんの温かい気持ちが伝わってきますよ!』
ここに来ると、昔のままの楽しい会話ができます。確かに彼は私達とともにいるのを感じます。


萩ちゃんの樹木葬墓標を、心づくしのパンジービオラで囲みました。
墓標周りは前日奥様が植えられたもの。私達「萩ちゃんを囲む会は、その周りを囲むようにビオラを10株植えました。・・『萩ちゃんのお陰でみんな集まれたよ。本当なら退職後みんなバラバラだったはず。こうやってみんなが顔を合わせられるのは萩ちゃんのお陰だ。君は本当に凄い奴だ!』
『俺たちは、いつまでも萩ちゃんと一緒だよ』

『いずれ、オレ達もそちらに行くけどその時も仲良く楽しく一緒に過ごそう!』『萩ちゃん、今年も来たぞ』 いつもは寡黙で不愛想に見える田村君ですが、本当は優しい心暖かい後輩思いの男です。 職場仲間を大事にする思いは人一倍で、今年も50ccバイクで駆けつけてくれました。(写真左手前)

位牌安置された礼拝堂参拝
位牌が多いので、従来は萩ちゃんがどこにいるのか分からず、中央の釈迦牟尼像をお参りしていました。

一昨年、浅野さんが住職さんに聴いて、萩ちゃんの位牌の位置が分かったため、ようやくその前で祈りを捧げることができました。

「輝雲政光信士」いかにも武田武士のような、輝く誇り高い生涯を送った萩原政人君らしい戒名です。(東ーG01 上から7番目)
「萩ちゃんを偲んでお茶で献杯」 
「退職後も、懐かしい仲間と顔を合わせられるのも、萩ちゃんが引合わせてくれるんだよね、ありがとう!」 
左から重永君(S47)、浅野さん(S46)、田村君(S47)、右手前から新生君(S47)、山田君(S47)




千葉県袖ケ浦市の山寺、曹洞宗 瓦谷山真光寺は、弘治2年(1556年)9月、かって上総の高野山と言われた真如寺の八世、鷹山厳召大和尚により開山されました。「瓦谷山」という山号は、当地に平安時代の瓦や土器が出土したことから来ています。
釈迦牟尼をご本尊とし、福井の永平寺、横浜鶴見の總持寺の両大本山を信仰と修行の中心においています。教義は「日常の生活の中に悟りがある」という教えで、威儀即仏法とも修証一如とも言い表されます。

2026年11月7日土曜日

16. 「冬の可愛いお友達」北大研究林

  5年前、家内と北大研究林に行きました。もうすっかり冬枯れの風景で、この景色が6か月も続きます。20数年前の苫小牧勤務時代、エサのない季節には、リスや小鳥たちは優しい人々の手から直接エサをついばむほどに人と仲良しでした。最近は感染症予防で手からの餌やりはしないよう立看板があります。この記録写真は20数年前の苫小牧勤務時代のものです。

 北大研究林の職員の方々は、森の管理だけでなく、そこに生息する動物たちも大切に守っています。特に餌の少ない積雪期の為に『小鳥やリスの餌台』をあちこちに設置して毎日ヒマワリの種などを与えておられます。そのため小鳥たちは人間への警戒心を段々持たなくなり、当時、手の上のエサを直接ついばむようになりました。・・そして私達が散歩して手のひらに餌をのせて佇んでいると、すぐに小鳥たちが集まりました。以前東京から来た娘を連れて行くと、目を丸くしながら感動し、餌やりを楽しみました。

1.「ヤマガラ」

 風の又三郎気分になります。 左の茶色の可愛い小鳥は特に人なつっこいヤマガラ、右は警戒心の強いシジュウカラです。この赤ジャンの手は我が愛妻です。(20数年前の写真で、いまは鳥インフルエンザなどの感染症対策で、できなくなりました。悲しい限りです。)

2.「カモ」散歩の友達

 冬の散歩には食パンが欠かせません。渡り鳥のカモが人間の姿を見ただけで寄ってきます。なにも餌を持っていないと申し訳ない気持ちになります。私の家内は社宅の奥さんと連れ立って散歩に行っていたようですが、他の奥さんはおしゃべりに夢中でカモにはあまり興味なく、カモ餌やり大好きな私と二人で至福の時を共有しました。そのため、本土に帰っても、カモを見かけると『ほらお友達だよ! なんかお尻フリフリの歩く姿もカモに似て来たね!』とからかっては怒られますが・・(笑)

3.『エゾリス』森の妖精

 その姿もしぐさも、何とも愛らしく、出会っただけで幸せな思いに包まれます。目が合ったりしたら悩殺されて、一日中脳裏を離れず大変です
 どんなポーズも愛くるしいエゾリスです!秋・冬には、耳には長い毛が延びます。春先にはこの毛が生え変わり、耳の上に立った毛がなくなります。4 - 5月に冬毛から夏毛に、10 - 11月に冬毛に生え変わります。

4.『クマゲラ』国内最大のキツツキ

 国の天然記念物で『幻の鳥』と言われ、生息数は本州に100羽程度、北海道に500羽程度と推定されています。中々お目にかかれないクマゲラですが、ここ北大研究林では毎年4~5月に営巣するクマゲラと出会う事が出来ます。
 頭のてっぺんが赤いモヒカン頭と、目玉の周りの白い縁取りが漫画のような風貌、何とも言えず可愛いです。(カラスと同じくらいの大きさですが、愛くるしさでは雲泥の差です!)
初夏、北大研究施設入口の門近くの大木に営巣すると、毎日数十人のカメラマンが押し寄せてきます。神経質な鳥なので、小さな声で話をしても、一斉に「シーッ」と叱られます。

5. 『蝦夷ライチョウ』 演習林でよく見かけます

 本州の高山帯に生息するライチョウ とは属が異なり、羽の色は変化しません。本州のライチョウは、天敵を避けて3000m級の高山にしかいなくなりましたが、北海道の蝦夷ライチョウは健在で数十メートルの飛翔もできます。

 エゾライチョウは、かつては一般的な野鳥でしたが、近年は狩猟、自然環境の変化などにより生息数が激減しています。 しかし、美味なので狩猟鳥指定から外すことに抵抗があり現在でも狩猟鳥です。
 欧米では、七面鳥が一般に浸透するまでは、クリスマスの最高のご馳走と言えば雷鳥のローストでした。その為、1920年代から1950年代には北海道のエゾライチョウは年間5~6万羽が捕獲され輸出されていました。近年の減少は、キツネによる捕食が大きな原因と言われます。
 

6. 『シマフクロウ』森の哲学者

 眼光鋭い高貴な姿は、「森の王者、哲学者、鳥のベートーベン」なんと形容したらよいのでしょう。シマフクロウは北海道にしか生息していません。その個体数は何と「160羽」です! 北海道の大地に人は552万人。人間は身体も大きく、食料もエネルギーも大量に消費するのに、シマフクロウの4万倍も多い計算になります。なぜシマフクロウはこんなに個体数が少ないのでしょう?
 食物連鎖ピラミッドの頂点に立つ動物は、利用する食物が限られ、結果として個体数が少なくなる原則があります。ゆえに元々数が少ない鳥なのですが、それでもかって北海道中に生息していたと言われます。

7.『エゾシカ』の雄姿

 北海道ではエゾシカに出会うことは珍しくありません。私が勤務した石油備蓄基地の近くの森には多数生息しており、朝夕の通勤時には必ず数頭のエゾシカ家族に出会いました。ヒグマのような獰猛さはない草食獣で、そのつぶらな瞳が堪りません。
 シカは冬眠しないので冬場のエサがなく、樹木の皮を食べて命を繋ぎます。しかし狩猟されなくなり、可愛い姿から愛護団体の活動もあり、逆に個体数が増えすぎて山林を荒らす害獣になりつつあります。ここの研究林でも、根元から胸の高さまで皮のはぎとられた痛々しい若木がたくさん見られ、複雑な気持ちにさせられます。

8. 『サケ』演習林を流れる小川:幌内川に遡上するサケ

 秋にはサケが遡上します。人工ふ化しない自然のままのサケですので、遡上数は少ないですが、散歩の途中で会った時は、しばらく「私もサケと一緒に散歩道を遡上」します。
 やがて産卵・受精を終えてボロボロになり、泳ぐ力もなく川の流れに任せて川を下ってくるサケに出会った時は、思わず「ご苦労様!」と声をかけてしまいます。

9. 『イトウ』日本に生息する最大の淡水魚

大きくなると2mになる事もあるそうです。昔はもっと大きくなると思われていたようで、『イトウが熊を襲って飲み込んだ』という伝説があるくらいです。ここ研究林にも『大きなイトウを目撃された池』があるのですが、警戒心の強いイトウなので、私は残念ながら目撃できませんでした。

 この写真は水産試験場で飼われているイトウです。



2026年11月5日木曜日

15. 「人生いたるところ青山あり」

 (47歳)「子会社の係長から、いきなり人事課長?」

 私は47歳で兵庫製油所人事課長を拝命、経営危機下で「製油所閉鎖前の人事対応」がミッションでした。子会社の電気係長から、いきなり「250人製油所の閉鎖を担う人事課長」です。何という無茶苦茶人事かと唖然としました。

昭和30年代後半、かって兵庫製油所建設時には家島漁協が建設大反対し「魚カギ」を持った漁民が大挙押し寄せて、出光社員が体を張ってピケで守り、ようやく建設できた製油所です。 佐三店主は「大阪・神戸の大消費地を控えた姫路に、徳山の次の第2番目の製油所建設が不可欠」と建設計画しましたが、地元反対で遅れ千葉の方が先に建設されました。そういう悔しさから当地の従業員は頑張り屋が多く、のちに取組んだTPM活動のレベルは極めて高く、製油所には当たり前の「蒸気トラップからの湯気」「油臭さ」は全くないため、審査員の「大島東工大教授と佐山岡山大学教授」は、「蒸気漏れ・油臭さの全くない改善日本一の製油所だ!」と絶賛していました。
 こういう立派な製油所が閉鎖となった理由は、二代目社長がRFCC装置建設を北海道に決めたからでした。重脱装置がある兵庫なら500億円で建設できるところ、重脱・RFCC全部を建設する北海道では1,500億円もかかってしまい、消費地の遠く関東へ逆送しなければならず、バブル崩壊後の経営危機の一因になりました。

 私の仕事は「姫路が大好きで、仕事仲間も最高の兵庫製油所で一生働こう」と入社した従業員と家族を、全国各地に異動させなければならない気の滅入る仕事です。「下手をすると三井三池争議の二の舞か」と覚悟して赴任しました。

(兵庫製油所員親睦の家族会=地引網&バーベキュー)

同時赴任した製油所トップは「部下殺し」の異名をとる凄まじいパワハラ所長でした。噂通り、直属の副所長は連続二人潰れて出社できなくなり異動になりました。私は元々子会社係長なので、虚心坦懐に仕え徐々に信頼されるようになり、やがて所長室でじっくり話相手をする唯一の存在になっていました。

(「灘の喧嘩祭」松原神社桟敷席の所長と秘書)
 現場の若者が人事課に相談に来て私がいないと、秘書が「人事課長は今お仕置き部屋(所長室)に入っています」と答えていたそうです。(笑) 副所長が呼ばれたときは「お前が行って代わりに話を聴いてきてくれ」と私が所長の相手をすることになっていました。

 当時入社5年の、冷静沈着、思慮深く優秀な辻君は、千葉に転勤し兵庫の何倍も大きな工場で努力して最近副所長となりました。まるで自分の事のように嬉しいニュースでした。

(53歳)『役職者使命は、部下が仕事し易い様にすること」

 47歳の新任役職者研修では、当時社長の出光裕治さんから「出光の役職者は上ではなく、下(部下)を見て仕事をせよ。部下が仕事し易い様にするのが君達の使命だ」と訓示され、これが私の役職者使命となりました。そして6年後、それを試される大試練が待ち受けていましたが、一歩も引かず組織簡素化の一端を担いました。その結果、私は北海道へ島流しになりました(笑)以下はその背景顛末です。

 私の長年勤務した製油所・石油化学工場は、「運転(交替勤務)と保全(事故故障対応)が車の両輪」です。もし車の両輪が簡素強力に機能しなければ、プラントは、ただの大きな鉄屑です。

 昭和50年末、オイルショック後の不況対策として、外工事受注目的の工事会社=出光エンジニアリングが設立されました。新会社発足早々は、外工事は中々受注できないので、工場内の運転(興産)と保全(エンジ)とを分離して、従来工場経費一括りだった保全費をエンジ元請売上げとしました。当時分社化されたエンジ社員の本音は、こうでした。

「▲同じ仕事なのに、従来直接報告していた事故報告や工事完了報告を、一旦エンジ本社の裁可を受けて興産側に報告するのは無駄な仕事だ」 「▲クイックリスポンス使命が果たせなくなった。」 「▲子会社だから今までの同僚・後輩をサン付けで呼べ? そんなバカなことできるか!」

 エンジ保全員は、そう思いながら、約20年我慢し続けた分社体制でした。

 その後バブル崩壊して、出光は2兆円超の有利子負債を抱え、ムーディーズに「投資不適格」と格付けされ銀行が融資を渋るという経営危機が訪れました。しかし出光の底力は社員自身も驚くほどのものでした。色々な資産を売却し経費を切り詰め、社員は給与減額、OBは企業年金減額までして2年間で有利子負債を清算しました。更に資本金2000億円超の一部上場会社となり経産省を始め経済界を驚かせました。

 これほどの経営危機では、当然各部門は創業理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」を徹底すべきです。しかし私が所属した子会社の社長・幹部は「現状維持の保全別会社存続方針」でした。(本体復帰すると年間売り上げが200~300億円減となり重役ポストも少なくなります。このため末端従業員の本音を知ろうとしませんでした)

 子会社でも社長が物事を最終決定します。一課長の私には力はありません。しかし「自分の部下たちにとって何が一番幸せか」を常に最優先するのは役職者としての責務です。そこで私は、直属部下と協力会社に『あなた達は、エンジ現状体制と興産復帰体制のどちらが仕事がしやすいですか?』と問いました。当然その結果は次の通りでした。

①部下40名全員 =クイックリスポンスの『興産直属体制に戻して下さい』

②全協力会社所長  =エンジ元請けは仕事が極めてやりにくいので『我々元請専門業者に戻して欲しい』

 この現場の声をエンジ・興産本社に訴えて「保全の興産復帰」が実現しました。そして私はエンジ本社から出頭命令が出て、本社方針に反して行動した理由を問われました。(所謂 軍法会議です) 私は現場保全員が日頃本音で思っていることを包み隠さず述べ、約2時間一歩も引きませんでした。

〇佐三店主理念に基き「簡素強力な組織」は当然である

〇社長・役職者の役割責任は、社員が働きやすいようにすること

 そして決定権がある興産製造部長は「保全の興産復帰」を最終決断し、私は北海道の石油備蓄会社へ出向となりました。エンジ社長・部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありませんでした。

私は北海道大好人間なので『高倉健さんの映画と同じ境遇になったので、網走に挨拶に行かねば・・』と、赴任早々に網走刑務所を訪問しました。刑務所獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と、夫婦で納得でした。(汗)

【20歳代後半、初めて本社人事部に勤務した時の上司は地獄の閻魔様も恐れる出光最強の厳しい(パワハラ?)上司でした。部下で辞表を書かなかった者は一人もいません。

この上司の口癖が『24時間思考を停止するな!それが出光だ!』でした。2年間仕えましたが、その後もずっと夢の中に出てきてうなされた恐ろしい上司でした(笑) 53歳まで「出光らしい仕事漬け人生の25年間!」でした。】 

そして53歳で石油備蓄基地勤務となり、初めて週末に行楽に出かけられる人間らしい生活になりました。市内から30分の支笏湖にほぼ毎週末に出かけ、樽前山には3年間で50回以上登りました。『こういうのが本当の豊かな人生だよな!』と、しみじみ思いました。このまま定年まで7年間、この大自然の中で人間らしい生活を送るはずでしたが・・

(56歳)本社製造部で大量採用企画、動かぬ部長に愛想を尽かす】 

 備蓄勤務は僅か3年で本社製造部に呼び戻されました。新たな仕事は、「5年間停止していた大量採用の再開」=団塊の世代の補充で年200人×10年間採用再開を企画推進することでした。ところが社長説明資料をいくら作っても、部長が全く動かず、苦悩・格闘の日々が始まりました。当時会社経営再建ができたばかりで、「経営コスト最たる大量採用・人件費高騰は社長の逆鱗に触れる・・」と、彼は放置・保身を決め込んでいたのでしょう。目前に団塊世代退職を控えながら全く動かない部長を許せず「こんな部長の下では役割責任を果たせない」と、私は決然と早期退職届を出しました。

(57歳~)団塊の世代が出光を救い、定年制を撤廃した

ところが人事部で退職届がストップされました。そして当時の人事部次長(現会長)から「50歳代研修=60歳退職希望80%を、65歳勤務延長80%に意識転換させる」という重要ミッションを与えられました。 いったん退職届を出した身、4年間で46回、のべ600人の意識改革研修を行い、人事部次長から与キャリアの全てを絞って取り組み、最後の使命「65歳勤務延長者80%を達成」しました。いまでは70歳を超えても現役で働いている猛者が多数います。

 出光佐三氏は生前「出光には定年制がない」と公言されていました。しかし会社規模が大きくなって従業員が1万人前後の大所帯になってからは、60歳定年制が慣例化して「依願退職」(実態は定年制)という形式をとっていました。

 私は団塊世代の大量退社時期に直面して「大量採用と技術伝承・教育のためには団塊世代が不可欠」という人的課題を担うことになりました。その唯一の解決策が「団塊世代大半の勤務延長」でした。 出光佐三店主の「人間尊重・家族主義の出光に定年制はいらない。働けなくなったら自ら歯車から外れよ。」という出光らしい仕事観・人生観の理念に基づいた勤務延長は「実質的な定年制撤廃」という理想の実現でした。

 私の早期退職届を握りつぶし、この重要ミッションを与えてくれた当時の人事部木藤次長(現会長)に、いまも心から感謝しています。




2026年11月3日火曜日

1. 若者への応援歌の目的

                Riv.20260320  (Start:20120201 )

本ブログ目的は、混迷し不安な現代を力強く生きる為の応援・助言です。特に若い皆さんが、プラス思考で行動し、実践的になって活躍し、新たな未来を切り開くために役立つ道標や、元気になる話、偉人の逸話、最新情報などについて調査紹介することです。この報文が『若い人の成長』に、また上司・先輩の皆様方の『部下・後輩指導・育成』に、少しでも役立つことができたら望外の喜びです。

 色々な切り口から、若い皆さんに役立つ話題を提供していきます。下のタイトルをクリックすると本文が出てきます。本ブログ読後感想・ご意見等ありましたら、是非次のメールアドレスにコメントください。  hidechiyo915a@gmail.com 

             【ページビュー】
1.はじめに

  • 1-5.仕事と成長と人生
  • 12.私の人生・健康、心の友 

厳しい環境の中、将来に夢を持てない若者が増えています。

・家庭では 父母が仕事で忙しくて じっくり話を聴いてくれず孤独
・学校では 目立つといじめが怖いから 本当の自分は隠す
・大人や社会は 若者の孤独感・閉塞感に 全く関心がなく忙しそうだ

 日本青少年研究所が2023年6月に行った日米中韓の高校生約12,000人対象の 『自分はダメな人間だと思うことがあるか?(Sometime I feel like a failure)』の調査結果では、日本は 78%が 『そう思う』とネガティブ回答しています。米国…61%、中国…55%、韓国…48%です。【2011年は、日本82.7%、米国52.8%、中国39.2%、韓国31.9%】 この結果から、日本の若者がダントツに閉塞感を感じ、自分に自信をもてない現実が見えてきます。 しかしこれは若者だけの責任でなく、こういう社会環境にした我々大人の責任です。

 社会矛盾や大問題を抱えた各国の若者大半がネガティブ思考です。しかし日本の若者がダントツに多く『自分はネガティブだ=約80%』の結果には違和感があります。・・特に『新型コロナ拡散源の隠蔽、ウィグル・チベット・内モンゴルのジエノサイド、南・東シナ海の強奪、台湾へ侵攻恫喝、環境大汚染、経済破綻等を隠蔽する軍事独裁国家の中国がネガティブ55%』、『核・ミサイル開発・配備を急ぐ独裁北朝鮮の脅威を軽視、恨文化で満足感謝のない韓国が48%』、「多民族・多様価値観の分断で自閉症となった米国が61%』などを考えると不自然です。

 むしろ世界一安全で豊かな日本にあっても、世界レベルの危機や困難に真直ぐに目を向け、不安や危機感や孤独感の中にある日本の若者の方が、よほどまともな感受性を持ち、世の中を改革・変革していく潜在能力・可能性があり、世界から期待される存在です。