2026年10月15日木曜日

16. 何故か懐かしい網走番外地

  50歳代で北海道勤務が決まった時、どうしても行きたかったのが『網走刑務所』です。今は監獄博物館ですが、「かって国内で最も厳しかった網走刑務所」を見てみたかったからです。その理由は・・若いころ、あの寡黙で正義感の強い高倉健が大好きで、理不尽な連中に我慢に我慢を重ね、ついには堪忍袋の緒が切れて『死んでもらいます』に心底惚れていました。

私は53歳で島流し(笑)・・当時出光は経営最難局で、創業者理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」すべきところ、私が所属したエンジ社長・幹部は屋上屋の現状維持方針でした。単なる一課長で無力な私は、部下と協力会社に問いました。『あなた達はどちらが仕事がしやすいですか?』その結果、
①私の部下40名全員=『クイックリスポンスができる元の工場直属体制にしてもらいたい』
②構内協力会社所長意見書=エンジ元請けは極めてやりにくい、我々元請専門業者に戻して欲しい』
これをもとにエンジと興産本体に訴えて体制変更が実現しました。そして私は北海道の関係会社へ異動になりました。子会社とはいえ社長部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありません。 幸い北海道大好人間なので『健さんと同じ境遇になったので網走に挨拶に行かねば・・』という心境でした。獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と夫婦で納得でした。(汗)

1.   放射状の獄舎

放射状に5つの獄舎棟が立てられ、その扇の要の部分に『看守室』があります。凶悪犯の独房だけで、逃亡の恐れは殆どないほど厳重に作られていますので、少人数の看守で効率的に監視できるように作られています。

2.網走刑務所の発端
 明治維新後の日本は、内乱による国事犯や政治犯が続出したため、監獄は過剰拘禁となっていました。同時に「富国強兵」を掲げて西洋列強と肩を並べるためやロシア帝国による脅威を防ぐためには北海道の開拓が重要でした。そこで明治14年に「監獄則」改正を行って徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道に設置し、囚人を労働力として使役させて、北海道の防衛と開拓を進める政策を執りました。また刑を終えた後は、北海道に住み着いてくれれば良いという考えもありました。

 明治の初期当時、北海道最大の問題は内陸部に幹線道路がないことでした。そこで、太政官の金子堅太郎は、道路敷設に囚人を使うことを提案します。工事は「10数里の密林の伐採」「険岨の山嶺を平坦に」「谷地の排水」など重労働ですが『どうせ悪人どもなので、重労働で死んだら死んだで、刑務所の金が浮く』という全く非人道的な発想です。
 明治22年、道庁は「釧路集治監」に道路敷設を命令。明治24年網走に「釧路集治監網走分監」が設置され、最終的に1400人が集められました。これが網走監獄の始まりです。明治24年の記録では、集められた収容者1200人のうち、強盗628人、強姦致傷232人、放火90人、謀殺(計画殺人)74人、故殺(思わず殺した)34人となっています。

3.石北本線生田原〜金華間の常紋トンネル(S45年頃 高校同窓生撮影)

北海道の発展基盤つくりに網走刑務所の囚人が貢献したのは間違いありません。しかし戦前の囚人労役は牛馬以上に過酷でした。札幌~網走までの中央道路工事は、明治24年の1年間で網走から北見峠まで約160kmが開通し、過酷な労働条件による怪我や栄養失調が続出、死者は200人以上となったそうです。 特に石北本線生田原〜金華間にある「常紋トンネル」は難工事で死者続出、請負人が慰霊碑を渋ったことから、今でも幽霊が出ると恐れられています。写真はS45年頃のトンネル前の急坂と蒸気機関車D51ですが、ここも囚人たちが作ったものです。

4.当時のままの網走刑務所入口

本当の人間かと見まがう門番の警邏官は人形です。フォームの終わり

5.獄舎監視所


放射状に建てられた5棟の獄舎の扇の要の部分に設置されている看守部屋。ここで全ての獄舎が見通せます。全て独房で、まず脱獄は不可能ですが・・それでも不撓不屈の工夫と粘り強さで脱獄した伝説の脱獄犯
2人がいます。

①『五寸釘の寅吉』
 数々の事件を起こし投獄された寅吉は、脱獄して質屋に盗みに入った時見つかり、二階から飛び降りた際に五寸釘(訳15cm)を踏み抜きそのまま逃亡したという武勇伝から『五寸釘の寅吉』の仇名が付きました。その後も犯罪を犯し、網走刑務所に無期懲役で入獄。絶対不可能と言われた網走から2度も脱獄しています。
②昭和の脱獄王『白鳥由栄』

昭和の脱獄王『白鳥由栄』が逃亡した時の様子が蝋人形で展示されています。白鳥由栄は収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし、今日では「昭和の脱獄王」の異名で知られます。当時の看守の間で「一世を風靡した男」と評され、26年間もの服役中に4回の脱獄を決行、累計逃亡年数は3年にも及びました。
 青森、秋田刑務所で脱獄を繰り返し、難攻不落の網走刑務所に収監されました。ここでも、時折、看守の態度に腹を立てて、手錠を力任せに引きちぎり、そのため真冬に夏物の単衣一枚、夏には厚着をさせるという虐待を受けます。手錠や足錠は殆ど外されず蛆が湧いてくる対応に死を覚悟し、脱獄を決意します。 味噌汁の塩分で手錠と視察孔の釘を錆びさせた後に外し(味噌汁を視察孔の釘に吹き掛ける行為を一年間続けた)、関節を脱臼させ、監獄の天窓を頭突きで破り、煙突を引き抜いて1944年8月26日脱獄成功です。(3回目の脱獄。白鳥37歳)
 白鳥は、この後も、札幌、府中刑務所に収監。府中刑務所で白鳥は模範囚として刑に服し1961年に仮釈放。出所後は建設作業員として就労し、1979年2月、心筋梗塞で71歳の波乱の人生を閉じました。

6.上空からの網走刑務所

万が一脱獄しても、目の前には広大な網走湖、後輩地はヒグマの生息する広大な原生林・・とても逃亡できないような立地で、おとなしく真面目に服役するしかない最高に厳重な刑務所でした。

7.「食事風景」の蝋人形

食事は互いが親交を深めないように「教室スタイル」で、無言で食べる様に監視されています。(勿論全員蝋人形です)

8.『入浴の様子』の蝋人形

「ヤクザの殺人犯」など重犯罪者が多く、互いに交流(共謀)しないように、行動は全て一方通行で管理したようです。(背中の刺青が臨場感を醸し出しています)
 「次!」の号令で湯船の列は湯船を出る
 同号令で体を洗っていた列が湯船に入る
 同号令で待機中の列が洗い場で体を洗う」

9.明治時代の獄舎「三角小屋」の様子

中央の4人は食事中、食べ終わったら寝ている4人と交代です。もちろん私語は許されません。

10.明治時代の獄舎

この形、どこかで見たような・・そうです、知覧特攻基地の兵舎が全く同じだったという事に気付き愕然としました。網走の囚人は自業自得で仕方ないですが・・
終戦末期に「日本、家族を守る」と命を懸けて敵艦に体当たりした若者の最後の宿舎が、明治時代の最極悪犯獄舎と同じ作りの粗末な宿舎だったとは・・純粋な若者に対して、何と無慈悲な日本軍の幹部・上官たちだったことでしょう・・

11.「知覧特攻基地の三角兵舎」

 これは、「知覧特攻平和会館」にある、特攻隊員たちが出撃するまでの起居していた半地下式の三角兵舎を会館横の杉林に復元したものです。三角兵舎の中で隊員たちは、日の丸に寄せ書きを書いたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたりしていました。 大東亜戦争の敗戦濃厚で「比色濃厚な沖縄激戦を何とか挽回させよう!」と命を捧げる決心をした若者の最期の宿舎が、なんと明治期の網走刑務所と同じであったことに呆然としました。・・それを淡々と受け入れ、家族の命を国の命運をかけて飛び立っていった特攻隊の方々に、改めて感謝し尊敬の念を抱きます。

2026年10月13日火曜日

16. 北大研究林(演習林)錦繍の散歩道

  私は北海道苫小牧に2度勤務し、姫路と共に第3の故郷となりました。(第1は宮崎県都城市、第2は千葉県市原市) 

苫小牧市は人口17万人の大都市ですが、市街地のすぐ北側には 27㎢の広大な北海道大学研究林(演習林)が広がります。私は2度の北海道勤務の際、市街地北の高丘にある社宅に住んでいました。独身寮と3棟の社宅(現在は売却)、福祉施設の体育館は市民に開放され市民交流の場になっています。その社宅から10分歩けば、自然を満喫できる北大研究林です。

初めて北海道勤務したのは平成3年4月です。出光北海道製油所に重質油分解装置を建設することになり、建設PJに参加して電気基本設計を行うためです。本当は実際の建設も担当する必要があったのですが、電気設備の特殊性を理解できない上司の帰還命令があり、1年後に若手との交代人事に従わざるを得なかったのです。(彼は建設完了後愛知転勤となり、保全現場経験不足による感電事故で悲惨な重傷を負いました。「苫小牧勤務2回」のいきさつは後段で・・)

私は 2回の北海道勤務の計4年間、毎朝30分散策したあと出勤しました。春夏秋は勿論、雪深い冬もスノーブーツを履いての散策は心地よく『無心の境地で心を清め、仕事へスイッチを切り替える』そういう習慣が身についた、懐かしく有難い景色です。

1.北大研究林(演習林)の概要


北大苫小牧研究林は、明治37年、内務省が札幌農学校へ国有林の所管換えを行い「苫小牧演習林」として発足し、現在の面積は約2,700ha です。苫小牧市街地に隣接し、札幌から約60km と研究林の中では大学キャンパスから最も近い位置にあります。森林の約25%は人工林で、その他は広葉樹二次林と天然林で占められています。落葉広葉樹が優占する天然林もその多くが風害跡などに成立した林で、ほぼ全域が火山灰性土壌で覆われ、冬期は積雪が少なく土壌は深く凍結します。複数の湧水河川が流れ、大規模な湿原にも隣接しており、初夏には水芭蕉が咲き乱れます。
 現在は、生物群集の維持メカニズムの解明、森林と河川の相互作用、生物遺伝子資源の保全手法の開発、森林の多目的利用と共生系のモデル作りなどを課題とした研究を行っています。

2.「苫小牧研究林」見取り図

この緑の地区一帯は市民解放されており、誰でも自由に散策、利用することが許されています。この一帯は、4万年前の支笏湖カルデラ噴火大火砕流、さらに300年ほど前に外輪山の樽前山が大噴火し厚く積もった火山灰の上にできた大原生林の中にあります。苫小牧市はその原生林を、海岸にそって切り開いてできた細長い都市で、一歩市街地を出ると、このような自然林が広がり、秋は錦繍を身近で感じることができます。

3.研究隣中央を流れる「幌内川」

幌内川は小さな小川ですが、その両側には散歩道が整備されており、小川はところどころに淀みや池を形成しているため、水鳥・野鳥が多く、自然を愛する市民の憩いの場となっています。その苫小牧のほぼ中央を流れる小川「幌内川」に沿って北大研究林(演習林)があります。
 ここでは、数多くの大規模野外操作実験や長期観測が行われています。その一方で、市街地から近い為に研究棟周辺は一般開放され市民の憩いの場ともなっています。

4.「演習林」か「研究林」か?

以前、苫小牧に住まわれていた甲府の長谷川さんから質問されましたが、現在の正式名は「研究林」です。しかし明治37年、内務省から国有林が札幌農学校に所管換を受け「苫小牧演習林」としてスタートしたことから、苫小牧市民には「演習林」が定着し、いまでもそう呼ばれています。 研究林(演習林)入り口から勇振取水場までの市道は、このような美しい紅葉の林が続きます。

5.落葉のじゅうたん

ゴロンと寝転がり、美しい錦繍をいつまでも楽しみました。

6.「小滝と下の大池」

 研究林の入り口から近い、一番大きな「下の大池」に流れこむ小滝。冬は水鳥たちの楽園になります。

7.研究林事務棟の近くの「樹木園」

芝生が整備されており、休日には、シートを敷いて弁当を食べる家族団らんの姿が多くなります。

8.幌内川の淀みと岸辺の草紅葉


木に絡まるツタの紅葉・・堪らない自然の美しさです。

9.研究隣沿道の紅葉


この季節、研究林入り口から勇振取水場までの市道は、このような美しい紅葉に彩られます。休みの日には、おにぎりをもって一日中散策しても飽きません。(当時、一緒に付き合わされる家内は、そのうち疲れて「もう帰ろうよ」と音を上げ、しぶしぶ後ろ髪惹かれながら帰宅の途に就きます・・)

10. 苫小牧市の中心街地図

北の原生林を「幌内川」が流れ、その周辺に「苫小牧研究林」があることが分かります。
市街地から離れると広大な原生林ですのでヒグマが出没します。数年前に幌内川を下ったヒグマが市街地のあちこちに出没し大騒ぎになったことがあります。数日後「餌が少ない」とあきらめたのか、ヒグマは再び幌内川をさかのぼって原生林に消えていったとの事です。

11. (エピローグ①)私の初苫小牧勤務経緯・・42歳

私は平成元年9月「40歳人間ドック」で胃癌が見つかり胃全摘出手術を受けました。胃全摘出手術後腸閉塞を起こし1年後に再手術、その後1年間は戦力にならず上司から(状況人員)とお荷物扱いされました。精神が弛んでいると禅寺での座禅を勧められ、「これが出光佐三店主の家族主事・人間尊重を学んだはずの出光上司の実体か!」と心底ガッカリしました。

再手術2年後、何とか現場復帰できる身体になり上司を見返してやろうと、北海道に建設決定した重質油分解装置建設PJ(1,500億円)に、「この出光の命運をかけたBIG PJ最重要な電気設計を担当できるのは私しかいない!」と名乗り出、上司に有無を言わせず、人事発令もないのに苫小牧の現地建設PJに乗り込みました。勿論現地は大歓迎です。

そして当時の最高技術で設備設計し、5大電機メーカーの工場調査を含む徹底調査をしたうえで厳正な競争見積もりを行い、S32年徳山製油所建設以来40年間特命でズブズブの関係だった「F電機概算見積もり75億円」を打破し、最終的に国内最高技術メーカーT社に発注出来ました。T社は重電特許70%を握る国内最高の世界的メーカーで「29億円」で受注しました。何とF社の40%で世界最高技術の受変電設備が建設できました。改めて「特定会社との特命は,狎れ合い・癒着を生み、コスト高になる」ことが社内に周知されました。しかしこれは従来の癒着体質を暴露することでもあり、従来F社最優先で仕事をしてきて面子を潰された上司・先輩からは「あのクソ安藤が!」と陰口叩かれたようです。(他の人には絶対できない達成感で、痛くも痒くもないですが(笑))

建設工事は「良い設備を、安く、計画期間で無事故で仕上げることが使命」です。当時の出光エンジ社長の故寺畠さんは「安藤は生涯賃金を10回分稼いだ」と言ってくれたそうです。でも「出光は生活給の会社」なので、給与・ボーナスの加増は全くありませんでした。(少しは還元しろよ・・笑) 

11. (エピローグ②)2度目の苫小牧勤務経緯・・53歳、

 私の役職者ポリシーは、平成15年兵庫製油所人事課長拝命時に、出光裕治社長から訓話された「出光の役職者ミッションは、ヘッドアップせず、部下が働きやすくすること」でした。兵庫閉鎖決定はバブル崩壊後経営難に陥り、2兆円超の有利子負債処理の一環でした。その後エンジ千葉電計課長となり「工場内屋上屋解消。出光エンジの元請・子会社体制は不効率で部下が働きにくいため存続すべきでない。元々の本体体制に戻すべきだ」と主張し、部下や協力会社の声を集約して訴え、エンジ幹部の抵抗はありましたが、興産本体が決断し組織簡素化が実現しました。

 この時課長職で無力な私だったので、組合のない会社で組合委員長の様な非常手段を使ったため、私は苫小牧の関係会社出向となりました。あちこちから左遷だと噂されましたが、簡素強力な体制づくりに貢献、部下が「働きやすくなった」と言ってくれたので大満足でした。

 喜寿の今、当時を振り返えり「エピローグ①、②ともに、私でなければできなかったこと」と、懐かしく満足しています。





2026年10月3日土曜日

1. 若者への応援歌の目的

                Riv.20260320  (Start:20120201 )

本ブログ目的は、混迷し不安な現代を力強く生きる為の応援・助言です。特に若い皆さんが、プラス思考で行動し、実践的になって活躍し、新たな未来を切り開くために役立つ道標や、元気になる話、偉人の逸話、最新情報などについて調査紹介することです。この報文が『若い人の成長』に、また上司・先輩の皆様方の『部下・後輩指導・育成』に、少しでも役立つことができたら望外の喜びです。

 色々な切り口から、若い皆さんに役立つ話題を提供していきます。下のタイトルをクリックすると本文が出てきます。本ブログ読後感想・ご意見等ありましたら、是非次のメールアドレスにコメントください。  hidechiyo915a@gmail.com 

             【ページビュー】
1.はじめに

  • 1-5.仕事と成長と人生
  • 12.私の人生・健康、心の友 

厳しい環境の中、将来に夢を持てない若者が増えています。

・家庭では 父母が仕事で忙しくて じっくり話を聴いてくれず孤独
・学校では 目立つといじめが怖いから 本当の自分は隠す
・大人や社会は 若者の孤独感・閉塞感に 全く関心がなく忙しそうだ

 日本青少年研究所が2023年6月に行った日米中韓の高校生約12,000人対象の 『自分はダメな人間だと思うことがあるか?(Sometime I feel like a failure)』の調査結果では、日本は 78%が 『そう思う』とネガティブ回答しています。米国…61%、中国…55%、韓国…48%です。【2011年は、日本82.7%、米国52.8%、中国39.2%、韓国31.9%】 この結果から、日本の若者がダントツに閉塞感を感じ、自分に自信をもてない現実が見えてきます。 しかしこれは若者だけの責任でなく、こういう社会環境にした我々大人の責任です。

 社会矛盾や大問題を抱えた各国の若者大半がネガティブ思考です。しかし日本の若者がダントツに多く『自分はネガティブだ=約80%』の結果には違和感があります。・・特に『新型コロナ拡散源の隠蔽、ウィグル・チベット・内モンゴルのジエノサイド、南・東シナ海の強奪、台湾へ侵攻恫喝、環境大汚染、経済破綻等を隠蔽する軍事独裁国家の中国がネガティブ55%』、『核・ミサイル開発・配備を急ぐ独裁北朝鮮の脅威を軽視、恨文化で満足感謝のない韓国が48%』、「多民族・多様価値観の分断で自閉症となった米国が61%』などを考えると不自然です。

 むしろ世界一安全で豊かな日本にあっても、世界レベルの危機や困難に真直ぐに目を向け、不安や危機感や孤独感の中にある日本の若者の方が、よほどまともな感受性を持ち、世の中を改革・変革していく潜在能力・可能性があり、世界から期待される存在です。