2026年9月28日月曜日

16. 子供の頃から憧れた昭和新山

  小学生の頃『できたてホヤホヤの昭和新山』という火山の写真を見て『今すぐ見に行きたい!』と思いました。今考えると私が生まれる5年前に出現し、まさに私と同世代の生まれたてホヤホヤの新火山です。

しかし子供のころから憧れた「昭和新山」に対面できたのは、30年後の42歳 北海道製油所・重質油分解装置建設PJ勤務のときでした。想像以上の迫力に度肝を抜かれました。その後、北海道を訪れるたびにこの山に会うのが最高の楽しみです。また家族全員で3回ほど北海道旅行しましたが、私の子供達もこの山の大ファンになりました。

・・かつて有珠山の東麓には平坦な麦畑や集落が広がっていました。

しかし昭和18年12月末、突如として激しい群発地震が始まりました。年が明けると、大地が徐々に盛り上がり始め、6月には最初の水蒸気爆発が起こり、その後も数か月にわたって噴火を繰り返しました。やがて地中から粘り気の強いマグマが押し上げられて巨大な溶岩ドームを形成、昭和20年の秋に活動が終息すると、かつての麦畑は標高約400メートルの赤茶けた火山へと変貌を遂げていました。わずか2年足らずの間に、日常の風景が「世界一大きな野外展示物」へと姿を変えたのです。

当時は第二次世界大戦の最中であり、世の中は火山の調査どころではありませんでした。専門家すら近づくことが困難な時代に誕生した新山ですが、当時郵便局員だった三松正夫氏が山の成長過程を克明に記録しました。これが戦後「ミマツダイヤグラム」として世界を驚かすことになります。

なお、溶岩ドーム形成当初は全山が不毛の土地でしたが、登山などで山が荒らされるのを危惧した三松正夫さんは私財をなげうって全山を買い取り、自由な人の立入を禁じて保護しました。その後も三松家が大事に保護し、現在もこの姿を保っています。
形成から70年以上経った現在では、山麓の大部分が草木で覆われてきました。

1.    壮瞥町側から向かう道路からの昭和新山

赤茶けた山肌は、もともと平地だった畑の土が、溶岩ドームの熱により赤く変質したものです。素焼きの陶器のようなものですね。

2.    間近にみる昭和新山の雄姿

1944年の噴火から82年が経過するのに、山頂近くからはいまだに湯気が立っており、「若い出来立ての火山(溶岩ドーム)」であることを誇示しているかのようです。私が一番ワクワクする「北海道を代表する絶景」です。手前は、昭和新山の生成過程を克明に観察記述した「三松ダイアグラム」で世界を驚かせた三松正夫氏の銅像です。

3.「三松正夫記念館」初代館長の三松三朗氏

 この近くの山麓に、昭和63年4月開館の「三松正夫記念館」があり、三松正夫氏による観測記録の資料が展示されています。館長の三松三朗氏は、大学在学中に正夫氏の研究活動に感銘を受けて面会を求め、後にその孫娘と結婚しました。記念館は2021年、日本火山学会普及啓発賞を受賞しました。 三松三朗氏は惜しくも昨年8月88歳で他界されました。

4..    正夫の曾孫「三松靖志さん」が新館長に

三松三朗さんが令和7年8月逝去され記念館は休館となっていましたが、今年4月に息子の靖志さん(正夫の曾孫60歳)が新館長となり、「正夫たちの強い思いを後世に引き継ぐ」と力を込められます。

記念館の入場者は修学旅行生が多いですが、年間売り上げは100万円ほどで、「親父はよくやってきたな」と靖志さんは語られます。「恐ろしい噴火も事前に備えれば避難や対処ができる。火山の秘密や面白さを伝えたい』という正夫や父三朗の熱い思いを引き継ぎたい」と抱負を述べられます。

北海道を訪れる機会がありましたら、是非「昭和新山記念館」を旅行コースに加えて頂きますようお願いします。

5.    昭和30年代の写真

山肌は全て赤茶けていますが、現在基盤部は草木が生え緑に覆われています。

6.「昭和新山の成長過程」を克明に記録した三松正夫氏

第二次世界大戦最中、当時郵便局長だった三松さんは「この貴重な火山生成の記録を残せるのは自分しかいない」と、測量機を買い込み、毎日 全稜線隆起の測量記録を残しました。そして三松さんは、世界的にも貴重な火山の徹底的な保護と、家と農地を失った住民の生活の支援のために、民家から山になってしまった土地の買い取りを行いました。このため昭和新山は三松家の私有地です。
ニュージーランドのホワイト島等と同じく、世界でも珍しい私有地内にある火山なのです。

7.新山を定点観測する若き三松正夫さん

 家と家の間に糸を張り、新山の成長ぶりを正確に記録しました。地方の小さな郵便局の全く素人の局長が「これはとても貴重な現象だ!正確に記録しなくては!」と観測したダイアグラムが、世界の火山学者を驚嘆させることになります。

8.昭和新山の断面図

 約80年経後も、昭和新山からは噴煙が立登っています。「一体あの溶岩ドームの下はどうなっているのだろう!」といつも疑問に思っていました。それが左の断面図です。 有珠山には、大有珠溶岩ドーム、小有珠溶岩ドーム、潜在溶岩ドームの明治新山(オガリ山)などがあり、マグマ噴火の終末期には粘性の高いデイサイトがせりあがってくること示しています。その熱が80年経過しても溶岩ドームの表面まで伝わり、噴煙を上げているわけです。 

9.昭和新山クマ牧場の60頭ヒグマ

三松正夫記念館の近くには「クマ牧場」があり、飼いならされた60頭のヒグマを見ることができます。野生のヒグマは、山中で出会うと人間を襲い、空腹だったら人間を食べてしまう恐ろしい猛獣です。しかし人工飼育されたヒグマは、何とも愛くるしい姿を見せます。2本立ちして食べ物をねだる姿は、何とも愛嬌があり、猛獣であることを忘れます。

2026年9月16日水曜日

16. 息をのむ大雪山の紅葉

  大雪山の紅葉は日本一早く、その鮮やかさは北海道以南では味わえません。

私は約20年前、53~56歳の間、憧れの北海道苫小牧勤務となり、この季節になると家内と連れ立って大雪山の紅葉を見に行きました。そして「退職までの7年間北海道で暮らしたい!」と念願しました。 (しかし北海道製油所のタンク火災を機に、本社製造部勤務となり地獄の様な激務に連れ戻されました。 (涙)

大雪山はアイヌ語で「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」です。

これからの季節、大雪山は、この命名の通り、赤と黄色と緑の見事な錦繡に光輝きます。写真で見ても驚く美しさですが、やはり自分の目で見た鮮やかさとは比べ物になりません。特に曇った日に訪れてがっかりしているとき、雲の切れ間からサッと陽が差して錦繍を照らした時の感動は例えようがありません。『樹々の赤と黄と緑の全ての葉から光を発している!』そんな感動の一瞬です。・・きっと天照大御神が天岩戸から顔を出された時、八百万の神々は、こういう感激を味わったのだろう・・と思います。

1.日本一早い「銀泉台の紅葉」

赤岳の登山口にある標高1500mの「銀泉台」からの紅葉は、様々な広葉樹と針葉樹の色彩が重なり、美しいグラデーションが山全体を彩ります。登山口から30分ほど歩いた登山道から見る第一花園の下の斜面が緑、黄、橙、赤色に染まる景色は特に人気。見事な色彩の山々は息をのむほどの美しさです。「銀泉台の名前の由来」は、層雲峡から大雪湖、大雪山観光道路を車で50分ほどのところにある、赤岳の山麓から流れる滝(銀河の滝)の源流と考えられたためです。

2.北海道最高峰「旭岳」2,291mの雄姿

爆裂火口から吹き上がる噴煙群、その前景の紅葉、豪壮・華麗な姿は、まさに北海道を代表する景観です。旭岳は北海道の中心部に位置する大雪山系の主峰、北海道の最高峰です。山の名の由来は、忠別川の源にあるところから、アイヌ語で「チュプ・ベツ」(日の川)を「旭」としたもので、旭川市の名の由来も同じです。山麓1,100mの旭岳温泉から標高1,600mの姿見駅まで標高差500mを一気に登る大雪山旭岳ロープウェイ(101人乗り)が運行され、誰でも美しい旭岳高原の紅葉絶景を楽しめます。

3.旭岳「チングルマの草紅葉」

地面一面、真っ赤な絨毯が敷き詰められて、まるで神々の宮殿庭園を散策しているような気分にさせられます。

4.旭岳ロープウェイ山上駅近くの紅葉

言葉もないくらい鮮やかです。大げさでなく「生きていてよかった!」としみじみ思います。

5.旭岳ロープウェイ中腹のダテカンバ等の黄葉


ダテカンバ、白樺、ブナなどの黄葉一色も鮮やかで、心に染みます。

6.旭岳温泉駅近くの紅葉

『旭岳は初冠雪、山上駅周辺は真っ赤な紅葉、麓の方はまだ晩夏の濃い緑』そんな3色コラボが楽しめます。1週間もない紅葉の輝きですが・・紅葉は上から降りてきますので、2~3週間は堪能できます。

7.天人峡『羽衣の滝』

落差260mあり北海道最大落差の滝です。2段に分かれる姿から、元々は『夫婦の滝』と呼ばれていましたが、大町桂月がその美しさを、「千丈の懸崖雲上に連なり、懸崖欠くる処飛泉を掛く、相看てただ誦す謫仙の句、疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるか」と激賞し、「羽衣の滝」と命名したといわれています。

苫小牧勤務の3年間、この季節になると家内と連れ立って大雪山の紅葉を見に行きました。朝5時苫小牧出発して約4時間で旭岳ロープウェイ駅です。そして午後3時ころまで頂上駅周辺を散策して紅葉を満喫します。そして後ろ髪引かれる思いで帰路につきました。「ずっとここにいたい!」と・・

北海道の紅葉期間は短く僅か一週間ほどです。この短期間の紅葉を堪能するのは、その年の気候によるので至難の業ですが・・可能なら3~5日は滞在してゆっくりと散策したいものです。ただ天候が悪いと富士山頂のように極寒の世界となりますので、しっかりした防寒対策が必要です。




16. 感動の「層雲峡・黒岳の絶景」

  大雪山赤岳の登山口になっている銀泉台は標高1500m(本州なら2500m級)の高度があり9月中旬には真赤に染まり、是非一度は訪れて欲しい絶景です。また大雪山の東側の層雲峡は、西側の天人峡とは趣の異なる柱状節理の絶景で『銀河の滝、流星の滝』が天空から流れ落ちる様は、この世のものとは思えない美しさです。そして大河 石狩川へと合流します。

 これらの絶景を発見し 格調高い命名をしたのは、明治・大正の美文随筆家の大町桂月で『大雪山の父』と今も称えられます。桂月は、大正10年8月層雲峡を出発し、当時は登山道もなく名前もなかった桂月岳に苦労しながら登頂、黒岳、北鎮岳、白雲岳、旭岳に登頂しています。その紀行文 「層雲峡より大雪山へ」は大好評となり、大雪山の魅力が日本中に広がりました。そして天人峡温泉に記念碑が立てられ、紀行文冒頭の有名な一節が刻まれました。

「富士山に登って山岳の高さを語れ 大雪山に登って山岳の大きさを語れ」(大町 桂月)

1, 日本で一番早く紅葉する『銀泉台』

 真っ赤なナナカマドやモミジが見事です。
『銀泉』の名称は、石狩川の水源、層雲峡の名勝 "銀河・流星の滝" の水元がこの近くから湧き出していることから『銀泉台』と名付けられました。赤岳2078mの登山口にもなっていますが、私たち夫婦は、この紅葉の絶景を堪能したら大満足で、そのまま層雲峡温泉に引き返しました。

雲影に覆われた銀泉台は、それなりに美しいのですが・・雲が去り日光に照らされると景色が劇的に変化します。金銀が混ざったような「輝く真紅」となります! これぞ「神々の遊ぶ庭だ」と絶句します。

2, 左から黒岳1984m、桂月岳1938m、凌雲岳2125m

2000mにも満たない真ん中のピークが『桂月岳』と命名されたのは、大島桂月が大正10年(1921年)8月22日、層雲峡を出発し目指したのが当時無名の桂月岳だったからです。獣道もないハイマツ帯をヤブカキで苦しみながら岩石をぬって山頂に達、大雪山系縦走を果たし、26日に天人峡温泉に到着、宿泊しています。
 層雲峡から見る桂月岳は、左に異様なピークの黒岳、右になだらかな凌雲岳を従え、『大雪山の盟主』のようなアルペン風格を感じます。

3. 層雲峡の断崖絶壁の2名瀑

左が優美な『銀河の滝』、右は水量の多い豪快な『流星の滝』。秋は、この絶景を錦繡が彩ります。
『層雲峡、銀河の滝、流星の滝、大函・小函』などの格調高い命名は、大町桂月によるものです。桂月は明治2年高知市に生まれ、『桂月』の雅号は月の名所桂浜に因んでいます。・・美文随筆家として、韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩で、格調高い文体から人気を博しました。

4, 黒岳ロープウェイと紅葉

足の不自由な方でも、層雲峡温泉街から一気に黒岳中腹に連れて行ってくれます。終点からはスキー用のリフトが7合目(1510m)まで連れて行ってくれます。ここから黒岳山頂までは470mほどで、夏には小学生連れの家族登山を楽しむ人も多く見かけます。一般的に標高差100mは15分ほどなので、1時間ほどの頑張りで比較的手軽に登れる感じがしますが、山慣れぬ人がチャレンジできるのは、7月〜8月の晴天時だけです。気象条件は『北アルプス以上の厳しさ』ということを肝に銘じておきましょう。

 黒岳ペアリフトの足元にもウメバチソウなどが咲くので、夏山でも登山の用意がない場合は、7合目で引き返しましょう。7合目から片道20分ほどの
「黒岳カムイの森のみち」が用意され(黒岳七合目登山事務所近くに入口が)、トレッキング気分を味わうことが可能です。

5. 層雲峡から黒岳へ

黒岳山麓の層雲峡温泉から5合目(標高1,300m)まで高低差629mを7分で結びます。
5
合目から7合目までは、黒岳ペアリフトが結んでいます。ロープウェイ黒岳駅から約200m離れた場所に乗降場があり、所要時間は片道15分。春夏秋は観光客や黒岳登山者が、冬は日本一早く滑れるスキー場として人気があります。

6. 巨大な「お鉢平」カルデラ

大雪山は100万~70万年前に活動を開始しました。3万年前、大雪山史上最大の『お鉢平カルデラ噴火』が発生しました。 大規模な火砕流が石狩川上流や忠別川上流一帯に噴出し、 直径約2kmのカルデラが生じ、周囲は最大250mの厚さの火砕流が堆積し溶結凝灰岩で覆われました。やがて長い年月をかけて、東は石狩川が層雲峡を刻み、西は忠別川が天人峡を刻み、柱状節理の断崖絶壁の見事な景観を作り出しました。
写真左奥のピークは、北海道最高峰の旭岳です。(これは気象庁掲示の画像です)

7. 大雪山の地形図

 巨大な山体の旭岳や北鎮岳等の山体をすっぽり収めてもまだ余る半径2kmの『御鉢平』の巨大さが良く分かります。約3万年前にカルデラ大噴火した際に周辺に大量の溶岩・火山灰で覆い、それが固まって厚さ200m~250mの溶結凝灰岩となり、北側を石狩川が削って層雲峡が、南側は忠別川が削って天人峡の絶景が出現しました。

この地形図の中央右端あたりが銀泉台です。御鉢平カルデラ跡は、巨大な火口湖でしたが黒岳側の火口壁が壊れ、湖水は流出しました。3万年を経ても御鉢平からは有毒ガスが発生しており、過去ガス中毒で死亡事故があり、また時々迷い込んで中毒死したクマの死骸が遠望されます。カルデラ内は立入り禁止となっており、絶対足を踏み入れないようにしてください。

8. 「層雲峡と天人峡」

北海道第二の都市旭川市の旭川空港から「旭岳温泉・天人峡 行」 と「層雲峡 行」の2つの観光路線バスが出ており便利です。ただその2大観光地は巨大な大雪山を挟んでいますので、最低2泊3日は欲しいところです。両方とも観光だけでなく有数の温泉地でもあるので是非それぞれに一泊して汗を流し、旭川市では有名な旭川動物園も訪れたいものです。

16. ニセコ・神仙沼と、日本の危機

 20数年前、北海道ニセコアンヌプリの神々しい紅葉に絶句しました。
 「大雪山の紅葉が終わったら、次は鮮やかなニセコが必見だぞ」と北海道在住20年の先輩が薦めるので、早速家内と出かけました。しかし当日あいにくの曇天で、折角の紅葉がくすんでいてがっかりでしたが・・そのまま神仙池に向かっていると、突然雲の切れ間から一筋の光がさし白樺の大木を照らしました。それはあたかも『神様の降臨!』と思わせる神々しい風景でした。『美しい日本に生まれて本当に幸せだ!』という幸福感に包まれました。
その後も何回かニセコに出かけましたが、あのような感動的な光景は77歳のいままで、二度と遭遇することはありませんでした。
この絵は「写真に撮れなかったあの神々しい光景の絵をかきたい!」とずっと思い続け、10年後にあの感動を思い起こしながら色鉛筆で描いたものです。もちろん実物には遠く及びません。
 
 この時は、絶句して見とれて運転していましたが、「そうだ、写真、写真!」と車を止めてカメラを向けた時には、あの神々しさは去り、普通の紅葉風景になっていました。それがこの写真です。
人生には、二度と会えない素晴らしい瞬間があります。世界的山岳写真家の白川義員氏が生前述懐していたのは「マッターホルンのモルゲンロートの感動」です。白川氏が若い頃、リッフェル湖からの黎明マッターホルンを撮影しようと訪れた時、この世のものとは思えぬ深紅のモルゲンロートに出会い写真を撮るのを忘れて呆然と立ち尽くしたそうです。ハッと気が付きカメラを向けると、感激の瞬間は去っていました。白川氏は、あの感動の一瞬を撮影しようと、その後6年間マッターホルンに通いましたが、二度とあの凄いモルゲンロートには出会えませんでした。
そして比較的うまく取れた一枚を発表し、世界中が感動してマッターホルンに熱狂する人が増えました。それでも白川氏は『最初に出会ったモルゲンロートに比べたら足元にも及ばない。それほど凄い瞬間だった』と述懐されていました。

1.    主峰ニセコアンヌプリの雄姿

ニセコ高原と裾野は、北海道で手軽に行ける鮮やかな紅葉の名所です。ニセコの短い錦秋はすぐ終わり、やがて全山雪に覆われて、絶好のスキー場へと変身します。
 ニセコアンヌプリは、約70万年前から約25万年前に活動した火山で、安山岩質の溶岩流を繰り返し噴出しました。 25万年前以降は活動は見られず、その後はチセヌプリやニトヌプリ、イワオヌプリなどに活動の場が移動しています。

2.    ニセコ奥座敷『神仙沼』

『神仙沼』は、その神秘的な雰囲気が神々や仙人の住むような場所だということから命名されました。発見は昭和初期で、日本ボーイスカウトの生みの親・下田豊松氏一行が青少年心身修養道場地を求めて訪れた際に発見されました。独特の青色、静寂に包まれた水面に湿原性アカエゾマツが逆さに映り、岸辺には水草が茂っています。まるで別世界に来てしまったかのような感覚に陥ります。

まさに「神々の遊ぶ庭園」です。ずっと大事にしたい日本の宝物です。しかし近年、日本人よりも中国人が観光バスで大挙押し寄せ、SNSでも中国語の投稿を頻繁に見かけ、いずれ荒らされるのではないか・・と危機感を抱いていました。幸いコロナ禍、ウクライナ侵略・台湾恫喝で中露が孤立、中国バブル崩壊で神仙沼は静けさを取戻しています。神々や仙人が住みたもう尊い自然を守るために『これからも傍若無人の隣国客人の来訪はお断りしたい!』と私は願っています。

3.神仙沼の池塘

北海道の尾瀬ヶ原というところでしょうか。背景の山はチトセヌプリ1134m

4.ニセコのパノラマライン

紅葉の季節、どこまで走っても、このような素晴らしい紅葉が続きます。『日本に生まれて良かった!』と感激しながらの最高のドライブを味わえます。

5. 同じくニセコのパノラマライン

主峰ニセコアンヌプリの雄姿とその裾野に広がる鮮やかな紅葉の絶景、『本当にここは日本?』と疑うような素晴らしい景色が続きます。 もう暫くすると全山雪に覆われて、絶好のスキー場へと変身します。
 ニセコアンヌプリは、約70万年前から約25万年前に活動した火山で、安山岩質の溶岩流を繰り返し噴出しました。 25万年前以降活動は見られず、その後はチセヌプリやニトヌプリ、イワオヌプリなどに活動の場が移動しています。

6. ニセコ連山俯瞰

左奥から羊蹄山(1898m)、手前の双耳峰がニセコアンヌプリ(1308m)、その手前の頂上が白い山が一番新しい火山のイワオヌプリ(1116m) こうしてみると、ニセコ連山は、東西(奥から手前)に走る断層に沿って生まれた兄弟火山だという事が良く分かります。

7. 双耳峰のニセコアンヌプリ

ニセコアンヌプリは見事な双耳峰です。手前の滝のように見えるのは、硫黄分を多く含んだ火山噴出物です。

紅葉が終わりかけた頂上近くは、シラカンバ・ダテカンバの幹や小枝が白く光ります。これから厳しい雪の季節になり、6か月後の春の芽吹きまで静かな眠りにつきます。

8. ニセコ連峰で最も若い火山のイワオヌプリ

江戸時代後半や20世紀初頭には山頂部で噴気活動があったことが記録されています。 山頂は東側に開いた火口の中央火口丘で、いまは噴気は殆どありません。一方、山頂の西側には350×250mの火口があり、さらにその火口の中心に直径約100mの火口が複数存在しています。山肌は硫黄の結晶や火山礫に覆われ、噴気活動を伴う温泉が噴出しています。 荒寥とした不毛の火山と、美しい紅葉のアンバランスが魅力的です。 イワオヌプリの北側には硫黄採掘跡地があります。この硫黄鉱山は江戸時代後半から存在、明治期以降マッチの原料として硫黄の需要が増大し本格化し、明治19年には北海道で初めて蒸気精錬が導入され生産を拡大しました。最盛期の大正時代には200人ほどが生活していましたが、昭和19年に閉山しました。 

9. ニセコ国際スキー場

ニセコはパウダー雪の世界的に有名なスキー場です。4つある国際スキー場の中でも、羊蹄山に向かって一気に1000mの標高差を滑り降りる豪快な「ひらふスキー場」は一番人気があります。 私はボーゲンレベルの下手くそスキーヤーでしたが、このスキー場が一番好きで、無謀にも何回も転びながら滑りました。「やばい!」と思った時はコースから外れてラフに突っ込むのですが、パウダースノーが優しく抱きとめてくれるので、安心して突っ込みました。(楽しかったな~)

しかし最近外国人に、この素晴らしい景色やパウダースキーのニセコが大人気で、リゾート別荘を高額で購入する外国人が増えました。いきおい物価高騰で私達日本人には縁遠いスキー場になってきています。

10. 美しき日本侵略を狙う獰猛な隣国

 いまこの美しい大地が買占められ、すでに北海道だけで 静岡県以上の面積が中国人のものになっています。過疎で悩む北海道は、多少の危惧はあっても中国・韓国人の来訪・永住は大歓迎してきました。現北海道鈴木知事が脚光を浴びた「夕張経済破綻対応」も、レースイリゾート売却など中国資本に頼っていました。
 北海道にはこれと言った産業はなく過疎化が進み、広大な大地の酪・農業・林業は、後継者のいなくなり、固定資産税を払うよりは安くても手放した方が有利と中国資本の手に渡っています。しかしそれでいいのでしょうか?

特に人口が少なく行政破綻で広大な土地が遊んでいる北海道では、釧路や札幌・千歳が真先に狙われて買い取られて拠点化が進んでいます。
『気が付くと、先人が血と汗で開拓してきた北海道は中国のものになっていた。日本人は放逐され、世界に類のない歴史・文化は消滅し、公共心がない彼らの母国と同じように荒廃し、能天気な日本人は強制収容所で臓器移植の在庫とされ、ウィグル以上の悲惨な状態に置かれている・・』という恐ろしい事態が、すぐそこに迫っています。
こういう元寇以来の大陸からの危機に、高市政権が今ようやく「媚中・親中から脱却し、国家・国民を守る安全安心の国づくり、経済安全保障、技術の発展・確立」を牽引し、世界の価値観を共有する民主国家と強力な連携を構築しています。
 現代に生きる私達は、「先祖代々大事にしてきたこの美しい日本を、近隣諸国の身勝手な野望から守り子々孫々に引き継いで行く!」と硬く決意し、高市政権と共に行動していくことは、日本人としての重要な使命、責務です。


いま中国国内は、深刻な経済破綻と急激な少子高齢化、国情不安定と締付け・国際的孤立、都市と農村の貧困差、大気・水質・土壌汚染などで大混乱期に入りつつあります。しかし強権独裁政権の常で、国家破綻が近づくと圧制・言論統制強化し、戦争で国外へ目を向けさせ政治的危機を糊塗しようとします。特に台湾侵攻計画は深刻で、武力威嚇・軍事侵攻だけでなく、工作員やAIを駆使した認知戦で「戦わずして勝つ」孫氏の戦法そのものが深く浸透し台湾国民分断を画策しています。 中国の台湾侵略は、日本のシーレーンを奪い国民・国家存続の危機に瀕するだけでなく、沖縄や南西諸島支配へと拡大し、西太平洋支配、その先には日本の侵略・支配があります。北海道の買占めはその一環であり、すでに秘密裏に軍事拠点化が進んでいると警戒する必要があります。
国民はその危機に気付き、先の総選挙で高市首相を圧倒的に支持しました。

海外への大量移住戦略=東南アジア各国への中国人100万人都市建設構想は、いまも着々と進行中です。経済支援と称しながら過大な融資を行い、債務返済ができず権利譲渡を迫り植民地化する・・数百年前から欧米がやってきたことを『今度は中国がやる番だ!2050年までに世界を支配する』と、今やその野望を隠すことなく、表立って猛烈な勢いで軍備・核武装を拡大しています。

中国の脅威は 伝統の孫子の兵法=「戦わずして勝つ」です。留学生・工作員を世界各国に送り込み、静かに溶け込んで中枢部を握り、国民を骨抜きにして支配するという恐ろしい遠大な陰謀です。
いま東大生3万人のうち中国留学生が3,000人、早大も2,500人を超え、学費優遇を受けながら、講義内容にクレームをつけ、豪州で問題になった「サイレント・インヴェーション(静かなる侵略)」が進行しています。また最先端の技術を学び(盗み)中国に持ち帰っています。リニア建設への理不尽な反対を続けた川勝平太 前静岡県知事も、中国のリニア開発の時間稼ぎを支援したものでしょう。
これらの陰然とした世界浸透戦略は、中国が2000年以上前から得意とする『中華思想(=一帯一路)、孫氏の兵法=戦わずして勝つ』の本当の姿です。米・豪・加などは漸くその危険性に気が付き対策を打ち始めていますが、一番危険な隣国の日本には親中・媚中が多く、すでに政財界・教育・メディアの奥深くまで侵入し支配されています。

独立国家たる由縁は「国民の命を守る、国土・財産を守る」です。これの基盤が今までの自民・公明政権30年間 ないがしろにされてきました。先年 中国での日本人学校の小学生が殺害(内臓がはみ出る程の惨殺!)されても当時の外務大臣は「遺憾(残念)に思う」程度の対応、また従来の国土交通大臣は30年間親中公明党固定で、大切な国土が中国資本に買取られるのを放置したままでした。
その公明党は、高市政権誕生と共に、中国の意を受けて政権離脱・中道を結成し高市政権を脅しましたが、国民は総選挙で高市政権を圧倒的に支持し、国家滅亡への親中路線を断固拒否しました。
しかし、林・石破・森山・岩屋などの反高市 親中一派は、再び親中路線・亡国への道を模索しています。私達はこれらの動きを断固拒否し、しっかりと日本の大地に立ち、二度と亡国の道に戻らないように、目を光らせ行動していきましょう!

16. 駒ヶ岳山体崩壊が生んだ大沼の絶景

 「魅力の北海道」アンケートで「大沼公園」は必ずベスト3に入り、特に若い女性に大人気です。

 「大沼公園」は、1,700m程度の富士山型成層火山だった駒ヶ岳が、約400年前に大噴火し 山体崩壊によって生まれた、大小の湖沼と126の小島が織りなす道南随一の絶景です。もとの成層火山の一部は、現在の山頂部に剣ケ峯1,131m、砂原岳1.113mだけが露出して残っていますが、他のほとんどは、その後に噴出した火砕流や降下火砕物によって覆われています。山頂部には馬蹄形火口がありますが、火砕物によって埋められており、そのなかに昭和4年の噴火時の円形火口と、昭和17年の噴火時のひび割れがあります。

 標高1,131mの優雅な駒ヶ岳を背景に、大沼、小沼、じゅんさい沼の3つの湖が広がります。1958年に国定公園に指定されたこの地は、古くから「湖の松島」と称される箱庭のような風景が特徴です。春には湿地に水芭蕉が白く咲き誇り、夏には湖面を彩る黄色いネムロコウホネの可憐な姿が印象的です。

1.紅葉が始まった初秋の頃の大沼と駒ケ岳

 真っ赤に染まった下界を、大きな駒ケ岳が慈しむように抱きかかえている・・そう思わせる素晴らしい絶景です。何回訪れても、その日だけでも色々と表情を変え、見飽きることがありません。こういう素晴らしい絶景がある日本に感謝です。

2. 大沼公園の紅葉と、夕日に染まる駒ケ岳

 この駒が岳の右側(東側)に、山体崩壊の大半は流れ下り、その時の噴出物で川がせき止められ、大沼・小沼が形成されました。

3. 東側の駒が岳

 駒ケ岳は、大沼側だけでなく東側に回らないと、その生成の凄まじさが分かりません。「優美な駒ケ岳」のイメージが吹き飛びます。そこには、400年経過しても草木一本育たない山体崩壊の凄まじさが生々しく残っています。かって富士山のような均整の取れた成層火山だった駒ケ岳が、1640年の大噴火・山体崩壊で大半が吹き飛び、まるで巨大な滝のように東側に流れ下った様子がわかります。 南側から見る大沼・駒が岳の優美な姿とは全く異なる、恐怖の光景です。

4. 駒が岳は元々富士山型の成層火山

 
しかし1640年の大噴火で大規模な山体崩壊が発生、南と東に火山体が崩れ落ちました。南山麓では低地を埋めて大沼や小沼とそれ等の中に点在する島々ができました。また東に崩れ落ちた山体は内浦湾に達して10m超える大津波となり、噴火湾(内浦湾)沿岸の700人が犠牲となりました。

 この噴火で山頂部には馬蹄形カルデラと呼ばれる凹地ができました。しかしその後の3回の軽石噴火によって凹地はほとんど埋められ、現在は直径約2kmの火口原となり、かろうじて凹地の上部だけが砂原岳などとして残っています。

5. 上空からの駒ヶ岳

この角度の航空写真で見ると山体崩壊の規模の大きさが分かります。噴火湾で10mの津波が発生しましたが、崩壊の正面=出間潤先の沖合ではもっと大きな津波となったに違いありませんが、山体崩壊の方向が太平洋で、対岸がなかったことがまだ幸いでした。

6. 400年前の大噴火

1640年(寛永17年) の噴火は、7月31日に発生した二つの山体崩壊と、それに続く3日間のプリニー式噴火に代表される大噴火です。まずマグマが深部より上昇・貫入。これにより山体が膨張・変形し、南斜面で山体崩壊が発生。この崩壊による岩屑なだれによって折戸川をせき止め大沼・小沼が形成されました。 続いて東斜面で山体崩壊が発生。岩屑なだれにより出来澗崎が形成され、土砂はそのまま内浦湾へ流れ込み大津波が発生、700名あまりが犠牲となりました。

1640年の駒が岳山体崩壊の様子を分かりやすく図示したものです。

7. 駒ヶ岳のジオラマ

このジオラマで、手前の東側に山体崩壊した凄まじさが分かります。山頂の深いくぼみは、昭和4年大噴火した時の火口です。

8. 昭和4年の大噴火

住民は早めに避難したため、人的被害は殆どありませんでした。

9. 九州雲仙岳 眉山の山体崩壊

1792年雲仙眉山で起きた山体崩壊では、有明海の対岸に5m以上の津波が押し寄せ、川をさかのぼって20mにもなりました。熊本側で10,000万人、島原側で5000人の合計15,000人の犠牲者が出、国内最大の火山被害となりました。この大災害は『島原大変肥後迷惑』と名付けられ人々の記憶に残っています。

10. 最も山体崩壊が懸念される富士山

溶岩・火山灰が3,776mも降り積もった成層火山の富士山は、最も山体崩壊しやすいと言えます。実際、富士山は2900年前に大規模な山体崩壊が起きています。

「閑話休題」

私の30歳代は、人事部3年、兵庫電計課2年、国家プロジェクト2年(超重質油分解装置建設PJ)を経て、30代最後は出光エンジニアリング(株)で電気・計装設計担当となり、その最初の仕事が大分県滝上地熱発電所の計装設計でした。(誠に目まぐるしく一貫性のない人事異動でした💦)

昭和50年代の地熱発電開発は、「中東紛争・石油危機で自前のエネルギー開発が急務=政府肝いり事業」で、当初計画では「地熱開発から発電までを出光が事業化し九州電力に売電する」という計画で、九州電力も合意していました。ところが「のど元過ぎれば国策忘れる」で、中東情勢が安定すると再び安価な中東原油一択の火力発電が復活した為、エネルギー多様化は反故同然となりました。そして九州電力は「電気事業法に基づき、発電は電力会社に権利がある」と、手のひら返しで発電事業の権利を主張し始めました。その結果出光は苦労して探査・開発した地熱の蒸気だけの供給会社となり、約3万kwhの発電事業は九州電力のものとなりました。

それは建設終盤段階の話で、私が関与するようになった初期段階では、皆初めての経験で暗中模索でした。そこで計画・設計を担当する4名で当時最新鋭の「北海道電力(株)の森地熱発電所」の見学調査に出かけました。森発電所は火山のカルデラ盆地に設置された世界的にも類を見ない地熱発電所です。発電した後の余熱で大規模ビニールハウス農業を行う画期的な地熱発電所です。しかしここでも、美味しい発電事業は北海道電力で、手間のかかる地熱開発&供給は「日本重化学工業(株)⇒道南地熱エネルギー(株)」でした。(その話はまた別途とします)

その調査旅行の函館空港から森発電所に向かう途中に心を奪われたのは、優美な駒ヶ岳と美しい「大沼公園」でした。40年前に深く感動すると共に、疑問に思ったのは、「どうやってこの美しい景色が生まれたのだろう? 優美な駒ケ岳に不似合いな、あの鋭い“剣が峰”はどうしてできたのか?」と不思議でした。その後20年を経て苫小牧勤務となり、何回も大沼公園を訪れ、地元の図書館などを訪れて、段々駒ヶ岳の凄まじい火山噴火歴史の理解が進みました。