2026年10月2日金曜日

9. 畏友が心血注いだ博多駅再開発

  令和6年末、博多で高校同窓の甲斐君と再会しました。

 博多在住の畏友総治郎君(総ちゃん)が心血を注いだ博多駅周辺再開発の足跡を案内してもらい、家内と感動・感激の連続でした。新技術や熱い思いが至るところにさりげくモニュメント化され、利用客が気付かない温かいもてなしの心がちりばめられていました。その一部を紹介しますので、総ちゃんたち鉄道マンの九州発展センターとして、博多駅ビルへの熱い心意気をぜひ感じてください。

 元々博多駅は沢山の路線が集中し、繁華街や商業施設が作れず、天神地区約2000億円の売り上げに対し博多駅周辺は、その10分の1でした。一番のネックは再開発用地がなかったことです。
そこで線路を統合共用して半分の面積にして、駅ビルや駅前広場用地を確保しました。そして床面積で6倍の巨大な駅ビルが完成しました。
そして14年、いまでは天神3000億円、博多駅ビル2500億円とほぼ同格の繁華街として発展を続けています。

『なぜ福岡市の中心の駅が博多駅なのか?』

その疑問への説明に、私達夫婦は初めて合点がいきました。 博多は古代から発展した商業、貿易の都市。江戸時代に黒田家が那珂川の西側に城下町を築き福岡藩、維新後は福岡県、福岡市となった。その後、福岡市を博多市にしたいという運動が起きたが、最終的に『福岡市』と決まり、その代わり経済中心となる鉄道駅は『博多駅』と決定した。(博多人は名を譲り実を取った訳です。また福岡と言えば『黒田節』ですね。

「福岡国際マラソン歴代優勝者の足跡」

 福岡国際マラソン大会歴代優勝の足形。懐かしい選手探すのが楽しいです。クレイトン、広島日出国、寺沢秀雄、瀬古など・・自分の足を重ねると、意外と小さいのです。

「子を抱く母」(左) ヘンリー・ムーア

 折角の名作が、柵と電飾に邪魔されて鑑賞できません。・・もう少し芸術品に配慮が欲しいです。
ヘンリー・ムーアといえば、箱根彫刻の森の作品が有名ですね(右)

「雨だれ境界」・・在来線(JR九州)と新幹線(JR西日本)の境界

 駅構内で足元に気を付けていると、床タイルが変わるところがあり、この標示に気が付きます。
総ちゃんによると、これは軒下の雨だれカーテンのように、通路には目に見えない「在来線(JR九州)と新幹線(JR西日本)」の境界です。 床タイル、壁模様、テナントまで「雨だれ境界」で分かれています。もちろん行き交う人は、足元を見つめることもなく、誰も気づかず通り過ぎています。(経営トップは本当に変なところで自己主張するものですね)

「駅構内の壁・柱を彩る千住博」

千住博氏監修による壁床柱のテーマ画。無機質な壁柱床に豊かな森のイラストを配し、優しい寛ぎの空間を創出しています。「木の葉、草、花、鳥、虫、魚」をテーマに、市民からイラストを募集して、その作品がちりばめられています。応募した人にとっては「あ、私の作品だ!」と見つける楽しさも盛り込んであります。

「狭い再開発用地確保の決定打」

 元々博多駅は沢山の路線が集中し、繁華街や商業施設が作れず、天神地区約2000億円の売り上げに対し博多駅周辺は、その10分の一でした。一番のネックは再開発用地がなかったことです。そこで線路を統合共用して半分の面積にして、駅ビルや駅前広場用地を確保しました。そして床面積で6倍の巨大な駅ビルが完成しました。
そして14年、いまでは天神3000億円、博多駅ビル2500億円とほぼ同格の繁華街として発展を続けています。

「博多駅ビル屋上」

 近代的高層ビル屋上に出たとたんにこの光景です。我が妻が思わず「この稲は本物?作り物?」と聴くと総ちゃんは「もちろん本物だよ。収穫して神社に奉納後ご飯にしていただくよ。格別に美味しいよ!」



「七福童子」

 鉄道神社の前で電車ごっこして遊ぶ七福童子には、「鉄道網を介して、九州7県がともに発展する!という思いが籠められています。過疎の宮崎県人の私は思わず感涙です。

「2代目博多駅で使われていた柱(左)」

「JR博多シティ建設従事者名板(右)」

 先人の尊い足跡をしっかり残そうという強い思いが感じられます。

 総ちゃんは、「博多駅再開発が成功したのは、一部門のみの都合に固執せず各系統が一致して協力体制を敷き、意識レベルを合致させたことが大きい。高い意識を有する専門家集団が目標に向かって一丸となって進めた時の力はうかがい知れないものがある。この建設従事者名板には上司も部下も関係なく、発注者も元請けも下請けもない。これらを象徴的に表している」と、感慨深げに話しました。 もちろん「甲斐総治郎」の名前も10名くらいの「甲斐さん」の中に控えめに刻まれていました。

「くうてん」 博多駅ビル9、10階はレストラン街

 博多を代表する名店が軒を連ね、最近は天神地区以上のグルメスポットとなっています。(手前の後姿は我妻。小食ですが「どこも美味しそう!」と全部味わいたい様子

総ちゃんお勧め「華都飯店」

 にこやかな話好きな総ちゃん節が止まりません。多種多彩な話題に引き込まれた私達夫婦、我妻は「さすがに大会社JR九州の元重役さんね。一サラリーマンのあなたとは風格が違った」と・・

「目に入れても痛くない美人の娘さん」

 スマホ録画で、音大出身の奥様の素晴らしい歌唱と、低音の魅力の総ちゃんの「君恋し」に酔いしれたあとの話題は可愛い娘さんのスマホ写真。私達夫婦は異口同音で「うわー綺麗!奥さん似かしら?」と言ってしまいましたが・・総ちゃん気を悪くしないでください。あなたも男らしいイケメンです!


9. 常に真摯な人生を生きる(甲斐君)

 高千穂太郎氏(甲斐君)から川柳集「あるがままに」が届きました。

 彼が古川柳に取り組み始めてから8年、令和2年の第1集に続く、この3年間の心の遍歴を余すところなく詠み込んだ胸を打つ作品集です。その表題のように「あるがままに」の境地に達して、74年間の人生の折々に思いを馳せて詠んだ川柳満載です。(なお「俳句=自然の写生、川柳=人生の写生」で、 川柳は人間風詠といわれます。最近はやりのサラリーマン川柳とは違います.。)

 何回読んでも感動で胸があつくなります。甲斐君の74年の人生が凝縮されていると感じます。これは私一人で楽しんでいては申し訳ないので 皆さんへ紹介するものです。しかし90ページの大作ですので全部という訳に行かず 少し編集して紹介します。

1.   生い立ち

 甲斐総治郎君は、昭和24年神話の里 高千穂町に生まれました。


高千穂町は宮崎県北の山深い山村ですが、町の発展の為に無我無私で働くお父さんの姿に、彼自身も物心ついたころから人一倍努力することが当たり前と思って育ちました。またそういう総治郎少年をお母さんは、いつも暖かく優しく愛に包みこみながら応援しました。そして一昨年お父さんが旅立ち、お母さんは93歳となられ、甲斐君は古希を過ぎてもなお奮闘努力の生き方を貫き通しています。

〇古希迎えなお越えられぬ父の壁

〇病む老母今なお祈る子の未来 

2.中学生時代

彼は生来の真面目な性格と、お父さんの刻苦勉励の姿に学び、小学・中学校とも高千穂町始まって以来の秀才で、町の期待を一身に背負いました。中学時代、延岡・日向市を含めた県北統一模試では常に上位でした。また高千穂は剣道が盛んで、彼は中学時代に初段を獲得、文武両道に秀でていました。

〇ふるさとの期待背負って数十年

〇五十年期待の星の重荷負う

〇のぼり旗郷土の華と見送られ

小学6年生の時、担任の先生から「中学になったらラジオ英会話を聴くように」とアドバイスされましたが、当時彼の自宅にはラジオもテレビもなく、町民向けの有線放送しかありませんでした。丁度その頃、お父さんが技能教育実習で真空管式ラジオを作ったので、早速これを使って英会話の勉強を始めました。(お父さんは息子の話を聴いて、急遽制作されたのでしょう。)そして夕方、剣道の稽古が終わって帰宅すると、ラジオ英会話を聴取するようになります。これはのちに日向学院に進学し、米国人の神父さんに中学3年間ネイティブ英語を学んだ学友にも、一歩も引けを取らない英語力の元となりました。

  〇手作りのラジオで学ぶ基礎英語

  〇剣道のあとに汗かく英会話

  〇ラジオ聴く部活の後の英会話



他方高千穂中の学友は、経済的に恵まれず殆ど中卒で集団就職しました。日本の高度成長を支えてきた労働力は、東北や九州の中卒の集団就職組、金の卵と言われた次男・三男・女児で、京浜・阪神・中京地区に大量に送り込まれました。高千穂中も大半は中卒就職組で「総治郎君は高校に行けていいな」などとつぶやく友もいました。

 〇集団で就職の友いまいずこ

 〇中卒で集団就職友いずこ

3,高校生時代

高校は学生寮のある日向学院に進学、そこでも常に学年1・2番を争う秀才でした。高1の中間試験中に、大好きだった祖父が逝去したと寮監に知らされ、試験終了後すぐ帰路につきます。

〇試験明け家路を急ぐ報受けて

〇家路つく祖父の逝去報を受け

日豊本線で宮崎市から延岡へ、さらにローカルの日之影線、更にバスを乗り継ぎ、高千穂町の自宅についたときは既に葬儀は終わっていました。「おじいちゃんを偲んでお別れしたい」と思って帰宅した息子に、お父さんは葬儀の後片付けをしながら、つっけんどんに「早く学校に帰れ」と言います。お父さんは(こっちのことは良いから気にせず勉学に励め)という思いと、お父さん自身が弔問対応を終え、漸く父の死と向き合っていたのでしょう。

  〇「はよ帰れ」葬儀の後の父の言

やむなく後ろ髪ひかれる思いで宮崎市へ帰路につきます。延岡からは夜行の鈍行列車となり、切ない思いで、お母さんの心のこもった赤飯の握り飯を頬張ります。塩味に涙が加わったのでしょう、彼の心にはいつまでも しょっぱさが残りました。

  〇塩辛い夜汽車に揺られ握り飯

  〇赤飯の握りに込めた母心

  〇両親の思いを込めた握り飯

 当時の日向学院は「鹿児島ラサールに追いつけ!」と受験勉強一色でした。数学・英語は高2までに3年間の教科書を全て終え、高3は実戦形式の模擬試験、3年間テストテストで有名大学合格目的の授業でした。徳育を忘れたこういう教師に彼は幻滅し、期待せず、いつも超然としていました。しかし心温かい高千穂の地で育まれた彼の人柄は、心を大切にする学友を惹き付けました。・・先年その親友の永友君が逝去したとの報を悼み、共に大淀川の土手をサイクリングした懐かしい思い出の句を残しています。

  〇夢を乗せ走る自転車川堤

  〇並走す大淀川の爽風(かぜ)うけて

  〇夢語る大淀川の川堤

  〇爽風受けて宮崎弁で語る君

  〇友の逝く大淀川の爽風寒し



4. 大学受験

 高校3年間 抜群の成績で、全国模試でも上位常連だった甲斐君と下村君は、当然のごとく東大を受験し、誰もが二人は絶対合格と確信していましたが・・下村君は文Ⅲ合格、甲斐君は理Ⅰ不合格で駿台予備校へ。しかしこの年の秋から大学紛争が激化、安田講堂事件が発生して昭和44年度入試は中止、彼はやむなく東工大へと進学します。(下村君は安田講堂に籠って戦い中退、その後進学塾を経営しています。つくづく「人生万事塞翁が馬」と感じます。)



「もしあの時東大入試が実施され合格していたら、どんな人生を辿っただろうか・・」と、彼は時々考えます。

  〇一度だけ開かぬ赤門道を変え

  〇一浪に閉ざす赤門道を変え

 この2句から、不運にも大学紛争で入試中止となった口惜しさが伝わります。実施されていれば彼のことだから必ず合格して、建設省(国土交通省)か、通産省(経済産業省)に入省、次官・大臣になって、もうとっくにリニアは運行開始していたことでしょう!・・でも東大ではなく、東工大から国鉄~JR九州専務~九鉄工業社長として活躍し、その一方で古川柳に取り組み「あるがまま」を追求している今の彼の人生の方が『甲斐君らしい生き方だ!』と、川柳集を通読して、私はそう思います。




5. 国鉄入社、国鉄分割民営化へ

東工大で土木工学を修めた彼は『新幹線網を全国展開し国の発展に寄与したい!』と旧国鉄に入社。土木技術を生かせる建設部門志願でしたが、意に反して『保線部門』に配属されました。保線とは『列車が安全に走行するために、人知れず肉体を駆使して、主に深夜に線路状態を維持・改善工事をおこなう』労務中心の大変な仕事です。例えば、当時の列車は垂れ流しだったので、保線職員は汚物に暴露されるような劣悪な環境の仕事でした。甲斐君はそういう色々な問題をかかえる保線部門の管理者として、劣悪環境の改善や労使関係改善に尽力しました。この苦労・経験が、のちの国鉄改革・民営化に優れた経営手腕を発揮します。

旧国鉄は『親方日の丸』で やる気のない職場となっており、国労・動労が支配して仕事よりも組合活動が優先され、経営陣の統率が取れず、真面目に働く人が馬鹿を見る破綻した職場でした。もはや一刻の猶予もなく『国鉄分割民営化』が進みますが、彼は中堅管理者として重要な役割を担いました。全国規模の分割民営化なので、配置転換、出向転籍、早期退職などの大規模な人員整理が必要となります。対応を間違うと三井三池争議以上の労働争議になりかねず、日本の交通は長期的にマヒしてしまいます。この頃寝食を忘れて部下と共に対応尽力した彼の姿が次の句でよくわかります。(現代では想像もつかない凄い上司です)

 〇はしご酒シメはもちろん部下の家

 〇酒びんを持って訪問部下の家

 〇真夜中の家庭訪問ゆがむ笑み

 〇仕事終え家に帰らず部下の家  (妻 詠む)

(分割民営化前後は、社員の処遇、今後の効率的な体制、社内規定・ルール見直しなど、勤務時間はあってもなきが如しだった。勤務後一・二軒飲み屋で議論を続け、最後のシメは部下の家へ家庭訪問。今までの議論に加え、仕事への熱意を互いに確認し、奥方や家族を知り、今後の赴任地の可能性も探った)

6. JR九州、九鉄工業、そして現在

昭和62年に旧国鉄は、6旅客会社、1貨物会社、鉄道総研などの11経営形態に分割されました。分割スタート時は赤字会社と見込まれた『九州・四国・北海道』でしたが、甲斐君はJR九州の経営陣として、主に施設関係の体制づくりに腐心し、関連事業を拡大させるために駅ビル建設・運営・不動産開発、マンション・戸建て住宅事業、ホテル、飲食、流通など多方面の事業開発・運営に尽力しました。その結果、平成28年には売上3829億円、経常利益605億円となり、東証一部に株式上場する優良会社となりました。



甲斐君はJR九州専務を最後に、九鉄工業㈱社長に就任。その後会長・相談役・顧問を経て、令和2年6月退任しました。



現在は、分岐器・レール溶接が専門の鉄道関連会社に勤め、仲間内のゴルフ、会食で級友を温めるほか、ウォーキング、OB会活動、町内会活動,オヤジバンドの発表会など多彩な活動に取り組んでいます。

中でも九鉄工業時代から、ロータリー活動で主導的役割を果たし、またその後の“懇親・精神鍛錬の場”として『川柳同好会=イブ川会』を8年前に立上げ、会長・世話役を務めてきました。その8年間の句作の集大成が 『あるがままに』 川柳集(2)です。



A4版90ページにびっしりと、作品・随想が盛り込まれています。古川柳が『人生の写生」を目指している通り、彼の74年の濃密な人生の集大成です。その中心には甲斐家の温かく深い絆が貫かれており読むたびに胸が熱くなります。

なお表題の『あるがままに』 は、4度目の転職で仕事が思い通り進まぬ甲斐君に、奥さんが「あるがままに生きていけば」とアドバイスされ、その一言にハッと目覚め生き方を変えたことにちなんでいます。なんと謙虚で柔軟な心を持った男なのでしょう!『この大人物の陰に、この良妻賢母あり!』ですね。「転んでも立ってもお釈迦のたなごころ」は、きっとその奥様を詠んだ一句なのでしょう。

7, 最後に・・愛する奥様への熱い思い溢れる句の紹介

 〇おかあちゃんやっぱりあんたでよかったよ

   〇新鮮だ!突然のハグ誕生日

 〇薔薇よりも桔梗のような君が好き

 〇食に惚れ雰囲気に惚れ妻に惚れ

〇昔妻いまは俺泣く夫婦愛

〇ちょっとした妻の動きに思い知り (我家は下5:ビクビクし)

〇「あれ、あれ!」にピンとくるまで40年

 〇歳重ね虚心に順応妻(カミ)の声

 〇妻(カミ)の技 炊事洗濯風呂掃除

 〇忘れ物無いかと車中で妻が問う

 〇家事家計しっかり者のゴリョウサン

〇忖度す妻と二人の三が日

〇手料理に愛しい妻が味見する

〇華やかな薔薇より痛い妻の棘

 〇夜更けまで薔薇百万本を唄う君

 〇惚れ直す舞台の妻の晴れ姿


9. 高校・剣道勝ち抜戦の想い出

  私の母校は成績重視の高校で、印象に残る事が少ない3年間でした。

しかし体育の綾部先生はスポーツへの熱意が凄く、またクラス全員がスポーツ音痴に近いガリ勉タイプでしたので、スポーツ苦手の私でも、少し努力すれば面白さを満喫出来ました。

1. ラグビー・・よく県大会に出場していた俊足の河野義和君にボールが渡ると独走になるので、私はその前にタックルする役割に徹し、鈍足の私でも『確かに男らしいスポーツだ!』と実感しながら夢中になりました。

2. 剣 道・・私が大好きなTVドラマ 「半沢直樹」 は甲斐総治郎君とダブります。 甲斐君は剣道盛んな高千穂出身、中学時代に有段者で、初めて防着をつける私達は赤子のようなものでした。 しかし綾部先生の 『授業の最後にクラス全員の勝ち抜き戦をやる』 の宣言に、『よし、甲斐君に勝ってクラスの剣道トップに立つぞ!』 と、負けず嫌いの私は燃えました。

それから下宿に帰ってから1~2時間、綾部先生から指導を受けた素振り、足さばきの練習を繰り返し『これなら竹刀のスピードは甲斐君にも負けない』というところまで来ました。しかし目標は有段者の甲斐君に勝つことです。基本の練習だけではとても勝てません。

『なにか得意技=秘剣が必要だ・・』 と考え付いたのが、佐々木小次郎の 『燕返し』です。甲斐君の鋭い第一撃を強く払いのけ、その反動で鋭く 横面か小手 をとる・・これを何回も練習しました。そして実際に試してみたいのですが、残念ながらイワツバメがいません。しかし格好の練習相手を見つけました。夕方に下宿前を何十匹ものコウモリが飛び交うのです。コウモリは自前のレーダーを持っており、障害物があってもひらりとかわして身の安全を確保します。『よし、あれを切り落とせば秘剣完成だ。名付けてコウモリ返しだ!』。そして精神を統一して正面に飛んでくるコウモリに切りつけました。 

コウモリが当然のようにヒラリとかわし、横をすり抜けるのを 『小手!』 と払うとバサリと手ごたえがありました。左足元を見ると翼を折られたコウモリがモソモソとうごめいています。

『できた!』 満足感から覚めると、コウモリの祟りはないか心配になり、そっと傷ついたコウモリを森に逃がしました。(コウモリ仲間に助けてもらえよ・・と念じながら) 

そして待ちわびた剣道最終日、名簿順の勝ち抜き戦が始まりました。

安藤英人君、五十嵐君、石崎君、稲井君、岩切君・・と順調に退け勝進みました。5人とも密かに研鑽を積んだ私の相手ではなく『あと4人で甲斐君だ・・』と思っていたところに、思わぬ落とし穴がありました。それは浦元君(現同窓会会長のお兄さん)です。真面目でおとなしい中高一貫組の中では規格外の西都の野生児です。『構えて、始め!』 の声がかかると、構えも何もあったものではありません。へっぴり腰で『ワー、ワー!』と大声でわめきながら、そこら中を動き回り、まるでガキ大将のチャンバラです。『これは剣道じゃない、どうするか・・』と思っているところに、無茶苦茶振り回していた彼の竹刀が腕に当たりました。

『小手、一本!』綾部先生の無慈悲な声が響きました。

『えー、それはないよ!』・・しかし体育の武道体験授業で判定は覆りませんでした。そのあと甲斐君が勝ち進んでいきましたが、私は放心状態で興味を失っていました。

 『敵わないまでも、甲斐君にコウモリ返しを使ってみたかった』いまでもそう残念に思っています。 

(エピローグ)

〇甲斐君:旧国鉄民営化に尽力、JR九州専務、九鉄工業社長・会長歴任

〇浦元君:国際的活躍、ユニセフ、ILOアジア局長、上智大特任教授

9. 輝き続ける義和君の ”人生讃歌”

  長い人生で高校3年間は、社会飛翔前の「サナギの時代」です。

「自分は一体どういう人間か? どう生きるか? 大学で何を専攻し将来どんな仕事をやるか? 」そういう悩みは尽きません。周囲を見渡すと脇目も振らず受験勉強に励む学友だけ、私はボンヤリしていて、あっという間に3年が経過しました。そういう印象に残ることが少ない私の高校時代ですが、ひときわ輝く学友がいました。それが「日向学院の裕次郎=義和君」です。

彼は入学当時から存在感があり、まるで都井岬の野生馬のように自由奔放で存在感があり、大きな旋風を巻き起こしては私達を驚かせました。当時の彼は「日向学院に嵐を呼ぶ男」で、本人も裕次郎を意識して行動していました。(写真のサングラス男が義和君、その右が私)

石原裕次郎は、生涯を心優しく自由闊達に生き、光り輝く国民的大スターでした。そして50年後の同窓会で再会した「学院の裕次郎」の人生も目を見張るようなエピソードに満ちています。今回はその一部を紹介します。(なお50年前であり微妙な話もありますが、本人から掲載了承は貰っています。) 

1.エピソード➀ 「真夜中に女子高の円形校舎屋上に登頂!」

串間中出身の義和君は、野生馬のように奔放で行動的でした。近くの宮崎女子高へ通学する女生徒を寮のベランダから眺め品評会。「今のは80点。今度は今一だ。これは〇〇〇がクサル」などと、およそミッションスクールにはふさわしくない、当方は真っ赤になるような品定めでしたが・・・

そういうことに驚いていたら、ある朝 「昨夜 谷川君と二人で女子高の円形校舎屋上に登ってきたよ」というので、私達寮生友人みんなビックリ仰天です。「おい義和君、バレたら退学ものだぞ!」しかし彼はケロリンタンです。「昼間ここに登ったら、全校の女生徒を眺められたのに・・と残念だったよ」・・ムムッ!この男は本当に大物だ!

ところがその10年後に本当の動機を聴いてさらにビックリでした。彼の本当の目的は、円形校舎のてっぺんから宮崎女子高の女子寮を覗きたかったからだとのこと。‥その結果、「あいつら勉強などせず、お化粧の勉強に一生懸命だったよ」

2.エピソード➁ 「英語詩暗記宿題に真向から反抗」

 2年一学期の授業で、スマイルマークそっくりの英語東後先生が 『H・W・ロングフェローの英詩 A PSALM OF LIFE(人生の讃歌)を次の授業まで暗記してきなさい』 と宿題にしたのを『そんなこと何の意味があるんですか!』と、義和君が真向から異議を唱え大激論が始まりました。 

中高一貫組35名は中学3年間、米国人のマックリンデン先生が担任して県の英語弁論大会で上位独占してきた英語力抜群の生徒たちです。「そんな簡単な宿題に反抗して・・」と迷惑顔です。
 他方地方から高校転入の私は、ピコ太郎の PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen )レベルの英語力・・「義和君頑張れ!」と内心応援です。しかし教師の名誉にかけて頑張る東後先生が「覚えてもみないのに何故意味がないといえるのですか。まず覚えてから抗議しなさい!」と一歩も引かない姿勢を見せ、それ以上食い下がっては先生の顔をつぶすと悟り「わかりました!」と義和君は引き下がりました。・・そして次の日、彼は見事「4行9節の英詩」をスラスラと暗唱して見せました。彼は自身の美意識からガリベン嫌いで、納得できないことを率直に述べていただけで、本当は抜群の頭脳の持ち主でした。(私は残念ながら半分くらいしか暗唱できませんでしたが・・)

この場面は50年以上経過した今も深く印象に残り、高校・大学の全テキストはとっくに処分しましたが、この英詩 A psalm of life が掲載されている高2英語Reader だけは捨てきれず、今も大事に保管しています。義和君の思い出とともに・・この文末に全文を掲載していますので、ぜひ皆さんも味わってみてください。

【なお、1年生から担任だった西島先生は、試験の点数や成績しか眼中にない初老の偏屈な数学教師で、高校スタートから腹立たしく暗い授業でした。義和君が最初から反抗的になったのは西島先生のこういう態度でした。「甲斐は今回100点満点だったが、義和は今回98点で、まだまだダメだな」

西島先生は雑談で自分の奥さんを「うちの飯炊きは」と蔑称で話されるのにはみんなウンザリでした。自由奔放で型にはまらない義和君には特に風当たりが強く、何でもないことで毎日文句をつけぶつかり、授業出席不要と草むしりをさせられました。「義和君もよくめげないな・・」と感心しましたが、若い数学教師の丹生先生が、義和君を陰で援護してくれたそうです。(丹生先生は後に教頭になられました)。 西島先生は2年生時、脳溢血で倒れられ担任は国語の大川先生となりました。人格者の大川先生が「入院中の西島先生をお見舞いに行こう」と希望者を募りましたが、みんな顔を見合わせるばかり・・自主的に大橋君ら寮生が見舞いに行くと西島先生は涙を流して喜ばれたそうです。

一方で「義和がまだ見舞いに来ない」と愚痴っていたそうですが・・50年たっても彼は「あんな扱いを受けて誰が見舞いに行くかよ!」です。全く同感です。】

3.エピソード➂ 「仮装用女性服を 宮女高教頭先生宅へ借りに行く!」

 毎朝学生寮ベランダから眺める宮女高通学生の中で抜群の美形が、寮近くの宮女高教頭先生の娘さんで、下宿生も何人かいることを突き止めた彼は、なんと教頭先生宅を堂々と訪問。「体育祭の仮装行列で使うので女性服を貸してください」と交渉したのです。何しろ品行方正で有名な日向学院の生徒の依頼ですから教頭先生も娘さんたちも快く受諾してくれました。それが今も残る女装の義和君です。あのヤンチャ坊主が中々の美形です!(後述しますが、彼は社会人になってからもっと美人で素晴らしい女性と出会い一目惚れ。その直後プロポーズして結婚しました。)

4.エピソード④ 『足が長くスタイル・運動神経抜群!」

「学院の裕次郎」を自認するだけあって、彼は足が長くスタイル・運動神経抜群でした。体育祭の200m走は後続を20m以上離してブッチギリ。サッカーもラグビーも彼がボールを支配すると試合にならないので、束になって彼にパスができない様に壁をつくりました。俊足の彼は中学時代から陸上競技選手、高校でも毎年県大会出場しました。 

・・高校時代のエピソードは、まだまだ沢山あったと思います。そいう規格外の義和君の社会人生活はどうだったのか・・2年前の50年周年同窓会で一番興味ありました。そして聴いた話は私の想像以上の波乱万丈人生で感動の連続でした。(次からは、その談話記憶です。)

5.エピソード⑤ 『大学入学後視力を失い大手術し中退』

 大学1年の時遊びで上京したとき、偶然にも山手線で、かってのクラスメートと(藤沢君?)ばったり出会い、お互いに『東京で会うなんて奇跡だね!』と、その時のやり取りを50年たってもはっきりと覚えているそうです。

 電車の中で突然『義和君、まだ暴れているの?』と話しかけられ『いや、今は暴れていないよ』と答えると『ああ、やっぱり義和君だったんだ。目つきが前と全然違うよ!』と返ってきました。そして『電車の中で先ほどから義和君に似ている人がいるが、本当に彼だったら声を掛けると大変だと思い、声を掛けられなかった。しかし、目つきが昔の義和君でなかったので、恐る恐る声を掛けたんだ・・』

大学1年の時、彼は突然視力を失いました。回復の兆しがないため串間の自宅に帰郷し療養することになりました。この時は暴れん坊の義和君も、さすがに『いったい、オレのこれからの人生はどうなるんだろうと、暗澹たる気持ちだった』 ということです。 

自宅近くの眼科で治療を受けていましたが、精密検査を受ける必要があり、眼科医から「精密検査結果が出ても当院では治療ができないので鹿児島医大に入院したほうが良い」ということになりました。彼はこのかかりつけの眼科医を今も感謝しています。 大学病院で検査すると、かなり黄斑変性が進んでおり「眼球を外に取り出して網膜を縫合する」という大手術を受けました。幸いなことに手術は大成功、療養すること半年で視力はすっかり元通りに戻りました。

6. エピソード⑥ 『奥様との運命の出会い」

視力が回復した彼は大学を中退し宮崎市でホテルマンとして働くことになりました。

そういうある日、お客さんを観光案内して堀切峠の「フェニックスドライブイン」に立ち寄った時、これからの所要時間が読めず、観光案内していた宮交のバスガイドに「鵜戸神宮に行って空港に帰る所要時間はどのくらいか?」と尋ねたところ、若いガイドさんが実に適切に対応してくれて感心しました。

彼女に「お客さんを送ったらすぐ戻るから待っていてくれ」と言い残し、お客様を空港に送った後、彼女がまだそこにいるのを願いつつ急いで引き返しました。しかしあの素晴らしい宮交バスガイドは出発しており、当然そこにいません。・・それから義和君は宮交に問い合わせ、その時間帯に堀切峠にいたガイドを必死で探します。それらしい女性が宮交女子寮で暮らしていることを突き止め、女子寮の玄関前に自家用車で乗り付け、かの女性との面会を求めました。その当時「宮交バスガイド」といえば全国で有名な超エリート花形集団です。もちろん女子寮に直接乗り付ける男性など前代未聞です。「何事なのか?」と若い女子寮生のやじ馬が鈴なりの中、現れたのは確かにあのときの素晴らしい対応をした女性でした。義和君はその場で「僕と結婚してくれ!」とプロポーズしました。その女性は大分から宮交に就職したばかりの20歳、あまりの突然の結婚申し込みに返事もできず、目を白黒させていたそうです。そして数日、この義和君の強引なプロポーズに運命的なものを感じた彼女はすぐに退職し、大分の実家に帰って事情を話し、結婚準備のために宮崎に帰ってきました。

驚いたのは義和君のご両親です。「そんな若い女性が一大決心したんだから、向こうのご両親に正式に挨拶に行かなければ義理が立たない!」と、義和君を連れ立って大分に赴き、正式な結婚申し込みの話し合いとなりました。

それから50年、二人はいまもアツアツの熱愛夫婦です。「24歳の自分のインスピレーションに間違いはなかった。いまも最愛のできた家内だよ」と語る義和君の目は穏やかで優しく、あの高校時代の野生の目はすっかり消えています。

「真面目に生きていれば、必ずいいことがある」が彼の口癖です。

7. エピソード⑦ 『LEMAN HOTEL支配人に、そして今』

その後南宮崎に1973年オープンのLEMAN HOTEL の支配人となりました。色々な独創的企画でホテルは順調に伸び、「ホテルマンとして充実した仕事人生を送った!」と、40周年となった2013年9月に 区切りとしてホテルを閉鎖しました。その後は要請に応じ 経営者団体や官公庁で講演や指導を行って、宮崎市の発展に貢献しています。

「A Psalm of Life」(人生讃歌)   

               Henry Wadsworth Longfellow

Tell me not, in mournful numbers,

Life is but an empty dream!

For the soul is dead that slumbers,

And things are not what they seem.

 

Life is real! Life is earnest!

And the grave is not its goal;

Dust thou art, to dust returnest,

Was not spoken of the soul.


Not enjoyment, and not sorrow,

Is our destined end or way;

But to act, that each tomorrow

Find us farther than today.

 

Art is long, and Time is fleeting,

And our hearts, though stout and brave,

Still, like muffled drums, are beating

Funeral marches to the grave.

 

In the world’s broad field of battle,

In the bivouac of Life,

Be not like dumb, driven cattle!

Be a hero in the strife!

 

Trust no Future, howe’er pleasant!

Let the dead Past bury its dead!

Act,—act in the living Present!

Heart within, and God o’erhead!


Lives of great men all remind us

We can make our lives sublime,

And, departing, leave behind us

Footprints on the sands of time;—

 

Footprints, that perhaps another,

Sailing o’er life’s solemn main,

A forlorn and shipwrecked brother,

Seeing, shall take heart again.

 

Let us, then, be up and doing,

With a heart for any fate;

Still achieving, still pursuing,

Learn to labor and to wait.

 

悲しげな調子で言わないでください、

人生は儚い夢だ!と。

眠っている魂は死んでいるも同然、

その魂が見るものは真実ではない、

 

人生は現実だ! 人生は本質だ!

そして人生のゴールは墓場ではない;

塵から生まれ、塵に還る、

魂のことではない。

 

最終の目的地、進む先は、

喜びでもなく、悲しみでもない、

行動すること、今日の行動が明日を導き、

明日の行動がそのさらなる明日を生む。

 

芸術は長く、時の流れは速い、

我々の頑健で勇敢なる心臓も、

常に、重苦しい太鼓のように、ビートを刻む、

それは墓場へと向かう葬送行進曲。

 

この世界の広い戦場で

人生の野営地で、

黙って追い立てられる家畜になるな!

戦い、英雄となれ!

 

未来を信じず、今を楽しめ!

過去は死んだ過去に埋葬させよ!

行動あるのみ ―生きている現在に行動せよ!

心に勇気を、頭上に神を抱いて、


偉大な人々の人生は教えてくれる

我々も人生を昇華できると、

死んだときには、

時の砂の上に残した足跡を残せることを

 

その足跡を、ひょっとしたら他の誰かが、

人生の大海原に船を進め、

侘しく難破した仲間が

見つけ、勇気を奮い起こすことだろう。

 

やらせておくれ、奮起して励もう、

どのような運命が待ち受けようが勇気を持って;

必ずやり遂げ、絶えず追い求め、

力を尽くし、待つことを学ぼう。