今回は故郷山田町の恩人・偉人「石川理紀之助翁物語」です。明治時代中期、極貧にあえいでいた宮崎県北諸県郡山田村(現都城市山田町)を発展に導いた秋田の農聖です。
現代は物質的に豊かになりましたが、楽して大金を得るために「オレオレ詐欺」や、ホワイト案件バイトに騙されて「強盗殺人」まで起こしてしまう心が荒廃した恐ろしい時代になりました。石川理紀之助翁の箴言「寝ていて人を起こすことなかれ」(自分は楽して人を働かせる堕落した人間にはなるな。刻苦勉励・率先垂範して世の為人の為に働くことが、人として尊い生き方だ)が、今ほど私達に求められる時代はありません。
桜島は世界でも有数の活火山で、有史以前から大災害をもたらしています。中でも1779年に発生した安永大噴火では、南岳から錦江湾へと噴火が移動し6m以上の大津波発生で 150名の死者が出る大被害となりました。灼熱地獄で人は住めず 148名の島民が山田村谷頭(現都城市)に移住しました。しかしここも約2万年前の姶良カルデラ噴火で出来たシラス・軽石台地で、水田はできず荒れた土地だったため、取れる作物はソバやサツマイモだけで想像を絶する貧困の開拓生活でした。
この極貧の人々を救いたいと鹿児島出身の大実業家 前田正名は関之尾の滝から用水路を引く計画を立て、坂元源兵衛の技術力を得て明治35年に「前田用水」が完成しました。・・しかし120年も貧困の只中に会った村人達は広大な原野と用水を生かす気力がありませんでした。『用水路が完成しても村人の心は荒んだままでは生活向上はない。しかしこの住民は人智幼稚だが純朴な心は全国比類ない。ここはあの農聖と謳われる秋田の石川理紀之助先生の助けを依頼するしかない!』 と、渾身の手紙を書き現地指導を依頼します。理紀之助は、この手紙に心打たれて7名の同志を連れて協力することを約束しました。【・・続きは山田町在住の瀬之口ヤス子さん著の絵本 ”秋田からの爽風(かぜ)” をお読みください】
今からおよそ240年以上前(安永8年・1779年)、鹿児島の桜島が爆発的噴火を起こしました。家を焼かれ、すべてを失った人達が逃げまどい、ようやくたどり着いたところが谷頭でした。
それから120年の月日が流れ、明治の中頃になりました。谷頭は荒れた野原に竹が沢山茂り、取れる作物はソバやカライモばかり。人々の暮らしは、とても貧しいものでした。
前田正名は、その土地を眺めながらつぶやきました。
「ああ、水さえあればなあ。谷頭を始め、多くの人達が稲をつくり豊かな暮らしをすることができる。よし、ここに用水路をつくろう。」 正名は、みんなが生き生きと暮らせる豊かな村を作りたいと大きな夢を描き、工事に取りかかったのでした。
当時の用水路は大雨のたびに崩れ、工事には長い月日と莫大なお金がかかりました。正名は困難に負けず工事を進め、完成したのは明治34年でした。しかし村人たちは水を使って農業をしたことがなかったため、興味を持ってくれません。おまけに正名は、お金をすっかり使い果たし、次に描いていた広大な田んぼを作る夢を果たせなくなってしまいました。 その年の12月、正名は悩んだすえ、心から尊敬していた秋田県の親友、石川理紀之助に手紙を書きました。
「石川先生、私はこのたび谷頭に用水路を作りました。今度はここに水を引き、600町歩(約600ヘクタール)の田んぼを作る計画です。しかし私はお金をすっかり使い果たし身動きが取れません。 そこであなたと同志の皆さんが、秋田の村々を貧乏のどん底から見事によみがえらせたように、ここにきて村おこしの指導をしてほしいのです。ただ今の私には皆さんの寝起きする小屋と食べ物くらいは用意できますが、お礼のお金も旅費も準備できません。厚かましいお願いですが、それでもどうか。この正名に力を貸してもらえないでしょうか。」
秋田県でこの手紙を受け取った理紀之助は、この時57歳。何回も読み返し、嬉しさで胸がいっぱいになりました。遠い九州の谷頭から、親友が今までの自分の仕事を認め、このように頼んできたのです。 理紀之助は大きな心を持った優しい人でした。そして、日本各地で貧しい農家を救うために力を尽くした、意志の強い優れた農業指導者でした。たとえどんなに遠くても、どんな困難が待ち構えていようとも、苦しんでいる人たちをほおってはおけませんでした。理紀之助の心は決まりました。 翌年の正月早々のこと、理紀之助は、ともに苦労して村づくりに励んできた同志たちを集め、静かに語り始めました。
「わしは、正名様のもとに行ってお役に立ちたいと思っております。じゃが、旅費や滞在費など一人100円(現在の100万円ほど)の大金を工面しなければなりません。また指導はしますがお礼は出ないのでな。期間は半年と決めていますのじゃ。このような厳しい条件ですからね、無理強いはできません。どうかよく考え、家族と十分話し合って返事を下さらんかな。」
一同は、理紀之助のどこまでも高い志に深く感動しながら家路についたのでした。
しばらく経ちました。理紀之助のもとに、それぞれ大変な思いをしながら旅の準備を整え、「先生にお供して、是非勉強したいのです。」と、7人が申し込んできました。親友、森川源三郎のほか、伊藤与助、佐藤政治、伊藤甚一、田中源治、伊藤永助、佐藤市太郎たちです。30歳代の若者も交えた、いずれも素晴らしい同志たちが揃いました。「おうおう、皆さんが一緒に行って下さるか。ありがたいのう。」
理紀之助は、7人の尊い気持ちに感謝しました。そして、自分もまた「お父さんの体が心配です。」と気遣う家族を納得させ、死を覚悟で財産はすべて子供たちに分け与え、旅支度を整えました。
明治35年(1902年)4月2日、秋田の白い雪と冷たい風に見送られ、8人は出発しました。歩いたり汽車や船を乗り継ぎ、鹿児島を経て、国分から馬車に乗って谷頭についたのは、4月20日午後5時を回っていました。
「これは石川先生、皆さんも遠い所をよう来てくださいましたな。なんとお礼を言えばいいのか・・。本当にありがたいことです。」
「おうおう前田様、久しぶりでございますな。わしら8人、とうとうやってまいりましたぞ」
茅葺屋根の一歩園事務所が、笑顔であふれ、活気を帯びてきました
一行は、挨拶を済ませると早速板の間に上がりました。理紀之助が言いました。「村人の指導に来たのですから、一日たりとも無駄にできませんぞ。」
その言葉にうなずきながら、明日からの行動計画と自分たちの毎日の仕事を決め、壁に貼り付けました。それは故郷でも実行してきた規則正しい生活時間割でした。そして明日から始まる谷頭での生活を思いながら眠りにつきました。
翌日理紀之助は70人の村民を前に、ここに来た目的を話しました。
「皆さん、我々は日本各地で農家に指導をしてまいりました。ここでも皆さんの暮らし向きが少しでも良くなりように手伝いたいのです。そのためには、皆さんが行動を起こすことです。節約して貯金すること、早寝早起きして勉強や仕事に精出すこと、悪い生活習慣を改めることなどが大切です。そこで、まず早起きから始めましょう。明日から板をたたいて起きる時刻を知らせますからな。無理しないで少しずつ体を慣らしていきましょうかね。」
人々は理紀之助の話を、ただただビックリして聞いていたのでした。
早速、理紀之助たちは人々の暮らしぶりを見て回りました。そこで目にしたのは、想像をはるかに超えた貧しさでした。家は小さいうえとても古く、屋根が破れ壁も囲いもありません。外の便所には屋根もない有様です。食器もなくソバや芋などを手づかみで食べています。人々は破れた長い着物を着て裸足で歩き、働く意欲もなく遊んでばかり、文字の読み書きもできませんでした。おまけに、秋田弁と薩摩弁とでは言葉も通じないため、理紀之助は、村の人々にふさわしい指導法を懸命に考えました。理紀之助は7人を集め指導の仕方について話し合いをしました。
「ここは秋田と同じ様な指導法では通用しないでしょうな。まず指導するという気持ちを捨てて、こちらから村人に溶け込むことにしましょう。またこの地区や人々の悪口は決して言ってはなりませんぞ。私共の生活の仕方や行動を見せて、気付いてもらう事にしましょうな。」
翌日2時に板をたたく音が響き渡りました。村人は誰も起きてきません。けれども理紀之助達は無理に起こしたりしませんでした。そして村を回り行きかう人達に、にっこり笑って挨拶することから始めました。するとまず子供達と仲良くなりました。彼らは一行の姿が見えると。家の中から一斉に飛び出して挨拶します。中には村はずれで、挨拶したいと待っている子供もいたので、優しい理紀之助は、わざわざ遠回りをして一歩園に帰りました。やがて、村人も自然に笑顔で挨拶を交わすようになりました。
谷頭に来て4日目のこと、理紀之助達は、一歩園に夜学を開き人々に学問を教えることにしました。最初の生徒は36歳の福島嘉之助ただ一人でしたが、次の夜から仲間が段々増えていきました。村の有力者たちが進んで参加したのです。嘉之助が思い切って言いました。
「先生、2時に起きるのはこの地区に合わないと思います。それに夜学でもっと勉強もしたいのです。夜9時に寝て、朝3時に起きる時間割に直してください。そうすれば早起きする人も増えると思います。」
次の朝から、3時に板をたたく音が響き渡りました。まだまだ村には起きる気配がありません。理紀之助は、人々が早起きしないのは仕事がないからだと考え、竹細工やわら細工の指導もすることにしました。まず8人が秋田に伝わるワラジ、モッコ、竹細工などを作って見せて、
「今朝、ワラジを作り庄内の店で売ったら、何と10銭儲かりましてな。もっと儲かったのはこの森川さん、竹かごを売ったら15銭の儲けだったそうな。」と、朝仕事で儲けたことを教えました。すると朝仕事をする人が一人二人と増えていきました。
理紀之助は、この土地の事をもっと知りたいと思いました。そこで各家を訪ね、人々とじかに話し、農具を調べ絵に描き写したり、地区の地図を作ったりしました。そのうち理紀之助達のつつましく誠実な人柄を慕って、一歩園には大勢の人たちが訪ねてくるようになりました。夜学には子供たちの姿も見えます。早起きする人もぐんと増え、村中が明るく生き生きとしてきました。
5月になりました。理紀之助は、次に人々が貧しさから抜け出すためには、節約して貯金をすることが大切だと考えました。そこで庄内郵便局に協力を頼みました。そして谷頭、野々美谷、竹脇、浜川、麓、森田、今屋、宮島、干草場地区などに、雨の日も風の日も歩いて通い、貯金の大切さや節約すること、真面目に働くことなどを教えて歩きました。
また、竹細工などの展覧会を開き、秋田から持ってきた金で賞金を出したり、子供が作った藁草履などは褒めて買ってあげました。さらに地区の人が差し入れた卵なども買い上げ、その金をまとめて郵便局に持っていきました。村人は、届けられた通帳に感激し、生活に張り合いを感じるようになりました。
理紀之助達は、休む暇もなく人を集めて指導することが多くなりました。人々は、理紀之助の生きてきた道や、秋田での様々な体験を聴き、学問は、世の中で役立つ人になる為に必要なこと、食べ物、着物、住まいにはお金を掛けず、節約したお金もまた、世の中で十分生かしていくことなどを学びました。
村のお母さんたち向けの勉強会も数多く開かれました。理紀之助は、先祖やおじいさん、おばあさん、両親などを大切にすること、子供の教育は口やかましく叱らないで、ごく静かに諭し、親が正しい行動をして見せること、また料理や裁縫、衛生や身だしなみの事、正しい言葉使いなど、女性の心得について教えました。人々の心は次第に目覚めていきました。
田植えの季節を迎えました。理紀之助は、田んぼや農業については、正名の計画や人々のやり方を大切にしたいと考え、口出ししないと決めていました。しかし初めて稲を作る村人は、理紀之助を頼って、絶えず相談に訪れました。そこで、水を引く為の溝作りや、みんなが納得する水の分け方、更に各地に模範の田んぼを作り、畦作りや代掻き、肥やしのやり方、稲の種類など、稲作りの基本を教えました。
夏になりました。理紀之助たちの親切な指導が人々の心を動かしていました。
「一歩園に行けば、何でも丁寧に教えてもらえるよ。」と評判になり、夜学は増々増えていきました。大人も子供もこぞって、読み書き、習字、算数、そろばんを習い、同時に、人として大切な礼儀作法、道徳などを身に着けていきました。さらに、理紀之助たちは地元の材料を使った竹細工やわら細工なども、一人ずつ手を取って教えました。
やがて勉強が楽しくなった生徒たちは、帰る時間も惜しんで一歩園に泊まるようになりました。小さな事務所に60人から80人がひしめき合ったと言います。夏は蚊が多いので蚊帳が必要でした。しかしあいにく6人分の蚊帳が1枚しかありません。そこで同志の一人が理紀之助に尋ねました。「先生、蚊帳にはどうせ入りきりません。いっそ吊らないでおきましょうか?」
すると理紀之助は、「いや、この子達の親の気持ちを考えなされ。大事な子供が、ここに泊まって蚊に刺されるとなれば心配じゃろう。蚊帳は吊りなさい。頭だけ蚊帳に入れて、足の方には毛布や布団をかけることにしましょうかな。」と答えました。そして自分たちの布団も子供たちにかけてあげました。どこまでも優しい理紀之助を、子供たちはまるで自分の親のように慕ってていきました。
学ぶ喜びは、素晴らしい効果を上げ、夜学生たちは短歌も詠めるようになっていました。そのエネルギーは大きなうねりとなって村中を包んでいきました。
次に理紀之助は指導の締めくくりとして、これまでの先祖の苦労を将来に伝えることが大切と考えました。そこで村を大切にする標として「島移りの碑」を建てることを提案しました。人々は大きくうなずきました。8月の半ばになりました。朝2時、暗がりの中を理紀之助と村の代表4人は、3里(約12km)離れた御池目指して歩いていました。「島移りの碑」に使う大きな石を見つける為です。ぎらぎらと夏の太陽が照り付けてきました。5人はあちこち歩き回り、午後になってやっと目当ての石を見つけることができました。皆疲れ切っていましたが、ほっと安堵しながら家路についたのでした。
今日は、いよいよ石を切り出しに行く日です。午前1時、村中の人達が一歩園に集まりました。このうち御池に行けるのは一家に一人ずつです。人々は、理紀之助達のあとからいくつもの隊列を作り、鐘や太鼓を打ち鳴らし、にぎやかに出発していきました。
御池につくと、力を合わせ石の切り出しにかかりました。暑さと硬い石との戦いは一日中続き、石が一歩園についたのは午後6時頃でした。出迎えた村人300人は、網をかけ引っ張ってきた大きな石に驚き、「わあー、すごい。大変だったね。本当にご苦労さま。」と口々に労をねぎらいました。次に理紀之助達は「島移りの碑」を完成させるための準備に取り掛かりました。夜、老人たちを集め、桜島から移り住んだ33戸の人々の名前や、その頃の様子を詳しく聞きました。そして理紀之助は心を込めて石に文字を書きました。工事代金は、村人と理紀之助達の寄付金で賄うことにしました。9月になると、いよいよ土台つくりが始まり、鹿児島から石職人も到着しました。作業はどんどん進み、9月の半ばに待望の「島移りの碑」が完成しました。人々は心のより所ができた喜びを噛みしめながら記念写真に納まったのでした。 【石碑完成は明治35年(1902年)9月16日】
秋風が吹き、理紀之助達が秋田に帰る日が迫っていました。一行は忙しさを縫って、こつこつと調べた谷頭の人口や、この地に適した作物の事、実施した活動や生活指導の全てを記録し、その文書を置き土産として残しました。また青年たちには、理紀之助の志を受け継ぐことができるように、158日間に及んだ夜学会の事や、日課としていた貯金のまとめ方を教えて、帳簿を引き継ぎました。
9月が終わろうとしていました。理紀之助達は、指導したすべての地区に挨拶回りを済ませ、秋田へ帰る準備をしました。一歩園には別れを惜しむ人々が、次から次へと訪れました。遠く離れた秋田県からはるばるやってきて、この村が良くなるように、労を惜しまず尽くし続けた理紀之助と同志たち。村人は言い尽くせないほどの感謝と、離れがたい思いに泣きながら眠りにつきました。
明治35年10月1日、6カ月の指導を終え、理紀之助達が村を去る日が訪れました。
一行は午前3時に別れの板をたたきました。松明の灯かりに、夜学性や村人達の涙でくしゃくしゃになった顔が見えました。理紀之助達は、ともに「島移りの碑」を拝み、見送りは鵜の島までと約束して出発しました。
長い坂道を2キロほど下り、鵜の島の橋のたもとに着きました。夜学性108人の周りを大人たちが囲み、地区ごとに整然と並んだその数200人。みんな同じように大きな声で泣いています。理紀之助が挨拶に立ちました。
「みなさん、体を大切にするのですぞ。これからも共に学び、力を合わせて自分たちの故郷を盛り立てて下されよ・・・」 後は涙で言葉になりませんでした。
理紀之助達は、ほどなく乙房の学校付近に着きました。ここでも、暁の霧の中に村長や校長はじめ、小学生などおよそ100人が待っていました。涙のいとまごいが済み、理紀之助達は再び都城を目指して歩き始めました。後を振り返ると、頬を濡らした夜学生達がまだついてきます。理紀之助達が歩みを進めると彼等も歩き、泊まれば同じように止まり、何度帰るように促してもなかなか帰ろうとしませんでした。理紀之助達もまた、目に一杯涙をため、身を切られる思いで別れたのでした。
その日の午前8時、理紀之助達は、正名の開墾した鹿児島の大隅半島を目指して馬車を走らせていました。そこには、理紀之助達をひたむきに慕い、どんなに諭しても帰らなかった3人の夜学生、竹森重二、村岡新之助、桜原金之助達の姿もありました。(添付写真に写っています)
理紀之助達は小根占村で12日間にわたる指導を終え、その後九州各地を講話して回り、東京を経て福島県で指導を終えると、ようやく帰路につきました。
秋田に無事に帰りつき、家族との再会を喜び合った理紀之助でしたが、次の年に跡継ぎの老之助を急病で失ってしまいました。悲しみを払いのけ、残された孫を懸命に育てていた理紀之助のもとに、秋田県知事がやってきました。そして知事の強い希望で、再び役人として働くことになりました。このとき理紀之助は66歳。病気がちの体でしたが、給料は貰わないことにして、来る日も来る日も荒れ果てた村々の指導にあたり、見事に立ち直らせました。
しかし大正4年(1915年)9月8日惜しまれながら、ついに71歳の生涯を閉じました。
理紀之助が真心指導に訪れてから130年以上経ちました。谷頭は、今では商店が立ち並び、水を満々と湛えた豊かな田園風景が広がっています。
商店街中心の交差点脇に「島移りの碑」があります。その横には、平成8年(1996年)12月、理紀之助生誕150周年を記念して、宮崎県や山田町、夜学生の子孫、地域の有志たちによって、立派な胸像が建てられました。理紀之助は、いまでも優しい眼差しで町の移り変わりを見つめています。また、その温もりに満ちた教えは、誇りとして人々の心の中に、しっかりと受け継がれているのです。
「秋田からの爽風」-石川理紀之助翁物語― 発行によせて
このたび、沢山の方々のお力添えをいただき、念願の絵本を発行できましたこと、本当に嬉しく思っております。これまで「故郷発見」をテーマに、ささやかな子育て支援活動を続けてまいりました。それは山田町の歴史探訪、郷土料理教室の開催や昔話の読み聞かせ、山田弁の伝承活動などです。
その中でも、子供たちむけの山田昔話手作り絵本の制作は、長年の夢でした。お陰様で、平成19年の秋に、平山、竹脇、和田上地区の3作が完成し、町内で読み聞かせの機会を頂いております。
今回の物語につきましては、石川翁の崇高な理念と行動力に深く深く感動しながら、それを十分に描き切れない自分の稚拙な表現力を痛感する日々が続きました。それでも子供たちに、この素晴らしい足跡を“知るきっかけ”を作りたいと思いました。
絵本製作につきましては、秋田で発行された翁の研究書籍を拝読し参考資料とさせていただきました。また史実に詳しい都城市職員の方からは、多くのアドバイスをいただきました。そして翁のもとで学んだ夜学生のご子孫のお宅も訪問し、聞き取り調査や貴重な資料も拝見させていただきました。
出会いは広がり、市内で活躍中の芸術家と巡り合い、若い感性で挿し絵に初挑戦して頂きました。さらに、都城市教育委員会山田教育課や多くに友人、知人の支えもあり、ここにようやく完成いたしました。感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
多くの子どもたちがこの絵本を手にし「石川翁の偉大な教えが長く伝承されますように」と、切に願っております。
平成21年(2009年)3月 瀬之口ヤス子
『秋田からの爽風』 詩:瀬之口ヤス子
曲:山内 達也
語り継がれる 北の大地から
時を超えて 吹き渡る 風のぬくもり
堅い絆の 島移りの碑
明日を照らし 幸せ刻む
歩くすじ道 目覚めた我ら
はるか遠く 西の地まで
大空越えて 結ばれた 虹の架け橋
朝日の前に 今日も響く 板木の音が
触れ合う心 働く楽しさ
学ぶ喜び 目覚めた我ら
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