九州で勢力をふるっていた熊襲建兄弟を倒し、さらに指示されていない出雲建までも倒した倭建命(以後日本武尊と表示)は、意気揚々と帰路につきました。父景行天皇の命により大和から旅立ってすでに5カ月が過ぎていました。
兄大碓命を殺害して追放された日本武尊でしたが、西国の2大勢力を従わせたので、必ずや父に称賛され大和に受け入れられると期待して復命しました。しかし父天皇は「二日後に東方12か国の荒ぶる神々や服従しない者たちを平定してこい」と冷たく命じたのです。東方はまだ大和朝廷の影響力が及んでいない世界で、今度こそ命を失うのは必至の厳しい使命です。
(なぜ景行天皇はこのような冷たい仕打ちをしたのか・・それは神武天皇以来、歴代天皇は【八紘為宇=一つ屋根下の大家族のように仲良く暮らせる和の国を実現する】を国家理念としてきましたので、武力に長けた日本武尊が華々しい活躍で敵を倒すのは理念に反し、やがて自分の政権の脅威となるので、遠ざけるしかなかったのだと思われます)
ここに至ってさしもの日本武尊も、父天皇から疎まれていることに気付きますが、命令に従わざるを得ず、帰京1日で疲れも取れないまま東征へ出立します。しかし落胆収まらず、戦勝祈願と称して再び伊勢大神宮斎宮の倭媛(叔母)を訪ね、父の無情な仕打ちに苦しむ胸の内を打ち明けます。
「天皇は、本当は私が死んだら良いと思われているのではないでしょうか。西の悪人たちを討ちに遣わし帰って間もないのに、軍勢も与えられないまま、今度は東方12道の悪人たちを平定するために遣わすのでしょう。やはり私など死んだら良いと思っておいでなのでしょう」
天皇の妹である倭媛は、悲しみ泣く甥に慰めの言葉も見つからず、草薙剣と袋を与え「もし困った時には、この袋を開けなさい」と言って励ましました。こうして日本武尊は東征に出立しました。
尾張の国についた日本武尊は、国造の家に入り美しい娘の美夜受媛を紹介され、帰途に結婚しようと婚約して発ちました。そして山河の荒ぶる神、従わぬ者たちをことごとく説得して平定しました。
その途中、幼い時から面倒を見てくれた爺が、浪速(大阪)から弟橘媛を連れて追いつきました。今度の遠征では命を落とすかもしれないので、出立の時に愛する弟橘媛を連れてきてほしいと爺に依頼したものでした。年老いて最後の約束を果たした爺は満足して息を引き取ります。
そして相模国(駿河か?)に入り、そこの国造が偽って「この野の中に大沼があり、そこの中に住む神は、とても霊力のある荒々しい神で、村人を困らせていますので退治してほしい」と言いました。そこで日本武尊は草深い野の中に入っていきましたが、その国造りは野に火をつけ猛火が迫ってきました。欺かれたことを知った絶体絶命の日本武尊は、叔母からもらった袋を開けると中に火打石が入っていました。そこで周囲の草を薙ぎ払い、火打石で火をつけると、これが迎え火となって逆に国造どもの方に向かって燃え広がりました。そしてそこから脱出して国造どもを切り滅ぼし、火をつけて焼きました。ゆえにその地を「焼津」と言います。
そこから更に東に進み浦賀から上総の国に渡ろうと走水海(浦賀水道)に船出しました。すると海峡の神が嵐をおこり大波を立てて船を翻弄してぐるぐると回し沈没しそうになりました。そこで日本武尊の后の弟橘媛が、「私が御子に代わって海の中に入りましょう。御子は遣わされた任務を全うし、天皇に報告なさらねばなりません」と言って、菅畳、皮畳、絹畳を波の上に敷いてそこに降り身代り入水しました。すると荒波は自然と治まり船を進めることができたのです。このとき弟橘媛は次の歌を詠み、夫の優しさに感謝しながら波間に消えました。
さねさし相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも
(相模の野原に燃える火の、その火の中に立って私を気遣ってくださった優しいあなた)
上総の浜についた日本武尊は、何日も海を見つめて妻を偲び、中々その地を離れることができませんでした。それゆえにその地を「君去らず(木更津)」と呼びます。そして7日後、弟橘媛の櫛が海辺で見つかり、御陵を作ってその櫛を埋葬しました。また弟橘媛の着物の左右の袖が夫々流れ着いたことから「袖ケ浦市」と「習志野市袖ケ浦」の名がついたと伝わります。
そこからさらに進み、荒ぶる蝦夷たちをことごとく説得し、また山河の荒ぶる神たちを平定し、大和の帰る途中、足柄山の坂の下に至り、食事をされていると、その坂の神が白鹿となって現れました。そこで野蒜で鼻先をたたくと白鹿は死んでしまいました。そしてその坂に登り立ち、東を振り向かれて三度ため息をつかれ「吾妻はや(我が妻よ!)」と嘆かれました。ここから東国を「あずま」というようになりました。
さらに足柄から信濃国の神を説得して大和への帰路、前に婚約していた尾張の国の美夜受媛のところに立ち寄り結ばれました。そして近くの伊吹山の神を討伐に出かけました。このとき素手で十分と、御刀の草薙剣は美夜受媛の元に置いていきました。これが大誤算で大きな禍いの元となります。
伊吹山に登る途中、山の麓で牛のように大きい白い猪と遭遇しました。そのとき言拳して「この白い猪に化けているのは、その神の使いであろう。今殺さなくても、帰る時に殺そうではないか」といって登りました。「言拳」とは、自分の意思を声に出して言い立てることで、タブーとされていました。
この白い猪は神の使いなどではなく神自身でしたので、バカにされたと知ってひどく怒り、激しい雹を降らせて日本武尊を打って気を失うほどでした。かろうじて山をくだり、玉倉部まで下り、清水の湧いている木陰で休み、冷たい水で顔を冷やしているうちに、少しずつ正気を取り戻しました。
ようやく美濃の当芸野まできて「まるでびっこになったように足が重い」と溜息をつきました。さらに歩くと疲れがさらに酷く、杖を突いてのろのろと進みました。それでこの地を杖衝坂といいます。さらに苦しい旅を続け三重の村まで着いたとき「私の足はこんなに晴れ上がった、三重にくたびれた餅のようになってしまった」とつぶやきました。それでこの地を三重と言います。
それからようやく能煩野までたどりつきましたが、いまはもう懐かしい大和の国には帰り着けないことを悟り、国を偲んで次の歌を詠まれました。
大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 大和しうるわし
(大和は国の中でも最も優れた国である。畳み重ねたようにくっつき、国の周囲をめぐる、青々とした垣根のような山々の内に籠っている。大和は美しい
そして日本武尊は危篤になり、次の歌を詠んで息を引き取りました。
をとめの床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや
(美夜受媛の床の傍らに、私が置いてきた草薙剣よ、あの剣があれば・・)
大和のおられる天皇の后や御子たちは、日本武尊の崩りの報が伝わると、御陵をつくり、その周囲の田を這いまわって嘆き悲しみました。すると日本武尊の魂は亡骸から抜け出し、大きな白い鳥となって、天を翔けるように、浜に向かって飛んでいきました。后や御子たちは小竹の切株で足を切りながらも、痛さを忘れ泣きながらどこまでも追いました。白鳥はさらに飛んで河内国の志幾に留まりました。そこでその地に御陵を作って御鎮座頂き、白鳥御陵と呼びました。しかし白鳥は、そこからも天遠くに翔けて行きました。
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