2024年9月6日金曜日

1-11.「古事記」平和を愛する祖先

 20万年前にアフリカ誕生したホモサピエンスが、10万年前に世界に広がり日本にたどり着いたのは3万年以上前の事です。

「なぜ私達の先祖はユーラシア大陸東端の日本列島に、何故インカ・マヤ民族は更に東のアメリカ大陸へ移動したのか?」 それは「戦いに明け暮れた西欧白人と違い、私たちの先祖は戦いよりも太陽を追い求めて移動したからではないか」という説が最近有力です。その根拠が日本の最高神「天照大神」、インカ・マヤ文明の「太陽神」、また日本の縄文時代約1万年間の遺骨には人間同士が戦った傷跡がないという事実に基づきます。

日本は大陸からも200km以上離れており、戦乱に明け暮れる大陸とは違い、小さいながらも緑豊かな島国で、渡ってきた諸民族が仲良く縄文1万年を暮らしてきました。その民族の長く平和な記憶が神話となって語り継がれて712年に編纂されたものが「古事記」です。この頃の文字は漢字だけで、まだかな文字が考案されてなく、長く語り継がれてきた「やまとことばの日本神話」を記録するのに大変な苦労をしています。それを戦前の「初等科国語七(六年生用)」20話「古事記」で次のように掲載されています。



20 古事記

 古事記は天武天皇の命により、稗田阿礼が天皇の系譜・事跡そして神話等を記した「帝紀」「旧辞」を諳んじそらんじ、大安万呂は文字に書き表すことになった。しかし天武天皇は編纂途中で崩御され、その後元明天皇の勅命によって完成したのは和銅5年(AC712)であった。

(元明天皇は日本古来の言葉を漢字で表現した万葉仮名の古事記に飽き足らず、大陸外交を意識した漢文による正式な日本書記編纂を命じ、完成したのは養老4年(AC720)である複数の撰者・著者によって多様な原資料が参照されており、それが「一書に曰く」と数多く注記され客観性を持つように工夫されている)

 阿礼は記憶力の非凡な人であった。彼が天武天皇の仰せによって、わが国の正しい古記録を読み、古い言い伝えをそらんじ始めたのは30余年前の事である。当時28歳の若盛りであった阿礼が、今ではもう60歳近い老人になった。この人が亡くなったら、わが国の正しい古伝、つまり神代以来の尊い歴史も文学も、その死と共に伝わらないでしまうかもしれないのであった。

 勅命のくだったことを承った阿礼は、それこそ天にも昇る心地であったろう。そうして、長い長い物語を読み上げるのに、ほとんど心魂を捧げつくしたことであろう。ところで、これを文字に書き表す安万呂の苦心は、それにもまして大きいものであった。 

 そのころは、まだかたかなも平仮名もなかった。文字といえば漢字ばかりで、文章といえば漢文が普通であった。しかるに、阿礼の語るところは、全てわが国の古い言葉である。わが国の古語を、漢字ばかりでそのままに書き表すことが、安万呂にとっての大きな苦心であった。

 試みに、今日もし、かたかなも平仮名もないとして、漢字ばかりで、われわれの日常使うことばを書き表そうとしたら、どうなるであろう。「クサキハアオイ」というのを漢字だけで書けば、さしあたり「草木青」と書いて満足しなければなるまい。しかしこれでは、漢文流に「ソウモクアオシ」と読むこともできる。そこで本当に間違いなく詠ませるためには、「久佐幾波阿遠以(クサキハアオイ)」とでも書かなければならなくなる。だが、これではまたあまりに長すぎて、読むのにかえって不便である。

 安万呂は色々の方法を用いた。例えば「アメツチ」というのを「天地」と書き、「クラゲ」というのを「久羅下」と書いた。前者は「クサキ」を「草木」と書くのと同じであり、後者は「久佐幾」と書くのと同じである。 「ハヤスサノオノミコト」というのを「速須佐之男命」としたのは、「草木」と「久佐幾」と二つの方法を一緒にしたのである。 これらは名前であるから割合簡単でもあろうが、長い文章になると、その苦心は一通りの事ではなかった。

 しかしこうした苦心はやがて報いられて、阿礼の語るところは、言葉そのまま文字に書き表された。安万呂はこれを三巻の書物にまとめて天皇に奉った。「古事記」と言って、わが国でも最も古い書物の一つになっている。和銅5年正月28日、今から1200余年のむかしのことである。

 天岩戸、八岐のおろち、大国主神、ににぎのみこと、つりばりのゆくえ等の神代の尊い物語を始め、神武天皇や日本武尊の御事跡、その他古代の言い伝えが、古事記に載せられて今日に至っている。

 それは、要するにわが国初以来の尊い歴史であり文学である。ことに大切なことは、こうしてわが国の古伝が、古語のまま残ったことである。古語には、わが古代国民の精神が溶け込んでいる。我々は今日古事記を読んで、国初以来の歴史を知るとともに、その言葉を通して、古代日本人の精神を、ありありと読むことができるのである。

その後、表現が難しい漢字を簡略化したカタカナや平仮名が発明されて「豊かなやまと言葉」は、自由に文字で表現できるようになり、和歌や物語や日記‣紀行文として自由に使われるようになり「源氏物語」「枕草子」などの豊かな感性の文学が花開きました。

その一方で漢字を表音文字として書かれた読みにくい「古事記」は段々忘れられていきました。そして江戸中期に国文学者「本居宣長」の35年をかけた努力により、編纂後約1,000年経過して復活し庶民に紹介され日本人の心の原点となりました。 

こういう有史以前から語り継がれてきた「日本民族のルーツ、魂の記録、命の宝物」と言える貴重な記録や書籍を含め、戦後GHQにより約7,000冊以上が禁書となり国民の目に触れなくなりました。さらに(2000年前のカルタゴ滅亡を踏襲した)世界に類のない不戦憲法を押し付け米国の属国にしました。・・僅か200年の歴史しかない米国占領軍は、4年間も苦戦した日本軍が二度と白人に牙をむかないように、その精神を骨抜きにする必要があったからです。

戦後GHQの占領政策で、古事記・日本書記は真っ先に発行禁止、講和独立後も左翼化した文科省・日教組により「3世紀頃以前の事は漢字が伝わる前の作り話」として全く無視する歴史教育で、日本の神話や奈良時代以前の歴史は軽視・消去されてきました。 

今の中学歴史教科書を見ると、ほぼすべてが「日本の歴史は3世紀の魏志倭人伝から始まる」という構成です。「日本が最初に文字に現れた=歴史の始まり」として「邪馬台国の卑弥呼が日本の始まりである。それは九州か?近畿地方か?」と不毛の詮議を続けています。

常識的に考えれば、あの誇大妄想・歪曲捏造の民族が、1700年も前に日本の事を正確に把握・記録していたことは考えられません。そもそも魏志倭人伝が書かれた「三国志」の時代は、漢滅亡の後の長い戦乱で、歴史上最も人口の少ない1000万人以下(魏400万、呉200万、蜀100万)の大混乱の時代です。その前の最も栄えた前漢時代の全人口が約5000万人、それが打ち続く戦乱で人口が1/5にまで激減している戦乱の三国志の時代に、魏の正統性を主張するために書かれたのが「魏志」です。その中で書かれた魏志倭人伝は「噂話のそのまた噂話」程度の話で、これをもとに日本の歴史を紐解こうとする歴史学者は滑稽でしかありません(故渡部昇一「決定版・日本史」)

おそらく日本から一番近い魏の国に漂着船があり「ヤマトの国」を「邪馬台国」に、「日の御子(天皇)」を「卑弥呼」と聴いて記録したのに違いありません。自国以外は卑しい文字を使い属国扱いする(邪しまな国、卑しいミコ)、かの国伝統の夜郎自大・厭らしさそのものです。その程度の魏志倭人伝を金科玉条のように歴史の原点として奉り、何処に邪馬台国があったかと探し回る日本歴史専門家は笑止千万、「愚か者!」として無視するしかありません。

「古事記・日本書記」こそ「日本人の心・命の原点」です。

歴史教科書としてこの原点に真正面から取り組み認可を勝ち取った「令和書籍・自由社の歴史教科書」を採用する教育委員会・学校、自治体が増えることを願ってやみません。

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