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2026年6月3日水曜日

1. 世界無二の歴史に学べ(出光佐三)

私達は、自分が生きてきた長さでしか歴史の年月は実感できません。     

10歳の子供には10年前は大昔であり、10年先は遥か遠い未来に思えます。しかし加齢と共にその物差しが長くなり、遠い過去と思っていた事が、実はすぐ身近に起きていたことを知ります。

私は10歳の頃、太平洋戦争は遥か遠い昔の出来事で、江戸時代 明治維新などの話と区別が付きませんでした。しかし戦後80年、75歳になるいま考えると、自分が誕生するわずか5年前に広島・長崎に原爆が投下され数十万人が一瞬にして消滅・死亡、東京大空襲などで全国の都市が破壊される日本民族初めての大国難があった訳です。東日本大震災・大津波が一瞬にして2万人を命奪い瓦礫の山と化した惨状が日本全土を覆っていたわけです。

その悲惨な戦争がいまウクライナ全国土を覆っています。私達日本国民は「世界を軍事3強国の独裁者達が談合で分割支配しようとする恐ろしい時代に生きている現実」をしっかりと捉え、賢く強い国を作上げ、家族・国民国土を守っていく責務があります。

80年前、太平洋戦争敗戦で日本は約310万人が戦死し国土は焦土と化しました。その中で最も力強く日本人らしく生きた偉人を紹介します。

国民の殆どが家族を失い住む家を失って、その日をどうやって生き延びるかで四苦八苦していたとき、会社資産の全てを失いながら、海外からの引揚者800名を含む従業員1000人を一人も馘首せず、仕事を探して生計が立つように死力を尽くした経営者がいました。更には世界中を仰天させた『イラン石油輸入=日章丸事件』を見事成し遂げ、日本奇跡の経済成長の元を創り100年に1人出るか出ないかの大人物と言われました。その名は「出光佐三」、終戦時60歳、日章丸事件時68歳でした。普通なら隠居して悠々自適の第二の人生を開始する年齢です。

『日本人にかえれ』は、そういう戦後の困難の中、無一文の中1000人の社員を抱えて乗り切り「戦後日本経済を創った一人」として称えられた出光佐三店主が86歳の昭和46年6月に刊行されました。それまでの人生で実践してきた根本理念が示されています。

事業が軌道に乗った昭和41年には帝劇ビルに本社を移し、毎朝8階の自室から皇居を遥拝されて執務されました。昭和45年には中堅社員に日本人としての在り方を自ら教育された「店主室教育」が始まった翌年の刊行です。「100年に一度の傑物」と尊敬された店主が、日本の心を失い迷走する戦後日本人の進むべき道を纏め教え諭された名著です。

 店主は大著「わが六十年間」全3巻を筆頭に数多くの名著を残されましたが、「日本人にかえれ」は、それらのエキスが凝縮され、日本人座右の一冊として一生大事にしたい名著です。

1.「日本3千年の歴史を基に建設にかかれ」

「日本人にかえれ」は、単なる企業経営哲学でなく、神代から江戸・明治・大正・昭和の時代背景、国際情勢を、店主独特の慧眼で俯瞰した『日本人の原典、人間学の指南書』です。碩学の渡部昇一氏は「戦後日本で一番尊敬する人」として出光佐三氏をあげています。その理由は「敗戦によって腰抜けにならなかった数少ない日本人」だからです。

冒頭の書き出しは、日本開闢以来初の大敗戦で国民全体が腑抜けになっている中で、店主は微動もせず終戦2日目に本社に集まった社員に対して訓話した『愚痴を言うな、日本三千年の歴史を見直せ、そして建設にかかれ!』 という檄から始まっています。

確かにその通りです。下の世界各国の歴史票を見ると、神話の時代から連綿と続く三千年以上の途切れない歴史を持つ国は日本しかありません。戦勝した米国は建国僅か250年の新興国。もともと住んでいた先住民2,000万人を虐殺して奪った土地にアフリカから拉致した黒人奴隷を牛馬のように酷使して作った人種差別の野蛮国家です。

「中国5000年の歴史」と彼らは胸を張りますが、実際は匈奴やモンゴルや満州人に支配された王朝が林立していった歴史に過ぎません。夫々の王朝は全く関係なく200300年毎に異民族に支配された歴史です。「中国」という名称でさえ100年前までは存在せず「中華民国」「中華人民共和国」を縮めて使い始めた100年に満たない国名です。本来は「秦、漢、随、唐、宋、元、明、清の異民族支配の ”China" 」と呼ぶべきで、夫々は全く異なる王朝です。


人種差別の米国が「日本人移民排斥法、石油禁輸、ハルノート」で、日本を戦争せざるを得ない状況に追詰めて開戦。310万人が戦死、日本中が瓦礫と化し、呆然自失した日本国民への占領政策は苛烈を極めました。当時貴族院議員だった佐三氏は『占領軍は、日本再起にとどめを刺し、日本の亡国化、日本解体を目指した。日本精神は完全に否定され、一夜漬けの憲法を押付けて一日にして議決させ、国民の意志は完全に無視された。これが何の民主主義か! と憤激しています。

(しかし80年経過しても、日本国民の大半は押しつけ憲法を後生大事にして疑問も抱かず、憲法は一字一句変更なく、任期中の憲法改正を確約した岸田政権は不人気で改正条文明文化さえ手つかず、かって自民党改憲案の2条削除を唱えていた石破氏は政権を握ると憲法改正は全く言及しなくなりました。)

大陸のソ連化・共産主義化を阻止しようとしていた日本を破滅させ、朝鮮戦争でようやく日本の戦いは自衛戦争であったことを知ったマッカーサー元帥。しかし時すでに遅く大陸は共産化され長い不毛の東西冷戦がはじまります。 その防波堤となるべく戦っていた日本を隷属化したGHQへの店主の怒りは終生変わらず、GHQ本部があったビルの隣に昭和41年建設する「帝劇ビル」に出資(東宝、出光、三菱地所)、5階以上を出光本社とし、8階西端皇居側で旧GHQ本部を見下ろす位置に自らの執務室「店主室」を置きました。その横並びに会長・社長・重役会議室を配置し、毎朝皇居を遥拝してから執務につきました。

 (第一生命ビル:旧GHQ本部)         (マ元帥が驚嘆した昭和天皇)

終戦後、第一生命ビルにGHQ本部を置いたマッカーサー元帥は、9月11日東条英機以下37名を戦争犯罪人として逮捕。前日アメリカ議会では昭和天皇を戦犯とする決議案が提出されています。こういうなか昭和天皇はマ元帥に会見を求めます。これは9月27日にGHQ本部を訪問した時の会見前写真です。藤田侍従はこう書き残しています。 【・・陛下は、『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたいと語られた

一身を捨てて国民に殉ずる天皇のお覚悟を聴いたマ元帥は、強く感動し態度が一変、回顧録に次のように記しています。「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者ですあなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ・・大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った( マッカーサー回顧録1963)

こういうわが身の犠牲もいとわない尊い昭和天皇とマ元帥の会見=日本の歴史始まって以来の重要な場面を、戦後80年近く日本の歴史教科書は全く取り上げてきませんでした。そして今年、この会見を詳細に記述した「不合格 中学歴史」(令和書籍)が、6年の検定を経て初めて合格となりました。市販されており (アマゾンでも購入可)是非全家庭に一冊常備してほしい、待ちに待った「日本の歴史教科書」です。これを見ると文科省の検定は、まるで戦後GHQ指示の黒塗り教科書です。「文部科学省検定 不合格基準の不透明さ、検閲の理不尽さ、歴史形骸化意図」、「本来子供の為に立派な教科書をつくる立場のはずの文科省の堕落・劣化」がよくわかります。



2.三島事件と店主

この国民の情けない精神的堕落を覚醒させようと、昭和451125日に起きたのが『三島由紀夫事件』でした。三島と同じ思いだった店主は、なんと三島由紀夫の葬儀で弔辞を述べられています。(P173

『・・あなたは日本民族を三千年の伝統を誇る尊い日本人に返そうとして、死をもって教えんとなさいました。しかも日本民族独特の武士道に則り、切腹という尊い道を選ばれました。日本人はこの尊いお姿に接して愕然として目覚めました。日本の青年は自問自答しつつ本来の日本人にかえらんとしていますから、どうぞ安んじてお眠りください・・・』



3.青年への期待

出光佐三店主は今後の日本を青年に託し『戦後、大衆、政治、教育、産業、文化は退廃し、日本精神は虚脱した。 頼むは純なる青年のみである。青年よ、明治時代を凝視しつつ新しい日本を作れ!』と期待し「日本人にかえれ」を刊行し、10年後に96歳で逝去されました。この名著発刊から50年、店主没後40年経過しましたが・・果たして世の中は店主の期待通り進んでいるでしょうか?  果たして青年は店主が期待されるような存在だったでしょうか?

会社では昭和45年2月に入社12年目中堅社員教育があり、研修生からの質問が出光の根本から乖離していることに驚いた店主は、すぐに稲用人事部長を呼び出し『一体君たちは何を教育しているのだ。これから若い者は僕が教育する! 』と大変な剣幕で激怒、2か月後の4月に第一回目の店主室教育がスタートしています。 前出の中堅社員教育受講者は再招集・再教育され『君たちは出光のガンになっている。これから帰店したら 我が45年間“ や出光50年史を心眼を開き眼光紙背を徹す姿勢で研究し実践せよ!』と叱咤されたそうです。(光友会々報59号:H20年吉田保之さん随筆) 右は第20回店主室教育



この本が編集されるころ、私は大学3年で大学紛争真只中、『占領軍に捻じ曲げられた戦後教育』で育った全共闘世代です。S46年出光内定し送付された店主の書籍3冊のうち『マルクスが日本に生まれていたら』を読みましたが、よく理解できず反感が大きく途中で投げ出してしまいました。そして出光入社後も製造現場主体の40年間を過ごし「日本人にかえれ」は、どこか遠くの掛け声に聞こえていました。 

4.日本の教育環境の堕落と危機 

製造現場で技術面の仕事に打ち込むことが『真に働くこと』と思っていた私でしたが、40歳代になって長女の高校進学で大変なショックを受けました。千葉県一の進学校に合格したことを無条件に喜んでいた私たち夫婦は、入学式で全身にバケツで冷水をかけられたようなショックを受けました。式次第の冒頭『国歌斉唱、一同起立!』の号令がかかったのに先生方は誰一人起立せず「君が代」を歌わないのです。 生徒はどうしたら良いか分からず、シーンと静まり返った中でピアノ伴奏だけが鳴り響いています。今まで見たこともない異様な入学式でした。『これが東大合格者を何十人も出す千葉県立高トップの進学校なのか!こういう中で学び東大に進学し、霞が関で日本中枢の国家公務員になっていく日本は、一体どんな国なのか?』 と、愕然としました。これは全国の有名進学校となるほど顕著となる風景だと聴きます。



それ以来、初めて『日本の常識、戦後の歴史教育』に疑問を持ち、色々な本を読み漁り、それまで常識と思っていたことが全て真逆であったことを知りました。そして『南京事件や従軍慰安婦問題』が、全て朝日新聞の捏造報道で始まり世界に拡散していったこと、マッカーサーやフーバー元大統領やフィッシュ元上院議員などが第二次世界大戦はルーズベルト(狂人と表現)の陰謀により引き起こされた』 と終戦後総括していることを知りました。 ルーズベルトは、開戦前から『日本の戦後処理はカルタゴ滅亡を手本に、近代技術を徹底破壊し、農業しかできない太平洋小島国に没落させることを戦争目的』にしていました。その遺志通りGHQWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)で徹底的に思想教育し、日本人を骨抜きにすることに成功しました。



昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結で独立国となった後も更に浸透し、店主が終戦直後に警鐘を鳴らされた『占領軍が目指した、日本再起にとどめを刺し、日本の亡国化、日本解体』は、いまや 『日本人の誇りを失い、強国に媚びへつらい、無責任で権利だけ主張し、何を言ってもとがめられない政府・体制批判に明け暮れる国籍不明の情けない国』 になっています。一番の危機は、日本人の心の荒廃です。

5.私達国民全員の課題 「日本人にかえれ」

退職後大学キャリア講師を10年間、学生600名と接しながら古希を迎え、初めて85歳の店主が言われた『青年は素晴らしい。青年よ、明治時代を凝視しつつ新しい日本を作れ!』 の真意が分かってきました。

終戦後25年経過し高度成長期を築いてきた優秀な12目社員を『君たちは出光のガンだ!』と中堅社員教育で叱り飛ばした店主の本当の思いは、『国家に示唆を与えるべく真に働き続けた僕の人生も残りわずかだ。僕の真意を引き継ぎ、純粋な若者を育てるのは君達だ。性根を入れてこの大仕事に真正面から取り組め。あとは任せたぞ!』 という叱咤激励だったに違いありません。そしてそれは「日本人にかえれ」が日本人全員に向けて書かれており、読んだ夫々が自らの課題として受け止めるように遺言されたのだと思います。

6.日本人精神の原点は 『古事記・日本書紀』

店主が凝視せよと言われる『素晴らしい明治時代』を作ったのは、江戸時代の藩校や寺小屋で幼いころから『清廉潔白、感謝報恩、滅私奉公、一致協力、互譲互助』など人間の基本を学び鍛錬した人たちです。 



また第一次世界大戦で日本は戦場とならず、濡れ手に粟の巨利を得たことが、大正時代の金権主義や昭和初期からの傲慢無知を生み、第二次世界大戦大敗北の原因となりました。その未曽有の大敗北で日本人は腑抜けになり、明日を生きるのにも苦しむ逆境を乗超え高度成長を達成したのは、戦前の教育勅語や尋常小学校教育で鍛えられた国民が不撓不屈の精神で頑張ったからです。まさに店主の言われる 『逆境に楽観せよ、順境に悲観せよ』 を歴史が証明しています。 

ならば『自己中心・視野狭窄・強権追従の現代人はどうすればよいか?』 ・・まずは、1300年間日本人が大事にしてきた『古事記・日本書紀』を歴史教育に復活させて心の糧とし、聖徳太子の十七条の憲法、特に一条の『和を持って貴しとなす』に立ち返り、「真の日本にかえる」ことが不可欠です。 



しかし左傾化が定着した文科省・学校教育(日教組)の改革を望むのは『百年河清を待つが如し』です。その間に日本人の心は完全に消滅してしまうでしょう。

夫々が今すぐ始められることを開始し、また出光本体に働きかけて『開かれた、SNS活用した広報活動で、日本人の心の復活』を推進していくことが必要で、出光OBとして、長く祖先の恩恵を受けて生きた日本人として、その一端を担うべく、次のような取り組みが必要ではないでしょうか。問題意識・志を同じとする諸氏と、是非連携して取り組んでいきたいと思います。

「古事記」・・分かり易い現代語版のブログ・FB発信&、現代語訳【「古事記」:福永武彦、「漫画古事記1~7」:久松文雄】購読 のすすめ

➁公開SNS で「日本人にかえれ」情報発信・双方向交流 (ブログ、FB etc.

地方の歴史塾(寺小屋)模索、子供会、学童保育などで、『古事記』 等の勉強会開設テキスト⇒ 『尋常小学校国語・歴史・修身』 や 『中学歴史(令和書籍)』 『魔法の糸(米国道徳読本)』『言思四録』:佐藤一斎、『啓発録』:橋本左内、中江藤樹、二宮尊徳、大塩平八郎等

7.出光佐三氏の「生涯現役」の生涯

今日本の平均的定年は60歳。豊かな現代でも『年金破綻、年金満額支給開始の65歳まで特に不安』 と定年後も再雇用・勤務延長が当たり前になってきました。しかし少子高齢化で『老後の生活は保障されるのか? 心細い老後をどう生きるか?』と心配は増します。・・そういう初老期に、会社資産を全て失い1000人の生活を背負う事になった訳です。『海賊とよばれた男』 (百田尚樹:著 講談社)は『戦後建設は死ぬより苦しいものと覚悟せよ』と檄を飛ばした出光佐三氏後半生を描いた驚愕の史実小説です。大混迷で強いリーダー不在の現代、あらゆる階層の人に読んで欲しい本です。上下2巻の大著ですが、次から次から襲い掛かる困難を中央突破する迫力と面白さに一気に読了する事ができます。

詳細内容は小説に譲り、佐三氏の年齢に沿って年表を整理してみます。

194560歳)大東亜戦争(太平洋戦争)終結

  海外資産全てを失う。二百数十万円の借金。

 8月15日 「終戦の詔勅」を聴き帰京

 8月16日 瞑想、   8月17日 訓示 

   ①愚痴を止めよ、

              ②三年の日本歴史を見直せ

      ➂そして今から建設にかかれ」    

       800人の引揚者 「一人も首は切らない」と宣言し全員収容

1946年(61歳)ラジオ修理 全国50店⇒石油販売拠点、タンク底作業 

1949年(64歳)元売指名⇒1951年 日章丸就航(戦後初 自社運行船)

195368歳)イラン石油輸入(日章丸事件)

       英国海上封鎖の中 イラン国有化石油を世界で初輸入

1957年(72歳)徳山製油所竣工⇒1963 両陛下徳山視察 

196378歳)千葉製油所竣工(1月)⇒新潟豪雪でも、

   石油業法の生産調整⇒ 供給不足に抗し石油連盟脱退

 

1967年(82歳)千葉製油所2期拡張⇒世界初の重油脱硫装置

1973年(88歳)北海道製油所竣工

1975年(90歳)愛知製油所竣工⇒国内最後の新設製油所

1981年(96歳)逝去  昭和天皇御製                     

光佐三氏が経営の根幹とした 『人間尊重、家族主義』 の真髄は、終戦時「家族を首にはできない」と800人の引揚者を一人も馘首せず、生活費と手紙を送り『仕事は必ず探す』と約束し実践した事ではないでしょうか。この時丁度60です。 

②そして意気消沈していた日本人が再び自信と誇りを取戻した『イラン石油輸入の日章丸事件』。会社にたった1隻しかなかった外航船を経済封鎖中のイランに差向け、『例え拿捕・撃沈されても日本人の心意気を全世界に示す』と決断・実行したのが68です。 

72歳で当時国内最大の徳山製油所を作り、6年後千葉製油所建設.しかし石油業法で生産枠を50%に制限され、冬の大雪時に消費者が困窮しているのを見かねて石油連盟を脱退。国や業界を相手に一歩も引かず『消費者本位』を貫いたのが78です!

96歳で逝去された時、昭和天皇は店主を偲び和歌を作られました

『人の為、ひとよ貫き尽したる、君また去りぬ、さびしと思う』

『共に戦前戦後の未曾有の国難を全身全霊で生抜き指導し、日本人の誇りを取戻し繁栄を築いてくれた戦友の死がさびしい』 という昭和天皇の深い悲しみが溢れています。(歴代の天皇が一般人の死を悼んで和歌を詠まれる事は例がないそうです。)




      

1.出光丸快挙と日章丸事件、出光理念

  2026525日、名古屋港に大型タンカー「出光丸」が入港しました。この船は、緊迫する中東情勢で封鎖されたホルムズ海峡を初めて通過し日本に原油を届けました。



ホルムズ海峡封鎖のきっかけは、3か月前の228日に始まったアメリカとイスラエルによるイラン攻撃です。それに対抗する形で、イランは原油輸送要所のホルムズ海峡を封鎖しました。これにより中東からの石油輸出が滞り、日本を含めた世界各国で大きな影響が出ています。

1. 出光丸快挙は「日章丸事件」 を想起

厳戒下の石油輸送は、1953年の「出光日章丸事件」を想起させます。
 第二次世界大戦後の石油業界はメジャー(国際石油資本)に支配され、イランの石油資源は英国のアングロ・イラニアン(現BP)の管理下で、イラン国民が恩恵を受けない中、当時のモサデク政権は1951年に石油の国有化を宣言しました。しかし英国は反発しペルシャ湾に軍艦を派遣して海上封鎖、イタリアのタンカーが拿捕される事件が起きました。

 戦後日本で、外資と連携しない民族系の経営を進めていた出光佐三氏は熟慮の末窮地に立つイランの救済、メジャーへの反発、石油の安定確保 の観点から、イラン石油輸入を決断、当時一隻しか所有していない外航船「日章丸」を神戸港から極秘裏に出港させました。日章丸は無線を切るなどしてアバダン港に入港し、ガソリンと軽油22000キロリットルを積み込み、英軍の監視をかいくぐり、昭和2859日、無事に川崎に帰港しました。英国は「日章丸の積み荷は英国の物だ」と積み荷の差押え裁判に訴えますが、佐三氏はさっさと川崎油槽所に揚げ荷させ、すぐに治外法権の太平洋に出航させイランに向わせます。裁判は出光の勝利で、出光は石油メジャーの支配を受けない安価な良質のガソリンを国民に供給することになりました。


その直後、英米両国はCIAを使ってモサデク政権を転覆しパーレビ国王体制を樹立しましたが、イラン国民の生活レベルは向上せず、ホメイニ師によるイラン革命が起きます。 こういう歴史的経緯を経て、現在の米・イランの凄まじい敵対関係が継続しています。
 他方、巨大な石油メジャーに挑戦した出光興産の快挙は、敗戦から復興に向かう日本人に大きな勇気を与えました。イランでは今も「日章丸事件」が語り継がれ、日本への好印象の理由になっています。
 今回 在日イラン大使館のX(旧ツイッター)は29日、出光丸のホルムズ海峡通過には触れずに「日章丸事件は両国間の長年にわたる友情の証として残っている。この遺産は今なお大きな意義を有している」と投稿しました(産経)

2. 佐三氏が大事にした「純粋な若者の白紙の力」

1957年(S32)に徳山製油所を建設し石油元売りとして経営が安定しました。

佐三氏は、その製油所運転技術者として、都会の裕福に育ったオボッチャンではなく、地方の工業高校卒、また貧しくて進学できない優秀な中学卒を大量に採用し『出光学校』で2年間高等教育を与え、希望者には定時制高校に通わせました。

その後、1963年千葉、1970年兵庫、1973年北海道、1975年愛知と矢継ぎ早に新製油所を建設しましたが、この最初の徳山製油所で鍛えられた中卒・工高卒者が中心となって建設し、運転を立ち上げました。

3. 世界初20万トンタンカー「出光丸」に15,000人の中学生招待

1966年、当時世界一のマンモスタンカー出光丸(21t)が完成しました。竣工披露では、これからの日本を背負う若い人達に世界最高のものを見せてやりたい!』 と、全国津々浦々から15,000名もの中学生を招待し見学させました。
写真のドック両岸には、その時の大勢の中学生が写っています。

『僕の事業目的は、社員が真に働く姿を社会に示し、人々から尊重される人間を作る事だ石油業はその手段に過ぎない。』 
卒業証書を捨てよ。新人に大事なのは仕事の基本をしっかり学ぶ事であり学歴は関係ない。 だから僕は丁稚奉公からスタートした。   これが出光佐三氏の経営理念です。

4.ホルムズ海峡封鎖後、「第3代 出光丸」 初めて通過

海峡封鎖状態が続く428日、ペルシャ湾に留まっていた日本企業の大型タンカー「出光丸」がホルムズ海峡を通過し世界を驚かせました。出光丸は、出光興産子会社の出光タンカーが所有する船です。出光興産とIHIが共同建造し、2007年に竣工。サイズは全長333m、幅60m、喫水20.5m、東京タワーを横にした長さとほぼ同じという巨大なタンカーです。この出光丸は3代目、「出光丸Ⅰ~Ⅲ」は出光にも世界にとっても歴史的に重要な意味を持つ船です。

今回注目を浴びた「出光丸Ⅲ」は、日本への重要なマラッカ海峡を通過できる船として最大級で「マラッカ・マックス」と呼ばれる船型です。 約30万トンもの石油を搭載し船速は16ノット強(約30km/h)を発揮。30万トンは、日本全体の原油消費量の半日分以上となります。

一部のメディアでは「出光丸は船籍パナマ、日本乗組員は僅か3人の外国船」と間違った報道がありましたが、出光興産の子会社である出光タンカーが所有・運航している「日本のタンカー」です。通常「船長、副船長、航海士」は日本人です。2航海(約6070日)は船上生活なため、日本人の船員は募集しても集まりません。ENEOS、出光、コスモなどのVLCC(マンモスタンカー)の船員は、殆どが人件費の安い外国人です。今回の出光丸は22人の乗組員がフイリピン人です。

また「船籍」を勘違いしている人が多いですが、日本企業が運航する石油タンカーは、パナマ、リベリア、マーシャル諸島などの「便宜置籍国」が船籍の主流です。税制優遇や人件費削減のため、パナマ(世界最多)などが選ばれます。

5.出光佐三氏の経営理念

出光佐三氏の経営理念は「紀元2600年を迎えて、店員諸君と共に」に凝縮されています。この小冊子は創業30周年を迎えた昭和15年(皇紀紀元2600年)に書かれ、出光のバイブルとして、職場で月1~4回「自問自答会」を開き、相互研鑽・自己研鑽しています。佐三さん関連の書籍は1mを超えるほどありますが、そのエキスはこの本に凝縮されており、私は76歳になった今もこの本を基に自問自答研鑽を続けています。

佐三さんが、この理念をまとめられてから86年が経過しますが、今読んでも心に響き、あらゆる人の人生指針となる素晴らしい理念だと思います。

「人間尊重」・・自ら顧みて尊重される人間になれ

「俸給の不発表」・・俸給は生活の保証、店員待遇は能力相応の仕事で

「贅沢は人を殺す」

「一生働け」・・人生を無為に過ごしてはならない

「大家族主義」・・入社後は皆家族、出来の悪い子供ほど可愛い気持ちで

「独立自尊の精神」・・自分の仕事に全責任を持つ、一人一人が社長

「至高至平」・・人事の扱いは至高至平、情実を交えない

黄金の奴隷たるなかれ」・・事業を目標とせよ、金儲けを目標とするな

「生産者から消費者へ」・・屋上屋・中間搾取を排し、消費者の為に働け

「不言実行」・・個人的錬磨で確固たる実力を身につけ実行せよ

6.「白紙の力」 の基本理念を見失った二代目

失われた30年間、世の中はコスト・人件費削減最優先で、分社化や派遣や中途採用多用で新規採用を極力抑え、即戦力・早期育成の掛声のもと若手社員を追い立てます。 出光においても佐三氏の「白紙の力」の基本理念は忘れられ、二代目社長・夫人の「高卒ではなく最低限高専卒を」の戯言を守り20年以上高専卒しか採用していませんでした。不況の中の20年間は年1020名採用で問題はありませんでしたが、やがて団塊の世代の大量退職が始まり、世代交代の為に年200人近い大量採用が必要となりました。 国内で20003000人しかいない高専卒就職希望者の中から「白紙の力を持つ高専卒採用」は不可能ですが、2代目経営者の「高専卒なら誰でも」を人事部は厳守し続けました。

出光本来の「白紙の力の理念」に基づき、「全国13万人(高専卒の40倍以上) の工高卒を主体に採用すべき。工高卒上位は、優秀で志が高く、素直で頑張り屋が多い」という私の採用方針は、すべて却下されて高専主体の採用が続きました。私は採用部門をお払い箱になり、早期退職することを決意しましたが、人事次長(現会長)に留められ最後のミッション「50歳代研修講師」(=60歳退職予定者を若手育成の為に5年勤務延長する意識改革の研修)を与えられ4年間担当しました。

7.近視眼的な学歴偏重企業の将来への危惧

退職後15年経過した今も、高専卒だけの団塊世代は(将来禍根となるのでは)と危惧しています。それは全国高専卒1万人の7割が大学進学する中で、残り3千人しかいない高専卒の就職希望者なら誰でも良いと、仕事内容と全く無関係の建築・土木・都市工学等までプラント運転員として採用し、高専卒割合を80%以上とした採用を続けたからです。  こういう企業姿勢が、工業高校の学科閉鎖や他校と合併必要となり、深刻な 『日本の ものづくり衰退、震災復興・老朽化橋梁建替えなどの土建業種後継者不足』 に拍車をかけます。近視眼的な学歴偏重企業は社会的責任を果たしていないことになります。

恐ろしいのは、短期的に頭数を揃え辻褄を合わせても、志の低いやる気のない新人を大量採用して中々期待する戦力に成長せず、技術レベルやモチベーション維持が困難となる事態です。『S40年代後半の技術力不足による石油コンビナート大火災事故多発のような危機的状況』 に陥る事が懸念される事です。更には 『他社の高専卒同期は課長・係長になったのに一生交替勤務か・・』 と悩む中堅社員が増え、モチベーション低下で企業風土が一変し、やがて企業存続が難しくなる事態になることも懸念されます。

『鶏口となるも牛後となるなかれ』 という格言があります。『牛後ばかりを採用し、牛後の職場にしていないか?』 という厳しい自省と視点が人事部門には不可欠です。 

石油・化学・電力・鉄鋼・ガス等の製造基幹産業では、交替勤務業務は全て工業高校卒です。これは学歴偏重からではなく『複雑・高度化されたプラントを安全に運転し、想定外の非定常操作を含めたあらゆる状態への対応が出来る一人前の運転員育成には、ベテランの指導を受けながら最低1020年間の習熟訓練・育成期間が不可欠』 だからです。 かって高度成長期に初歩的ミスによる大火災・爆発事故が頻発したのは、この育成期間が不足し未熟な若い運転員が大半だったからであり、習熟とともに重大事故は減少しました。 こういう歴史から『交替勤務業務は、製造業に不可欠の基幹業務であり、約40年間を交替勤務に従事する事に使命感と誇りを持って取組む人材が必要で、工高卒業生が最適任である。』という認識が、世の中では一般的であり、こういう社会的ニーズに基づき全国の工業高校数・学生数は決定されています。大事なのは、こういう現場ニーズや国内教育環境を熟知した者が、企業の戦略的採用・育成・人事を担当することです。

8. 「出光兵庫の模範的若手育成」 (2003年工場閉鎖撤去)


 昭和45年地元の漁協から大反対の中で姫路に建設された兵庫製油所は、「地元と共に発展!」を合言葉に仕事だけでなく、地元の行事や環境活動など率先して活動しました。

 仕事面では、当時日本プラントメンテナンス協会上席コンサルタントだった大島東工大名誉教授や佐山岡山大名誉教授から 『世界一の精鋭集団だ!』 と絶賛されるほどの少数精鋭の仕事集団でした。

 誠に残念ながら重質油分解装置がなかった為に競争力が低く、2003年工場閉鎖となり全所員は他工場に配置転換となりました。

 ・・バブル崩壊から約35年が経過しました。各社とも世代交代で、高度成長期最後の戦士達が大量に退場していく中、30年前のデフレ不況の就職超氷河期に就職し頑張ってきた優秀な若者が今や各社の中心的存在となり、新たな時代が到来しました。いま50歳前後となった中心的社員が、30年前にどんな若者であったかを紹介したいと思います。 これから社会人となる人、入社直後の若い人は 『目指す姿』 として是非参考にしてほしいと思います。

平成一桁後半当時、各社ともバブル狂乱で抱えた不良債権で経営危機に陥り、中でも拓銀や山一証券等の大手金融会社が相次いで倒産して、銀行の貸渋りで経済界は大混乱し、殆どの会社は新卒採用中止している状況でした。前出の出光佐三氏が生前、Speculation (投機)は絶対やるな!』 と戒め、危惧していた未曾有の経済危機が到来した訳です。


 こういう中で20年後の大量世代交代到来を見越して、出光は毎年2030人の高専卒採用を継続していました。 超氷河期の時代背景から、みんな各校トップクラスの優秀な新人達で、向上心も使命感も高く、短期間で一人前に成長していきました。

また職場の先輩達は育成意欲が高く、緻密な修得課題表を与えて、毎日口頭試問し実技訓練を繰返し『星取り表 掲示板』で修得進捗状況が職場全員にリアルタイムに一目で分かるようにし、 また上司・先輩は多忙な業務の合間にも修得課題レポートを確認し、コメントを記入して、木目細かくフォロー・激励していました。

 ある程度実力が身に付くと『この操作を一人でやってこい!』 と、重要な操作を次々と任せ自信をつけさせました。しかし指示後 『手順通り正しい操作を間違えないでやっているか?』 と、ハラハラしながら物陰から見守っていました。 若手もまた、その先輩達の思いをヒシヒシと感じ頑張りました。 先輩達は仕事以外でも独身寮に頻繁に顔を出し、町に繰り出して痛飲したり、町内の草刈や祭りに参加したりと、公私にわたって面倒を見ました。

こういう指導をされた若手は、当然ながら成長著しく、画期的な創意工夫・改善を行い、当時取組んでいたTPM活動で、日本プラントメンテナンス協会上席コンサルタントの大島東工大名誉教授や佐山岡山大名誉教授の前でも堂々と改善事例を発表し、先生方から 『入社2~3年でこんな素晴らしい仕事をしているのか?』 と絶賛されるのが常でした。 こういう優秀な若手と面倒見の良い先輩が一体化した工場に対して、大島・佐山名誉教授から 『世界一の精鋭集団だ!』 と絶賛されました。 

9.超氷河期入社社員と少子過保護世代のギャップ

出光兵庫の優秀な若手が、入社数年で愛する職場と仲間を失い、見ず知らずの人間集団の中で新しい仕事をゼロから覚える・・・想像を絶する苦労があったと思います。 それから10年、新たな職場で高い信頼を得、早くもリーダー格・中心的存在となって活躍しています。 まさに 『艱難辛苦、汝を玉にす』 の言葉通りです。

先日、その一人から以下の便りがありました。

『世代交代は、私の職場でも現在大きな課題となっています。この1、2年でベテラン社員は殆どいなくなります。 60歳代勤務延長組やキャリア採用組に頼らざるを得ない状況で若手育成に苦労しています。 最近の若者は、育ってきた環境や価値観の違いが大きく、思うように成長していないのが実態ではないかと思います。』 

 この危惧は、私が大学で感じていた 『向上心・覇気のない若者』 と一致します。
いま職場の中核で信頼厚い平成一桁入社 中堅社員の若い頃と、今の若者と何が違うのか?  最大の違いは 『ハングリー精神』 です。 そして 『少数化で多忙すぎる先輩は自分の事で精一杯で、若手を育成指導する余裕もマインドも薄くなってきている』という現実です。

平成一桁世代は一流大学を出ても就職できない超氷河期の真只中だったので、文武両道に優れたトップクラスの高専卒が全国区で採用でき、その後輩も 『あの先輩が選んだ会社なら間違いない』 『早く世の中に役立つ人間になりたい!』 と目的意識、使命感がしっかりした優秀な若者が入社してきました。

20年続いたと言われるデフレ不況の中で高専の学生意識は変化しました。全国約1万人の向学心の高い学生の約70%が国立大学進学(大学3年編入)するようになり、就職組は30%(1学年3千人)程度となりました。  その中には経済的理由で進学できなかった優秀な学生もいますが、勉学意欲が低く自由気儘な5年間を送った学生も少なくありません。 もしこういう学生が大量入社すると育成に大変な苦労をすることでしょうし、将来の経営を危うくする事が危惧されます。

今の若者は家庭でも学校でも過保護に育てられて、変化やプレッシャーに弱く、自立心も向上心も進取の気風も低い傾向があると言われます。 携帯・スマホ・ゲームの刹那的な楽しみに熱中して、人生の目的意識を持たず、他者との交流、コミュニケーションが苦手で、自分の狭い世界に閉じこもり満足する傾向が強くなっています。

こういう若者に接する先輩が『早期育成』の掛声だけで知識やスキルを詰込もうとしたり意識改革しようとしても『馬耳東風、暖簾に腕押し、豆腐に鎹』です 。 大学でも同じで、90分1コマのキャリア教育では如何ともしがたく途方に暮れる日々です。 恐らく前出の40歳中堅社員も同じ思いで若手育成に悩んでいるのだと思います。

これは根本的には、小学・中学時代の家庭教育や学校教育で、人生目的・目標意識を育む徳育が等閑にされ、根本的に不足している事に起因していると思います。 本当はそこからやり直さないと解決できない大きな問題です。 

私が10年間担当した某工科大学で一番人気が高く学生数の多い学科は「情報メディア科」約300人で、その殆どはゲームクリエーター志望でした。企業が求める「機械科」「電気科」「自動車科」は、それぞれ4050名と人気のない学科となっていました。

「資源のない日本は、モノづくりで未来を切り開いていくしかないのに・・現実社会の将来への夢、心躍る将来目標はないのか?」と危惧する、私の大学キャリア講師生活でした。

しかし、だからと言って目の前の若者の問題を放置するわけにもいきません。

大事なのは『君は10年後、20年後どうなっていたいのか? 会社40年間・人生80年間で何を目的として、何を目標に、どう生きていくのだ?』 と、常に問いかけて夫々の人生のビジョンを考えさせ、目的・目標を持たせる事が一番大事な事ではないでしょうか?  賽の河原の石積みのような作業ですが、『何時かは、その大事さに気付くだろう』 と信じながら、今日も学生に自分の将来ビジョンの大事さを問いかけています。
 これは、かの学歴偏重企業の若手社員にも同じです。その会社の採用・育成方針は根本的に間違っていますが、入社させたからには社員は大事な家族です。 崇高な理念に向かって徹底的に愛情鍛錬し、また若手社員自身が、『入社したからには、自分自身の輝かしい将来ビジョンを描き、その実現に向けて地道に努力していくのみ!』 と開き直り、突き進むしかありません。 まさに出光佐三氏が愛した仙厓和尚の禅画 『布袋図』 の教えの通りです。
  ”目先の指だけを見るな。 指さす先にある月(目指す姿)を見よ!” 




1. 逆境は「鈴の鳴る道」を真直ぐに!

 令和6年4月28日「神に選ばれし人」 星野富弘さん旅立つ(合掌)

 星野富弘さんは、体育教師としてスタートした僅か2か月後の1970年6月、マット運動で宙返りを失敗して頸椎損傷、首から下が全く機能しなくなりました。その危篤状態を乗り越え、全身不随の身で口に筆を加えて描き出される詩や花の絵画は、国内外の数知れない人々に生きる力を与え、逆境に悩み苦しむ人々が救われてきました。(私もその一人です。)

 私は以前胃癌胃全摘出を受け、その後も腸閉塞で約2年入退院で苦しんでいた頃、星野さんの詩画集『鈴の鳴る道』に出会い衝撃を受けました。・・逞しい青年が突然絶望的な境遇に陥る・・しかしお母さんや奥さんの渾身的な暖かい愛に、魂を清め高めていく様が克明に描かれていました。星野さんの心の中の葛藤や嫉妬や反省、それを口にくわえた絵筆に託し1カ月かけて制作される花の絵・・「そういう心の変遷が一枚一枚に込められているからこそ万人の心に響くのだ! 私も星野さんのように自分の道を真直ぐに歩こう!」 と勇気づけられました。・・これからもきっと、星野富弘さんは、苦しい境遇にあるすべての方々を励まし、心を癒し力づけてくれるだろうと思います。

 星野富弘さんの旅立ちに接し私の6蔵書を纏めて紹介します。手術後30年以上愛読していますが感動は深まる一方で、名著たる由縁だと感じています。(著作権侵害もはなはだしい紹介ですが・・「富弘さんは、自分の思いが伝わり共感する人が増えることをきっと喜んでくれるはず」と信じています。

1.生きる力を与える珠玉の4冊

(1)「愛、深き淵より』1981年発刊

入院後の一番苦しく思い出したくない格闘の日々を「あれが丸裸の自分の原点だ」と包み隠さず吐露されています。(私も闘病生活が重なります)

(2)「風の旅」 1982発刊

星野さんの初めての詩画集。昭和45年勤務先の学校体育館での一瞬の悪夢の過酷な出来事。それから立ち直り、9年間の病院生活と実家に帰ってからの数年間苦闘した中で描かれた詩画で埋め尽くされ、星野さんの54年間に及ぶ制作制作活動の原点であることを感じます。ぜひ座右の書としたい貴重な詩画集です。

 (3)『鈴の鳴る道』 1986年発刊

この詩画集は、星野さんが首から下の自由が奪われてから十数年の思いが、美しい花と心を打つ詩でつづられています。電動椅子で移動できるようになり、9年ぶりに自宅で生活を始めた星野さんは、最初デコボコ道は脳味噌がひっくり返るような振動で嫌いだったそうです。ところがある人からもらった鈴を車いすにぶら下げてデコボコ道を通った時、振動で鈴が「チリン」と心にしみるような澄んだ音色を鳴らしました。そしてこう思ったそうです。 「暗い気持ちで通っていたでこぼこ道も、小さな鈴がチリンとなっただけで幸せな気分になれる。人はみんな、この鈴のようなものを授かっているのではないか。私の心の中にも小さな鈴があると思う。その鈴が澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私はこれから行く先のでこぼこ道を、なるべく迂回しないように進もうと思う」

星野さんの詩画集を一冊求めるなら、私は「鈴の鳴る道」をお勧めします。

(4)『かぎりなくやさしい花々』 1986年発刊

 かぎりなく優しい花々は、自由がきかない苦しみの中で生きる力を与えてくれた周囲の人々の事です。

  小学生にも読めるように易しく書き下ろされ、幼少から怪我をするまでの元気な日々、そして入院生活でのお母さんの親身の介護、病院スタッフの暖かい支援、そして聖書の出会いと、妻となる渡辺さんの8年に渡るお見舞いと心の交流がつづられています。その中でもひときわ美しく咲いている花が、のちに奥さんとなる渡辺さんです。「心の虹、楽しみに待つ人」の章から渡辺さんが登場します。入院2年目頃でしょうか。

【午後、一人の女の人が訪ねてきました。前橋キリスト教会の牧師から、私の事を聴いて見舞いに来てくれたのです。渡辺さんは日曜教会に行き、土曜の会社勤めが終わった後に毎週来てくれるようになりました。普通は3カ月もすると足が遠のくのですが・・渡辺さんは毎週土曜同じ時刻に必ず病室を訪れ、私も母も、いつの間にか楽しみに待つようになりました。】

【聖母マリア様のような渡辺さん、ランの花と詩画が結んだ結婚】

【あるときランを育てている西尾さんが一本持ってきてくれました、あまりに美しいので、丁寧に描いていきました。出来上がった絵は自分でも驚くくらい美しくかけていました。土曜日にやってきた渡辺さんにランの絵を見せると、その驚きは大変なものでした。「そんなんで良かったら、渡辺さんにやるよ」

 元々西尾さんに贈る予定だったランの絵は、あっという間に渡辺さんの手元に・・渡辺さんは、最初、机の前にセロテープで止めてみていたのですが、段々その絵が大切なものに思えてきてしまい、絵と私が同じように大切になってしまったのだそうです。】

 続きはぜひ『かぎりなく美しい花々』をお読みください。 



3.心を揺さぶる作品の紹介

「あじさい」1981風の旅)

 一生寝たきりで食事も排便なども自力ではできない星野さんを見舞い世話を続け、8年後についに結婚した「渡辺さん」 その天使のような奥様が「あなたが痛くないように結婚指輪はいらない」と言われています。それを感謝しながらじっと妻の指を見るだけしかできない星野さん・・何という優しさに満ちた夫婦愛!思いやりでしょう!

(翻って、自分はなんと情けないか・・胃癌手術後の再発不安でイライラしてばかりで・・そのころ3人の子育てと私の世話でテンテコ舞いの家内は「この詩が大好き」といってました・・)

➁「はなしょうぶ」1978風の旅) 

「黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜ綺麗に咲けるのだろう
  私は大勢の人の愛の中にいて なぜ醜い事ばかり考えるのだろう」
 まさに私自身で赤面するばかり・・この絵のエピソードを聴くと更に身につまされます。
【群馬大嶽病院の整形外科病棟には星野さんと同じ重度障害の患者ばかりで、その中にスキー大会で転倒して四肢が全くマヒした中学生の可愛いター坊がいました。

「こんな純真な小さな子供が、どうしてこんなつらい目にあうのか・・と、神に祈るような気持ちで回復を祈った」
 ところがある日、ター坊の腕が少し動き、わずかながら足も動いた。やがて排泄感覚も戻り、食事も自分で出来るようになった。ター坊は見違えるように元気になり、あどけないユーモアで部屋中を笑わせた。ター坊は私を兄のように慕い、お見舞い品なども二人で分け合って食べた。しかし、そうしながらも私の中にどうしようもない寂しさが芽生えてきた。それは嫉妬であった。
「喜べ! ター坊の回復を心から喜べ。おまえはそんなみみっちい男ではない筈だ!」
 私は叫ぶように自分に言い聞かせた。私は悲しい心をもって生まれたものだ。周囲の人が不幸になると自分は幸福だと思い、他人が幸福になると自分が不幸になってしまう。・・たった今、ター坊の回復を心から喜べる私になれたら、私の顔はどんなに明るくなるだろう】

➂「ぺんぺん草」1979風の詩)

 星野さんは、貧農の苦しい生活の中でお母さんの内職・仕送りで群馬大学の寮生活を送り、5年かけて漸く卒業、そして中学教師が始まって2か月目の悲劇でした。
 息子のトンデモナイ大事故で一番ショックを受けたはずの母、そのお母さんの必死の看病でようやく首から上が動くようになり、お母さんの介添えで念願の文字や絵を描くようになります・・その息子の為にスケッチブックを持ち、絵筆に要求される絵の具をつけ・・この素晴らしい詩画の陰には限りないお母さんの愛があります。
 その母親の苦労を思い「神様、一日でよいから腕を動かせるようにしてほしい。母の肩たたきをしてあげたいから・・」と思われる星野さん親子愛に胸打たれ涙します。

④「マムシグサ」1980風の詩)

5月2日産経抄にこの詩画紹介がありました。
「マムシグサという気の毒な名の花がある。薄暗い茂みに生え、鎌首をもたげたような異形の容姿が、そのまま呼び名になった。詩画作家の星野富弘さんは子供の頃、「討伐隊」と称し、仲間と手当たり次第に花を切り倒したという。不気味な姿にも、きっと深い訳があるはず。自省の念を込めて詩に詠んだのは、体に重い障害を負った後だった。事故で首から下の自由を失ったのは24歳のとき。9年に及ぶ入院生活の中、絵筆を口にくわえ、描いた花や草木の水彩画に詩を添えた。「神さま」の意思に触れたのもその頃だという。森羅万象には意味がある。自分が生きていることにも・・
  ひとたたきで折れてしまう
  かよわい茎だから
  神さまはそこに毒蛇の模様をえがき
  花をかまくびに似せて
  折りに来る者の手より護っている

⑤「どくだみ」1980風の詩)

この詩は9年間の病院生活から自宅に移り、近くに咲くドクダミを見て作られました。
「私はドクダミが嫌いでした。変なにおいがするし、どす黒い葉、ミミズのような赤い茎・・
でも私は車いすに乗るようになって大事な事を知りました。
 元気だったころは、体の不自由な人を見れば可哀そうとか、気味が悪いと思っていましたが、自分が車いすに乗るようになって、体が不自由な自分を不幸だとも嫌だとも思わないのです。不自由な人を見てすぐに不幸だと決めつけていたのは、私の心の貧しさでした。だからドクダミを見たとき私は自分の貧しい心で花を見てはいけないと思いました。その時からドクダミが美しく見えるようになったのです。」

お前を大切人で摘んでいく人がいた

臭いと言われ 嫌われ者のおまえだけど

道の隅で 歩く人の足許を見上げ 

ひっそりと生きていた

いつかお前を必要とする人が 

現れるのを待っていたかのように

おまえの花 白い十字架に似ていた 

⑥「こきく」1981風の詩)

 この詩はイエス山上垂訓そのものです。きっと星野さんはイエスと同じ思いで人々に真の愛を伝え続けたのでしょう。
「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

(マタイによる福音5章1節12章)

⑦「タンポポ」1980 風の詩)

 「人間にどうしても必要なものはただ一つ。それは命でしょうか、愛する心でしょうか?」
 富弘さんは、頼りなげに飛び立つタンポポの小さな綿毛の実に答えを示しています。富弘さんは、間違いなく神が現代に遣わされた救い人です。このタンポポの詩画は、現代の私たちに分かり易くイエスの「一粒の麦」の言葉を教えてくれます。
「一粒の麦死なずば、ただ一つにてあらん。 もし死なば、多くの実を結ぶべし」
(麦が自分一個にこだわって死ななければ、それはただの一粒の麦にすぎない。しかし、土の中で死ねば他の多くの実が生まれる) 

⑧「はなきりん」1974風の詩】

この「はなきりん」は初期の作品です。恐らく不自由な体と心に、はなきりんの棘のようなものが沢山突き刺さり苦しんでおられたのでしょう。そして次の事に気付きます。
「そのはなきりんが、美しい花を咲かせる! はなきりんは、一つの茎から棘をつけ葉を出し花をつける。人間も同じだ。一つの身体で感じる苦しみも喜びも同じものなのだ。ならば気持ちを切り替えて、喜びの花を目指して生きよう!」

⑨ 「きく」1977 風の詩)

 お母さんへの感謝を込めた詩画、この絵の背景を知るとなおさら胸が熱くなります。
「半身不随になって1年半、やるせない思いで母に八つ当たりしていた。自分では食事できないくせに、母がスプーンで口元に運ぶスープがこぼれ、カッとなって積もり積もったイライラを母にぶっつけてしまった。口の中のご飯粒を母の顔に向けて吐き出し怒鳴った。
 『チキショウ、もう食わねー くそばばあ』
散らかったご飯粒を集めながら母は泣いた。
 『こんなに一生懸命やっているのに、クソババアと言われるんだから・・』
その後ハエがうるさく飛回り私の顔に止まった。母は右手でハエを叩こうと構えたが、そっと触るように私の顔に触れた。勿論ハエは逃げたが頬に母の湿った手のぬくもりが残った。
 あれほど汚い言葉で罵ったので母は私を恨んでいたに違いない。しかし私の顔に付きまとうハエを見過ごせず叩こうとして叩けず、そっと捕まえようとした・・これが母なんだ、私を生んでくれたたった一人の母なんだ・・この母なしでは生きていけないだ・・その日から、止めていた絵を再び描き始めた。」  

⑩ 「つるばら」(あなたのてのひら)

 このツルバラの終わり句の『しかし あなたは、私が望んでいた何倍の事をして下さった』という言葉に、星野さんの78年間の凄い人生が凝縮されていると思います。

(11) 「ニセアカシア」1981 鈴の鳴る道)

9年間の入院生活から懐かしい我が家に戻っても、自分の不自由な体の生活は全く変わりません。そういう限りない不安にさいなまれている星野さんを思いやり、一緒に暮らすことになった奥様は、さりげなくニセアカシアの花をかざり元気づけます。この奥様の優しさに気づき元気を取り戻すお二人の夫婦愛にホロリともらい泣きしました

(12)「おだまき」1986 鈴の鳴る道】

 星野富弘さんの人生は「命よりも大切なもの」を私たちに教え続けた人生でした。心から感謝します。

・・「この詩の花に、星野さんはなぜオダマキを選ばれたのだろう?」と思います。ご自宅の周囲にひっそりと咲くオダマキを見て自然にそう感じられたのでしょうか。恐らく富弘さんの奥様の無償の尊い愛と「恋しい義経を偲び 源頼朝の前で刑死を覚悟して踊った静御前」とが重なったのではないでしょうか。

「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき」

「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」

(13) 「ザーカイ、急いで降りてきなさい」1984 鈴の鳴る道)

この詩画は、迷える私たちにイエスが呼びかけているようです。 ザーカイは新約聖書に出てくる取税人です。最も卑しまれる仕事で、しかも不正に税を取り立てていたので人々に憎まれていました。それでもイエスの話を聴きたくてイチジク桑に登っているのを見たイエスは、「降りてきてここで話を聴きなさい」と席を作ったのです。悪人でも見捨てず優しく説くイエスに神の愛を感じたザーカイは、以後人々のために働く者となりました。

(14)「アケビの花」 1985 鈴の鳴る道)

私もその場面にいたら、きっと逃げ出したでしょう。弱い自分の本性を見るようで身につまされます。

・・最後の晩餐で「この中に私を売る者がいる」とイエスが語った時に「私はそんなことはしない!」といぶかった12使徒
 ・・ゲッセマネの園でイエスが最後の祈りをささげる時「寝ないで私を待っていなさい」と言われたのにみんな寝てしまった12使徒
 ・・兵士が捕縛に来た時「私は先生と共にある」と誓ったのに全員逃げてしまった12使徒。 中でも高弟のペトロには 「おまえは鶏が鳴く前に三回私を知らないと言うだろう」と悲し気に予言され「そんなことはありません!」と断言しました。しかし捕縛にきた兵士に女が「この人もイエスと一緒にいた!」と訴えられると「私は知らない。人違いだ」と三回答えて、すぐに鶏が3回鳴いて朝を告げました。その時ペテロはイエスの言葉を思い出し、自分の情けなさに号泣しました・・

(15)「雪の重みに倒れた竹」 (1986 鈴の鳴る道)

 この絵は、人々の罪を背負って十字架にかけられたイエスの犠牲を、星野さんの視点で私たちに教えてくれています。自然の営みの中に、神のみ恵、神のみ業を感じ取る星野さんの感性・表現に、改めて「神様に選ばれた人」という思いを強くします。

(16)「母子草」1984 鈴の鳴る道)

食事も排便も寝返りすらも・・自分の力では、何ひとつできない。そんな息子を一日中世話してくれている「かあちゃん」・・本当は泣きたくなるくらい感謝している富弘さんの心が伝わってきます。

(17)「カトレア」1986 鈴の鳴る道)

お母さんへの感謝でいっぱいの詩画です。お母さんのしわしわの手も、顔を洗ってもらったり歯を磨いたりと、優しく触られると真綿のように柔らかく暖かだったことでしょう。入院初期の頃の「きく」エピソードと重なるお母さんへの深い感謝が込められています。

(18)「よめな」 1986 鈴の鳴る道)

首から下が完全にマヒして無感覚になってから、四六時中手足となり、愚痴のぶっつけ先になり、食事も排便も着替えも全てお世話になり・・詩画を始めた時から、一番協力し、絵が完成したら一番喜んでくれたお母さん
このお母さんなくば、星野さんの感動的な人生は生まれなかったに違いありません。

(19)「ねむの木」(花よりも小さく)

 『うしろ向き』というエッセイがあります。
【・・思えば、私は小さい時から後ろ向きが好きだった。汽車に乗れば行く方向に背を向けて座り、去っていくものを見るのが好きだった。
「振り返ってはいけない」とか「前向きに生きろ」などとよく耳にするが、振り返ることなく生きられる人がいるだろうか。もちろん、振り返ってばかりいては前に進めないから程度にもよるが、それを罪悪のように考えるのは、毎日の生活を窮屈にしてしまうような気がする】

 4,晩年の星野富弘さん

<星野富弘プロフィール>
1946年 群馬県勢多郡東村に生る
1970年 群馬大学卒業 中学校教諭になるがクラブ活動の指導中頸髄損傷手足の自由を失う
1972年 口に筆をくわえ文や絵を書始める
1979年 前橋て最初の作品展
  〃  退院
1981年 結婚
1982年 高崎て花の詩画展 以後全国各都市での誌画展は感動を呼び入場者は100万人以上
1991年 東村立冨弘美循館開館開設 ブラシル各都市てリトグラフ作品を中心に花の詩画展
1994年 ニューヨークて花の詩画展
1997年 ハワイて花の詩画展
1999年 東村立冨弘美術館の入舘者が300万人
<著 書>
愛、深き淵より。 (立風書房)
風の旅 (立風書房)
鈴の鳴る道 (偕成社)
かぎりなくやさしい花々 (偕成社)
銀色のあしあと・三浦綾子との対談 (いのちのことば社)
透さのちがう時計 (偕成社)
あなたの手のひら (偕成社)

【私の星野富弘さんとの出会い、魂の救済を受けたあゆみ】

 私は35年前、40歳人間ドックで胃癌と診断され、すぐ胃全摘手術を受けましたが・・小腸が癒着し お粥でも腸閉塞を起こし入退院を1年間繰返しました。そういう半病人のとき上司から名古屋建設現場の単身赴任を指示され「とても無理です」と断ると「精神力が弱い。禅寺に行って修行したらどうだ」とお荷物扱されました。「一番苦しい時に鞭打つ、これが当社の家族主義か・・」と、私は人間不信に陥っていました。

 丁度その頃、星野さんの詩画集『鈴の鳴る道』に出会い衝撃を受けました。逞しい青年が突然絶望的な境遇に陥る・・しかしお母さんの渾身的な介護、絶望の中でイエスの救い、天使のような「渡辺さん」と出会い結婚・・星野さんの苦悩と周囲の暖かい愛に自らの魂を清め高めていく様が克明に描かれていました。決してきれい事だけではない、星野さんの心の中の葛藤や嫉妬や反感、そういう醜い心への自己嫌悪、そこから湧き出てくる珠玉の言葉、それを口にくわえた絵筆に託して1カ月かけて制作される花の絵・・「そういう心の変遷が一枚一枚に込められているから万人の心に響くのだ! 私も星野さんのように、周囲に振り回されず自分の道を真直ぐに歩こう!」 と勇気づけられました。

<私の腸閉塞は再手術で完治。ちょうど北海道で1,500億円規模の大PJ工事があり、かの上司の顔を見たくない私は、人事発令なしにPJに飛込み大歓迎を受けました。そして最新技術を取入れながら数十億円のコスト削減を実現し、当時の寺畠社長は「安藤は生涯賃金の10倍稼いでくれた」と評価され、リベンジを果たしました。ただ生活給の会社ゆえボーナス加増はありませんでしたが・・笑>