2026年2月5日木曜日

9. 「快男子 石崎君」の充実人生

  1年前の5月25日、快男子「石崎豊和 君」は旅立ちました。

その3日前まで、入院先の日赤渋谷病院から「生活に酸素ボンベが必要となり、その訓練入院だ。自宅に帰ったらボンベをリビングのある1階に置くか生活空間の2階に置くか悩んでいるよ。」と、のんびりしたラインメールのやり取りをしていた私は「彼が退院したら見舞いに行こう・・」と思って安心しきっていました。実に彼らしい気遣いの旅立ちでした。

石崎君は宮大入学以来、我々宮大電気科S43生仲間の親睦を深めるために、いつも尽力してくれました。大学一年の夏、彼の鹿児島実家に学友の岡本君が訪ねてきて長逗留。お父さんが堪り兼ねて息子に「岡本君はいつ帰るのかな・・」と訊いたほどです。石崎家は親子ともに周囲に安心感を与える優しい人柄の家族でした。



卒業後も、関東地区で同窓会や新年会が続いたのは石崎君のお陰です。

勤務先は富士通、第一線のシステム技術者として活躍していましたが、彼の穏やかで友好的な人柄が見込まれたのか、営業部門へ引き抜かれて営業部長に! 「安藤、会社の金で酒が飲めるんだから最高だったよ!」と現役時代を振り返ります。きっとあの人柄で大きな商談を沢山まとめたことでしょう。

現役時代も退職後も仲間との懇親を大事にして、その中心にはいつも彼がいました。次の2017年「箱根天成園温泉に寛ぐ3人衆」以降、石崎君の姿がないのは、2018年から癌闘病に入ったからです。

約6年に及ぶがんとの壮絶な闘い、しかし彼は最後まで「安藤、人生で大事なのはクオリティーライフだよ!」といつも笑い飛ばしていました。旅立ちから1年、改めて石崎君の存在の大きさと、彼がいない寂しさを感じています。彼との57年にわたる「思い出画像」を振り返りながら、ご冥福を祈りたいと思います。

最初に両肺に影が見つかり片方を手術、摘出癌の細胞診をしたところ膵臓原発性と判明、体力回復を待って膵臓手術となりました。体力回復後に「残ったもう一方の肺がんを手術するか・・」ということになりましたが、この時の石崎君の判断はすごいと思いました

「両肺手術後の生活を考えるとその選択肢はない。たとえ短くてもクオリティーライフを楽しみたい!」

 そして化学療法を選びました。自分がそう言う立場になったらどうするだろうか・・といつも考えさせられます。(俺だったら一日でも長く生きたい・・と手術を選び、外出もままならず細々と生き長えるだけかも・・・と)

彼はクオリティライフのために化学療法を選びましたが、転移を抑える抗がん剤は強烈で「髪も眉毛もチン毛も抜けたよ。ヤーさんみたいになったので安藤とも会えない」というので、家内がアイラインを送ったりしました。

コロナ渦後、大分の初ちゃん夫婦が最後の関東旅行したいというので、その来訪の1カ月前に、小康状態となった石崎君と「彼の歓迎宴をやろう!」と新宿宮崎館で打合わせのために5年ぶりに再会しました。

彼が「抗がん剤治療で指紋もなくなり箸が持てない」というので、やせ細っているかと思いきや、なんとお相撲さんのように太り、体重は90kg超えで足の甲を痛めたとのこと。「食事も酒も旨い!」と、この時の写真で彼が持っている銘酒「杜氏潤平」7号瓶を買い、一晩で飲んでしまったそうです。(さすが鹿児島出身の酒豪です!)


一カ月後に同店で大分の友人を囲んで歓迎会、翌日、腰痛で参加できなかった小田原の友人を訪ねてロマンスカーで箱根天成園への2次会にもしっかり参加して旧友を温めてくれました。(その小田原の寛盛夫婦は、石崎君と最後のお別れ会でもあったのに2時間でさっさと帰ってしまいましたが・・涙)

しかしクオリティライフを追求する彼は、その一カ月後には奥様と二人で一週間の北海道ドライブ旅行に出かけました。 大好きなドライブ旅行のために数年前に買ったマニュアルシフトのディーゼル車で!大丈夫か?と心配する私に「安藤、これこそがクオリティーライフだよ!旅先で往生しても本望!」と笑っていました。

それから1年もたたない旅立ちでしたが、おそらく今も天国でマニュアルシフト車で駆け巡り、夜は焼酎を飲みながらお父さんお母さん奥さんと談笑し、「安藤、噂通り天国の酒は旨いし姉ちゃんは綺麗だ。天国クオリティライフは中々大したもんだぞ、お前も早く来いよ!」と言ってるような気がします。

『悪いけど、オレは今しばらく家内と現世クオリティライフを楽しむから、もう少し待っていてくれよ』(笑) 

9. 萩原政人君の真摯な人生に学ぶ

  萩原君59歳の旅立ちから9年経過、先日 旧職場仲間6人で墓参しました。

 折しも、史上初女性の高市首相が登場し日本中に活気が出てきました。 国のトップが「働いて働いて働きぬいていきます!」と力強く宣言、その言葉通りトランプも習近平にも臆することなく堂々と渡り合い、日本が再び活力を取り戻し、世界から尊敬される国へと導く力強いスタートを切りました。 

日本人は、元来「働くことに喜びを持つ国民」です。近年「楽して働かず、人の為でなく自分の為だけ、補助金は欲しい、悪いのは全て政府」とする他責・自己中が蔓延ってきました。しかし高市政権はそういう暗雲を吹き飛ばし支持率は80%超、若者に限れば90%以上となりました。

私達出光興産に勤務したものは、佐三店主から 「一生働け! ”働く” とは、人の為に動くという意味、傍(はた:周囲)を楽にすることだ」 と教わり、その代表選手の一人が「萩原政人君」でした。

 萩原君は高度成長末期のS51年入社、先輩20人の職場で最年少状態が30年以上続きました。平成20年代になり世代交代で漸く新人が入社し始め、構造不況下の人件費削減のために10数名となった極めて困難な時代「この難しい状況のリーダーは萩原君しかいない!」 と、先輩達を率いる電気係長に抜擢されました。使命感が強く仕事熱心で人間的魅力にあふれ、甲府出身であることから、私は密かに 『現代の武田信玄!』 と尊敬していました。

これは平成9年6月、以前電気係長だった山口輝昭さんが退職後タンク清掃会社を設立、出光エンジ事務所に来訪された時の写真です。この時萩ちゃん40歳の大ベテランですが、それまで後輩の採用はなく、22年目の「最若手社員」でした💦 (左から、竹内君41歳、萩ちゃん40歳、山口さん60歳、山田君44歳、森木君41歳)・・山口さんは親父のような存在で、部下の実家近くに出張や旅行で行くと、必ず部下の実家訪問され、ご両親に「元気に頑張っていますよ!」と近況や活躍状況を報告されました。そういう家庭的な職場の中で萩ちゃんは育ち実力をつけていきました。

私は平成5~9年の5年間千葉電気係長でしたが、電気係員として経験が全くなく、現場作業のできない係長でした。そういう私の片腕となってバックアップしてくれたのが若い萩原君でした。 工場は停電で全装置が停止します。私の係長5年間の間でも様々な全停電危機状況がありました。 

1.    製油所工場変電所 低圧盤制御基板焼損対応

その一つが平成6年6月、係長1年目の「FCC変電所の低圧盤プリント基板の焼損事故」でした。メーカー耐熱設計不良によるもので、同じ基盤が製油所工場全体で2700台に使われており、これらが一斉に焼損すると製油所・工場すべてが停止し、メーカー対応も不可能で生産再開に1~2年はかかります。「このままでは 出光最大の生産拠点が長期間機能しなくなる!」 という私の75年人生で最大の危機でした。今思い出しても身の毛がよだちます。

「現場経験のない私が電気係長となったのは、この重大試練に対処せよという天の采配だ!」と覚悟しました。何より心強いのは、萩原君たち職場仲間が固く結束していることでした。

 本件は、別途詳しく報告しますが、係長の私はメーカー(明電舎)の重役と協議を重ねて緊急で新製品を設計製作させ、1年後のSDM(定期補修工事)1カ月で2700台を一気に交換する工事段取りを進めました。その工事監督・最終設定確認は千葉だけでは到底対応できないので、徳山・兵庫・愛知・北海道の電気係から6名の応援を出してもらい何とかクリアできました。この6名が「二度と千葉には応援に来たくない!」と悲鳴を上げるほどの繊細でハードな工事でした。この6人への工事手順説明・バックアップを精力的に務めたのが萩原君で、彼の行き届いた仕事に助けられ本当に心強く思いました。

2.    台風暴風雨による変電所雨漏れ多発危機

もう一つが、平成8年8月台風5号の大雨による変電所建屋の雨漏れ多発トラブルでした。30か所以上ある二次変電所の10か所で雨漏れが発生したのです。

中でもHD(3)変電所はひどく、天井から滝のような雨漏れがあり直流盤が水浸しとなりプラント停止したのです。同様の危険性が全変電所で危惧されました。中でも萩原君が担当するPP変電所は電気設備が多く、同様の停電が起きたら会社に与える損害は膨大となります。・・そう思いながらPP変電所に確認に行くと天井からの雨漏りが始まっていましたが、すでにブルーシートが被せてありました。そして萩原君が「PP変電所は危険予知して対策を進めていましたから大丈夫です。ほかの変電所担当者を支援してください。私も後から応援に行きます」と言うのです。私は「この危機的状況にも動ぜず 何と凄い男だ!」と心から感服しました。

現代社会において「電気」は便利で欠かせないものですが、技術理論は専門的過ぎ、取扱いは極めて繊細で難しく、一般社会 とりわけ工場の運転課からは常日頃「電気は空気や水と同じように存在して当然」と思われています。従って電気トラブルが起きるたびに「何やっている!」と激しく非難される 誠に損な見返りの少ない職種です。しかしそれを不満に思う電気担当者は一人もいません。そういう重要な技術分野であるからこそ、人に理解されずとも「電気トラブル・故障ゼロ」を自らに課し、人知れず黙々と努力を積み重ねる「求道者のようなサムライ人生が、電気係員の役割使命」なのです。

私は僅か5年間の電気係長で、そのあと兵庫製油所人事課長となり電気現場から離れました。しかし萩原君はじめ電気係員は、入社以来40年(今では70歳まで50年以上)、こういう大変な仕事に対処しています。それだからこそ会社を辞めて10数年経過した今も、再会すると現役時代そのままの率直な会話がはずみます。


 萩ちゃんは平成28年(2016)11月5日、59歳の働き盛りに突然逝去しました。『何故?まだまだこれからの人生なのに!』 と本当に驚き残念でした。そして告別式の奥様の話で、改めて 『本当に偉大な男だった!』 と驚嘆しました。彼は末期がんで死期を悟り、死後に家族に迷惑のかからないよう 永眠するお寺と葬儀段取と樹木葬を決めて旅立ったのです! 何という見事な覚悟!何という夫婦愛・家族愛でしょう!

かっての同僚・友人が毎年墓参し9年目になります。今年は6名参加、欠席の2名は勤務延長の田村君(S47)、成田空港水素ステーション勤務の田代君(S50)で、参加できないことを残念がっていました。

今年の墓参でも『私達も潔く思いやり深い萩ちゃんのような人生を目指して頑張るよ!』と誓いながら、心づくしの花々でお墓を飾りました。

『萩ちゃん、この配置でいいかな?』
『ありがとうございます。皆さんの温かい気持ちが伝わってきますよ!』
ここに来ると、昔のままの楽しい会話ができます。確かに彼は私達とともにいるのを感じます。

萩ちゃんの樹木葬墓標を、心づくしのパンジービオラで囲みました。『花さん達、これから一杯花を咲かせて萩ちゃんを楽しませてくれよ!』

墓標周りは前日奥様が植えられたもの。私達「萩ちゃんを囲む会(8名、欠席2名)」は、その周りを囲むようにビオラを8株植えました。

花で囲まれた萩ちゃんを囲み 
『いつまでも萩ちゃんと一緒だよ』

『いずれ、オレ達もそちらに行くけどその時も仲良く楽しく一緒に過ごそう!』

(昨年)『萩ちゃん、今年も来たぞ』 いつもは寡黙で不愛想に見える田村君ですが、本当は優しい心暖かい後輩思いの男です。 職場仲間を大事にする思いは人一倍で、毎年50ccバイクで駆けつけてくれますが・・今年は勤務中で残念ながら参加できませんでした。(写真右手前)

位牌安置された礼拝堂参拝
位牌が多いので、従来は萩ちゃんがどこにいるのか分からず、中央の釈迦牟尼像をお参りしていました。
昨年、浅野さんが住職さんに聴いて、萩ちゃんの位牌の位置が分かったため、ようやくその前で祈りを捧げることができました。

「輝雲政光信士」いかにも武田武士のような、輝く誇り高い生涯を送った萩原政人君らしい戒名です。(東ーG01 上から7番目)
「萩ちゃんを偲んでコーヒーで献杯」 「退職後も、懐かしい仲間と顔を合わせられるのも、萩ちゃんが引合わせてくれるんだよね、ありがとう!」 左から吉田君(S51萩ちゃん同期)、浅野さん(S46)、重永君(S47)、右手前から新生君(S47)、山田君(S47)




千葉県袖ケ浦市の山寺、曹洞宗 瓦谷山真光寺は、弘治2年(1556年)9月、かって上総の高野山と言われた真如寺の八世、鷹山厳召大和尚により開山されました。「瓦谷山」という山号は、当地に平安時代の瓦や土器が出土したことから来ています。
釈迦牟尼をご本尊とし、福井の永平寺、横浜鶴見の總持寺の両大本山を信仰と修行の中心においています。教義は「日常の生活の中に悟りがある」という教えで、威儀即仏法とも修証一如とも言い表されます。

9. 紫陽花と大学合唱団友人の思い出

 間もなく梅雨入り。淡く美しいアジサイに目が奪われます。

私は宮大工学部時代、暗い青春に決別すべく、3年生から大学の混声合唱団に入りました。 同時に入部した1年生の田中敏夫君は特別音楽課程の声楽科、2年後輩なのに「安藤さんはサリンジャーの ”ライ麦畑で捕まえて” を読みましたか?あれは中々良い」などと文学談義を挑んでくる(小癪で生意気な‥笑)後輩でした。

これは昭和45年、宮大ブルースカイ合唱団の第5回定期演奏会の記念写真です。この時から観客2000人の宮崎市民会館で定期演奏会をするようになりました。
私は3年からの入部で、いきなりの晴れ舞台。思い出多い定期演奏会です。私は左端から2番目です。

宮崎大学歌 - YouTube

私が就職して3年後、上野の東京文化会館前で「安藤さん!」と声をかけられ振り返ると、その田中君が白いベレー帽をかぶり垢ぬけた姿でにこやかに立っていました。彼は東京芸大に入りなおして声楽に精進していました。

その後交流は途絶えましたが・・約10年前に私がFBを始めた時最初に「友達申請」してきたのが彼でした。以来交流が復活しました。彼は故郷の山口市で高校音楽教師と市民女性凝合唱団の指導者として活躍していました。

2020年3月22日、家族も驚くほど急に旅立ちました。享年67歳!まだまだ若いのに本当に残念でした。

FBの彼のサイトに、あの張りのあるバリトン歌唱YOUTUBEを沢山残してくれたことに感謝しています。おかげでいつでもあの素晴らしい歌を聴き癒されます。シューベルトとシューマンが大好きでした。⇒田中敏夫 - YouTube

私は中でも「シューベルトの子守歌」が、彼の心優しさに包まれ大好きです。⇒http://blog.livedoor.jp/.../15%20-%20%E3%83%88%E3%83%A9...

1.2019年6月9日投稿「田中邸ガクアジサイ」

 ガクアジサイの気品のある美しい姿は、田中敏夫君そのものです。この9か月後に旅立つとは夢にも思いませんでした(涙)

彼はガクアジサイが大好きで、毎年この季節になると自宅に咲いた花をFBで紹介し、私は我家のガクアジサイと見比べながら楽しみにしていました。彼のガクアジサイは主を失いましたが、今年も見事に咲いていることでしょう。そう思いながら、彼が新入生の今ごろ、合唱団員全員で宮崎市郊外の双石山ハイキングしたことを思い出しています。

 2.1970初夏、双石山へ新入生歓迎ハイキング
後列右から4番目が田中敏夫君(1年生ながら、早くも常任指揮者!) 前列右端の「姉さんかぶり」の労務者風が私です。



双石山は通常コースなら子供でも簡単に登れる山です。別コースに急峻な岩場がありロッククライミングの練習場になっています。ただ岩が砂岩で脆く崩れやすいため、滑落して死亡する事故が多い危険な山です。宮崎市内から近いので簡単に考えるのでしょうが・・ロッククライミングなら県北の大崩山が固い花崗岩なので一番適しています(私は岩登りは怖いので絶対にやりません)

ただ双石山の簡単な登山コースでも、ところどころに危険場所があり要注意です。現にこの登山の後の下山途中に同期の角田さん(敏夫君の左隣)が、細い岩棚を渡るときに濡れた岩肌に足を滑らせて2m滑落してしまいました。その時は健気にもすぐ立ち上がり「大丈夫!」と、バス停まで歩いていきましたが・・後年股関節痛に苦しんだのは、この時の滑落で腰骨が変形した為でした。そして10年前に人工関節手術が成功し、再び元気に世界中を旅しています。

3.同じく双石山山頂で「世界に届け!」と大合唱

右から3番目が新入生の田中敏夫君(その右隣りが3年生の私)白い背中は村上君
4.女声合唱 花いずみ(田中君が指導する合唱団)

「ありがとうコンサート」で歌う田中敏夫君
(彼のFBより)2018年2月24日(土)

5.我が家のガクアジサイです。
「田中邸と同じだ!」と、毎年彼の投稿する額アジサイと見比べています。





9. 42年前の母校初甲子園激闘の感動

母校 日向学院47年卒 小玉訓嗣さんから届いた感動逸話の紹介です。

 毎年沢山の感動を与えてくれる高校野球ですが、青春のエネルギー全て注ぎ込んだ彼らの熱い戦い、爽やかなスポーツマン精神は、42年経過したいま振り返っても、感動を新たにします。まさに『一生感動、一生青春』ですね。

 『高校球児の熱い青春、感動ふたたび』 小玉訓嗣さん 10月3日

私の母校日向学院高校は昭和55年夏と62年春と二回甲子園出場しています。

初出場の55年夏は、1-1で延長戦に入り、13回に2点が入って3-1となり「これは校歌が流れる!同級生に電話して今晩は祝盃をあげるぞ!」 と電話している最中に逆転負けしてしまいました。

しかし、私が在学中は県大会の一回戦突破もおぼつかない弱小チームでしたので、良くここまでなったものだと、当時の三原先生や部員の皆さんに感謝しかありませんでした。・・昔も今も、一応私立中高一貫の進学校なのですが、バレーボールも春高バレーに出場するなど文武両道を実践しています。

大島さん(札幌市在住) 返信コメント

小玉様 初めまして。 私は現在、札幌市に住んでいるのですが、高校まで旭川に住んでいて、旭川大高校出身ではないのですが、旭川の高校で野球をしておりました。

1980年のその試合で、旭川大高校野球部OBから聴いた後日談があり紹介させて戴きます。

1980年夏、旭川大―日向学院戦サヨナラの場面で、旭川大の鈴木貴久さんは、タイミング的にはアウトのところを激しいスライディングでサヨナラのホームインしています。後に近鉄時代「北海の荒熊」と呼ばれた片鱗がこのとき発揮されました。・・日向学院の捕手は、突き飛ばされて骨折するほどの激しいプレーで落球して逆転負けです。試合後の握手は日向学院ナイン全員から拒否されました。結果的に日向学院の捕手に怪我をさせたことは事実なので、その日の夜に旭川大の部長先生と当時2年生の鈴木貴久さんは、日向学院の宿舎に謝罪に行きましたが、日向学院の関係者から 「帰れ!」 と門前払い・・・

それから5年後、電々北海道を経て近鉄バファローズに入団した鈴木貴久さんでしたが、当時の近鉄キャンプは宮崎県日向市でした。近鉄ナインの中で新人の鈴木貴久さんだけがフリーバッティングをしたりノックをしてる時に誰よりも声援が大きく、鈴木貴久さんが 「何でこんなに俺の声援が大きいんだ?」 と首を傾げながら練習していました。するとスタンドから 「お~い 鈴木!」 と呼ばれたので、振り返ると当時の怪我をさせた捕手を含めた数名の当時の日向学院ナインが手を振って、鈴木貴久さんの激励の為にわざわざ球場に来てくれていました。

鈴木貴久さんは、それに感激し、当時の捕手に謝罪し、それから近鉄が毎年キャンプで日向に行く度に、当時の日向学院のナインと夜に一席を設けて交流していたそうです。

その鈴木貴久さんは、気管支炎で40歳前後で急逝されました。 旭川大学高校も来年、付属大学の旭川大学が私学から旭川市立に移管され旭川市立大学になるのに伴い、旭川大学付属高校と経営が分離される為に来年 「旭川志峯 (あさひかわしほう)」 として、2023年4月から校名が変わります。

私は小学生の時に 「旭川大と対戦した日向学院」 として、毎年宮崎大会の勝ち上がりを気にしておりました。 因みに私の母校は1964年夏、同じ宮崎県の宮崎商業に負けております。水谷実雄さんがエースで、当時はビデオが無かったのですが、試合を録音したカセットテープを学校側が保管していたので実況を聞いたことはあります。 また甲子園に日向学院さんが出場出来るよう、御活躍を祈念しております。

投稿者 小玉訓嗣氏 返信コメント

 大島様、貴重なエピソードをありがとうございます。思わず涙が出てしまいました。(歳を取ると涙腺が緩くなります・・) 試合終了後すぐに、謝罪に行かれたのに追い返すなんて、何という後輩たちだ! と思っていたら、その後のキャンプ地での話に 「さすが我が日向学院生!」 と思わず唸りました。 スポーツマンシップを貫いた両校に 「あっぱれ!」 をあげたいですね。

 本当に素晴らしいお話をありがとうございました。


9. R6退職後も研鑽を積むOB達

 10月17日はOB千葉懇親会、130名が参加しました。

大先輩の高田順甫さん(S31年入社)は、90歳前後で足元がおぼつかないのですが、乾杯前の挨拶は力強く(長く)元気でした。みんなコップを持ち疲れ、机の上に置いて乾杯はまだか未だかと・・(笑) 長い徳山建設の話に「ここは千葉ですよ・・」と苦笑しながら、徳山を経験したかなりの参加者が「久しぶりに徳山の話を聴いた」と懐かしみながら乾杯を待ちました。



 元勤務した出光は大半が体育会系社員、仕事は真面目で厳格、アフター5は朝まで飲明かす宴会好きな社員ばかり、50数年前入社した時「大変な会社に入社した!」と驚きましたが、数年たつと私もその真ん中で楽しんでいました。

かっては300名以上が参加していた千葉のOB懇親会ですが、今回は世話人以外は110名、70~80歳の方々が大半で、品よく静かな懇親会でした(OB会というより老人会か??) また今年の新入会員は30数名いる筈なのに、新規参加者は70歳前後の2名(70歳の山田忠さん、66歳の長さん)のみで「あの宴会好きのOBは何処に行った?」と不思議に思いました。

1.15年前の同僚との再会に感激!

 まず受付で、私が15年前の60歳退職前に勤務した千葉人事課で一緒に働いた同僚二人と再会し感激でした。当時から二人とも人格円満で優秀、課長よりも重要な役割を果たしていました。そして私は「彼らは将来、必ず幹部になる!」と確信しました。そして現在千葉事業所の人事課長と総務課長です。いずれ経営幹部になるのは確実ですが、15年前と変わらぬ屈託のない笑顔とフレンドリーさに感激しました。

2.OB会の新規参加者が少なくなった背景

 「なぜ参加者が少ないのか? なぜ70歳以上の高齢者ばかりなのか?」 ・・退職前の50歳代研修で使った資料を確認し納得しました。私達S47年度生は高度成長ピークの会社歴史最大の大量採用でした。しかし1・2次オイルショックで経済鈍化のS50年以降新工場建設はなく運転員採用停止が約20年続きました。その47年度生が70歳を超え、採用停止期間に細々採用していた大卒・院卒の少数退職者の時期に入ったという事です。という事はOB会も高齢化していき、いつまでもS37~47入社の高齢者がOB会の主力だということ・・嬉しいやら悲しいやらです。

 出光の戦後歴史は、外地での事業を全て失い1,000人の引揚者を一人も馘首せず、そのあと奇跡的な事業拡大してきたことが下の年表で分かります。これは日本経済の高度成長、その後の不況と見事に重なっています。産業を支えるエネルギー事業として当然なのですが・・

 高度成長期採用の私達には「オイルショック、バブル崩壊後の倒産寸前の経営難、リーマンショック、団塊世代退職後の大量採用・・」等々、とんでもない試練が待受け、それを全社員一丸となって乗り切っていきました。まさに出光佐三店主の『艱難辛苦 汝を玉にす』『24時間思考を停止するな!』を肝に命じながらの現役生活でした。

 S48年から始まる1・2次石油ショック後、各社がコスト削減でベテランを大量解雇し若手に切替えていくなか、出光は「社員は家族」とリストラはせず、S55年から20年以上採用を停止し退職者の自然減で乗切っていきました。このため大量採用組のS44~54年入社の中堅社員は他社の120~150%は働き、世界最少数で運転するスキルを身に着け、スタッフ業務も取り込んでいきました(出光では「運転員」ではなく、PE:プロダクション・エンジニアと呼びます)

 このS47,50大量採用の団塊世代が60歳定年を迎えたころ、リーマンショック後の経営危機で再び5年間採用停止しました。私は採用再開の平成16年に出向解除され本社製造部勤務、大量採用の企画推進を担当しました。しかし社長説明用に作成する資料はことごとくK製造部長に阻まれて没! 下の資料はその時の1枚目=概況図です。(経理部出身の部長でコスト意識しかなく、コストを圧迫する大量採用には冷淡でした)「どこが ”人が資本” だ! これでは工場長期停止が目の前だ。勝手に人手不足で生産不能になってくれ!」と57歳で辞表を出しました。
 しかし人事部次長(現社長)からの慰留・異動要請があり「人員不足対応で、60歳退職希望者を65歳迄勤務延長する意識改革研修」を4年間のべ46回600人に行いました。K製造部長の壁を突破できず社長の目に触れなかった資料は、そのまま退職予定者への説明資料としました。その結果受講生は自分の存在の重要性を理解し、65歳迄勤務が当たり前となり、中には70歳を超えて勤務する人も増えました。「本当に会社経営を支えているのは一般社員の使命感だ!」と痛感しています。
 出光佐三氏が豪語する「出光には定年制がない」の当時の実態は60歳の肩たたきでしたが、漸く「定年制がない」が実態として軌道に乗ってきたのを心から喜んでいます。

3.「85歳迄は若者育成だ!」(木原さん)

 手前は、私が新入社員時代の教育担当だった木原徳三さん。入社10年目の私が人事部から兵庫の計装係に現場復帰した時の係長でした。いつもニコニコ、怒ったことのない優しい上司、まさに「徳の人=徳三さん」でした。
 退職後は、職業訓練所(今はポリテクノセンターと名を変えています)で「ボイラー技士、危険物取扱者」の国家試験突破の講師を27年間続けておられる、84歳の生涯現役の実践者です。

4.一流の人は、何をやっても一流

この仏像は、真ん中の白髪頭の長尾潔さんが制作されたものです。7年前から仏像師に弟子入りして研鑽されています。どう見てもプロの仏像で、只々「すごい!」の感嘆の声しかありません。
 長尾さんの故郷は私の隣町「小林市」で九大卒業、現役時代は石油化学の優秀な技術者で重役を務めました。 「一流の人は、何をやっても一流になれる」という事を、今も実践し研鑽を続けています。

5.ひときわ盛り上がった芸術家たち
 左から『田中省三さん、森田龍彦さん、芦田尊資さん』

 田中省三さんは、現在仏像制作に取り組んでいます。かって省三さんがポリプロ係長のころ、私は電気係長で故障機器の修理・保全を指揮しました。ポリプロ装置で多かった電気トラブルはVVVF制御の押出機。 初期投資節減のためドイツ製で、取説も読めずまごまごしていると「仕事の鬼の省三さん」の厳しい叱咤が飛びました。


それから30年経過した今の省三さんは、まるで仏様のような穏やかな笑顔で、不思議に思ってその印象を伝えたところ、おもむろにスマホから自分が制作した仏像を見せてくれました。
「こういう仏像を彫っていると心が穏やかに落ち着きます。特にこの地蔵菩薩が気に入っています」と画像を見せてくれました。

 そういう話をしていたら集まってきたのが元石化のプロ級芸術家二人です。

『芦田尊資さん』

プロ級の作陶家(市民大学講座で講師を務める)&水彩画家です。美しい蝶を絵付けした大皿、水墨画で描いた中尊寺金色堂は見事で見とれました。



『森田龍彦さん』

日本画の滝の前を飛翔するカワセミは見事です。 また千代紙人形の大家でもあり、女性的な繊細な感性を持たれています。


10. 自分たちの街を愛し住みやすく!

 私達市原市国分寺台の お年寄りによるボランティア団体『 国分寺たすけあい』は約20年前に発足しました。北国分寺台地区の福祉活動を率先垂範されていた故飯野徳栄さんを中心に、昭和30年台就職世代の方々が「一人暮らしの高齢者の親睦や相互のたすけあいを行おう!」と、自治会活動で手の届かない相互援助を目的として活動してきました。その活動内容は

 ➀健康作り(早朝ラジオ体操、夏休みは子供参加)
 ➁環境整備・公園清掃・花壇整備
 ➂お年寄り茶話会・植栽剪定
等です。➂の茶話会が活動の主体で最盛期には20~25人の参加がありました。
しかし高齢化が更に進行して、会場まで来れない人が増えて参加者がいなくなり令和3年に中止としました。
 現在は私達昭和40年代就職世代に活動主体が移り、➀➁に加えて④体験型防災勉強会(年1回)を実施しています。・・今回は、市役所に提出した令和6年度の活動内容を紹介します。