約46億年前に誕生したばかりの地球は、温度が1,000℃以上のマグマに覆われ、生命はとても存在できないような環境でした。しかし地球の46億年の歴史の中で環境は大きく変化し、その中で生命は種の絶滅と進化を繰返し、現在まで繋がってきたのです。そして今 地球上には約870万種の生物がいると推定されています。
海は44億年前に誕生したと考えられています。高温でドロドロだった表面が2億年かけて冷え、水が存在できるまでになったことになります。しかし海は44億年間ずっと存在していたわけではありません。この頃、大きさ数キロメートルほどの天体「微惑星(びわくせい)」が頻繁に地球に衝突しており、その衝撃で海が何度も蒸発したと考えられます。その後、海が安定して存在できるようなった38億年前頃、ついに生命が海の中で誕生したようです。
時を経て5億4000万年前「カンブリア紀」になると、生物は海の中で目覚ましい進化をとげ、現在いる動物の体の基本的な構造を持つ動物も誕生しました。爆発的にさまざまな種が生まれ進化したことから、「カンブリア紀の生命大爆発」と呼ばれています。多様化した三葉虫やアンモナイトなどの生物は、その後も進化し続け、海の中で大繁栄しました。しかし、この時点で生物はまだ海の中にしかいません。
1.日本列島の生成
かつて日本列島はアジア大陸の東端にあり、古生代には大陸から運ばれてきた砂や泥が堆積していました。そこへ、はるか沖合で海洋プレートの上に堆積したサンゴや放散虫などからなる岩石(石灰岩やチャート)が移動してきて、それが海溝で潜り込むときに、陸からの堆積物と混合しながらアジア大陸のプレートに押しつけられて加わりました(付加)。この付加が断続的に現在まで続いたため、日本列島は日本海側が古く太平洋側に行くほど新しい岩盤でできています。現在の日本列島は、主に付加体と呼ばれる海洋でできた堆積物から成立っています。
このようなメカニズムで大陸側プレートに海洋プレートが潜り込む中で、主にジュラ紀~白亜紀に付加した岩盤を骨格に、元からあった4 - 5億年前のアジア大陸縁辺の岩盤(イザナギプレートなど)と、運ばれてきた古いプレートの破片などを巻き込みながら、日本列島の原型が形作られました。この時点では日本はまだ列島ではなく、現在の南米のアンデス山脈のような状況だったと考えられます。
その後、中新世になると、今度は日本列島が大陸から引き裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めました。
2100万~1100万年前にはさらに断裂は大きくなり、西南日本は長崎県対馬の南西部付近を中心に時計回りに40~50度回転し、同時に東北日本は北海道知床半島沖付近を中心に、こちらは反時計回りに40~50度回転したとされます。これにより今の日本列島の関東以北は南北に、中部以西は東西に延びる形になりました。そして引き裂かれた中央には巨大な断層(フォッサマグナ)ができました。 そして、およそ1500万年前には日本海となる大きな窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大きさまで拡大しました。
2.日本列島は 最も活発な地球プレート運動最前線
日本列島は、地球を覆う十数枚のプレートのうち4枚のプレートが衝突する世界で最も活発な場所です。列島は北米プレートとユーラシアプレートの大陸地殻にまたがり、更に太平洋プレートとフィリピン海プレートの沈込みにより2方向から強く圧縮されています。
『房総沖と伊豆半島付近』は4つのプレートがせめぎ合う場として世界に類例がなく、日本列島がいかに複雑な応力場に支配されているかを示しています。南房総はそのプレート衝突の最前線と言えます。 また丹沢山塊や伊豆半島は、太平洋側からフィリピンプレートに乗って日本列島にぶつかり一体となったもの、富士山や箱根カルデラはプレート境界面の摩擦熱で膨大なマグマが形成されて噴出した巨大火山です。
3.フォッサマグナに隔離された生成期の東西日本
1600万年前から1100万年前までは、西南日本(今の中部地方以西)のかなり広い範囲は陸地でした。東北日本(今の東北地方)は広く海に覆われ、多島海の状況で、その後東北日本は、太平洋プレートなどによる東西からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・出羽丘陵が形成されるにいたりました。北海道はもともと東北日本の続き(今の西北海道)と樺太から続く南北性の地塊(中央北海道)および千島弧(東北海道)という三つの地塊が接合して形成されたものです。 南西諸島は日本島弧の中でも最も新しく成立した島弧で、600万年前以前は大陸の一部でしたが、大陸の縁で開裂が起こり完全に大陸から切り離され、サンゴ礁を持った島弧となったのは150万年前以降です。
西南日本と東北日本の間は6000mの深く広い断層ができました。そして大量の堆積物や火山噴出物で次第に満たされながら、東北日本が東から圧縮されることで隆起して中央高地・日本アルプスとなりました。この西南日本と東北日本の間の新しい地層をフォッサマグナといい、西縁は糸魚川静岡構造線、東縁は新発田小出構造線と柏崎千葉構造線で、この構造線の両側では全く異なる時代の地層が接しています。
4.氷期の大陸陸続と動物の往来
こうして今日の弧状列島の形が現れたのは、第三紀鮮新正(500万~170万年前)の初め頃でした。その後も氷期の時などには海水準が低下するなどして、大陸と陸続きになることがしばしばありました。
例えば、間宮海峡は浅いため、外満州・樺太・北海道はしばしば陸続きとなりました。しかし津軽・対馬両海峡は130 ~140メートルと深いため、陸続きになった時期は限られていました。また南西諸島ではトカラ海峡(鹿児島以南)、ケラマ海峡(沖縄島以南)のともに1000メートルを超す水深であり、第四紀後半に陸続きになった可能性はまず考えられません。南西諸島の生物相に固有種が多く、種の数が少ないなどの離島の特徴を示すことは、大陸から離れた時代が極めて古いためと考えられています。津軽海峡と対馬海峡は洪積期まで大陸と陸続きでしたが、その後の沖積期に完全に大陸から離れ日本列島になったと考えられています。
5.関東平野・房総半島の形成過程
元々関東平野・房総半島はフォッサマグナに含まれ『古東京湾」の海底でしたが、利根川からの大量の土砂で段々埋められていきました。房総丘陵は海中の島として現れ、大地震の都度隆起を繰り返して大きくなり、古東京湾の防波堤の役割と、利根川流出土砂をせき止めるダムの役割を果たし、関東平野部が広がっていきました。 これに箱根・富士山や浅間山・榛名山・赤城山などの火山灰が大量に降り積もり、いわゆる関東ローム層で覆って、現在の広大な関東平野ができました。
この地図は5000年前の縄文時代中期の関東平野の状態予想図です。当時の海岸線と現在出土される貝塚(赤丸)とが見事に一致し、縄文時代の人々が豊かな海岸端で魚介類を採取しながら暮らしていたことがよくわかります。
6.房総半島隆起の最前線=野島崎
野島崎は過去の大地震によって隆起を繰り返し、今のように陸続きになった地球プレート運動の最前線です。1703(元禄16)年の元禄大地震では
4m 隆起し、1923年(大正12)年の関東大地震では2mほど隆起しています。日本で最初にできた野島埼灯台から房総半島を見ると、地震のたびに隆起した海岸段丘を確認することができます。ぜひダイナミックな地球プレート活動の痕跡を堪能して欲しいと思います。
野島崎灯台は、1866(慶応2)年に米・英・仏・蘭と結んだ江戸条約で設置を約束した8灯台(野島埼、観音埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)のひとつです。東京湾に入る船にとっての重要な指標で、沖合の海難事故が多かったため開国とともに設置が急がれた灯台でした。 フランス技術者で横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックなど建造したF・L・ヴェルニーの設計です。明治2年1月1日に、対岸の観音埼灯台が全国にさきがけて初点灯し、9日後の明治2年1月10日、木造四角櫓型の仮灯台を設置、明治2年12月にレンガ造りの八角形という独特のフォルムの灯台が完成しています。
大正12年の関東大震災で、この地は2mも隆起しました。灯台周辺の岩礁はその時隆起したもの)、灯台も地上6mの部分から折れるという大きな被害を受けています。
房総半島の最南端から500メートル沖合に突き出した形の野島崎。周囲の岩礁は大地震のたびに隆起した部分です。後背地の平坦な市街地・農業地も、元禄地震・大正関東地震などの大地震で隆起した海岸段丘です。海岸段丘が何段も形成されている様子と、後背地の丘陵の南側斜面が急勾配であり、元々はここが海岸線で太平洋の荒波に削られた海食崖であることが良く分かります。
そのさらに奥の丘陵部は南房総の分水嶺で、太平洋側には大きな川が全くありません。上総丘陵に降った雨は、全て東京湾川に流れ、小櫃川の木更津河口、養老川の市原河口へと流れていきます。 海辺からひろがる広大な海岸段丘は、温暖な気候を利用して1年中、花づくりが盛んです。
7.南房総の折曲がり地形
4つのプレートのぶつかり合いにより、南房総の突端は隆起し、テコの原理でその付け根は沈下します。元禄地震、大正関東地震でもこの動きの痕跡が顕著です。そういう日本列島の数百万年の歴史を考えながら野島崎を訪れると、地球のダイナミックな活動にワクワクします。(ブラタモリの世界ですね!)
8.房総半島の南岸に残るこの300年の隆起の痕跡
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