2025年5月5日月曜日

9. 萩原政人君の真摯な人生に学ぶ

  萩原君59歳の旅立ちから9年経過、先日 旧職場仲間6人で墓参しました。

 折しも、史上初女性の高市首相が登場し日本中に活気が出てきました。 国のトップが「働いて働いて働きぬいていきます!」と力強く宣言、その言葉通りトランプも習近平にも臆することなく堂々と渡り合い、日本が再び活力を取り戻し、世界から尊敬される国へと導く力強いスタートを切りました。 

日本人は、元来働くことに喜びを持つ国民」です。近年「楽して働かず、人の為でなく自分の為だけ、補助金は欲しい、悪いのは全て政府」とする他責・自己中が蔓延ってきました。しかし高市政権はそういう暗雲を吹き飛ばし支持率は80%超、若者に限れば90%以上となりました。

私達出光興産に勤務したものは、佐三店主から 「一生働け! 働くとは、人の為に動くという意味、傍(はた:周囲)を楽にすることだ」 と教わり、その代表選手の一人が「萩原政人君」でした。

 萩原君は高度成長末期のS51年入社、先輩20人の職場で最年少状態が30年以上続きました。平成20年代になり世代交代で漸く新人が入社し始め、構造不況下の人件費削減のために10数名となった極めて困難な時代「この難しい状況のリーダーは萩原君しかいない!」 と、先輩達を率いる電気係長に抜擢されました。使命感が強く仕事熱心で人間的魅力にあふれ、甲府出身であることから、私は密かに 『現代の武田信玄!』 と尊敬していました。

これは平成9年6月、以前電気係長だった山口輝昭さんが退職後タンク清掃会社を設立、出光エンジ事務所に来訪された時の写真です。この時萩ちゃん40歳の大ベテランですが、それまで後輩の採用はなく、22年目の「最若手社員」でした💦 (左から、竹内君41歳、萩ちゃん40歳、山口さん60歳、山田君44歳、森木君41歳)・・山口さんは親父のような存在で、部下の実家近くに出張や旅行で行くと、必ず部下の実家訪問され、ご両親に「元気に頑張っていますよ!」と近況や活躍状況を報告されました。そういう家庭的な職場の中で萩ちゃんは育ち実力をつけていきました。

私は平成5~9年の5年間千葉電気係長でしたが、電気係員として経験が全くなく、現場作業のできない係長でした。そういう私の片腕となってバックアップしてくれたのが若い萩原君でした。 工場は停電で全装置が停止します。私の係長5年間の間でも様々な全停電危機状況がありました。 

1.    製油所工場変電所 低圧盤制御基板焼損対応

その一つが平成66月、係長1年目の「FCC変電所の低圧盤プリント基板の焼損事故」でした。メーカー耐熱設計不良によるもので、同じ基盤が製油所工場全体で2700台に使われており、これらが一斉に焼損すると製油所・工場すべてが停止し、メーカー対応も不可能で生産再開に1~2年はかかります。「このままでは 出光最大の生産拠点が長期間機能しなくなる!」 という私の75年人生で最大の危機でした。今思い出しても身の毛がよだちます。

「現場経験のない私が電気係長となったのは、この重大試練に対処せよという天の采配だ!」と覚悟しました。何より心強いのは、萩原君たち職場仲間が固く結束していることでした。

 本件は、別途詳しく報告しますが、係長の私はメーカー(明電舎)の重役と協議を重ねて緊急で新製品を設計製作させ、1年後のSDM(定期補修工事)1カ月で2700台を一気に交換する工事段取りを進めました。その工事監督・最終設定確認は千葉だけでは到底対応できないので、徳山・兵庫・愛知・北海道の電気係から6名の応援を出してもらい何とかクリアできました。この6名が「二度と千葉には応援に来たくない!」と悲鳴を上げるほどの繊細でハードな工事でした。この6人への工事手順説明・バックアップを精力的に務めたのが萩原君で、彼の行き届いた仕事に助けられ本当に心強く思いました。

2.    台風暴風雨による変電所雨漏れ多発危機

もう一つが、平成88月台風5号の大雨による変電所建屋の雨漏れ多発トラブルでした。30か所以上ある二次変電所の10か所で雨漏れが発生したのです。

中でもHD(3)変電所はひどく、天井から滝のような雨漏れがあり直流盤が水浸しとなりプラント停止したのです。同様の危険性が全変電所で危惧されました。中でも萩原君が担当するPP変電所は電気設備が多く、同様の停電が起きたら会社に与える損害は膨大となります。・・そう思いながらPP変電所に確認に行くと天井からの雨漏りが始まっていましたが、すでにブルーシートが被せてありました。そして萩原君が「PP変電所は危険予知して対策を進めていましたから大丈夫です。ほかの変電所担当者を支援してください。私も後から応援に行きます」と言うのです。私は「この危機的状況にも動ぜず 何と凄い男だ!」と心から感服しました。

現代社会において「電気」は便利で欠かせないものですが、技術理論は専門的過ぎ、取扱いは極めて繊細で難しく、一般社会 とりわけ工場の運転課からは常日頃「電気は空気や水と同じように存在して当然」と思われています。従って電気トラブルが起きるたびに「何やっている!」と激しく非難される 誠に損な見返りの少ない職種です。しかしそれを不満に思う電気担当者は一人もいません。そういう重要な技術分野であるからこそ、人に理解されずとも「電気トラブル・故障ゼロ」を自らに課し、人知れず黙々と努力を積み重ねる「求道者のようなサムライ人生が、電気係員の役割使命」なのです。

私は僅か5年間の電気係長で、そのあと兵庫製油所人事課長となり電気現場から離れました。しかし萩原君はじめ電気係員は、入社以来40年(今では70歳まで50年以上)、こういう大変な仕事に対処しています。それだからこそ会社を辞めて10数年経過した今も、再会すると現役時代そのままの率直な会話がはずみます。


 萩ちゃんは平成28年(2016)11月5日、59歳の働き盛りに突然逝去しました。『何故?まだまだこれからの人生なのに!』 と本当に驚き残念でした。そして告別式の奥様の話で、改めて 『本当に偉大な男だった!』 と驚嘆しました。彼は末期がんで死期を悟り、死後に家族に迷惑のかからないよう 永眠するお寺と葬儀段取と樹木葬を決めて旅立ったのです! 何という見事な覚悟!何という夫婦愛・家族愛でしょう!

かっての同僚・友人が毎年墓参し9年目になります。今年は6名参加、欠席の2名は勤務延長の田村君(S47)、成田空港水素ステーション勤務の田代君(S50)で、参加できないことを残念がっていました。

今年の墓参でも『私達も潔く思いやり深い萩ちゃんのような人生を目指して頑張るよ!』と誓いながら、心づくしの花々でお墓を飾りました。

『萩ちゃん、この配置でいいかな?』
『ありがとうございます。皆さんの温かい気持ちが伝わってきますよ!』
ここに来ると、昔のままの楽しい会話ができます。確かに彼は私達とともにいるのを感じます。

萩ちゃんの樹木葬墓標を、心づくしのパンジービオラで囲みました。『花さん達、これから一杯花を咲かせて萩ちゃんを楽しませてくれよ!』

墓標周りは前日奥様が植えられたもの。私達「萩ちゃんを囲む会(8名、欠席2名)」は、その周りを囲むようにビオラを8株植えました。

花で囲まれた萩ちゃんを囲み 
『いつまでも萩ちゃんと一緒だよ』

『いずれ、オレ達もそちらに行くけどその時も仲良く楽しく一緒に過ごそう!』

(昨年)『萩ちゃん、今年も来たぞ』 いつもは寡黙で不愛想に見える田村君ですが、本当は優しい心暖かい後輩思いの男です。 職場仲間を大事にする思いは人一倍で、毎年50ccバイクで駆けつけてくれますが・・今年は勤務中で残念ながら参加できませんでした。(写真右手前)

位牌安置された礼拝堂参拝
位牌が多いので、従来は萩ちゃんがどこにいるのか分からず、中央の釈迦牟尼をお参りしていました。
昨年、浅野さんが住職さんに聴いて、萩ちゃんの位牌の位置が分かったため、ようやくその前で祈りを捧げることができました。

「輝雲政光信士」いかにも武田武士のような、輝く誇り高い生涯を送った萩原政人君らしい戒名です。(東ーG01 上から7番目)
「萩ちゃんを偲んでコーヒーで献杯」 「退職後も、懐かしい仲間と顔を合わせられるのも、萩ちゃんが引合わせてくれるんだよね、ありがとう!」 左から吉田君(S51萩ちゃん同期)、浅野さん(S46)、重永君(S47)、右手前から新生君(S47)、山田君(S47)




千葉県袖ケ浦市の山寺、曹洞宗 瓦谷山真光寺は、弘治2年(1556年)9月、かって上総の高野山と言われた真如寺の八世、鷹山厳召大和尚により開山されました。「瓦谷山」という山号は、当地に平安時代の瓦や土器が出土したことから来ています。
釈迦牟尼をご本尊とし、福井の永平寺、横浜鶴見の總持寺の両大本山を信仰と修行の中心においています。教義は「日常の生活の中に悟りがある」という教えで、威儀即仏法とも修証一如とも言い表されます。

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