2025年5月2日金曜日

17. 平安ロマンから近代工業へ:市原

  「千葉魅力の旅」第一回目は私が53年住みついている市原市です。

 この地は、遠浅で魚介類が豊富な東京内湾、肥沃な養老川流域に縄文人が住み着いて5000年、姉崎地区には全長150mの天神山古墳があり、有史以前から繁栄していたことが分かります。・・そして天平13年(741)聖武天皇の詔により全国に60数か所の国分寺が建立され、その一つ『上総国分寺・尼寺』は房総の政治・宗教の中心でした。しかし当時の経済力に合わない国分寺・統治システムは数十年で破綻しました。上総国分寺は、応永年間(1394-1427年)までの存続が確認されていますが、その後は荒廃しました。そして元禄年間(1688-1704年)に僧・快応によって再興され、正徳6年(1716年)に現在の薬師堂が落成したと伝わります。

 そして平安の繁栄から約1200年、戦後焼け野原の中で、埋立てが容易な房総の遠浅内湾では、昭和26年の川崎製鉄高炉建設を皮切りに、約20kmも続く巨大な石油コンビナートが建設され、日本経済の心臓(重要生産拠点)として1年中休みなしで稼働しています。私は 50年前からその中の一つ『出光千葉製油所』を拠点に、約40年間出光興産に勤務しました。)

1.上総国分寺と仁王門

旧国分寺は応永年間(1394-1427年)頃までの存続は確認されていますが、その後は荒廃していました。寺伝では、元禄年間(1688-1704年)に僧の快応によって再興され、正徳6年(1716年)に現在の薬師堂が落成したと伝わります。現存するのは仁王門と七重の塔の礎石だけです。

上総国分寺跡地には、現在『真言宗豊山派の医王山清浄院 本堂』があり、本尊は薬師如来です。同境内にある薬師堂は、江戸時代の1716年の建立で、堂内の厨子に本尊が安置されています。写真の仁王門礎石の奥に見える現在の仁王門は、江戸時代中頃の建立です。これら薬師堂・仁王門は市原市指定文化財に指定されています。また仁王門内の金剛力士像「阿形」は南北朝時代、「吽形」は江戸時代の作で、いずれも市原市指定文化財に指定されています。

また上総国分寺跡地に残る礎石配置から七重の塔があったと推定されています。上総国分寺は相当に大きな規模だったことが分かります。そのほか、境内には「将門塔」と称される1372年建立の宝篋印塔があり、市原市指定文化財に指定されています。

2.国分尼寺の中門・回廊

この写真は復元再現された上総国分尼寺の中門と回廊です。上総の国分尼寺は寺域が広く、また発掘調査によって付属施設を含めて寺院の全貌がほぼ明らかになっています。市原市では平成5年から平成8年にかけて史跡の整備事業として中門と回廊の復元と展示館を建設しました。なるべく当時使われていた材料をと、赤色はベンガラを使ってあり、とても鮮やかです。そのほかは・・予算不足で原っぱのまま保存されています。(我が家から歩いて5分、訪問者は極めて少なく、私たち夫婦の格好の散歩コースです)

3.『菅原孝標の女の像(更科日記作者)JR内房線五井駅前

『更級日記』は、平安時代中ごろに書かれた回想録です。上総の国府に任官していた父・菅原孝標菅原道真の5世孫)の任期が終了し、寛仁4年(1020年)9月に上総から京の都へ帰国するところから日記は始まっています。

『源氏物語』を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれています。平安女流日記文学の代表作で、江戸時代には広く流通して読まれました。

世界的にも、この時代の日本女性の文化的素養の高さ(源氏物語の紫式部、枕草子の清少納言、更級日記の菅原孝標の女 など)は驚きをもって見られ、日本の女性の精神性の高さは決して外国に負けることはないと評価されるようになっています。

4.京葉コンビナートの出光千葉事業所と工場夜景

遠浅の浜を埋め立てて、昭和37年に建設されました。私は昭和47年4月ここに配属され職業人生が始まりました。 左上3本煙突は国内最大級の東電姉崎火力発電所360Kwh・・その下側が出光エチレンセンター・・その右中部・内湾までが製油所・・その更に右側が石油化学部門(BTX、スチレンモノマー、PPなどプラスチック部門)

コンビナートの工場は24時間休みなしに稼働します。夜間でも巡回点検を行う為に照明がついており、昼のシルバー無機質の工場と違って、何とも言えず美しく大好きな光景です。

左写真の右下側の「くの字緑地」は小運河で、元々はここが海岸線でした。もう少し左側の運河の写真中央部は、佐久間象山が大砲の試射訓練をした場所で記念碑が立っています。

5.世界最大の『海上シーバース』

当時、横浜に日石根岸製油所、川崎に東燃川崎製油所がありましたが、接岸できる最大船は10万トンでした。従って日石は大型タンカーで運んだ原油を、鹿児島の喜入基地で荷下し、そこから10万トン級のタンカーに積替えて運ぶという不効率を強いられていました。

昭和438月、出光、極東(現ENEOS)、富士、丸善(現コスモ)の石油精製4社が、438月「京葉シーバース」を作りました。・・袖ケ浦沖合約8km、 水深20.5mの水域に直径0.6ml. 5mの大小255本の鋼管杭を海底下30m40mまで打込み、その頭部に諸設備を施工、全長470m、幅54mのドルフィンタイプ(束杭式)の桟橋=人工島です。・・4製油所とは直径48インチの海底に埋設されたパイプラインで結ばれています。

「京葉シーバース」の特色は30万トン級のマンモスタンカーを両側に同時に係留できること、また、1隻から4製油所への送油も可能なことです。


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