2026年5月3日日曜日

1-5. 常に真摯な人生を生きる(甲斐君)

 高千穂太郎氏(甲斐君)から川柳集「あるがままに」が届きました。

 彼が古川柳に取り組み始めてから8年、令和2年の第1集に続く、この3年間の心の遍歴を余すところなく詠み込んだ胸を打つ作品集です。その表題のように「あるがままに」の境地に達して、74年間の人生の折々に思いを馳せて詠んだ川柳満載です。(なお「俳句=自然の写生、川柳=人生の写生」で、 川柳は人間風詠といわれます。最近はやりのサラリーマン川柳とは違います.。

 何回読んでも感動で胸があつくなります。甲斐君の74年の人生が凝縮されていると感じます。これは私一人で楽しんでいては申し訳ないので 皆さんへ紹介するものです。しかし90ページの大作ですので全部という訳に行かず 少し編集して紹介します。

1.   生い立ち

 甲斐総治郎君は、昭和24年神話の里 高千穂町に生まれました。


高千穂町は宮崎県北の山深い山村ですが、町の発展の為に無我無私で働くお父さんの姿に、彼自身も物心ついたころから人一倍努力することが当たり前と思って育ちました。またそういう総治郎少年をお母さんは、いつも暖かく優しく愛に包みこみながら応援しました。そして一昨年お父さんが旅立ち、お母さんは93歳となられ、甲斐君は古希を過ぎてもなお奮闘努力の生き方を貫き通しています。

〇古希迎えなお越えられぬ父の壁

〇病む老母今なお祈る子の未来 

2.中学生時代

彼は生来の真面目な性格と、お父さんの刻苦勉励の姿に学び、小学・中学校とも高千穂町始まって以来の秀才で、町の期待を一身に背負いました。中学時代、延岡・日向市を含めた県北統一模試では常に上位でした。また高千穂は剣道が盛んで、彼は中学時代に初段を獲得、文武両道に秀でていました。

〇ふるさとの期待背負って数十年

〇五十年期待の星の重荷負う

〇のぼり旗郷土の華と見送られ

小学6年生の時、担任の先生から「中学になったらラジオ英会話を聴くように」とアドバイスされましたが、当時彼の自宅にはラジオもテレビもなく、町民向けの有線放送しかありませんでした。丁度その頃、お父さんが技能教育実習で真空管式ラジオを作ったので、早速これを使って英会話の勉強を始めました。(お父さんは息子の話を聴いて、急遽制作されたのでしょう。)そして夕方、剣道の稽古が終わって帰宅すると、ラジオ英会話を聴取するようになります。これはのちに日向学院に進学し、米国人の神父さんに中学3年間ネイティブ英語を学んだ学友にも、一歩も引けを取らない英語力の元となりました。

  〇手作りのラジオで学ぶ基礎英語

  〇剣道のあとに汗かく英会話

  〇ラジオ聴く部活の後の英会話



他方高千穂中の学友は、経済的に恵まれず殆ど中卒で集団就職しました。日本の高度成長を支えてきた労働力は、東北や九州の中卒の集団就職組、金の卵と言われた次男・三男・女児で、京浜・阪神・中京地区に大量に送り込まれました。高千穂中も大半は中卒就職組で「総治郎君は高校に行けていいな」などとつぶやく友もいました。

 〇集団で就職の友いまいずこ

 〇中卒で集団就職友いずこ

3,高校生時代

高校は学生寮のある日向学院に進学、そこでも常に学年1・2番を争う秀才でした。高1の中間試験中に、大好きだった祖父が逝去したと寮監に知らされ、試験終了後すぐ帰路につきます。

〇試験明け家路を急ぐ報受けて

〇家路つく祖父の逝去報を受け

日豊本線で宮崎市から延岡へ、さらにローカルの日之影線、更にバスを乗り継ぎ、高千穂町の自宅についたときは既に葬儀は終わっていました。「おじいちゃんを偲んでお別れしたい」と思って帰宅した息子に、お父さんは葬儀の後片付けをしながら、つっけんどんに「早く学校に帰れ」と言います。お父さんは(こっちのことは良いから気にせず勉学に励め)という思いと、お父さん自身が弔問対応を終え、漸く父の死と向き合っていたのでしょう。

  〇「はよ帰れ」葬儀の後の父の言

やむなく後ろ髪ひかれる思いで宮崎市へ帰路につきます。延岡からは夜行の鈍行列車となり、切ない思いで、お母さんの心のこもった赤飯の握り飯を頬張ります。塩味に涙が加わったのでしょう、彼の心にはいつまでも しょっぱさが残りました。

  〇塩辛い夜汽車に揺られ握り飯

  〇赤飯の握りに込めた母心

  〇両親の思いを込めた握り飯

 当時の日向学院は「鹿児島ラサールに追いつけ!」と受験勉強一色でした。数学・英語は高2までに3年間の教科書を全て終え、高3は実戦形式の模擬試験、3年間テストテストで有名大学合格目的の授業でした。徳育を忘れたこういう教師に彼は幻滅し、期待せず、いつも超然としていました。しかし心温かい高千穂の地で育まれた彼の人柄は、心を大切にする学友を惹き付けました。・・先年その親友の永友君が逝去したとの報を悼み、共に大淀川の土手をサイクリングした懐かしい思い出の句を残しています。

  〇夢を乗せ走る自転車川堤

  〇並走す大淀川の爽風(かぜ)うけて

  〇夢語る大淀川の川堤

  〇爽風受けて宮崎弁で語る君

  〇友の逝く大淀川の爽風寒し



. 大学受験

 高校3年間 抜群の成績で、全国模試でも上位常連だった甲斐君と下村君は、当然のごとく東大を受験し、誰もが二人は絶対合格と確信していましたが・・下村君は文Ⅲ合格、甲斐君は理不合格で駿台予備校へ。しかしこの年の秋から大学紛争が激化、安田講堂事件が発生して昭和44年度入試は中止、彼はやむなく東工大へと進学します。(下村君は安田講堂に籠って戦い中退、その後進学塾を経営しています。つくづく「人生万事塞翁が馬」と感じます。)



「もしあの時東大入試が実施され合格していたら、どんな人生を辿っただろうか・・」と、彼は時々考えます。

  〇一度だけ開かぬ赤門道を変え

  〇一浪に閉ざす赤門道を変え

 この2句から、不運にも大学紛争で入試中止となった口惜しさが伝わります。実施されていれば彼のことだから必ず合格して、建設省(国土交通省)か、通産省(経済産業省)に入省、次官・大臣になって、もうとっくにリニアは運行開始していたことでしょう!・・でも東大ではなく、東工大から国鉄~JR九州専務~九鉄工業社長として活躍し、その一方で古川柳に取り組み「あるがまま」を追求している今の彼の人生の方が『甲斐君らしい生き方だ!』と、川柳集を通読して、私はそう思います。




. 国鉄入社、国鉄分割民営化へ

東工大で土木工学を修めた彼は『新幹線網を全国展開し国の発展に寄与したい!』と旧国鉄に入社。土木技術を生かせる建設部門志願でしたが、意に反して『保線部門』に配属されました。保線とは『列車が安全に走行するために、人知れず肉体を駆使して、主に深夜に線路状態を維持・改善工事をおこなう』労務中心の大変な仕事です。例えば、当時の列車は垂れ流しだったので、保線職員は汚物に暴露されるような劣悪な環境の仕事でした。甲斐君はそういう色々な問題をかかえる保線部門の管理者として、劣悪環境の改善や労使関係改善に尽力しました。この苦労・経験が、のちの国鉄改革・民営化に優れた経営手腕を発揮します。

旧国鉄は『親方日の丸』で やる気のない職場となっており、国労・動労が支配して仕事よりも組合活動が優先され、経営陣の統率が取れず、真面目に働く人が馬鹿を見る破綻した職場でした。もはや一刻の猶予もなく『国鉄分割民営化』が進みますが、彼は中堅管理者として重要な役割を担いました。全国規模の分割民営化なので、配置転換、出向転籍、早期退職などの大規模な人員整理が必要となります。対応を間違うと三井三池争議以上の労働争議になりかねず、日本の交通は長期的にマヒしてしまいます。この頃寝食を忘れて部下と共に対応尽力した彼の姿が次の句でよくわかります。(現代では想像もつかない凄い上司です)

 〇はしご酒シメはもちろん部下の家

 〇酒びんを持って訪問部下の家

 〇真夜中の家庭訪問ゆがむ笑み

 〇仕事終え家に帰らず部下の家  (妻 詠む)

(分割民営化前後は、社員の処遇、今後の効率的な体制、社内規定・ルール見直しなど、勤務時間はあってもなきが如しだった。勤務後一・二軒飲み屋で議論を続け、最後のシメは部下の家へ家庭訪問。今までの議論に加え、仕事への熱意を互いに確認し、奥方や家族を知り、今後の赴任地の可能性も探った)

6. JR九州、九鉄工業、そして現在

昭和62年に旧国鉄は、6旅客会社、1貨物会社、鉄道総研などの11経営形態に分割されました。分割スタート時は赤字会社と見込まれた『九州・四国・北海道』でしたが、甲斐君はJR九州の経営陣として、主に施設関係の体制づくりに腐心し、関連事業を拡大させるために駅ビル建設・運営・不動産開発、マンション・戸建て住宅事業、ホテル、飲食、流通など多方面の事業開発・運営に尽力しました。その結果、平成28年には売上3829億円、経常利益605億円となり、東証一部に株式上場する優良会社となりました。



甲斐君はJR九州専務を最後に、九鉄工業㈱社長に就任。その後会長・相談役・顧問を経て、令和2年6月退任しました。



現在は、分岐器・レール溶接が専門の鉄道関連会社に勤め、仲間内のゴルフ、会食で級友を温めるほか、ウォーキング、OB会活動、町内会活動,オヤジバンドの発表会など多彩な活動に取り組んでいます。

中でも九鉄工業時代から、ロータリー活動で主導的役割を果たし、またその後の“懇親・精神鍛錬の場”として『川柳同好会=イブ川会』を8年前に立上げ、会長・世話役を務めてきました。その8年間の句作の集大成が 『あるがままに』 川柳集(2)です。



A4版90ページにびっしりと、作品・随想が盛り込まれています。古川柳が『人生の写生」を目指している通り、彼の74年の濃密な人生の集大成です。その中心には甲斐家の温かく深い絆が貫かれており読むたびに胸が熱くなります。

なお表題の『あるがままに』 は、4度目の転職で仕事が思い通り進まぬ甲斐君に、奥さんが「あるがままに生きていけば」とアドバイスされ、その一言にハッと目覚め生き方を変えたことにちなんでいます。なんと謙虚で柔軟な心を持った男なのでしょう!『この大人物の陰に、この良妻賢母あり!』ですね。「転んでも立ってもお釈迦のたなごころ」は、きっとその奥様を詠んだ一句なのでしょう。

, 最後に・・愛する奥様への熱い思い溢れる句の紹介

 〇おかあちゃんやっぱりあんたでよかったよ

   〇新鮮だ!突然のハグ誕生日

 〇薔薇よりも桔梗のような君が好き

 〇食に惚れ雰囲気に惚れ妻に惚れ

〇昔妻いまは俺泣く夫婦愛

〇ちょっとした妻の動きに思い知り (我家は下5:ビクビクし)

〇「あれ、あれ!」にピンとくるまで40年

 〇歳重ね虚心に順応妻(カミ)の声

 〇妻(カミ)の技 炊事洗濯風呂掃除

 〇忘れ物無いかと車中で妻が問う

 〇家事家計しっかり者のゴリョウサン

〇忖度す妻と二人の三が日

〇手料理に愛しい妻が味見する

〇華やかな薔薇より痛い妻の棘

 〇夜更けまで薔薇百万本を唄う君

 〇惚れ直す舞台の妻の晴れ姿


1-5. 仰げば貴い恩師 (高校時代)

 毎年 全国で約100万人の新たな社会人が誕生します。
その約半数が18歳の高卒の若者で、初めて親元を離れて見知らぬ人間関係の中で働き始め、色々悩み苦しむことも多いと思います。 無限の可能性を秘めた若い彼らに、心から『頑張れ!』とエールを贈ります。
    
私は退職前の数年間、毎年2回、九州7県の工業高校10校を採用活動で訪問し、17、8歳の前向きな若者の輝きと、緊密な師弟愛に接する幸運を得ました。  長崎や熊本の工高の正門には『技術者たる前に、まず人間たれ!』の校訓が掲示され、進路担当の先生方は教え子の将来を真剣に考えておられ、教え子が就職した後も企業へ定期的に訪問して激励するなど、まるで我が子のように慈しみ徳育されている姿に感動しました。その教え子達もまたそれに応えて頑張り、各工高でトップクラスだった彼らは、入社後は高専卒と同じ育成メニューに苦しみながら、3~4年経つと見違えるほど立派な技術者になっていきます。

最も多感な高校時代に出会った素晴らしい恩師に人生を学び、卒業後もその教えに向かって精進を続けていけば『きっと頼りにされる職場リーダーに、世の中人の為に役立つ立派な社会人になるだろう!』と確信します。 
  そこで今回は 私の『高校時代の恩師』の教え』を振り返ることにしました。 皆様方も是非、高校時代の恩師を思い出し、連絡を取ってみてはいかがでしょうか?


 私の母校は 宮崎の日向学院 で、イタリアのサレジオ修道会が設立した中高一貫教育の男子校(現在共学)です。 高2までに高校3年間の授業を修了してしまう受験勉強一辺倒の進学校でした。 私は高校から編入したのでカルチャーショックに襲われながら、授業についていくのがやっとで テスト、テストの毎日。級友とは勉強以外の話題も少なく、つい最近まで思い出すのも嫌な高校時代でした。 しかし古希を迎えたころから、あの受験一辺倒の授業の中で、『先生方は精一杯の人間教育・徳育をして頂いた!と気付き、深い感謝の念を抱くようになりました。

日向学院の校訓は己を知り、己に克てです。 15歳の入学以来、高校、大学、社会人なっても、事あるごとにこの言葉に直面しました。これからも恐らく死ぬ迄『己を知り、己に克て』と自分を戒めながら生きることになると思っています。

日比野先生のこと
毎朝、チャイコフスキー弦楽四重奏曲 アンダンテカンタービレのメロディーと共に、川部・日比野神父の『朝の心』の心温まる放送がありました。 ミッションスクールなので聖書にまつわる話や身近な心温まる話が多く、詳細な話は全く記憶にありませんが、知らず知らずのうちに心が磨かれていったように思います。 最近母校のHPを開いて見たところ、今でも毎朝『朝の心』が続いており、それが2005年度分からずっと掲載されている事に本当にびっくりしました。
その一話一話は、50年前の日比野先生のお話しと全く同じような心温まる話でした。 私のこのブログも、あの高校時代に日比野先生から種を蒔いて貰ったのだという事に気付きました。興味のある方は、是非次のURLを開いて見てください。 きっと心の糧になると思います。  

学校法人日向学院 | 朝の心

また日比野先生は芸術選択授業で音楽を担当され、カンツオーネや賛美歌は原語で覚えさせられました。 その影響で50年後の今でもサンタルチア、オオソレミオ、マンマはイタリア語で、アデスデ・フィデレスはラテン語で、意味も分からないままスラスラ歌えます。 本物の音楽の素晴らしさと『清々しい朝日のような暖かい心』を教えて戴いた日比野先生に心から感謝します。

日比野先生は、ネットで調べると『S1823年 名古屋合唱団常任指揮者』となっています。あの朝ドラ「エール」の古関裕而と同じように、戦意高揚のために慰問し、終戦後若者を戦場へ駆り立ててしまったという辛い思いをされたのかもしれません。その思いが、きっと私達学院生への愛情あふれる指導育成の基盤になっていたのだと思います。日比野先生の教え子は、異口同音に『私の人生の恩師です』と述べられています。

先生はその後東京で活躍され『国内3本指にはいる音楽家』と言われるほどの大音楽家で練馬区中村橋に家を持っておられましたが、弟子の三浦洋一氏を著名なピアニストに育て上げ、家財産を全て無償で三浦先生に譲り、日向学院に赴任したと聴いています。日比野先生は、ドイツ語、英語、イタリア語が堪能で素晴らしく、全てのオペラ、宗教曲、歌曲、ピアノ曲を暗譜しているスーパー芸術家でした。

【江頭先生のこと】 
 化学が専門の江頭先生のあだ名は、その風貌がそっくりだったことから 『アボカドロ先生』。 本当に化学が大好きな先生で『僕の授業を真面目に聴いていれば、化学は満点が取れる』 が口癖で、その言葉通り話を聴いているだけで化学の面白さに引き込まれていきました。味気ない周期律表も水平リーベ僕の船、ソー曲がるシップス、クラークか (H, He, Li, Be, B, C, N, O, F, Ne・・と記憶しやすい語呂合わせや、夫々の元素の特徴』 を面白可笑しく教えて戴きました。  実験は楽しく、水に激しく反応する金属ナトリウムや、激しく燃えるマグネシウムを目の前で見た時、その危険性とエネルギーの大きさにビックリしました。その後大学工学部で勉強した基礎化学よりレベルも密度も高いものでした。 その縁で電気工学専攻ながら石油会社に就職することになったのかもしれません。
 

江頭先生は学生寮近くに住んでおられたので、よく家に呼ばれ遊びに行きました。
子供のいない江頭先生は、私達をまるで自分の子供の様に可愛がって戴きました。受験校のため2泊3日の軽い修学旅行でしたが、担任でもないのに皆の写真を沢山撮影して、後で全員に自費で配布されました。 私は15枚いただき、少ない高校時代の思い出として大事な宝物です。

【何回もお世話になった丹生豊満先生】
 高校編入組は、中学の卒業式が終わると直ぐに日向学院に集められ、すでに1学期分の高校課程を済ませている中高一貫組に追いつくための課外授業が始まりました。マックリンデン先生に鍛えられた中高一貫組の英語力には、本当にカルチャーショックを受けましたが、数学は得意で 自主的に高1課程まで勉強していたので苦労はありませんでした。しかし担任の数学教師(西島先生)は受験テクニックONLY、テストテストで毎回成績順発表をする「追たて型教師」で、また雑談で奥さんの事をいつも「家の飯炊き」と蔑称呼ばわりされるのでウンザリ、段々数学授業が嫌になっていきました。

そして2年生次に西島先生は脳梗塞で倒れられ退職。担任は国語の大川亀吉先生、数学は横浜国大を卒業された若い丹生豊満先生となり、ようやく数学らしい授業になりました。
その後、私は大学工学部進学失敗を痛感、教育学部で高校数学教師課程も同時履修、4年次に日向学院での教育実習の指導教官が再び丹生先生でした。私は自分の面白くなかった高校授業経験から「君たちが履修している数学は大学ではこういう展開になる」と授業内容に加えました。しかし丹生先生の教育実習評価は「良=70~80点」、そのコメントは『このクラスの生徒には難し過ぎる。生徒のレベル合った分かりやすい授業を心がけてください』でした。
この教育実習中『若い教生をからかってやれ』と毎回3~4名が早弁していました。『教壇からは丸見えだぞ。先生にバレないようにやれよ』とたしなめながら、『こういう世間知らずの高校生を、社会人として活躍できるよう指導するには、自分自身の実社会経験が不可欠!』と痛感し出光興産に就職しました。そして就職2年目、3度目の丹生先生との出会いがありました。『学院の数学教師に欠員があり困っているので帰ってこないか?』という要請でした。勿論願ってもない有難い話で、すぐに辞表を出し要請に応えようとしましたが・・当時退職者が相次いでおり、部長から『会社は未熟者の君に投資して育ててきた。その恩返しは済んだか!』と恫喝されて、やむなく辞表撤回せざるを得ませんでした。
『あの時、それでも敢然と退職して日向学院の数学教師になっていたらどういう人生になっていただろう・・』人生重要な岐路だったあの時のことを、今でもそう思いながら振り返ります。そして『いやそしたら、家内との出会いも、3人子供もいなかった。これで良かったのだ!』という結論になりますが・・

【吉垣克己先生のこと】
県立泉が丘高校を最後に定年退職されて赴任された古文の吉垣先生は、いつも笑顔の好々爺でした。 味気のない文法よりも、古文の名文がもつ美しい響きや、書かれている内容を深く理解することを大事にされる授業で、古文の世界が好きになったのは吉垣先生のおかげです。 

先生いわく、『源氏物語は女性が憬れるデカダンスで、つまらないから皆さんは読まなくて良いですよ。 日本文学の最高峰は高山樗牛 (ちょぎゅう) の
滝口入道です。 これだけは高校生時代に原文で読みなさい』。『高山樗牛?』 聞いたこともない作家の名前でしたが、早速図書館に行って読み、本当に美しい文章で、人生で大事なことを考えさせられて感動しました。(山形県鶴岡市出身の文豪で、家内が鶴岡生まれなのも何かの縁があるのかもしれません)
先生は授業が始まると5~10分間、世間話をされるのですが、これが面白く含蓄がありました。ある日『皆さん、年を取ると男はクソジジィと言われますが、オニジジィとは言われません。普通 男は加齢と共に角が取れ丸くなります。 歳をとると段々恐くなりオニと言われるのは女性だけです。本校は男子校なので安心して言えますが、県立高校では女学生が恐ろしくて、とても言えないことですが・・』 と真面目に話されたので、みんなが大爆笑しました。(さては朝夫婦喧嘩されたな? と思いながら・・)
こんな雰囲気だったので、クラス全員 吉垣先生が大好きでした。
後年、私の二人の息子が『高校では何であんな呪文のような訳のわからない古文を勉強しなければならないんだ!』 と不満ばかり述べて、国語と社会科の試験がない大学に行きましたが、この吉垣先生のような魅力的な古文の先生がいなくなったのだな・・と残念に思いました。
本当は『純粋な心の童謡詩人』 だった吉垣先生。『童謡集』の作品の一部を紹介します。

時計の中

小さな銀の うで時計     

お耳にあてて 聞いてみりゃ

計の中は いい日より    

誰かが かけっこやっている

とても元気な ユニフォウム   

チクタク チクタク 駈けている


ばらはきれいな お姉さま    

赤いリボンで 結びましょう

ゆりはやさしい お母さま     

銀の花瓶に さしましょう

ボンボンダリアは 赤ちゃんよ  

かわいい顔です 見てごらん

 

天使

子供がひとり 死にました     

かあさんと別れて 行きました

けれども天使が 下りてきて     

子供をやさしく 抱きました

  よい子よ泣かずに いらっしゃい  

     きれいな花の 天国に

     かわいいスミレの 花束も     

      一緒に抱いて 行きましょう

天使と子供は 夕ぐれの      

光の中を 飛びました


お爺さま

お爺さまは 石が好き     

じっと見てます 窓の中

  「石はいつでも 美しい」   

  雨にぬれてる 庭の石

お爺さまは 本がすき     

きちんとすわって 読まれます

  「百年昔の 本ですよ」    

      虫のつづった 古い本

お爺さまは お茶がすき     

お茶をのみます えんがわで

  「うちの番茶も いい香り」  

   大きな湯呑みに 梅の花


夏は何処からやってくる

金魚屋さんのかついでる 

金魚金魚についてくる

  夏は何処からやってくる

  冷しい風を吹きたてて 

     郊外電車にのってやってくる 

夏は何処からやってくる

「いい天気ですね」と日曜日 

中野のおばさんといっしょに来る

   

きつね

むかしのきつねは ばけました   

かたなをさした おさむらい 

きれいなふりそで おひめさま   

ぎょうれつつくって およめい

ちらちらちらつく ひでりあめ

     いまのきつねは ばけません    

    どうぶつえんの おりのなか

    こどもがわいわい さわいでも   

    おひるねしていて いいきもち

    おひるのサイレン なっている


優れた詩人でもあった吉垣先生は、宮崎県の小中学校の校歌を作詞されています。その中から、西諸県郡(現在小林市)須木村立須木小学校の校歌を紹介します。

1-5.色鉛筆画の お勧め

 絵画をやりたい人は色鉛筆画をお勧めします。何しろ画用紙(ケント紙が最適)と24色の色鉛筆があれば、いつでもどこでも描けます。失敗しても、消しゴムで消してやり直しができ、出来上がったら、孫が「うわー オジイチャン上手!」とほめてくれます(笑)

 私は「退職後、暇になったらは絵画をやりたい」と思っていました。「油絵は難しそう。水彩画ならやれるかな?」と公民館の水彩画サークルに入りましたが、3年たっても思うように描けません。

 悩んでいた時に色鉛筆画に取り組んでいた「池田敏夫さん」に出会いました。彼は土気の「ホキ美術館」で現代写実絵画に感動し「色鉛筆で描けるのではないか」と取り組んでいました。その彼の作品「サボテン」を見て「色鉛筆でこんなすごい絵が描けるのか!」と仰天しました。漆黒の背景に鮮やかに浮かび上がるサボテンの花の輝き、サボテンの刺さりそうな鋭いトゲ・・どこを見ても「どうやって描いたのだろう?」と驚くばかりでした。さらに「白鳥の親子」には猶更ビックリです。



 その池田さんが市原公民館で「色鉛筆画教室」を開くことになり、案内用に公民館玄関に掲示されたリアルな「リンゴ」に驚き、すぐ家内と参加申込みました。「初日には、各自12~24色の色鉛筆と、リンゴを一個持参」で集合し、①色鉛筆の運指、②グラディエーションを練習し、そして「色鉛筆画には画用紙よりもケント紙が最適です」とケント紙を配布され、③「リンゴ画」の制作開始です。



「初めは黄色で薄く形を作り、段々橙や赤を加えてリンゴのリアルさを出していきます。影は茶、青、そして黒を加えます。5~6色あれば十分です。」と指導される通り進めていくと見事な初作品が出来上がりました。最初に制作したのが次のリンゴです。夫々が持ち寄ったリンゴが違いますので個性が出ます



第2段階は「バナナ」です。「素人でもスーパーで買ってきた果物がここまで描ける!」と参加者は自分の隠れた才能に感動です。わずか2回目で色鉛筆画教室が本当に楽しくなってきました



 「せっかく楽しさを知ったので、池田さんを指導者にサークルを作りましょう!」と色鉛筆画サークル「カラーペン」が発足しました。楽しいサークルでしたが、残念ながら5年後、80歳となった池田さんの指導辞退で解散しました。いま夫婦で気楽に取り組んでいます。

1.「ニセコに神降臨」

北海道勤務の55歳のころ、紅葉のニセコで神がかりの景色に出会いました。その日は曇天で紅葉がくすんでいしたが、突然雲の切れ間から一筋の光がさし白樺の大木を照らしました。それはあたかも『神様の降臨!』と思神々しい風景でした。『美しい日本に生まれて良かった!』という幸福感に包まれました。その感動の光景に出会ってから10年後、色鉛筆画で描いたのがこの絵です。感動したあの神がかりの光景イメージに近い絵が描けたと思う満足の一作です。

2.「可愛い孫たち」

 もう一つ描きたかったのは可愛い盛りの孫3人でした。「孫ってこんなに可愛いのか!」と感動する私に家内は「自分の子供は同じくらい可愛かったのよ。仕事人間のアナタは余裕がなく、いつも怒ってばかりいたけど(怒)」と・・「そうだったんだ、だから陰で瞬間湯沸し器と言われていたんだ」と猛反省です。その可愛くて仕方がなかった仲良しの孫三人を描いたのがこの絵です。

 最初から描きたかった2作品がうまくいったので、その後あまり苦労することなく描けました。何しろ失敗や思い通り表現できない部分は消しゴムで消せるのが色鉛筆画の優れた点です。油絵や水彩画のような面倒な絵の具が不要、画材が安くて、場所を選ばずいつでも暇なときに取り組めます。モチーフとなるものが身近に無限にあります。家内は主婦らしく、スーパーで買う野菜を主テーマとしていましたので、次々と作品ができ上達していきました。

3.「高千穂峡」 

 私の故郷宮崎県の北部にある秘境です。4回にわたる阿蘇の大カルデラ噴火による火砕流大地を五ヶ瀬川が削って、この見事な大渓谷ができました。

4.「青島と若者
宮崎県日南海岸は、かって新婚旅行のメッカ、向こうの青島には縁結びの神が祭られて沢山の新婚さんが訪れました。いまはサーフボードのメッカとなって若者が波乗りを楽しんでいます。

5.「息子のプレゼント」

 思いがけず次男から結婚記念日にお祝いのフラワーバスケットが! しかし一週間もすると萎れてしまうので、「この感激をかたちにのこしたい!」と描きました。

6.「雪の姫路城」 

かって2度勤務した思い出多き姫路。2回目は工場閉鎖前の人事課長、従業員の生活拠点を変える難しい気の重い仕事で、毎日夜中の零時過ぎに帰宅する大変な仕事でした・・重圧に耐えきれなくなると姫路城に行き、あの優美な姿に元気を取り戻しました

7.与勇輝の世界 おつかい(家内)、「夕涼み」(私)


 与勇輝氏は、昭和20年ころの貧しくも心豊かだった子供たちをテーマに人形制作される人形作家です。私たち夫婦は与勇輝氏の人形が大好きで、河口湖畔にある「河口湖ミューズ館」によく出かけました。家内がお気に入りの「おつかい」の人形の雰囲気をとらえて見事に描きました。私も負けじと「夕涼み」(与勇輝氏の原題は「夕子」)を描きましたが・・あの可愛らしさが表現できず・・やはり家内の方が才能ありです。

8. 「スイレン9.「ハス」