2025年6月26日木曜日

5. 一意専心の真摯な人生 (鹿島勇 先輩) 

 【鹿島先輩と60年ぶりに再会、交流再開】

卒業58年目に初めて母校の「東日本同窓会」に参加し素晴らしい出会いがありました。「旭日中授賞」を叙勲された神奈川歯科大の鹿島勇理事長および同大学教授の方々と同席でした。そして鹿島さんから「安藤君とは、日向学院の本館3階学生寮で起居を共にしていたことをよく覚えているよ」と聴きビックリです。



私はミッションスクールの日向学院に入学するとき、映画「汚れなき悪戯」や「偉大な生涯の物語」の世界を期待していました。・・しかし現実は、先生も神父さんも学友も俗物ばかりに見え、毎日試験試験の味気ない授業や、勉強拘束の寮生活にウンザリしていました。そんななか一年先輩で色白の美男子(若いころの坂東玉三郎のような)、澄んだ目で俗世間を超越した聖書の世界を熱く語りかける先輩がいました。その人が鹿島勇先輩でした。

鹿島さんは日向学院高校入学後 ガッロ神父と出会い、それまでの家族との葛藤を超越し「清らかな神父への道」を志していました。聖書を本格的に勉強するために進級せず1年生を2年履修しています。しかし翌年に神父同士の格闘現場を目撃して神父への道に疑問を持ち始めます。

そして4年かけて高校卒業後、浪人中の京都で出会った芸妓とのときめき生活、しかし安逸な生活を振り切って神奈川歯科大に進学しました。そのあとは歯科医・放射線医療研究に一意専心の研鑽を積んでいきます。1980年にカルフォルニア大留学して「アメリカ顎顔面放射線専門医認定試験」に合格。1990年神奈川歯科大で放射線学教授、50名以上の博士を育成。そして宇宙開発事業団とカエル等の無重力下での骨成長解析研究。さらに経営破綻寸前に陥った神奈川歯科大の理事長として10年以上にわたる経営立直しに取り組んできました。



その輝かしい功績に対し令和74月、「旭日中授賞」(総理大臣等の 国家・社会の様々な分野で顕著な功績を挙げた者を表彰)が叙勲されました。



同窓会で、こういう凄い人生話を聴いているうちに、あっという間に3時間が過ぎてしまいました。 中学・高校・大学卒業して50数年間、かって同じ学窓で青雲の志を語り合った学友が、社会人となって半世紀を歩いてきた人生を語り合うことは、この上なく教訓に満ちており学びの宝庫です。



 鹿島先輩とは、その後も交流が再開し、先日自叙伝「婆娑羅な人生に破顔一笑する」(神奈川新聞社)を送付いただき、そこには通常人の私には考えられない「凄まじい波瀾万丈の人生」が淡々と綴られていました。 あの穏やかで優しい鹿島先輩の何処に、このような膨大な闘志とエネルギーが潜んでいるのでしょう? ・・本当に不思議に思いながら、何度も読み返しています。アマゾンで購入できますので、是非皆様方の購読をお勧めします。

 鹿島先輩の大学以降のご活躍、輝かしい人生は自叙伝に詳しく書かれておりそちらに譲ります。私は高校で触れ合った鹿島さんの生立ちから青春時代に学ぶことについて触れたいと思います。

  1.   生立ちと、父親との葛藤

鹿島勇さんは昭和22年に宮崎県西臼杵郡角川町に生まれました。お父さんは鹿島家43代目で、山や田畑の莫大な財産を相続しました。家柄にこだわるプライド高い人で、放蕩と奇行の人生を送り沢山の愛人がいて、本気で働くことは死ぬまでありませんでした。 小さいころ息子と一緒に街に出て、子を愛人宅に預けて消えて遊ぶような遊興の人でした。当然お母さんは激怒し夫婦喧嘩に明け暮れ、鹿島家を忌み嫌っていました。

勇さんはそんな父親を憎悪し、大学時代には床の間にあった日本刀を振上げて大立ち回りになり、お母さんが泣きながら必死で止めたこともありました。晩年のお父さんは81歳で白血病となり、逝去されるときも修羅場となりました。お母さんは一度も見舞いに行かず、お姉さんや取り巻きの女性たちが世話をしました。そしてお母さんがなくなるときには「仏壇には私の隣にあの人の写真を置くな」と言い残したそうです。なんともすさまじい父母の愛憎関係です。

2.    2.母親の強烈な鉄拳に呆然

 お母さんは、裕福で家柄やしきたりにうるさい鹿島家を嫌い、勇さんが小学5年の時に姉・妹・弟の子供4人の教育環境を整えるためと称して宮崎市に移住、大都会の生活が始まりました。お父さんは歓楽街が近いと喜んでいました。教育熱心なお母さんは、私立日向学院中学進学を熱心に勧めましたが、勉強嫌いなため不合格でした。そして1学年14クラスあるマンモスの宮崎西中に進学しましたが、相変わらずの勉強嫌いに、ついにお母さんの堪忍袋が切れ激怒しました。

(母)「なぜ、勉強に身を入れないの!」

(勇)「あんたに似たからだろ。そんなに言うなら生まなきゃよかったんだ」

するとお母さんは突然“鬼の形相“となり、強烈な鉄拳が飛んできました。

(母)「私だって、お前のような子は産みたくなかった。お前は犬か猫に生まれたかったのか!」

そのあとはショックでお母さんの言葉を覚えていないそうです。 (私は子供を育てるときの重大対峙のとき、このお母さんのような真剣さで向かい合ってきただろうか・・と身につまされます。)

殴られた頬は赤く腫れあがり数日後に皮膚が裂けました。お父さんは「学校で喧嘩したのか?」と気づかず、母子だけの秘密の事件となりました。そしてお母さんは、その日以降「勉強しろ」と言わなくなりました。息子に性根が入り、しっかり自立したことを見届けたのでしょう。

 そして以前中学受験で失敗した日向学院高校に進学します。 

3.    ガッロ神父との出会い

日向学院はミッションスクール男子校で、同級生と直ぐ打ち解け友人が沢山出来ました。その中に孤児院出身の優等生の友がいました。しかし孤児という生立ちから無理な勉強のし過ぎで精神を病み退学しました。鹿島さんはそれが自分のせいではないかと悩み相談したのがガッロ神父です。この相談をきっかけに聖書の世界に興味を深め、ガッロ神父の教えを受けることになりました。鹿島さんが「これぞ!」と思ったことを極めようとする姿勢は、この時に芽生えました。

 高校には若い神父や修道士いて、一生独身で清貧・貞淑、神への服従のもとで修業し生活します。「何がそうさせるのか?」という思いで聖書を勉強するために進級をやめ、1年生をもう一年履修することを決心しました。ガッロ神父は賛同し、ご両親も「お前の好きなようにしなさい」と賛成してくれました。そして今まで葛藤渦中にあった家を離れて、2年生から学生寮に入りました。

新入生の私が鹿島さんと出会ったのはこの時です。

私は当時「ミッションスクールとは名ばかりで、先生も生徒も有名校合格だけが目的のつまらない我利我利亡者ばかりじゃないか!」と斜に構えていました。しかしその中で色白い女性的で優しい鹿島先輩が、神の世界を熱く語りかけてくるのに驚き心惹かれていきました。 例えば、「イタリアの教会のマリア像の目から血の涙が出たんだぞ!私たち人間の悪行を悲しんだ血の涙だ 」という話には、「え? そんな怪しげな話をこの先輩は本気で信じているんだ!」と驚くとともに、「ほかの日向学院の先生や先輩・仲間とは全く違う! 異次元の世界に住む人だ」と、深く敬意を抱くようになった唯一の先輩でした。



4.   4.「神父への道」を断念

ある日の夕方、鹿島さんが中等部の木造校舎1階にあった食堂から本館3階の学生寮に戻る途中、中庭で何やら黒い塊が転げまわっているのを目撃します。周りは薄暗く正体がわかりませんでしたが、よく目を凝らすと黒い修道服を纏った二人の取組み合いでした。その一人は教頭で寮監のH田神父、もう一人はイタリア人の若い神父です。見てはいけないものを見てしまった思いで足早に立ち去りましたが、聖職者が感情をむき出しにして暴力に訴えている姿は、その道に進もうとしている鹿島さんには大変な衝撃でした。(先日の同窓会で「このとき君と一緒だったよ」と言われましたが、全く記憶に残っていません。恐らく私は、解けない因数分解でも考えながら歩いていて目に入らず、気づかなかったのでしょう)

   聖職者へのイメージが壊れていく中で洗礼を受けましたが、クリスチャンへの疑問が膨らんでいきます。「女性に興味がある自分が、一生独身で、清貧で貞淑な生活を貫き通せるのか・・」

   そんな時、決定的な出来事に遭遇します。学生寮の舎監をしていた若くハンサムなH中神父が突然学校を去ったのです。彼は市内の仏具店に勤め、その店の女店主と一緒に住んでいるとのことでした。元修道士の改宗と女性との同居は衝撃的な出来事でした。

   そして1年暮らした寮を出て実家から通う普通の高校生に戻り大学受験勉強に取組みました。憧れの京都の大学を受験しますが不合格。そのまま京都で過ごし始めた半年後、バス内でのトラブルがきっかけで、祇園芸妓の菊千代さんとの同棲が始まります。(20歳で芸妓と同棲!オクテの私には想像もできません・・) 

自叙伝は、菊千代さんとの同棲生活について12ページに渡って綴られています。鹿島さんにとって忘れられない運命の女性だったのでしょう。しかし「その蕩けるような甘い生活に耽溺していていいのか。これでは唾棄する父と同じではないか・・」と悩んだ末に、すべてを断ち切って再出発をする一大決心をして横須賀の大学に進学します。

後年教授になった鹿島さんが、かって二人が暮らした菊千代さんの家を訪ねると跡形もなく、菊千代さんは白血病を患い50歳の若さで亡くなっていました。13歳年上なので出会いの時33歳、その後わずか17年しかないはかない人生でした。生きておられたら90歳となっています。



このあと鹿島先輩の大学以降の学究生活、大学経営破綻への対応など、八面六臂の大活躍が続きますが、その輝かしい人生は自叙伝に詳しく書かれておりそちらに譲ります。


5.   鹿島さんに学ぶ「心の三重構造」

鹿島さんの自叙伝を読んで、「人生を変えた3つの大事件」が大きく心を打ちました。

 (1), お母さんの強烈な鉄拳

   私たちが生を受けて誕生する10カ月も前から、お母さんは自分の体の中で新たな生命を大切に育てます。そして人間が経験する3大苦痛のひとつ産褥の苦しみを経た後も、はかない命を自分の身よりも大切に守り育てていきます。この世に生を受けて以降、私たちは母に守られ、母の表情を見ながら喜怒哀楽を覚え、口元をまねて言葉を覚えていきます。人の心は三重構造になっています。



  この中で「性格」は12歳ころまでに形成されますが、特に「三つ子の魂 百までも」と言われるように、3歳までの母親から学び身についた「性格」が大きく人生を支配します。母に優しく育てられた子は優しさに満ちた人に育ち、冷たい母に育てられた子は同じように冷たい親になります。

鹿島さんのお母さんは、裕福ながらも放蕩・奇行の夫に苦しみ葛藤し、そういう母親の姿を見て育った鹿島さんは、当然父親に対する敵愾心を燃やしながら育ったのではないでしょうか。しかし両方の遺伝子(気質)を持っているために、「そのまま放置すると父親のように怠惰で放蕩生活を送るようになってしまう」と、お母さんはあらゆる場面で教育しようとしますが、怠け者の息子は態度を改めず、ついに母の全存在をかけて強烈な鉄拳をふるいます。可愛い息子の頬が割れるほどですから、やむに已まれぬ母親の強い思いに胸が熱くなります。この時鹿島さんは10歳でした。

お母さん大好きな鹿島さんは、厳しい鉄拳にびっくりして、その後人が変わったように真剣に生きるようになるのですから、子を思う母親の存在は本当に重要で有難いものです。鹿島さんの人生には沢山の「聖母」が登場して背中を押して助けていますが、やはり群を抜いて鹿島さんを守り助け導き輝き続けている“偉大な聖母”は「お母さん」だと思います。

   私たちにとって父親は、幼少・少年期には誠に希薄な頼りない存在です。残念ながら私の子供たちも私をそう思っていることでしょう。最近でこそ父親の育児分担が求められていますが、つい最近までの普通の家庭では、父親は働きバチで殆ど家族に影響のない存在でした。まして一生放蕩・奇行に生きた父親に日本刀で立ち回った鹿島さんの怒りはわかるような気がします。

私の父親は中学校長まで務めた教育者ですが、物心ついたころからまともな会話をした記憶がありません。私は人間性・人生観の重要な姿勢をすべて母親から学びました。母の葬儀では親族代表挨拶を兄や叔父などの人任せにできず私が行い、「世界で一番尊敬するのは母シツです!」と感謝を述べて送りました。

 (), 二人の神父事件から目覚める

   鹿島さんが物心ついてからずっと悩んできた阿修羅の家族生活。 高校で初めて出会ったガッロ神父の「清貧で貞淑な聖職者の求道の生き方」に、鹿島さんがのめりこんでいったのも無理はありません。実家を離れて学生寮生活が始まり、学業と聖書の勉強と順調に進んでいた時に、「神父さん同士の取組み合い」という信じられない光景に凍り付きます。そして若い神父の棄教・退職、女主人との同居生活の報が追い打ちをかけます。・・「これが聖職者の現実なのか!」

   この二つの事件は、赤貧の貞淑な聖職者への道を歩いていた鹿島さんの目を覚まし、自分らしい現実的な人生へ向けて舵を切り直す重大な転機となりました。

   私には、この二人の神父さんが別の意味で印象に残っています。入学以来この二人には 「これが本当に聖職者か? あの“汚れなき悪戯”で幼子マルセリーノを愛し育てた修道士たちとは全く違う! ジャンバルジャンを救ったミリエル神父とは似ても似つかない!」とがっかりしていました。 したがって学生寮で一緒に暮らして鹿島さんと同じ事件に接していても、私には殆ど印象に残っていません。大嫌いなH中神父がH田神父と交代して舎監になったとき直ぐに退寮して下宿生活に入りました。そのためH中神父が棄教・退職したことすら知りませんでした。私が二人を嫌った理由は次のことでした。

   牛乳瓶底のような眼鏡から冷たい目で寮生を監視するH田神父(教頭)

   神職とは思えぬ猜疑心の嫌な目で寮生を監視する若いH中神父 

 (), 運命の恋人との別れ、自堕落な自分への訣別

   大学受験失敗した浪々の身で13歳年上の芸妓菊千代さんとの生活が始まったことは本当に驚きです。何というマセタ浪人生でしょう。高校時代の鹿島さんは、色白で美男だったので、おそらくお父さん(生涯女の人に囲まれて放蕩の人生をおくったとのこと)と同じように、天性の女性を引き付ける魅力が備わっているのでしょう。菊千代姐さんも、芸妓の魑魅魍魎の半生の中で自分が捨ててきた純粋なものを、ずっと年下の純粋な若者に呼び起されたのかもしれません。菊千代さんは芸妓と言っても三味線の師匠で庭付きの一軒家を持つ比較的自由な生き方をしていました。

こんな生活も悪くないと思い始めていたころに、彼女の一言「私が一生面倒見るからね」に衝撃が走りました。「これでは最も軽蔑する父と全く同じではないか!あの父と同じ人生でいいのか!」

   自堕落な自分に終止符を打ったのは、またもや心の中のお母さんの「痛烈な鉄拳」でした。

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