2024年11月8日金曜日

1. 母がいるから故郷は懐かしい

『親孝行したいときに親はなし』 『親思う心に勝る親心』と言いますが、とりわけ母親への感謝の思いは大きく、また妻の子育てや、その子が成長して母となり子育てする姿、特に出産後1~2年の乳幼児期に睡眠も満足に取らず命がけで子育てする姿は本当に神々しく『母親の尊さ』に感動します。どんな男性の働きも足元にも及びません。また年老いてくると母こそが故郷だったのだと痛感します。

『母への深い尊崇・感謝の念』 
これは世界中の全ての人に共通する思いではないでしょうか。私も全く同じで『一番尊敬する人は誰か』と問われたら、即座に『母です』と答えます。今回は私事で恐縮ですが、その母のエピソードを紹介させていただきます。皆様方も大事なお母さんの思い出が沢山あると思います。それを思い出し感謝する機会に、ご存命なら電話や帰省する契機にして頂ければ幸いです。

私は物心ついた4~5歳頃から『母はいつ寝るのだろう』といつも疑問に思っていました。母は祖父(母の実父)桂木斉二翁から 『隣の家が破産したが、長男は努力家で親孝行だから嫁に行け。 借金は全て後始末してやる。』 と有無を言わさず嫁がされました。この母方の祖父は隣の苦境を無視出来ない篤志家で、一番の愛娘を嫁がせて再興支援したのです。55歳で早逝しましたが本当に凄い祖父だったと思います。

しかし突然貧家に嫁いだ母は、「過度の遊興で破産した義父と、義母と7人の弟妹(4名が師範学校へ進学)と、自分の子供6人(4人が大学進学)の生活を切盛りする」ために、想像したこともない大変な毎日でした。一家の生活の為に農作業や養豚を(父はサラリーマンなので母一人で。父の稼ぎは大半が父母兄弟に消えた)早朝から深夜まで働きづくめでも追いつかない苦しい生活が続きました。こういう大変な生活の中で、よくも6人もの子供を産み育ててくれたものだと感謝するばかりです。 

この背景には、朝鮮で教員生活を始めた極貧の父に20歳で嫁ぎ、可愛い盛りの長男を医者にも診せられず、疫痢発病後6日目に僅か4歳で亡くした断腸の思いと、「これからは命にかけても子供を守る!」という固い決意がありました。

「亡き晃ちゃんを偲んで詠める歌」 

    昭和13年9月 母24歳

たらちねの母の心の頼みなる  

  吾子は帰らぬ人となりたり

この我を母と頼みて朝夕に 

  母ちゃんと呼びし吾子いま何処に

いま一度 ああいま一度吾子の声

   心済ませど声は聞こえず

かく早く旅立つことの分かりせば

   叱らず怒らず愛せしものを

み仏の前にぬかづきこの母は

  逝きし我が子の可愛さ想う

 貧困の中で病気の我が子を医者に見せることもできなかった父は、すっかり気力を無くして朝鮮での教員生活が続けられず3か月後に辞職。『この極貧の中では結婚生活を維持できない』と離婚覚悟して帰郷しました。 

ところが義父・斉二翁は嫌味も叱責もなく、神様にしかできないような救いの手を差し伸べてくれたのです。義父は親交のある友人から借金して15軒あった高利貸しの負債を全て片付け、安藤家の生活の為の田畑を無償で与えて生活の基盤を整えてくれました。
 また出戻りの小姑の激しい嫁いびりに苦しんでいた母(斉二翁の娘)を危惧して、空き家になっていた隠居屋を与え、これが終戦後、安藤家実家から離れて独立した私達家族の生活の場となりました。(その後父が退職金でS43年に建てた家を含め3棟となりましたが、近年2棟が老朽化で撤去せざるを得ない中で、隠居屋は築100年以上たった今も健在で、現在も残る唯一の建屋です。)

この4歳の長男を亡くした後の母は、貧困の中でも歯を食いしばり寝る間もないほど働きずくめの苦しい日々が始まりました。しかしいつも笑顔を絶やさず、折に触れ色々な形で 『人として大事な事』を教えてくれました。歌が大好きな母が、大汗をかき農作業する時に必ず口ずさんでいたのが『しあわせの歌』です。 

幸せは おいらの願い  仕事はとっても苦しいが

流れる汗に未来を込めて 明るい社会をつくる事

(繰返し)みんなで歌おう 幸せの歌を    

     響くこだまを 追っていこう

幸せは私の願い 甘い思いや夢でなく

今の今を より美しく貫き通して生きること

     (繰返し)

幸せは みんなの願い 朝やけの山河を守り

働く者の平和の心を 世界の人に示すこと

     (繰返し) 

 この歌をうたいながら働く母の姿に、子供心に 『少々の事で不平不満を言ってはいけない』 と教えられました。現代は、汗だくになって働くような場面は少なくなりましたが、逆に冷や汗が止まらない緊張する場面や精神的ストレスまみれの苦しい仕事が増えています。そういう時に、この歌を思い出して口ずさむと、限りない元気と勇気が湧いてきます。

  母は厳しい農作業で両手の第一関節から先は曲がったままになり、リューマチ、心臓病、バセドー氏病、最期には脳梗塞・・・「 医者からもっと身体を大事にしろと、また叱られた」 と笑いながら大変な農作業に励んでいました。そういう日常でも、PTA役員や子供会世話役や婦人会やママさんバレーなど、母親同士の集まりの中心には、いつも笑顔で活発な母の姿があり、それが子供心にとても誇らしく思いました。

またこの当時『海を見たことがない子供達を海水浴に連れていきたい』という思いから、町役場に掛け合い、子供会の海水浴支援金を認めてもらい、毎年の錦江湾海水浴バス旅行が始まりました。これを好事例として山田町の他集落も同様な企画が始まりました。私は心の中で『山田町で海水浴旅行を始めたのは、僕の母だ!』と誇りに思ったものです。

母は文学好きで、色々な感動的な話をしてくれました。中でも山本有三の『心に太陽を持て』(原詩はドイツのツェーザル・フライシュレン)が大好きでした。それは私から見ると母自身を歌った詩のように思えました。 

心に太陽を持て

 嵐が吹こうが 雪が降ろうが

 天には雲 地には争いが 絶えなかろうが

心に太陽を持て

 そうすりゃ 何がこようと平気じゃないか

 どんな暗い日だって 明るくしてくれる

くちびるに歌を持て 朗らかな調子で

 日々の苦労に 心配が絶えなくとも

 くちびるに歌を持て

 そうすりゃ 何がこようと平気じゃないか

 どんな寂しい日だって それが元気にしてくれる

他人の為にも 言葉を持て

 悩み苦しんでいる他人の為にも

 何でこんなに朗らかにいられるのか

 それを こう話してやるのだ

くちびるに歌を持て 勇気を失うな

心に太陽を持て

 そうすりゃ 何だって吹っ飛んでしまう

母がいつも歌う尋常小学唱歌から、自然に歴史上の偉人の鮮やかな生き様を学び、しっかりと胸に刻む事が出来ました。 今思うに、私が中学や高校で習った歴史や日本史は、誠に無味乾燥で味気なく、全く心や記憶に残らず、ただ歴史嫌いをつくる役割しか果たしていないと思います。 私の3人の子供も残念ながら全くの歴史嫌いです。

歴史教育で大事なのは、事件や年代をただ暗記するのではなく『何故その事件が起きたのか?』『その時代の人は、何を考え、大事にしていたか?』を考えさせる事だと思います。かっての尋常小学唱歌は、豊かな情操を育み、また歴史上の人物の歌は、その人柄や生き方が凝縮されており、一節を口ずさむだけで人生の大事を学べるように作られていました。

「灯台守り」・・働く事の意味、責任、尊さを教えてくれました。

凍れる月影 空に冴えて 

真冬の荒波 寄する小島

  思えよ 灯台守る人の 

  尊き優しき 愛の心

激しき雨風 北の海に 

山なす荒波 たけくるう

  その夜も 灯台守る人の 

  尊き誠よ 海を照らす             

「桜井の別れ」・・楠木正成が足利尊氏軍と最終決戦に赴く決意と父子の別れを歌っています。皇居広場の南西に楠木正成の銅像がありますが、この正成が絶望的に不利な戦場に向かったのかと思うと感無量になります。他方自分を振り返ると、父親との関係、息子との関係、いずれも汗顔の思いです。

青葉茂れる桜井の 

里のわたりの夕まぐれ

木の下陰に駒とめて 

世の行く末をつくづくと

忍ぶ鎧の袖の上に 

散るは涙か はた露か

     正成 涙を打ち払い 

     我が子正行  呼び寄せて

   父は兵庫に赴かん

   彼方の浦にて討ち死せん

     汝はここまで来つれども 

     とくとく帰れ故郷へ

父上いかにのたもうぞ 

見捨てまつりて我一人

いかで帰らん帰られん 

この正行は年こそは

未だ若けれ諸ともに 

御とも仕えん死出の旅

   汝をここより帰さんは 

     我が私の為ならず

   おのれ討死為さんには 

     世は尊氏のままならん

   早く生い立ち大君に 

     仕えまつれよ国の為

「広瀬中佐」・・広瀬中佐は、日露戦争時 旅順港封鎖作戦で老汽船を港口に沈める際に行方不明となった部下の杉野上等兵を3回も探しに行き、諦めて離船する際に砲弾をうけ戦死しました。 この死をも恐れず部下を思う姿は、成果偏重の現代上司に学んで欲しい精神です。

轟く砲音 飛来る弾丸    

荒波洗う デツキの上に

闇を貫く中佐の叫び

「杉野はいずこ   杉野は居ずや」

      船内くまなく 尋ぬる三度 

    呼べど答へず さがせど見えず

      船は次第に 波間に沈み 

      敵弾いよいよ あたりに繁し

今はとボートに 移れる中佐 

飛来る弾丸に たちまち失せて

旅順港外 恨ぞ深き 

軍神広瀬と 其の名残れど

「乃木大将」・・【日露戦争の旅順攻防戦の後、敗軍の将ステッセル大将を対等に遇した乃木大将の武士道は世界を感動させました。 太平洋戦争敗戦でのマッカーサー司令官の一方的な情け容赦ない復讐劇=弁護も許されない東京裁判を思うと人間性の違いを痛感します。

    旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル

    乃木大将と会見の 所はいづこ水師営 

庭に一本なつめの木 弾丸あとも著るく

 崩れ残れる民屋に いまぞ相見る二将軍 

   昨日の敵は今日の友 語る言葉も打解けて

  我は称えつ彼の防備 彼は称えつ我が武勇 

『さらば』と握手ねんごろに 別れて行くや右左

砲音絶えし砲台に ひらめき立てり日の御旗

大学卒業し就職の際、母は次の言葉で私を励ましました。職業に貴賎なし職場の清掃をしてくれるおばちゃんも総理大臣の仕事も、どんな仕事でもこの世になくてはならない大切な仕事だよ。そう心に刻んで一生懸命に取り組みなさい。』

 この言葉は50年経過しても、私の一番大事な人生指針です。

 昭和43年に父が退職、年金生活となった父母の仕送りで大学生活を送っていた私がS47年に、弟がS50年に社会人となると、父母の生活はようやく楽になりました。父は長年の夢だった『山田町史』と地区の納骨堂建立など地域の発展に尽力しました。母は父の代理で『退職公職者連盟』の会合に出席して勉強するのを一番の楽しみにしていました。以下は昭和6070歳の母が当番講話した原稿の一部です。

【・・私事で恐縮ですが、私は昭和8年、農家の長男の嫁として心構えもないまま主人結婚しました。結婚当初から考えもしなかった苦しい生活でした。その一番の苦しみは、可愛い盛りの長男を朝鮮で僅か4歳で亡くしたことです。それ以降、子供を死なせるのは母親の恥で失格だと固く心に誓いました。その後三男三女、私は精一杯6人の子供を“命に代えても”と決心して育てながら、農作業と養豚で生活しました。身体がきつくて。お灸や注射にしょっちゅう通いました。医者に何度も「働き過ぎだ。治療の意味がない!」と注意されるのですが、休んでおれません。「バタッと倒れて死んだらいいのにな・・」と、いつも思っていました。昭和43年、主人が退職するときは身も心もクタクタで、鹿大付属病院で2度の手術を受け、「このまま全身麻酔で生き返らないように・・」 と祈ったのですが、本当に人間ってなかなか死なないものだと思いました。

 昭和50年に姑、51年に舅がなくなり、長年の肉体労働と相次ぐ葬式や法事、私自身の心臓病、高血圧、変形性脊髄通、バセドー氏病などで入院・退院の繰り返し・・コルセットを使って漸くまっすぐ立って生活するまでになりました。

(中略)私は何のとりえもない女ですが、ひとつだけ誇りに思っていることがあります。それは今まで6人の子供の為に命を懸けて頑張ってきたことです。その子供達もまた、母の願いを素直に受け止めてくれ、間違いのない道を歩み進んでくれています。

 私は今まで、私の両親や恩師から教えていただいた全てを子育ての信条として、魂を込めて朝に晩に話して聴かせました。「もう、その話は何遍も聞いた」と聴いてくれない子もおりますが・・・

1.一番大切なことは、親兄弟の恥晒になるようなことをするな

2.教育勅語を金科玉条として実践しなさい

3. 都城高等女学校の3大 名校訓の実践

➀ 己を持する誠実

➁ 人に対する親切

③ 事に当たる真剣

4. 強く、優しく、美しく

5. 我が霊は神より、我が肉体は土より受く。暫しこの世と言う宿屋に逗留して,働きつつ向上し、向上しつつ働き、その得たるものをあげてこの世の茶代として残し置き、やがてあの世に旅立つ時は、我が霊は元の神へ、我が肉体は元の土へと戻る。逗留中は感謝のほか、更になし。

父が昭和63年1月7日亡くなったあと、母は一人暮らしを続け、平成7年1月29日に旅立ちました。それまでの8年間『千葉で一緒に暮らそう』という私の誘いを拒み山田町での一人暮らしを続けました。(そのかわり月に2~3回、1時間以上の長電話がかかってきました。私は母の電話だと分かると椅子を用意し応対しました。家内に言わせると私は『ウン、ウン』と相槌を打ち聴く一方だったようです。

また毎年1~2回帰省するたびに、脳梗塞主治医の都城市の濱田病院に付き添いました。先生は私にCT画像を見せながら『この脳の半分くらいが白いのは血流が止まっていることを示します。この状態で普通の生活をして支障なく会話できるのは信じられない。』と言っておられました。

その母が阪神大震災10日後の1月27日朝、新聞を取りに外に出た時に脳梗塞で倒れ救急病院に搬送されました。その報を受けた私は、すぐに帰省して救急病院に駆けつけましたが、切迫呼吸で重篤状態でした。一時回復の兆しを見せ切迫呼吸の中から『ママさんバレーは私が一番うまかった』などと息子たちを笑わせたりしましたが・・うわごとで『山田の家で一人暮らすのは寂しい・・』と繰り返すのを聴いて涙が止まりませんでした

子供が命の母にとって、やはり子供と離れての一人暮らしは寂しく苦しかったのだ。子供の厄介になりたくないやせ我慢だったのだ・・』

 母が旅立ったあと痛感したのは『母が故郷だったのだ! 故郷が懐かしいのは母がいたからだ!』ということです。就職後あれほど故郷が懐かしく毎年帰省していたのに、母の死後は全くそういう気持ちが消え失せました。

  しかし母の没後20年あたりから、実家の荒廃が気になり帰省してみると、父が昭和43年に退職金で建てた一番新しい家の屋根瓦が殆ど劣化し、長年の雨漏りで台所の床は腐って足の踏み場もないほどに荒れていました。

父母の死後引継いだ長兄は、70歳まで宮崎市で高校教師をしており、屋根や床の劣化進行に気付かず対策をしてこなかったのです。やむなく3棟のうち使い物にならない2棟を撤去しました。そしてあの隠居屋(母方の祖父が私達家族の生活の場として譲渡してくれた思い出の家屋を)残し、誰か引取り手はいないか・・とFBで投稿した次の日に『ぜひほしい。自分の家族も気に入ってくれた』という奇特な音楽家が現れました。きっと、あの音楽好きの母が「引取り手がなく困っている私達兄弟」を見かねて救ってくれたのだと確信しています。

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