2024年11月8日金曜日

1. 国難に命をかけた若者 (高杉晋作)

 中国の世界支配野望は留まることなく日本存亡の危機です。
 共産党独裁強化、ウィグル民族絶滅策(ジェノサイド)、中国由来コロナ禍の原因究明隠蔽・ワクチン外交で世界の救世主のように振舞い、世界中に浸透するサイレント・インベージョン(静かなる侵略)、南シナ海軍事拠点強化、国際公約反故の香港完全支配、台湾武力統一目前=日本のシーレーン破綻、、、そういう日本存続危機が目前にあっても、私たち大半の日本人は目をそらし日々脳天気に暮らしています。
 日本の歴史的重要岐路に立つ私達が、いま想起すべき人物がいます。
 
 幕末、欧米の砲艦外交・植民地化政策の前に風前の灯だった日本を『自主独立、自由・民主主義・人権重視の近代国家』に導いた高杉晋作です。
  
幕末の風雲児 高杉晋作は、世界と日本中を敵に回して滅亡寸前だった長州を建て直し、第二次長州征伐で20倍もの幕府軍に対し奇跡的な勝利に導き、明治維新への道を切り開きました。しかし29歳(満27歳)の若さで病死しました。 今の言葉を使えば『国事に命を削った過労死』です。
  特に、英・米・仏・蘭連合艦隊17隻の軍艦と5000人の大軍と、288門の最新式大砲の前に壊滅的敗北を喫した『下関戦争後の講和交渉』で、晋作は獄中の罪人から急遽全権大使となり、世界を相手に一歩も引かない外交交渉をまとめ上げました。 この時の晋作の様子をイギリスの通訳アーネスト・サトウは『魔王のように傲然としていた』と描写しています。

  高杉晋作の古事記演説 - YouTube


 晋作の人生は、まさに『動けば雷神の如く、発すれば風雨のごとし』(伊藤博文:記)でした。そこで今回は、高杉晋作の主な系譜をたどってみます。司馬遼太郎の名著『世に棲む日々』 を未読の方は、これを機会に是非読んで戴きたいと思います。

高杉晋作の危惧
藩内随一の暴れん坊だった晋作が、国事に命を懸けるようになるのは、吉田松陰の死後、上海視察に行った24歳からです。この時中国はアヘン戦争敗北後20年が経過し、中国人は欧米人から奴隷のように虐げられていました。 それを見た高杉は『これは明日の日本の姿だ!』と危機感を抱き、日本の歴史上初めて身分を超越した『奇兵隊』を組織します。 4か国との下関戦争敗戦処理で下関彦島割譲要求を断固拒否、藩内の旧体制維持派(俗論派)、第二次征長幕府軍を撃破します。特に俗論派が主流となり正義派が風前の灯の中 、たった一人で反撃を開始した功山寺の決起』では、その後 晋作と運命を共にした伊藤俊輔(博文)が、『この決起は必ず失敗する』と死を覚悟したほど絶望的状況でした。
 もし高杉晋作がいなかったら、長州が歴史の表舞台に登場することはなく、従って薩長連合・明治維新は実現せず、弱腰の幕府体制が更に20〜30年間は継続し、日本は米・英・仏・ロシアの分割統治・植民地になり、その後のアジア・アフリカ各国の独立もなかったことでしょう。
 左の世界地図は、18世紀 西欧(紫部)が支配していた植民地(青部)です。何と世界の6割以上が英・仏・独・蘭・露・米によって支配されていました。清朝末期の中国も、水色に示されるように西欧諸国が支配し半分以上が植民地に近い状態でし た。明治維新後の日本は、この西欧の脅威・魔手から国を守るために一丸となって必死で戦った歴史です。
 これはまさに2015年の『安倍首相 戦後70年談話』の冒頭部に繋がります。
『百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は19世紀アジアにも押し寄せました。 その危機感が日本にとって近代化の原動力になった事は間違いありません。 
 日本はアジアで最初に立憲政治を打ち立て独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配の元にあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。』
高杉晋作の系譜  原典『世に棲む日々』司馬遼太郎 :著(文春文庫)
1839年9月27日 生誕】
長州萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に藩士 高杉小忠太・みちの長男として生誕。高杉家は戦国時代毛利家中興の祖・毛利元就からの家臣であり、代々毛利家に仕えてきた名門で、高杉家嫡子としての誇りを持って育ちました。


【1846年(7歳) 少年期】
 寺子屋・吉松塾に入り、後に晋作と共に松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞(年齢は晋作より1歳下)と出会います。1852年(14歳)藩校明倫館に入学。この頃かなりの悪童で『暴れ牛』のあだ名をもらっています。伊藤俊輔(博文)は近所に住む悪童仲間でした。

【1857年(18歳)吉田松陰との出会い
明倫館の型にはまった学問に物足りず、久坂玄瑞の誘いで「松下村塾」に入り、生涯の師・吉田松陰と出会います。人を見る目が異常に優れている松陰は、一目で晋作が全身に持っている異常なものを感じ『久坂と高杉、奇士が二人になった!』と喜んだそうです。ペリー来航時に黒船艦隊に乗込み密航を企てるなど国禁を犯していた松陰を晋作の家族は快く思っていませんでしたが、単なる知識ではなく、物事を実践する知識として教えていく松陰に晋作は引き込まれ、松陰の下で一心不乱に勉学を始め「人物・高杉晋作」 が形成されていきました。

【1858年(19歳) 藩命で江戸遊学】
 始め大橋訥庵塾、のち昌平坂学問所(当時の最高学府)で学ぶものの、「江戸の学問は面白くない」と久坂に手紙を書いています。 その頃 松陰は老中 間部詮勝要撃計画の罪により、江戸小伝馬町に投獄されており、晋作は獄中の松陰へ金銭・筆紙の差入れなど世話をしながら師と対話を続けます。ある時、晋作は獄中の松陰に手紙を出し「男子たる者の死」について質問し、松陰はこう返答しています。
  死は好むべきものに非ず、 また忌むべきものに非ず
  道尽き心安んずるなら、 すなわちこれ死所なり
  世に身生きて心死する者あり、 身亡びて魂存する者あり
  心死すれば生くるも益なし、 魂存すれば身亡ぶるも損なきなり
  死して不朽の見込みあらば いつでも死ぬべし
  生きて大業の見込みあらば いつでも生くべ

松陰が晋作に送ったこの死生観が、その後の晋作の生き方となります。

【1859年10月(20歳) 藩命で帰国、師・松陰の死 
帰国を命じられた晋作は「いずれ長州でお目にかかりましょう」との書簡を松陰に送り江戸を出発。その10日後に松陰の死罪が決定し即日刑が執行されます。予期しなかった松陰の死に、悲しみと激しい怒りに打震えた晋作は、倒幕を心に誓い、歴史のうねりの中に自らの身を投じていきます。この時 藩重鎮 周布政之助への手紙で「松陰先生の仇は必ず取ります」 と激しい怒りを書き残しています。

【1862年5月 (23歳)上海へ海外渡航 
晋作は、藩命で幕府使節随行員として中国上海へ渡航。 松陰同様に世界の情勢を自分の目で確かめたい気持ちは人一倍ありました。上海港では停泊する数千隻の西欧商船・軍艦に度肝を抜かれます。陸すると外国人が華やかに暮らしている一方で、現地の中国人は奴隷のようにこき使われていました。外国人が豊かになれはなる程、現地人達は貧しくなる・・・それが当時の欧米列強のアジアに対するやり方です。清が欧米の植民地となりつつある実情に、『これは明日の日本の姿だ!』と、松陰が命懸けで残した教えの正しさを痛感し、晋作は『行動の人』 へと変身します。

11月江戸にいた晋作は、久坂ら10数名と品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ち全焼させます。テロ再発を恐れるイギリスは二度と御殿山公使館を建てたいとは言わず、上野と並ぶ桜の名所を外国に奪われずに済んだ江戸っ子は喜びました。

【1863年4月(24歳) 剃髪、藩に10年の暇申請、下関戦争始まる 
晋作が国防に最重要とする『蒸気船購入、軍備強化』は却下され、藩は京での政治活動を重視します。外国嫌いの孝明天皇は将軍家茂に『5月10日をもって攘夷断行』を約束させます。すでに幕府は開国の条約を結んでおり将軍は窮地に陥りました。攘夷に凝り固まっていた長州藩は、5月10日早速 関門海峡で米・仏・蘭の軍艦に砲火を加えます。
しかし6月になると形勢は逆転、米・仏に反撃されてあっけなく敗走。 晋作の予見した通りでした。 
その無様な敗戦に危機感を抱いた藩主敬親は、世捨て人を決込む晋作をすぐに呼び出し下関防衛策を下問します。晋作は、身分を超越した有志の兵団『奇兵隊』設立を提案、その初代総督を任じられて下関防衛を一任されます。 
人材を見つけ出すことに天性の才があった毛利敬親は、別名『そうせい公』と呼ばれ、有能な藩士を重要なポストにつけて『そうせい!』と一任する器の大きな殿様でした。 明治維新直後の『廃藩置県=主君の座を明渡し一平民となること』を率先して受容した名君は他にいません。 薩摩の島津久光などは『西郷と大久保に騙された!』と怒り狂い手が付けられなかったといいます。 
 粉飾決算を最重要経営課題として、世界の大企業 東芝の名声も経営も破滅に追い込んだ3代社長たちに爪の垢でも飲ませたい話です。

【1863年8月(24歳)「8・18政変」「七卿落ち」晋作は藩重職就任】
朝廷の権威を盾に躍進する長州藩は一気に討幕に進もうとしますが、危機感を抱いたライバル薩摩藩は会津藩と手を組み、長州藩を京から蹴落とします。この非常事態に藩は晋作を藩主の側近中の側近(奥番頭役)に抜擢し、藩の政務に専念させます。

【1864年3月(25歳)一転、脱藩の罪で野山獄へ
長州の過激派は、京に攻め上り薩摩・会津を蹴散らして復権を図ろうと暴発寸前です。その急先鋒の来島又兵衛の説得に失敗した晋作は、正確な情報収集の為に京に走りますが、これが脱藩に当たると讒言され野山獄に投じられます。『先生を慕うて ようやく野山獄』投獄初日の心境です。たとえ獄中にあっても松陰の「志」を継いでいるのだという覚悟で、獄中を鍛錬の場と考え10年間読書に励もうと決心しました。80日後自宅の座敷牢に移ることになり、喜んで迎える父の慈顔に晋作は涙が止まらなかったと言います。 しかしこの投獄が晋作を生き長らえさせます。

【1864年7月(25歳)蛤御門の変 
長州の進発派は軍勢を率いて京都に上り、御所を守る薩摩・会津藩と激突し敗れます。 この暴挙を止めようとした久坂・入江・寺島ら多くの晋作の同士が戦死しました。晋作も投獄されていなかったら戦死していた可能性が高く、歴史はここで晋作を殺さなかったのです。彼の本当の活躍は、まだまだこれからでした。

【1864年8月(25歳)下関戦争敗戦 講和談判
蛤御門敗退で失意の長州藩に追い打ちをかけるように、英・米・仏・蘭連合艦隊17隻の軍艦と 5000人の大軍が下関に押寄せ、288門の最新式大砲が火を噴きます。これに対する長州側は破壊力が遥かに劣る旧式砲で、壊滅的敗北で砲台まで占領されてしまいます。外国の圧倒的な軍事力の前に、やむなく講和交渉となりますが、長州藩は晋作しか頼る者がいません。座敷牢から出された晋作は、長州の講和の全権として、イギリスのユーリアラス号に乗り込んでゆきます。『囚人から一気に重役復帰!』 この振幅の激しさが、いかにも風雲児 高杉晋作です。

  外国軍の要求の中で難問が2つありました。 一つは賠償金300万ドルで、長州藩が飲まず食わずに返済しても数十年はかかります。 晋作は『長州は幕府の攘夷命令に従っただけだ。支払い責任は幕府にある!』と断固拒否します。通訳のアーネスト・サトーは晋作の態度を『魔王のように傲然としていた』と描写し、交渉全権のクーパー提督は、全責任を一身に引きける気迫の晋作に好意を持ち信頼していきます。(この時、晋作25歳!)


 もう一つの難問は、下関彦島を租借地にする要求でした。 晋作は、中国がアヘン戦争敗北後の南京条約で香港を割譲させられ、列強餌食の足掛りになった経緯を良く知っていましたが、下手に拒否すると講和決裂です。 そこで晋作は大演技を始めます。語学の天才アーネスト・サトーも通訳しかねる日本語で、古事記・日本書記の講釈を延々と始めたのです。 連合国側は意味も分からず茫然と聴くだけで、ついに彦島租借を諦めます。通訳の伊藤博文もこの時 訳が分からず、晩年になって漸く、これが晋作の高度な政治能力だった事を理解しました。あの時、高杉がうやむやにしなかったら、彦島は香港に、下関は九竜島になっていただろう』と、しみじみ述懐しています。 この様子を1977年NHK大河ドラマ 『火神』 で、中村雅俊が晋作役で好演しています。 
https://www.youtube.com/watch?t=13&v=McpAd8bM_ds
 
【1864年8月(25歳)第一次征長討伐。正義派失脚、俗論派台頭】
蛤御門の変で御所を攻めた長州は『朝敵』 となり、幕府に長州征討の勅令が発令されます。 まさに世界と日本中を敵に回した長州は、孤立し消滅寸前です。圧倒的な征長軍に対し、ひたすら謝罪すべしとする俗論派の椋梨藤太が実権を握り、追い詰められた正義派幹部は捕縛され、三家老・四参謀が処刑されます。(リーダー周布政之助は自害)この恭順姿勢で第一次長州征伐は回避されます。

【1864年10月(25歳) 晋作脱藩
  
四か国艦隊と講和した晋作は正義派からも俗論派からも命を狙われ、機を見るに敏な晋作は脱藩して福岡に逃れます。 この時同士の井上聞多(馨)は刺客に襲われ50針も縫う瀕死の重傷を負っています。福岡で野村望東尼の元に身を寄せながら勤王志士結集を図りますが、長州が崩壊寸前と見た九州各藩は一転俗論派が実権を握る佐幕体制になっています。『他力本願ではだめだ。 長州が時勢のかなめだ。長州が一変すれば日本は一変する!』と悟った晋作は雌伏三週間で下関に戻ります。

【1865年12月(26歳) 功山寺の決起
 俗論政府から解散命令が出ている奇兵隊・諸隊の本部へ乗り込んだ晋作は『どうせ潰されるのだから、決起して実権を取り戻そう!』と呼びかけますが誰も賛同しません。『ならば馬一頭を貸せ。萩に駆けつけ主君に直諫する。それが本当の忠義だ。途中俗論派に斬殺されても構わない!』 とまで迫っても誰一人立ち上がらず無言で引き上げていきます。残ったのは晋作の天才性を信じ従ってきた伊藤俊輔(博文)だけでした。この伊藤が率いる力士隊30名と他藩脱藩浪士からなる50名が功山寺に結集します。(長州人は晋作・伊藤・石川の3名のみで長州人の怜悧さが出ています。)功山寺に逗留する都落ちした五卿に向かって『今から長州男児の肝っ玉をお見せいたす!』と宣言して正義派の反撃が始まり、絵堂・大田の奇跡の大勝利を経て正義派が実権を取り戻します。
 藩政の中心に座るかと思われた晋作は、突然 『ワシは外国へ行く!』 と言い出します。あれほど義に燃え連戦奮闘した仲間が、革命が成功すると傲慢・無法・無頼漢になってしまう現実に嫌気がさしたのです。『人間は艱難をともにできるが、富貴は共にできない』 『生は 天が与えた目的の為に努力する過程であり、死は天がそれを労って与える休息だ』の名言を吐いています。

【1866年1月(26歳)薩長同盟成立
 相互に敵対していた薩摩・長州でしたが、討幕・近代日本建設の為には協力するするしかないと説く坂本龍馬の仲介で、歴史的な薩長同盟が成立します。

【1866年3月(26歳)逐電
 本気で洋行しようと伊藤とともに長崎にやってきた晋作に、イギリス商人グラバーと通訳ラウダは『洋行は取り止めて長州に留まるべきだ。幕府の長州征伐軍が再組織されようとしている。下関を開港して経済力・軍事力を蓄えるべきだ。』と説きます。 イギリスは衰弱した幕府を見限り、強烈な独立意欲を持った薩摩・長州が日本の主導権を握ると見ていました。その通りだと思った晋作は『しかし藩内は同士の正義派=攘夷派が実権を握っており、今度ばかりは命がない。』と覚悟して帰国し、藩重役に下関開港を説得します。そして職業的刺客 神代直人(維新後 大村益次郎を暗殺)等の暗殺団に狙われ逐電します。生半可な逃亡ではダメだと、晋作・伊藤・井上は別々に逃亡し、晋作は妾“おうの” を連れて大阪⇒四国と逃亡しますが、これを察知した幕府役人に執拗に追われます。行き場を失った晋作は密かに萩城下に帰還します。

【1866年6月(26歳)第二次征長討伐(四境戦争)
 幕府は危険な長州を骨抜きにしようと、晋作や桂小五郎ら12名の引き渡しと、10万石の削減、毛利敬親父子の蟄居を命令しますが、長州藩は無視し、第二次征長討伐が始まります。幕府軍は四方向から大軍を差向け、特に小倉口には2万人、対する長州は1千人と圧倒的に不利です。 しかし今回の征長討伐は大義名分が不明確で、長州は『第一次征長で3家老を処刑して処分は終わっている。幕府は私怨で戦争を仕掛ける賊軍だ!』と、藩民一丸となって死に物狂いで戦う気が満ちています。藩は晋作を小倉口の海陸軍総督に任じます。 晋作は独断でグラバーから軍艦丙寅丸を購入し開戦に備えます。そして全戦線で20倍以上の幕府軍を圧倒し、その最中に将軍家茂が病死し長州の大勝利で終わります。幕府の権威は失墜し、1867年11月の大政奉還、そして1868年の明治維新へと時代は大転換し、日本は力強く近代国家を建設していきます。

【1867年4月13日(27歳) 晋作逝去
 この四境戦争の大勝利を最後に、『ワシの役割は終わった』 とでも言うように息を引き取ります。東望尼に看取られながらの辞世の句は、『おもしろき こともなき世を おもしろく』です。晋作にすれば、『本来面白くもない世の中を 随分面白く生きた。何の悔いもない!』 というつもりだったのでしょう。 また、亡くなる寸前、尋ねてくる同士に向かい、『ここまでやったから ここからが大事じゃ。しっかりやってくれろ。しっかりやってくれろ』 と繰り返したといいます。これから始まる討幕・新時代を思うと本音は無念で堪らなかったのでしょう。松陰の教えを実行し、時代を駆け抜けた、27年と8か月の太く短い生涯でした。

【エピローグ: 晋作の草莽崛起=万民平等の思想】
松陰の松下村塾、晋作の奇兵隊の根本思想は、『国を思う心に身分の違いはない。殉国の志士に出自は関係ない』でした。 1863年10月 高杉晋作の発議で殉国の志士の神霊を祀る招魂場を築くことになり、1865年8月下関新地岡の原に桜山招魂神社落成。晋作の発議に基づき、武士・農民・商人・力士から穢多・非人まで殉国の奇兵隊士391柱の墓標が同じ高さで平等に祭られています。晋作は軍事だけでなく、精神・宗教面でも『自由・平等・民主』 を体現した日本初の革命家です。この精神が発展して靖国神社に引き継がれています。

 今、軍事独裁国の北朝鮮は、民衆の貧困が極限であるにもかかわらず、軍事力(特に核・ミサイル戦力)を強化し、中国は 150年も時代遅れの領土・領海拡大、植民地支配を自らの手で行おうとしており、韓国は中国・北朝鮮寄りの左翼政権で増々手が付けられないようになっています。
『こういう危険極まりない無法国の軍事的脅威から、どうやって日本国民の生命・財産、国家の安全を守るか』日本の最優先課題ですが、野党5党は迫りくる危機からどうやって国民・国土を守るかの対案を示さず、無責任にも2015年辛うじて成立し日米同盟を強化した安全保障関連法の廃止法案を 2016年2月共同提出し、その後も廃案を叫んでいます日本人にいま必要なのは 第35代米大統領ジョン・F・ケネディの有名な就任演説の精神です。

『世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機に晒されている時に、それを守る役回りを与えられた世代は多くありません。私はこの責任を恐れず喜んで受け入れます。恐らく皆さんもこの役割を他の誰かや他の世代に譲りたいとは思わないでしょう。我々がこの取組みに注込む精力と信念と献身的な努力と情熱の光は、世界を輝かせるはずです。
 そして同胞の皆さん、国があなたの為に何をしてくれるかでなく、あなたが国の為に何ができるかを考えようではありませんかまた同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたの為に何をしてくれるかではなく、人類の自由の為に、共に何ができるかを考えようではありませんか。』

 この名演説の精神は、安倍元首相の『米議会演説』『戦後70年談話』と全く同じです。『幕末の脅威=欧米列強』 150年経過した現代の脅威は中国・北朝鮮です。日本の近隣に『自由・民主主義・人権』を全く認めない危険な国々が存在し、日本の支配を虎視眈々と狙っています。『私達国民はそれをどう考え、どう備えるか』が日本人一人一人に問われています。
安倍元首相は談話の終章で、敗戦後70年間たってもGHQ洗脳政策 (WGIP=ウォー ギルト インフォメーション プログラム) から脱却できない現代日本人に対して、こう呼びかけています。
『日本や周辺国、世界の歴史を100年、200年単位で、“事実に基づいた客観的視点” でしっかりとらえ、反省すべきは反省し、未来志向で、自由・民主主義・人権” という基本的価値を共有する国々と連携し、世界の平和と繁栄に貢献していこう!
言い換えると、 “自由・民主主義・人権”を認めず、軍備を拡張・誇示し、力による恫喝や現状変更、領土・領海拡大を繰り返す 1党独裁国家(=ファシズム国家、100年前の植民地主義) に対しては、価値観を同じくする民主国家が力を結集してその時代錯誤の野望を諦めさせよう!】 
 これこそが『未来志向の積極的平和主義』であり『安保法制の真の目的』です。 この視点から日本を取り巻く状況を考えれば『安保法制』 が必要なことは自明の理です。 まさに『近代日本の扉を押開いた晋作、敗戦トラウマから脱却し日本の未来への道を切り拓いた晋三 です。

野党やマスコミは、現実の中国や北朝鮮の核・ミサイル・軍備強化、威嚇・挑発・侵略行為の顕在化・脅威にどう対処すれば良いかに全く言及せず、全く無責任で卑怯な対応です。のみならず的外れな 『違憲論議、戦争法・徴兵制』 や森友・加計学園のような詐欺師・欠陥元次官といった無責任な輩の虚妄言に固執するように、に諸重要法案の国会決議引延ばし戦術に終始します。そういった国賊的姿勢は結果的に、軍事独裁の中国・北朝鮮の危険な野望を認め助長させることになります。 日本や東南アジアの友好国を窮地に追いやる裏切行為であり、国民への敵対行為としか言えません。 
 野党・マスコミは、何故 『北朝鮮の核・ミサイル脅威、中国の南シナ海諸島埋立て軍事基地化・東シナ海16プラットホーム建設・軍事転用化・尖閣列島領海侵犯等の脅威』 に対し放置し、非難しないのでしょうか? 『この危うい状況にある日本をどう守っていくのか』 について、何故 現実的で有効な具体策を早急に提示しないのでしょうか?
幕末でいえば、屈辱外交で幕府・藩権力維持だけを図った(=太いものには巻かれる式)の俗論派、清朝末期の中国、中国追従の李王朝や現韓国と全く同じで、このような姿勢は国民の害になるだけで歴史から消え去る運命にあります。

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