2024年11月8日金曜日

1-3. 仰げば尊い恩師(中学時代)

誰しも、大人への脱皮・成長の契機となった恩師、尊敬してやまない存在があると思います。私は中学三年の担任だった財部三郎先生です。出会いから59年間、29年前に逝去された後も、いつも心の奥で対話して貰っておりこの恩師との出会いがなかったら今の自分はなかった!』と、改めて深く感謝します。先生はその頃40歳直前の働き盛り、小柄な身体に熱血が溢れかえっていました。『将来、あの先生のようになりたい!』14歳の私はそう決心しました。
 
しかし私が大学4年生の教育実習(母校の日向学院高校)で、受け持ったクラスの学生数名が、未熟な教生を困らせようと教科書の陰で早弁しているのを見つけました。 その指導をする際『これは一度実社会=厳しい企業体験を積まないと、彼らを正しく指導する教師にはなれない!』と痛感し就職しました。 そして仕事に追われ結婚し、専門外の人事・社員教育も担当し『形は変わったけど先生への恩返し、若者の指導育成が少しはできたかな・・』 と自己満足していました。

そして先生との出会いから約50年、還暦を過ぎた私は、何と財部先生と殆ど同じ内容の中学数学の授業を工科系大学三年生に就活準備講座(SPI)として教える事になりました。まさに ウオルト ディズニーの名言 If you can dream it , you can do it . (夢を持てば 必ず叶えられる) です。そして教育実習の時決心した、社会・企業を熟知した教師として、講義の合間に『仕事とは何か?企業とは?社会が求めるリーダーは?人生にとって大事なものは?』 などを信念を持って語りかけ伝えてきました。

その結果は・・『90分授業を連続4コマ×2週×2学科!古希前後の自分に大丈夫か?』 と不安だらけの講座でしたが、あの財部先生の授業風景 (=講義はメリハリがあり簡潔明瞭、板書は丁寧で綺麗。 まるで名絵画のよう!) を思い出しながら何とか乗り切りました。講座終了後の学生アンケートは・・【①役に立った、②分かり易かった、③講師の熱意を感じた いずれも100%】 の評価結果でした。しかしあの財部先生の名授業には程遠く、これからなお精進して一歩でも近づこうと努力し続けました。 
また古希でも十分大学生相手の講義もこなせることを証明できました。従って 『少子高齢化の労働力不足対策の切り札は、働く意欲のある高齢者を差別せず活用することしかない!』 と、改めて確信しています。

『仰げば尊い恩師 (財部先生)』       
中学時代に出会った恩師の財部先生を思う時『大人への脱皮・成長のきっかけを与えてもらった生涯の恩師』と深い感謝の念を覚えます。そして大学時代に観たシドニーポアチェ主演の感動作『いつも心に太陽を』ラストシーンで、ルルが歌う『恩師への感謝の歌』を思い出します。

【歌えるオールディーズ 56】 いつも心に太陽を (ルル) - YouTube

   懐かしい学校時代 噂話 爪をかむくせ

  時は過ぎても 思い出は一生 心に残る

      クレヨンを握った指に 今は口紅

      先生の思いにどう報いよう

  空いっぱいに大きく描きたい

  特大の文字で・・・”先生に 愛を込めて”

      失敗だらけの青春は 矢のように過ぎ去った

      教えて 先生 子供は何故大人になるの

  木登りや鬼ごっこに代わるものは何

  先生の愛にどう応えよう

      世界をすっぽり 壁で囲んで

      大きな文字で描きたい・・・先生へ 愛を込めて

  教科書を閉じ さよならを言う日 大好きな先生の許を 巣立って行くの

  先生は教えてくれた 人間の強さ 正しさ その思いにどう報いよう

 

  月が欲しいなら 取りにもいくわ でも今は心からの感謝を 

  ”先生へ 愛を込めて”

青春時代の財部先生は、台湾の師範学校卒業後、志願して海軍予備学生飛行科の最後15期として入隊され、土浦の航空隊で地上訓練を受けられましたが、最早そのとき練習機すらなく自宅待機となりました。あと1年でも早ければ特攻機で飛んでおられた事でしょう。 先生が予備学生に合格されたとき師範学校の恩師から『お前は、真っ先にお国の為に死にますと言いそうだが絶対に死ぬな!』と言われたそうです。
すぐに終戦を迎えて教職に就かれましたが、中学の同窓生に特攻隊として戦死した人がおられ、一本気な先生はきっと『生き残ってしまった!』と思われたことでしょう。 まさに「永遠のゼロ」の世界です。きっと教職となってもその思いが強く、全身全霊で生徒を厳しく真直ぐに育てられていたのだと思います。

 元々先生の専門は社会科でしたが、団塊の世代の私達が中学生になるころ数学の教師が手薄になり、数学を担当することになったそうです。そういう経緯を知らない私達は『猛烈に厳しい鬼のような数学教師の先生が自分達の担任になる?』 と、おっかなびっくりで3年生になりました。

霊峰高千穂の峰を間近に仰ぐ山村の中学で進学塾などは皆無でしたが、先生方は実に教育熱心で、正規の授業のほかに朝一時間、夕方一時間の課外授業を (恐らく無報酬で) 熱心に授業してもらいました。 中でも財部先生の授業は真剣な取組みを求められ『僕の授業を真剣に聴いておれば、予習も復習もいらない。それで十分100点満点が取れる。』 が口癖で実際その通りでした。  そのかわり『私語やよそ見は絶対に許されない厳しい鬼教師で、少しでも気の緩みが見えると、容赦なく黒板用木製三角定規で頭ゴツンが飛んできました。
ある朝の課外授業中、優等生の俊一君と俊郎君が私語を止めないのも見咎め、『二人とも前に出てこい!』 と、いきなりビンタが飛んできました。 俊郎君の唇が切れ、先生の手に付いたその血が俊一君の白い頬に移り真赤にしました。 それ以降、授業中の私語は全くなくなりました。 この俊一君は九州大学に進学して就職後重役まで上り詰め、敏郎君は神奈川県警で重要ポストを務めました。

その頃コンクリート製校舎が一棟完成し、3年生が初めて使う事になりました。
屋上から仰ぐ霊峰高千穂の峰は神々しいほどに見事で、『危ないから勝手に屋上に上がることは禁止!』 となっていたにも関わらず、私達は約10名の仲間で屋上に上がり、絶景の中で弁当を食べるのが最高の楽しみとなっていました。数日後、3年生350名全員が屋上に集合させられ、『屋上で弁当を食べていた者は前に出てこい!』 と鬼の財部先生が竹刀を手に眼を座らせて仁王立ちしているのを見たとき、あの往復ビンタを思い出して身がすくみました。なかなか出てこないのを見かねて『10数名がいるのは分かっている。これから分かったものは徹底的にぶん殴るから覚悟して出てこい!』と、益々エスカレートし収まる気配はありません。
『こりゃ仕方がない。 誰か代表で殴られないと収まらないな・・』 と覚悟を決め、『君たちは出るな』 と目配せしながら私が出ていくと、後から仲間がゾロゾロと出てきます。『アチャー!これは大変なことになった!』と覚悟を決めると、先生は『そんなに屋上が好きなら、コンクリートの上に正座しろ!』と、10数名全員が約2時間正座させられました。
2時間後やっと解放されましたが、膝から下の感覚が全くなくなり、立ち上がれるようになるまで20~30分はかかりました。 そしてこれ以降、屋上に上がる者は全くいなくなりました。

『2時間正座だけで済んで良かった』 と胸をなでおろしましたが、これには後日談がありました。当時成績抜群でスポーツ万能のスーパースターだった黒木功君も同罪で2時間正座したのですが、その後、職員室に行き、『先生は徹底的にぶん殴ると言った。 覚悟していたので殴って下さい!』 と迫ったそうです。さすがの鬼の財部先生も『あれには往生したよ!』 と、20~30年経っても述懐されていました。(この功君は、都城高専を卒業後、東京のビル設備設計会社に勤め、弱冠30歳前後で京王プラザホテル厨房設計責任者となる等 大活躍しました。)

厳しい怖い先生でしたが、卒業式の日、釣りの大好きな先生に感謝の気持ちとしてクラス全員で釣竿を贈った時、先生の目から溢れた大粒の涙が全てを物語っていました。 心を鬼にして厳しくされていた先生の思いは全て生徒に通じており、恨みに思う生徒は一人もいませんでした。卒業後も悩みを抱えた教え子たちが沢山相談に訪れました。 私も社会人となってからも故郷に帰省するたびに真先に先生宅を訪問し、そのたびに新たなことを教わり元気づけられました。

『君たちは、戦後最も生徒数の多かった世代で、山田中は田舎の学校だったにも関らず一学年350名、50名学級が7クラスもあった。(現在一学年60名、30名学級が2クラス) 僕達は一人の落伍者も出さないよう必死だったが、君たちもそれにしっかりと応えてくれた。中卒で集団就職する生徒が6割以上だったが、かなりの者が夜間高校に通い、また国立大学5名、高専3名の合格者を出し、みんな立派な社会人になって活躍している。 君たちがあの中学校の黄金期を作ってくれた。 それが僕の一番の誇りだよ!』 と終生語っておられました。 その姿を思い出すたびに今も涙が止まりません。
 先生は、その後 長く校長先生を務められ、定年退職後は知的障害者福祉に尽力されました。
 当時、県内にはなかった ダウン症者の施設開設の為に関係部署に精力的に働きかけて初設置に漕ぎ着けて、初代園長になられました。『僕が登校すると皆が、「園長先生!」 と抱き着いてくるんだよ!』 と、純粋な青年のように感動を話される先生の姿は、眩しいくらいに輝き、益々尊敬の念が強くなりました。
  
 先生は、園長退任後も民生委員として近隣の一人暮らしのご老人を訪問巡回され地域福祉に尽力されましたが、間もなく肺の病に冒され入退院をくりかえすようになられました。最期の数か月は、呼吸困難の為に横にもなれず、ベッド上の胸卓に突伏して、やっと呼吸される苦しい状態が続き、 奥様と二人の息子さんが交替で背中を撫でながら励ます懸命の看病が続きました。 奥様は、『あの2か月は、私のほうも身を切るようにつらく殆ど睡眠を取れませんでした。』 と言っておられました。・・平成4年2月16日朝ご逝去。享年65歳。

まだまだ長生きして頂きお話を聴きたかった、いつまでも私達を叱咤激励して欲しかった、恩返しも出来ていないのに・・といまも感謝と共に残念に思います。


 先生の苦しそうな晩年の姿を思い出す度に、『これほどに人の為につくし、沢山の人から感謝され尊敬されている素晴らしい人に対して、神様は何故こんな苦しい残酷な仕打ちをされるのだろう・・・』 と思います。 しかしあの先生の事ですから、『そんなことは考えるな。 最愛の家内と息子達に看病を受けながら過ごした2か月間は、家族の強い絆を感じながら、最も充実した幸せな濃密な時間だったよ。』 と、きっと言われるに違いありません。

お別れしてから31年、私の心の中で、
『周囲の人が幸せになるように精一杯働いているか?』 
『いつも太陽のような暖かい心を忘れてはいけないぞ!』

と、いつも叱咤激励される先生の声が聴えます。 
そして少しでも先生に近づきたいという思いが深まる毎日です。
 仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも 早や幾年 
   思えばいと疾し この年月 今こそ別れめ いざさらば


【追記1】  『山田中学校卒業20周年 旧3年3組記念文集』 祝辞 

旧3年3組の皆様へ    財部三郎 (昭和60年2月20日 記)

お元気ですか。

山田中を卒業して早や20年、去る1月2日の同窓会に招かれ、感無量でした。立派に社会人として成長された皆さんの姿は誠に頼もしさで一杯でした。

皆さんが中学1年生の頃、私は36歳で丁度皆さん達の年齢の頃でした。その私も60歳となり58年2月に病の為に1年早く退職しました。山田中を42年に去り、夏生中に4年、教頭として三股東中に赴任して1年、47年からは小松原中に4年、51年から東臼杵郡南郷村の小学校長に奉職、54年に山田町の中霧島小学校に帰ってきました。山田とは縁があったのですね。 57年に都城市立長飯小学校に赴任し、ここを最後に退職しました。 現在は、知恵遅れの人々の福祉向上のために余生をささげるべく、精神薄弱者育成会長としてあちこちを駆けずり回っています。

このたび安藤君のご尽力で、旧3年3組の文集が発刊されるとのこと、本当に有難い事です。

山田中に赴任したのが36年、翌37年から3年間皆さん達と過ごした日々が、走馬灯のように思い出されます。厳しく育てた一つひとつの情景が懐かしい。一番懐かしく思い出されるのは、この3年間でした。今振り返って後悔はありません。

山田中の黄金時代を築いたのは君達でした。当時の校舎も一部を残してすっかり面目を一新しました。山田に残り町民の一員として逞しく活躍されている人、遠く郷里を後にして力強く生き抜いておられる人、『人生いたるところ青山あり』、 強く、正しく、清らかに生き抜いてください。

当時の教え子が私宅を訪ねてくれます。本当にありがたい事です。父親、母親となって子供の養育に懸命の事でしょう。どうかいつまでも友情の輪を広げ、お互いに励まし合って意義ある人生を送って頂きますよう、お祈りしています。  合掌 

【追記2】 

 最近卒業式で「蛍の光」「仰げば尊し」が歌われなくなったそうです。その理由は時代の変化=蛍がいなくなったこと、メールやラインで手紙のやり取りが少なくなったこと、先生と生徒が距離感が縮まり畏敬の念がなくなってきていること・・等が挙げられています。

 その代わりほとんどの学校で歌われているのが『翼をください』です。私はかって大病を患った時 この歌に力を貰ったので大好きな歌の一つですが、卒業式の歌にはふさわしくないと思います。

 「いま私の願いが叶うなら、わたしに翼が欲しい・・

 この大空へ翼を広げ飛んでゆきたいよ

 悲しみのない自由な空へ翼はためかせ行きたい・・

という歌詞は、苦しい現実の束縛から解放されたいという切ない願いの歌です。恩師や友人と共に過ごした貴重な学生時代を振り返り、恩師や友人に感謝し、希望や夢実現に向けて、苦しみも悲しみも逞しく乗り越えていくぞ! と胸膨らませて新たな天地へ飛び立とうと決意する力強い歌ではありません。

 人生の大事な節目となる卒業式で歌う歌は、やはり「仰げば尊し」 に勝るものはないと思います。「恩師や友人への尽きせぬ感謝の念、別れの悲しさの中にも未来に向かっての力強い決意」

 どんなに時代が変わろうと、永遠に不滅な日本の心の歌として、是非全国の学校の卒業式に復活して欲しいと熱望します。

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