人生を豊かで意義あるものにするのは「良き伴侶・家族」と「恩師・心の友」です。私は都城市(当時北諸県郡)山田町の山田中3年の時「生涯の恩師と心の友」に巡り合う幸運を得ました。恩師は財部先生、心の友は 55年間山田町で酪農に取組む「田中操君」です。私は現在73歳、父母が旅立ち実家を手放しましたが、心の友の操君がいる故郷はいつも光り輝いています。
(操君の事務所「優良酪農家、乳牛品評会」などの優勝トロフィーがズラリ!)
彼は58年前の出会いから既に、努力家で笑顔の絶えない穏やかな人格者で、財部先生から信頼されるクラスの世話役・中心人物でした。山田中卒業後、県立高原畜産高校(のち高原高校、平成25年廃校)で畜産を学び、卒業後はお父さんと乳牛15頭から酪農を始めました。
若いころ帰省して操君を訪ねると「牧草をコンベアに乗せ円筒形サイロに貯蔵」などの重労働で汗まみれで働いており、私の姿を認めると作業の手を休めて「おお、安藤君戻っきたけ!」と屈託のない笑顔で暖かく迎えてくれました。その姿を見るたびに「俺も負けずに頑張らなくては!」と奮い立たされたものです。
当時は酪農家に必ずあった円形サイロが、最近全く姿を消しました。現代は全て地表プール状の大きなバンカー貯蔵方式となり、円筒形サイロよりも遥かに作業が楽になっています。
中学卒業後20年、地道な努力を続けた彼の飼育する乳牛は50頭(現在100頭)になっていました。飼育頭数が増えると日々の仕事量は更に大きくなり、それに加えて秋の飼料トーモロコシ刈入時は朝から晩までトラクターの作業が続きます。そういう1年365日農作業づくしの日々でも、地元活動や同窓会の世話役など、いつも中心にいるのは操君でした。35歳の卒業20周年記念同窓会のころ、彼はすっかり地元の名士になっていました。
この時来賓で来て戴いた恩師財部先生は、会終了後 操君と私を都城の繁華街へと二次会に誘ってくれました。先生は肺の病気で定年2年前に早期退職されていました。そして語られたのが「君たちが山田中の黄金期を作ってくれた。これからも二人が中心になって、いつまでも3年3組の仲間と励ましあって皆で幸せな人生を歩いてほしい!」と熱く語られました。
それ以来38年間、操君は毎年欠かさずクラス会を企画開催してくれています。県外就職した私は、先生の言葉に触発されてクラスメート全員に連絡を取り『山田中3年3組 卒業20周年記念文集』を編集発刊しました。古希を過ぎてその文集を読むと、35歳で子育て真最中の仲間が頑張っている様子が手に取るようにわかり、今も大事な宝物となっています。(このなかの3名が既に逝去しています。) 次の文は、この記念文集の田中操君の巻頭文です。
【卒業後酪農を継ぎ、結婚、4人の子供が誕生、3人目の男の子は喜びもひとしおでした。そして子供が幼稚園に通うようになり、中学同窓の涼子先生が家庭訪問に来た時の、何とも言えない気恥ずかしい気持ちが印象に残っています。(・・フランス人形のように可愛く、明るく元気でいつも仲間の中心にいた涼子さんは、惜しくも23年前50歳で急逝しました。・・合掌)
山田中卒業から20年が経過しました。月日のたつのは本当に早いもので、あの新校舎で別れを告げた日から20年、それまでの15年より長い年月が過ぎてしまいました。同窓会では20年前のことが、つい昨日のように思われて仕方がありませんでした。・・・しかし同窓会から帰ると、家には妻と小2、小1の娘、年長組の息子、4歳の娘の顔を見ると、やはり月日は流れたのだなあと痛感しました。
仕事は酪農をずっとやっています。現在親牛と子牛あわせて50頭くらいです。4月から6月にかけて牧草の乾草取りと、トウモロコシの植え付け、8月~10月にかけてトウモロコシのサイロ詰め、牧草の植え付け・・・と忙しいときは一日中トラクターの上です。 自然と生き物相手の仕事ですから一日も休めず大変ですが、それだけにまた収穫の喜びもひとしおです。
子供が大きくなり、一緒にやれるようになったら、『観光牧場!』 は大袈裟ですが、『楽農 (楽で楽しい酪農)』を目指して頑張ってみたいと思います。 皆様も健康と美容のために、牛乳をどんどん飲んで頑張ってください! よろしく!』
操君は20代前半で結婚した後も、仕事だけでなく青年団や分館長、農政委員、民生委員など地域活動でも大活躍し、山田町になくてはならない存在となっています。そして4人の子供さんは 働き者の優しいお父さんお母さんが大好きで、息子さんは酪農を継ぎ、3人の娘さんは「両親の近くで暮らしたい」と実家の近くに嫁ぎ、お孫さんが合計16名! 最高に幸福な賑やかな大家族となっています。4人の子供さん夫婦はいずれも共稼ぎ、16人のお孫さんの出産・子育て支援で、操君の奥さんは夫の酪農以上に大変な毎日だったことと思います。三番目の息子さんは、操君の夢通り酪農を継承し、経営規模を大きくしています。
もう一つの夢の『楽農』は、当初の夢よりももっと大きな規模の『霧島コントラクター』として、宮崎県の酪農近代化先駆者として花開きました。
『農業組合法人:霧島コントラクター』 (後列中央が、田中操組合長)
畜産は規模拡大して頭数を増やすと、飼養管理に手が取られ、飼料を収穫したり畑を耕す作業が個別では困難になります。共同での作業も、かつては集落に仲間が何人かいてグループで出来ましたが、酪農戸数が減少し難しくなってきました。畜産では現在も家族経営が中心で、飼養頭数が増えると、飼養管理の他の作業、特に飼料の収穫がきつい。それを請け負う組織としてできたのが「コントラクター」です。
そのスタートは昭和40年代です。このころ開拓地で畜産振興事業が行われ、飼料作自給の為に機械を導入して作業を請負うようになりました。その後、機械共同利用などを行ってきましたが、バブル崩壊不況で単なる共同利用は難しくなり、飼料生産と家畜の飼養を同時並行で進めるのはとても困難な状況になりました。当時オランダやイギリス、ドイツなどでは、農業機械銀行のもと農作業を専門に請負う組織ができてきました。それなら日本でも進めようということになり、平成6年から「農作業専門請負い組織を立上げ、それを政府が支援する」としてスタートしたのが始まりです。
コントラクターにはいろいろな支援事業があります。平成6~8年度は「飼料生産外部化拡大緊急対策事業」を、9年~11年は「飼料生産受託組織育成特別対策事業」を、12年度からは「飼料増産受託システム確立対策事業」となっています。
例えば、飼料収穫作業であれば1ha当たり1年目が2万7000円、2年目と3年目が1万7500円。1つの作業に対して3年間補助金が出ます。対象作業はこのほか、堆肥散布作業、耕起等作業、堆肥利用作業、稲藁収穫作業、草地更新作業、液状厩肥散布作業、TMR調製供給作業があり、16年度からは、堆肥処理・利用作業が新しく加わりました。これには、堆肥の切り返し作業、堆肥運搬作業、堆肥散布作業の3つがあり、これを別々でも、セットでも受けることができます。
コントラクターの機械導入に関する補助では「総合コントラクター育成対策事業」があります。この事業は1億6600万円の予算で、関係機関のソフト的な経費と、機械、施設の導入整備にも補助するものです。
霧島コントラクターは、平成18年「6条刈自走ハーベスター(ドイツ製)、高床式運搬車、ホイルローダー」の補助申請を出し5000万円が支給され、さらに翌年同規模の2セット目を申請、合わせて1億円の補助金が認可・支給されました。
これはハーベスターの車輪。身長155㎝の家内が小人に見えます。
田中操君は、恩師財部先生との約束通り(実はその前から)毎年クラス会を開催してくれています。主に故郷の残った学友が中心ですが、私が帰省するときは皆に声をかけて必ずクラス会を開いてくれます。
そして二次会は、全員で都城牟田町のカラオケスナックで歌いまくります。2次会で女性陣を返した後は、3次会、4次会で深夜2時3時になりますが・・そういう時でも操君は、一寝入りした後 5時起きで酪農が待っています。
(このクラス会の女性陣の中心的存在だった涼子さんは、残念ながら23年前に50歳で急逝しました。帰省するたびに操君と墓参りしています。)
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