令和6年4月28日「神に選ばれし人」 星野富弘さん旅立つ(合掌)
星野富弘さんは、体育教師としてスタートした僅か2か月後の1970年6月、マット運動で宙返りを失敗して頸椎損傷、首から下が全く機能しなくなりました。その危篤状態を乗り越え、全身不随の身で口に筆を加えて描き出される詩や花の絵画は、国内外の数知れない人々に生きる力を与え、逆境に悩み苦しむ人々が救われてきました。
星野富弘さんの旅立ちに接し私の6蔵書を纏めて紹介します。30数年前から愛読していますが感動は深まる一方で、名著たる由縁だと感じています。(著作権侵害もはなはだしい紹介ですが・・「富弘さんは、自分の思いが伝わり共感する人が増えることをきっと喜んでくれるはず」と信じています。
1.生きる力を与える珠玉の4冊
(1)「愛、深き淵より』1981年発刊
入院後の一番苦しく思い出したくない格闘の日々を「あれが丸裸の自分の原点だ」と包み隠さず吐露されています。(私も闘病生活が重なります)
(2)「風の旅」 1982発刊
星野さんの初めての詩画集。昭和45年勤務先の学校体育館での一瞬の悪夢の過酷な出来事。それから立ち直り、9年間の病院生活と実家に帰ってからの数年間苦闘した中で描かれた詩画で埋め尽くされ、星野さんの54年間に及ぶ制作制作活動の原点であることを感じます。ぜひ座右の書としたい貴重な詩画集です。
(3)『鈴の鳴る道』 1986年発刊
この詩画集は、星野さんが首から下の自由が奪われてから十数年の思いが、美しい花と心を打つ詩でつづられています。電動椅子で移動できるようになり、9年ぶりに自宅で生活を始めた星野さんは、最初デコボコ道は脳味噌がひっくり返るような振動で嫌いだったそうです。ところがある人からもらった鈴を車いすにぶら下げてデコボコ道を通った時、振動で鈴が「チリン」と心にしみるような澄んだ音色を鳴らしました。そしてこう思ったそうです。 「暗い気持ちで通っていたでこぼこ道も、小さな鈴がチリンとなっただけで幸せな気分になれる。人はみんな、この鈴のようなものを授かっているのではないか。私の心の中にも小さな鈴があると思う。その鈴が澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私はこれから行く先のでこぼこ道を、なるべく迂回しないように進もうと思う」
星野さんの詩画集を一冊求めるなら、私は「鈴の鳴る道」をお勧めします。
(4)『かぎりなくやさしい花々』 1986年発刊
かぎりなく優しい花々は、自由がきかない苦しみの中で生きる力を与えてくれた周囲の人々の事です。
小学生にも読めるように易しく書き下ろされ、幼少から怪我をするまでの元気な日々、そして入院生活でのお母さんの親身の介護、病院スタッフの暖かい支援、そして聖書の出会いと、妻となる渡辺さんの8年に渡るお見舞いと心の交流がつづられています。その中でもひときわ美しく咲いている花が、のちに奥さんとなる渡辺さんです。「心の虹、楽しみに待つ人」の章から渡辺さんが登場します。入院2年目頃でしょうか。
【午後、一人の女の人が訪ねてきました。前橋キリスト教会の牧師から、私の事を聴いて見舞いに来てくれたのです。渡辺さんは日曜教会に行き、土曜の会社勤めが終わった後に毎週来てくれるようになりました。普通は3カ月もすると足が遠のくのですが・・渡辺さんは毎週土曜同じ時刻に必ず病室を訪れ、私も母も、いつの間にか楽しみに待つようになりました。】
【聖母マリア様のような渡辺さん、ランの花と詩画が結んだ結婚】
【あるときランを育てている西尾さんが一本持ってきてくれました、あまりに美しいので、丁寧に描いていきました。出来上がった絵は自分でも驚くくらい美しくかけていました。土曜日にやってきた渡辺さんにランの絵を見せると、その驚きは大変なものでした。「そんなんで良かったら、渡辺さんにやるよ」
元々西尾さんに贈る予定だったランの絵は、あっという間に渡辺さんの手元に・・渡辺さんは、最初、机の前にセロテープで止めてみていたのですが、段々その絵が大切なものに思えてきてしまい、絵と私が同じように大切になってしまったのだそうです。】
続きはぜひ『かぎりなく美しい花々』をお読みください。
3.心を揺さぶる作品の紹介
➀「あじさい」(1981風の旅)
一生寝たきりで食事も排便なども自力ではできない星野さんを見舞い世話を続け、8年後についに結婚した「渡辺さん」 その天使のような奥様が「あなたが痛くないように結婚指輪はいらない」と言われています。それを感謝しながらじっと妻の指を見るだけしかできない星野さん・・何という優しさに満ちた夫婦愛!思いやりでしょう!
(翻って、自分はなんと情けないか・・胃癌手術後の再発不安でイライラしてばかりで・・そのころ3人の子育てと私の世話でテンテコ舞いの家内は「この詩が大好き」といってました・・)
➁「はなしょうぶ」(1978風の旅)
「黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜ綺麗に咲けるのだろう
私は大勢の人の愛の中にいて なぜ醜い事ばかり考えるのだろう」
まさに私自身で赤面するばかり・・この絵のエピソードを聴くと更に身につまされます。
【群馬大嶽病院の整形外科病棟には星野さんと同じ重度障害の患者ばかりで、その中にスキー大会で転倒して四肢が全くマヒした中学生の可愛いター坊がいました。
「こんな純真な小さな子供が、どうしてこんなつらい目にあうのか・・と、神に祈るような気持ちで回復を祈った」
ところがある日、ター坊の腕が少し動き、わずかながら足も動いた。やがて排泄感覚も戻り、食事も自分で出来るようになった。ター坊は見違えるように元気になり、あどけないユーモアで部屋中を笑わせた。ター坊は私を兄のように慕い、お見舞い品なども二人で分け合って食べた。しかし、そうしながらも私の中にどうしようもない寂しさが芽生えてきた。それは嫉妬であった。
「喜べ! ター坊の回復を心から喜べ。おまえはそんなみみっちい男ではない筈だ!」
私は叫ぶように自分に言い聞かせた。私は悲しい心をもって生まれたものだ。周囲の人が不幸になると自分は幸福だと思い、他人が幸福になると自分が不幸になってしまう。・・たった今、ター坊の回復を心から喜べる私になれたら、私の顔はどんなに明るくなるだろう】
➂「ぺんぺん草」(1979風の詩)
星野さんは、貧農の苦しい生活の中でお母さんの内職・仕送りで群馬大学の寮生活を送り、5年かけて漸く卒業、そして中学教師が始まって2か月目の悲劇でした。
息子のトンデモナイ大事故で一番ショックを受けたはずの母、そのお母さんの必死の看病でようやく首から上が動くようになり、お母さんの介添えで念願の文字や絵を描くようになります・・その息子の為にスケッチブックを持ち、絵筆に要求される絵の具をつけ・・この素晴らしい詩画の陰には限りないお母さんの愛があります。
その母親の苦労を思い「神様、一日でよいから腕を動かせるようにしてほしい。母の肩たたきをしてあげたいから・・」と思われる星野さん親子愛に胸打たれ涙します。
④「マムシグサ」(1980風の詩)
5月2日産経抄にこの詩画紹介がありました。
「マムシグサという気の毒な名の花がある。薄暗い茂みに生え、鎌首をもたげたような異形の容姿が、そのまま呼び名になった。詩画作家の星野富弘さんは子供の頃、「討伐隊」と称し、仲間と手当たり次第に花を切り倒したという。▼不気味な姿にも、きっと深い訳があるはず―。自省の念を込めて詩に詠んだのは、体に重い障害を負った後だった。▼事故で首から下の自由を失ったのは24歳のとき。9年に及ぶ入院生活の中、絵筆を口にくわえ、描いた花や草木の水彩画に詩を添えた。「神さま」の意思に触れたのもその頃だという。森羅万象には意味がある。自分が生きていることにも・・
ひとたたきで折れてしまう
かよわい茎だから
神さまはそこに毒蛇の模様をえがき
花をかまくびに似せて
折りに来る者の手より護っている
⑤「どくだみ」(1980風の詩)
この詩は9年間の病院生活から自宅に移り、近くに咲くドクダミを見て作られました。
「私はドクダミが嫌いでした。変なにおいがするし、どす黒い葉、ミミズのような赤い茎・・
でも私は車いすに乗るようになって大事な事を知りました。
元気だったころは、体の不自由な人を見れば可哀そうとか、気味が悪いと思っていましたが、自分が車いすに乗るようになって、体が不自由な自分を不幸だとも嫌だとも思わないのです。不自由な人を見てすぐに不幸だと決めつけていたのは、私の心の貧しさでした。だからドクダミを見たとき私は ”自分の貧しい心で花を見てはいけない” と思いました。その時からドクダミが美しく見えるようになったのです。」
お前を大切人で摘んでいく人がいた
臭いと言われ 嫌われ者のおまえだけど
道の隅で 歩く人の足許を見上げ
ひっそりと生きていた
いつかお前を必要とする人が
現れるのを待っていたかのように
おまえの花 白い十字架に似ていた
⑥「こきく」(1981風の詩)
この詩はイエス山上垂訓そのものです。きっと星野さんはイエスと同じ思いで人々に真の愛を伝え続けたのでしょう。
「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
(マタイによる福音5章1節‐12章)
⑦「タンポポ」(1980 風の詩)
「人間にどうしても必要なものはただ一つ。それは命でしょうか、愛する心でしょうか?」
富弘さんは、頼りなげに飛び立つタンポポの小さな綿毛の実に答えを示しています。富弘さんは、間違いなく神が現代に遣わされた救い人です。このタンポポの詩画は、現代の私たちに分かり易くイエスの「一粒の麦」の言葉を教えてくれます。
「一粒の麦死なずば、ただ一つにてあらん。 もし死なば、多くの実を結ぶべし」
(麦が自分一個にこだわって死ななければ、それはただの一粒の麦にすぎない。しかし、土の中で死ねば他の多くの実が生まれる)
この「はなきりん」は初期の作品です。恐らく不自由な体と心に、はなきりんの棘のようなものが沢山突き刺さり苦しんでおられたのでしょう。そして次の事に気付きます。
「そのはなきりんが、美しい花を咲かせる! はなきりんは、一つの茎から棘をつけ葉を出し花をつける。人間も同じだ。一つの身体で感じる苦しみも喜びも同じものなのだ。ならば気持ちを切り替えて、喜びの花を目指して生きよう!」
⑨ 「きく」(1977 風の詩)
お母さんへの感謝を込めた詩画、この絵の背景を知るとなおさら胸が熱くなります。
「半身不随になって1年半、やるせない思いで母に八つ当たりしていた。自分では食事できないくせに、母がスプーンで口元に運ぶスープがこぼれ、カッとなって積もり積もったイライラを母にぶっつけてしまった。口の中のご飯粒を母の顔に向けて吐き出し怒鳴った。
『チキショウ、もう食わねー くそばばあ』
散らかったご飯粒を集めながら母は泣いた。
『こんなに一生懸命やっているのに、クソババアと言われるんだから・・』
その後ハエがうるさく飛回り私の顔に止まった。母は右手でハエを叩こうと構えたが、そっと触るように私の顔に触れた。勿論ハエは逃げたが頬に母の湿った手のぬくもりが残った。
あれほど汚い言葉で罵ったので母は私を恨んでいたに違いない。しかし私の顔に付きまとうハエを見過ごせず叩こうとして叩けず、そっと捕まえようとした・・これが母なんだ、私を生んでくれたたった一人の母なんだ・・この母なしでは生きていけないだ・・その日から、止めていた絵を再び描き始めた。」
⑩ 「つるばら」(あなたのてのひら)
このツルバラの終わり句の『しかし あなたは、私が望んでいた何倍の事をして下さった』という言葉に、星野さんの78年間の凄い人生が凝縮されていると思います。
(11) 「ニセアカシア」(1981 鈴の鳴る道)
9年間の入院生活から懐かしい我が家に戻っても、自分の不自由な体の生活は全く変わりません。そういう限りない不安にさいなまれている星野さんを思いやり、一緒に暮らすことになった奥様は、さりげなくニセアカシアの花をかざり元気づけます。この奥様の優しさに気づき元気を取り戻すお二人の夫婦愛にホロリともらい泣きしました。
(12)「おだまき」(1986 鈴の鳴る道】
星野富弘さんの人生は「命よりも大切なもの」を私たちに教え続けた人生でした。心から感謝します。
・・「この詩の花に、星野さんはなぜオダマキを選ばれたのだろう?」と思います。ご自宅の周囲にひっそりと咲くオダマキを見て自然にそう感じられたのでしょうか。恐らく富弘さんの奥様の無償の尊い愛と「恋しい義経を偲び
源頼朝の前で刑死を覚悟して踊った静御前」とが重なったのではないでしょうか。
「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき」
「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」
(13) 「ザーカイ、急いで降りてきなさい」(1984 鈴の鳴る道)
この詩画は、迷える私たちにイエスが呼びかけているようです。 ザーカイは新約聖書に出てくる取税人です。最も卑しまれる仕事で、しかも不正に税を取り立てていたので人々に憎まれていました。それでもイエスの話を聴きたくてイチジク桑に登っているのを見たイエスは、「降りてきてここで話を聴きなさい」と席を作ったのです。悪人でも見捨てず優しく説くイエスに神の愛を感じたザーカイは、以後人々のために働く者となりました。
(14)「アケビの花」 (1985 鈴の鳴る道)
私もその場面にいたら、きっと逃げ出したでしょう。弱い自分の本性を見るようで身につまされます。
・・最後の晩餐で「この中に私を売る者がいる」とイエスが語った時に「私はそんなことはしない!」といぶかった12使徒
・・ゲッセマネの園でイエスが最後の祈りをささげる時「寝ないで私を待っていなさい」と言われたのにみんな寝てしまった12使徒
・・兵士が捕縛に来た時「私は先生と共にある」と誓ったのに全員逃げてしまった12使徒。 中でも高弟のペトロには 「おまえは鶏が鳴く前に三回私を知らないと言うだろう」と悲し気に予言され「そんなことはありません!」と断言しました。しかし捕縛にきた兵士に女が「この人もイエスと一緒にいた!」と訴えられると「私は知らない。人違いだ」と三回答えて、すぐに鶏が3回鳴いて朝を告げました。その時ペテロはイエスの言葉を思い出し、自分の情けなさに号泣しました・・
(15)「雪の重みに倒れた竹」 (1986 鈴の鳴る道)
この絵は、人々の罪を背負って十字架にかけられたイエスの犠牲を、星野さんの視点で私たちに教えてくれています。自然の営みの中に、神のみ恵、神のみ業を感じ取る星野さんの感性・表現に、改めて「神様に選ばれた人」という思いを強くします。
(16)「母子草」(1984 鈴の鳴る道)
食事も排便も寝返りすらも・・自分の力では、何ひとつできない。そんな息子を一日中世話してくれている「かあちゃん」・・本当は泣きたくなるくらい感謝している富弘さんの心が伝わってきます。
お母さんへの感謝でいっぱいの詩画です。お母さんのしわしわの手も、顔を洗ってもらったり歯を磨いたりと、優しく触られると真綿のように柔らかく暖かだったことでしょう。入院初期の頃の「きく」エピソードと重なるお母さんへの深い感謝が込められています。
(18)「よめな」 (1986 鈴の鳴る道)
首から下が完全にマヒして無感覚になってから、四六時中手足となり、愚痴のぶっつけ先になり、食事も排便も着替えも全てお世話になり・・詩画を始めた時から、一番協力し、絵が完成したら一番喜んでくれたお母さん
このお母さんなくば、星野さんの感動的な人生は生まれなかったに違いありません。
(19)「ねむの木」(花よりも小さく)
『うしろ向き』というエッセイがあります。
【・・思えば、私は小さい時から後ろ向きが好きだった。汽車に乗れば行く方向に背を向けて座り、去っていくものを見るのが好きだった。
「振り返ってはいけない」とか「前向きに生きろ」などとよく耳にするが、振り返ることなく生きられる人がいるだろうか。もちろん、振り返ってばかりいては前に進めないから程度にもよるが、それを罪悪のように考えるのは、毎日の生活を窮屈にしてしまうような気がする】
1946年 群馬県勢多郡東村に生る
1970年 群馬大学卒業 中学校教諭になるがクラブ活動の指導中頸髄損傷手足の自由を失う
1972年 口に筆をくわえ文や絵を書始める
1979年 前橋て最初の作品展
〃 退院
1981年 結婚
1982年 高崎て花の詩画展 以後全国各都市での誌画展は感動を呼び入場者は100万人以上
1991年 東村立冨弘美循館開館開設 ブラシル各都市てリトグラフ作品を中心に花の詩画展
1994年 ニューヨークて花の詩画展
1997年 ハワイて花の詩画展
1999年 東村立冨弘美術館の入舘者が300万人
<著 書>
愛、深き淵より。 (立風書房)
風の旅 (立風書房)
鈴の鳴る道 (偕成社)
かぎりなくやさしい花々 (偕成社)
銀色のあしあと・三浦綾子との対談 (いのちのことば社)
透さのちがう時計 (偕成社)
あなたの手のひら (偕成社)
私は35年前、40歳人間ドックで胃癌と診断され、すぐ胃全摘手術を受けましたが・・小腸が癒着し お粥でも腸閉塞を起こし入退院を1年間繰返しました。そういう半病人のときM室長から名古屋建設現場の単身赴任を指示され「とても無理です」と断ると「精神力が弱い。禅寺に行って修行したらどうだ」とお荷物扱されました。「一番苦しい時に鞭打つ、これが当社の家族主義か・・」と、私は人間不信に陥っていました。
丁度その頃、星野さんの詩画集『鈴の鳴る道』に出会い衝撃を受けました。逞しい青年が突然絶望的な境遇に陥る・・しかしお母さんの渾身的な介護、絶望の中でイエスの救い、天使のような「渡辺さん」と出会い結婚・・星野さんの苦悩と周囲の暖かい愛に自らの魂を清め高めていく様が克明に描かれていました。決してきれい事だけではない、星野さんの心の中の葛藤や嫉妬や反感、そういう醜い心への自己嫌悪、そこから湧き出てくる珠玉の言葉、それを口にくわえた絵筆に託して1カ月かけて制作される花の絵・・「そういう心の変遷が一枚一枚に込められているから万人の心に響くのだ! 私も星野さんのように、周囲に振り回されず自分の道を真直ぐに歩こう!」 と勇気づけられました。
<私の腸閉塞は再手術で完治。ちょうど北海道で1,500億円規模の大PJ工事があり、かの上司の顔を見たくない私は、人事発令なしにPJに飛込み大歓迎を受けました。そして最新技術を取入れながら数十億円のコスト削減を実現し、T社長は「生涯賃金を十回分稼いでくれた」と評価、リベンジを果たしました。ただ生活給の会社ゆえボーナス加増はありませんでしたが・・笑>
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