2024年10月6日日曜日

1-11. 古事記物語11「神武天皇東征」

   弥生時代後期、全国で各部族間の農地をめぐる戦乱が続いていました。神武天皇は兄の五瀬命と相談して「争いのない平和な国に統一できないか」と出立、国々の王と話合い平和的に統合していきました。しかし最後の登美の長髄彦だけは強大な武力で立向ってきたので大変な苦戦をされました。そしてこれを平定し、橿原の地を「みやこ」=御、=屋根、=庫・・民の飢饉に備えて大きな備蓄米倉庫のあるところ)と定めて即位され、次の詔を述べられました。

『これからは天照大神の御心に沿うように、大和の国のいしずえをしっかり築き、お互いに豊かな心を養おう。人々(おおみたから)がみな幸せに仲良く暮らせるように努めよう。天地四方、八紘にすむもの全てが、一つ屋根の下の大家族のように暮らそう。それは何と楽しく嬉しい事ではないか。」

このように建国の理念は、「八紘為宇=一つ屋根の下の大家族のように仲良く暮らせる和の国を実現すること」でした。 西欧や大陸では、王や皇帝や独裁者は、国民を支配し弾圧し搾取する関係で、日本の「天皇を中心に民が家族のように」という国家は世界に存在せず、極めて特異な国の形です。

 それでは神武天皇の話を進めましょう。


 鵜葺草不合命と玉依姫から生まれた長男の五瀬命、と神倭磐彦命(のちの神武天皇)は、日向の国の高千穂の宮で国を治めていましたが、やがて互いにこう相談し合いました。「この日向の国は、あまりに端の方に片寄っている。世の中を安らかに治めるには、もっと東の方に移した方がよさそうだ」



 そこで早速この考えを実行するために、日向の美々津港から出航されました。

 その途中、豊国(大分)宇佐の地で、宇沙都彦、宇沙都姫の兄妹が新たな宮殿を作り御馳走でもてなしました。そして筑紫の国の岡田の宮殿に行き、そこで1年ほど滞在、さらに安芸(広島)の多祁理の宮殿に7年ほど滞在、さらに東にのぼって吉備(岡山)の高島の宮殿に8年滞在しました。

 その国からは船に乗り、さらに東の海へと旅をつづけました。その途中、潮の流れのはやい速吸門で、宇豆彦という土地の神が 亀の甲にまたがり進んできて一行に加わりました。こうして東へ進み、やがて船は波の荒い浪速の海を横切り、波穏やかな白肩の港に着きました。



 ここまでは順調だったのですが、このとき登美の土地に住む長髄彦(ながすねひこ)が、軍隊を引き連れ、船をめがけて戦いを挑んできました。そこで一行は船の中に用意していた楯を取り、岸辺に降りて防ぎました。それゆえに ここを今でも「日下の楯津」といいます。

 この戦いが たけなわのころ、長髄彦の放った矢が運悪く、兄の五瀬命の手に突き刺さり重い傷を負いました。そこで五瀬命は言いました。「私は日の御子なのだから、敵を太陽の出る方向に置いて戦うのは良くないことなのだ。だからこそ卑しい長髄彦ごときの者から傷を受けたのだ。これから敵の後ろに回り、太陽を背なかにして敵軍をうってやろう。」 こういう誓いを立てて、船で南の方へ遠回りをしました。そのあたりの沼で傷口を洗いましたので、ここを血沼と言います。しかし傷はさらに重くなるばかりで、ようやく紀伊(和歌山)の男之水門まで行きついたときに「卑しい奴の為に手傷を受けて、今は死ななければならないのか!」と大声で叫び、とうとう息絶えてしまいました。 

兄を失った神倭磐彦命は、悲しむひまもなく、軍隊を引き連れて東へと回り熊野の村へつきました。そのとき大きな熊がちらっと姿を見せて消え失せました。この熊は、熊野山に住む威力のある神で、その毒気にあたった神倭磐彦命は、あっという間に気を失い、お供の兵卒たちも、たちまち死んだようになってしまいました。

まったく危ないところでしたが、そこに高倉下(たかくらじ)が、神倭磐彦命の寝ているところへ一振りの剣を持ってきて捧げました。すると剣の霊力で、御子はじきに正気に戻りました。そして高倉下の持ってきた剣を受け取ると、熊野山の威力ある神は剣を使わないうちになぎ倒されてしまいました。また眠りこけていた兵卒たちも起き上がりました。 不思議な力の剣なので、神倭磐彦命がその剣を手に入れたいきさつを聴かれると、高倉下は次のようにこたえました。



「私は不思議な夢を見ました。天照大神と高御産巣日神の二柱の神は、建御雷神を呼んで『葦原中つ国(日本)はとても騒がしく、私の子どもも苦しんでいるようだ。葦原中つ国は、そもそもお前が説得して平定した国だから、建御雷神よ、あなたが降っていきなさい』。すると建御雷神はこう答えました。

『私が降りていかなくとも、その国を平らげた刀がありますので、その太刀を降ろすべきでしょう。その方法は、高倉下の倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れるのが良いでしょう』。こういうと今度は私に『朝に縁起よく目が覚めたら、あなたが取り持って日の御子に献上しなさい』と仰せになりました。私は夢の教えのままに、朝になって自分の倉を見てみると本当に太刀があったのです。それでこの太刀を献上しました」この太刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)、またの名を布都御魂といい、奈良県天理市の石上神宮に鎮座しています。

 高倉下の霊剣献上で神倭磐彦命は一難を逃れましたが、高御産巣日神は加えて仰せになりました。「日の御子よ、ここから奥は荒ぶる神がとても沢山いますので、直ぐにお出ましになってはなりません。天より八咫烏を遣わします。その八咫烏の導きに従って進むと良いでしょう。」



 そこで日の御子は、その教え通りに八咫烏の後について進まれると、吉野河野川尻につきました。そこで魚を取っていた贄持之子(にえもつのこ)を従えました。これは阿陀の鵜養の祖となります。さらに進むと井戸から尾の生えた井氷鹿が出てきて従いました。これは吉野首(よしのおびと)らの祖です。さらに山の中に入ると岩を押し分けて石押分之子(いわおしわくのこ)が出て従いました。これは吉野の国巣の祖です。



 その地よりさらに進み、兄宇迦斯(あにうかし)と弟宇迦斯がいる宇陀に進みました。そこで八咫烏を遣わし、日の御子に仕えるように尋ねました。ところが兄宇迦斯が鳴鏑矢を射て八咫烏を追い返しました。二人の兄弟は、日の御子を待ち受けて撃とうと兵士を集めましたが、十分な兵が集まらず「仕え奉ります」と偽りを伝え、大きな御殿の中に押機(踏むと打たれて圧死する罠)を作って待ちました。

 すると弟宇迦斯は一人で日の御子を出迎え、「私の兄は、日の御子の使いを射返し、御子を待ち受けて攻める為に軍を集めましたが集まらず、御殿を作りその  中に押機を仕掛けています。ですから私は出迎えて兄の企てを白状しました」と告白しました。そこで大伴連の祖の道臣下命と、久米直等の祖の大久米命の二人が、兄宇迦斯を呼び「御殿の中には、お前がまず入り、どのように仕えるか明らかにしろ!」と太刀の柄を握り、矛を向け弓に矢をつがえて兄宇迦斯を御殿の中に追いやったため、兄宇迦斯は自分の作った押機に打たれて死にました。弟宇迦斯は服従し、宇陀水取らの祖となりました。

 饒速日命がやってきて帰順しました。饒速日命は長髄彦に属していましたが「神磐余彦尊にお仕えするように」と進言しましたが、改める気持ちのないことを知りやむなく長髄彦を誅し、神磐余彦尊のもとに、息子の可美真手命と帰順したものです。そして「私はこの大和に住んでいる者です。天神の御子が、天から下られたことを知り、参りました」と自らもまた天神の御子である印の天羽々矢と歩靱をお見せし「磐余彦尊の家来としてお仕えします」と誓いました。饒速日命の子の宇麻志麻遅命は、物部氏、穂積氏、の祖となりました。



 このように日の御子である神倭磐彦命は、荒ぶる神を説得して平定し、従わぬ者たちを追い払って、畝火(奈良県橿原町畝火)の橿原宮で天下をお治めになりました。



 これにより神倭磐彦命は長い東征を終えて初代天皇に即位されました。神倭磐彦命はのちに神武天皇と呼ばれるようになりました。

(掲載した絵は、橿原神宮の「神武天皇御一代御絵巻」より)




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