皇居の東側、気象庁前のお堀端に和気清麻呂の銅像があります。日本歴史上勲一等の功臣ですが、道行く人は関心もなく通り過ぎます。
歴史上、あまたの英雄豪傑偉人がいる中で、皇居周辺に銅像が建っているのは、西の楠木正成と、東の和気清麻呂の二人だけです。貴族文官からひとり。和気清麻呂は戦後、歴史からまったく消されてしまった人物ですが、戦前戦中の日本人なら学歴・居住地に関わりなく、誰でも知っていた人物です。ところがいまでは東大を卒業していても和気清麻呂を知らない。これはたいへんなことです。
和気清麻呂といえば、道鏡が天皇の地位を狙ったときに、これに抗し、天朝を守り、そのため別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前に改名させられた挙句、大隅国(鹿児島県)に流罪となり、後に赦されてからは、広大な土木工事を行って民の暮らしの安寧を測り、また現在の京都である平安京への遷都を進言し、その造営を図った我が国の歴史上の大人物です。
和気清麻呂は、約1350年前の奈良時代末期に『皇室を貴ぶ日本の在り方』を守り救いました。この人がいなかったら間違いなく皇室は途絶え『焚書坑儒』で古事記も 日本書記も抹殺され、日本の歴史は塗り替えられていたことでしょう。日本人なら決して忘れてはならない大偉人です。
奈良時代から戦前まで千年以上、日本歴史上の最重要人物の一人として尊崇され、戦前の歴史教科書では『和気清麻呂、道鏡事件』 は大きく取り上げられ、明治23年~昭和14年まで50年間 十円紙幣(今の1万円紙幣に相当)に肖像画が使われていました。しかし敗戦・GHQの歴史改竄指令により、和気清麻呂や楠木正成などの日本にとって重要な歴史的偉人は記述が禁止され、日本人の記憶から消去されました。
日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で名実ともに独立を取戻しましたが、独立したはずの私達 日本人は70年以上も『強制された間違った歴史・消去された歴史』をそのままにしています。日本の歴史的重要人物を 『和気清麻呂って誰? 何をした人?』 と全く忘れ去っていること何とも情けなく、先祖から『それで日本人と言えるのか、何という体たらくだ!』とお叱りを受けるのではないでしょうか?
和気清麻呂と言えば『道鏡事件』です。
神武天皇以来 守られてきた『男系で継承されてきた万世一系の皇統』が、悪徳僧侶の道鏡が天皇になろうとして 天皇家が消滅する寸前になった事件です。それまで幼少皇太子の繋ぎとして女性天皇は数例ありましたが、何れも世の中が乱れ、更に道鏡事件以降『例えピンチヒッターでも女帝は危ない』という認識が決定的となり、約900年女帝はでていません。 例外的に江戸時代2名出ていますが、明治維新の皇室典範で 『男系男子に限る』 と明文化されました。
第45代聖武天皇は、治政下の25年間
災害や天然痘が多発し、その平癒のために、奈良東大寺や全国 に国分寺を建立し、仏教を基幹とした政治を確立しました。その聖武天皇には男子が育たず、31歳の娘を 次の男系天皇が成人になるまでの繋ぎとして譲位させました。(孝謙天皇=当時の女帝は全て独身。未婚か未亡人) その孝謙女帝の病気を祈祷で治したとして道鏡は寵愛を得て政界に進出。病の為上皇となっていた女帝は764年に道鏡を引き立てるために重祚(再登板47歳)して称徳天皇となり、道鏡を僧侶でありながら臣下として最高の地位である太政大臣とし、766年には法王の称号と天皇と同格の権力を与えました。
そして名実ともに天皇になろうとした道鏡は、宇佐八幡宮と結託し『道鏡を皇位につければ天下は平定されるという信託が出た』と称徳天皇に上奏しました。・・さすがに称徳天皇は勝手に譲位できず、神勅を再度確認するために側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を派遣しようとしましたが、法均尼は 『私は虚弱で長旅は堪えられないため、代わりに弟を派遣してください』 と推挙し、和気清麻呂が宇佐八幡宮へ赴き神託を確認する事になりました。
道鏡と結託した神官は再度 『道鏡を天皇にすべし』 が神託だと伝えましたが、清麻呂はこれを道鏡の陰謀であると見抜き、直接大神に顕現を願うと『臣が君になること未だなく、道鏡はよろしく除くべし』の神託がありました。帰京してこの信託を報告すると、女帝と道鏡は激怒しますが、公式派遣の神託ですので受け入れざるを得ませんでした。(女帝と道鏡には寵臣以上関係があったと伝えられます。)
女帝と道鏡は野望をくじかれて激怒し、和気清麻呂を 『別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)』と改名させ、大隅国(鹿児島)へ流罪とし、配流の途中に殺害しようと刺客を放ちます。しかしイノシシが300頭も現れ清麻呂を守り殺害は失敗します。(イノシシと伝えられていますが、女帝と道鏡の醜聞まみれの専横に危機感を抱いていた清麻呂の支持者300人が守ったとみるべきでしょう。)
770年に称徳天皇が崩御すると道鏡は後ろ盾を亡くして失脚、下向先の下野で2年後に没しました。 清麻呂は直ぐに京に呼び戻されて復権、 光仁・桓武天皇に深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍して、796年には従三位に叙せられ公卿の地位についています。
約1100年後の嘉永4年(1851年)、幕末期の孝明天皇は、和気清麻呂を「天皇家を守った勤王の臣」と称え、正一位および 「護王大明神」 の神号を授与し、京都御所西に護王神社が建立されました。
和気清麻呂の流罪先は長年不明でしたが、幕末期に島津斉彬が調査して確定し、記念の松を植えました。そして昭和21年(1946年)にその地に和気神社(鹿児島県霧島市牧園町)が建てられました。
また岡山県和気郡和気町には、和気氏の氏神として鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祀られ、1591に社殿が大雨で流されたため現在地に遷座し、和気清麻呂公、姉の和気広虫姫を祭神に加えています。
皇居前の和気清麻呂像、京都・岡山・鹿児島の和気神社の近くにいく機会があったら是非お参りして、日本を救った偉人としてこれからも大事に語り伝えていきたいものです。
最近、こういう日本の大事な歴史事実が軽視され、歴史教科書にも記載されず、殆どの国民が知る機会もなく忘れ去っています。
そういう中で、女性天皇や女系天皇の是非が無責任に論議されたりしています。そういうとき道鏡事件を思い起こす必要があります。・・神武天皇以来守り続けてこられた天皇家の譲位に際しての『男系男子に限る』という定め・伝統を無視した議論は、誠に恐れ多く無責任なことです。
また、秋篠宮家、真子様は、道鏡事件の教訓、皇室の在り方(一般国民との違い)を どう考えておられるのか、とても気になるところです。
「滅亡する民族の3つの共通点」 :歴史学者 アーノルド・J・トインビー
➀国の歴史を忘れた民族は滅びる
②全ての価値を物やお金に置き換え 心の価値を見失った民族は滅びる
③理想を失った民族は滅びる
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