2024年10月6日日曜日

1-11. 古事記物語14「仁徳天皇」

 歴代天皇が模範にした「仁徳天皇」

  (令和書籍出版「国史教科書」P63コラムより)

 第16代仁徳天皇の治世では、大阪平野の開発が進められ治水工事が行われました。これは日本史上最初の大規工事とされています。これにより農業生産量が格段に高まりました。現在、淀川下流の両岸には堤防はありますが、これはこの時に整備が始まったものです。

 日本の歴史上、仁徳天皇は「聖帝」(ひじりのみかど)と讃えられてきました。それは具体的な事跡もさることながら、民を思う気持ちの強さを民が熟知しており、いつも感謝し敬慕していたからです。民に苦労を掛けないために、仁徳天皇の宮殿は質素で飾り気もなく、屋根をふいた茅を切り揃えることもしなかったそうです。 「古事記」「日本書記」には「民のかまど」の逸話が収録されています。

1.民のかまど

 仁徳天皇治世四年の春、天皇が高台から遠くをご覧になった時に、人家から煙が立っていないことにお気づきになりました。民が貧しいから竈の煙も立ち上らないのではないかと、ご心配になった天皇は「五穀が実らず、民は困窮しているのだろう。都ですらこの様子であるから、地方はもっと困窮しているに違いない」とお嘆きになり、「今から三年、全ての課税と役務をやめて、民の苦しみを和らげよ」と詔を発せられました。

 その日以来、宮中ではすべてが徹底的に倹約されることになりました。衣服と靴は擦りきれて破れるまで新調せず、食べ物は腐るまで捨てず、宮殿の垣が破れても補修せず、屋根の茅が外れても葺き替えず、雨のたびに雨漏りして衣を濡らし、また天井から星が見えるほどの有様だったそうです。


 こうした仁政で、三年の後には民の生活は豊かになりました。天皇が高台にお上りになると、しきりに炊煙が立ち上っているのが見えたのです。このとき天皇は皇后に次のように仰せになりました。

 「天が君主(天皇)を立てるのは民のためであり、君にとって民は根本である。だから民が一人でも飢えるのならば、君は自らを責めなくてはならない」

 その頃、諸国の民が、自分たちは豊かになったので、税を納めて宮殿を直さなくては天罰が当たるといって、税を納めようとしましたが、天皇はこれをお許しになりませんでした。 それから更に三年が経過して治世十年の秋、天皇はようやく課役を命ぜられました。すると民たちは、誰から催促されることもなく、昼夜を問わずに力を出し合い、あっという間に新しい宮殿を建てたのでした。民もまた報恩感謝の心を忘れなかったのです。

以来、仁徳天皇は「聖帝」と讃えられ、歴代天皇が規範とすべき天皇とされてきました。そしてその聖徳は、1700年経った現在の皇室にも受け継がれています。 

2.新田開発で豊かになった民、古墳について 

「美しき日本人達 ”仁徳天皇”」より (小名木善行:著)

当時の税はお米です。税が納められるようになって数年がたった時、豊作も手伝って都の備蓄米倉も満杯になりました。すると仁徳天皇は、さらに今の大阪府堺市のあたりの湿地帯を田圃にすることをご提案になり、朝廷は民に命じて新田開発を行いました。こうして今の大阪から堺までのあたり一帯が広大な水田地帯となりました。こうして水田開発は全国に広げられました。

冷蔵庫のなかった時代に、唯一年単位の備蓄ができる食料はお米だけです。それまでの日本は、台風、地震、火山噴火、干ばつなどにより、周期的な飢饉に悩まされてきました。しかし仁徳天皇が着手された新田開発により、日本は食料に事欠かない、天然の災害がいつ起きても十分な食料の備蓄がある豊かな国になりました。

日本は元々海洋国家です。豊かになった日本の状況は諸外国の知るところとなりました。そして遠くは「三国志」に登場する呉の国までもが仁徳天皇の御徳を慕って朝貢するようになりました。

 ある時、仁徳天皇が堺のあたりの新田視察に行幸され、そこにある盛土を見て「ここを我が墳墓にしたい」と仰せになりました。田圃をつくる為に土地を開拓すると大量の残土が発生します。その残土が丁寧に盛土されていたのです。盛土は、ただ残土を積み上げるだけでは、大雨が降ると崩れて、周囲の田圃が土砂災害になってしまいます。ですから石と土と砂を組み合わせて、ちゃんと計画的に、崩れないように工夫して盛り土しなければなりません。

 そして開拓地が広大であれば、そのぶん盛土も大きくなります。そこで周囲にお濠を巡らせることで、盛土が万一崩れても、周囲の田圃が土砂で埋まらないように工夫されます。こうして田圃となった平地に盛土が築かれると、その周辺一帯の開拓の中心となった人が、盛土の中に埋葬されるのが習わしとなりました。「あなた様のお陰で、こうして広大な土地が拓かれ、みんなが安心して食べていけるようになりました。これからも未来永劫、ワシらの田圃を守っていてくださいね」という訳です。


 古墳はこうして作られはじめ、水田開発が大規模になるにつれ、 古墳も大型化し、仁徳天皇の御陵が最大規模となりました。この古墳時代は400年間続き、全国で16万基の古墳が作られました。そして六世紀の終わりころには、ピタリと新たな古墳は作られなくなりました。当然です。水田の開発が進めば、田と一緒に水路が開かれます。水路ができると残土は船で運び出し、河川の堤防工事の為に用いられるようになったからです。

戦後、この古墳について「天皇や貴族たちが、自分の権力誇示の為に古墳の大きさで示そうとした、世界に類例のない施設である」などと根拠のない嘘の学者見解が喧伝されるようになりました。土木工事を見たり携わったことのない不見識な人たちの戯言だと思います。
 古墳を築かなくても、日本には平野部のすぐわきに大きな山や高台はいくらでもあります。わざわざ人力で築く必要はありません。もし彼らの学説通り「天皇や貴族が、自分の権力誇示の為に古墳の大きさで示そうと強制労働させた」のなら、すぐに古墳は荒らされ、約2000年もの間大事にされる訳がありません。
(嘘とわかる学説を平気で主張する学者や、天皇や日本を貶めたい人々が沢山いるので、だまされないように要注意です)

 仁徳天皇の御陵は世界一の面積の墳墓で「前方部墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m」と巨大です。近年、ゼネコンの大林組が、当時の工法で仁徳天皇陵を築造した場合の試算を行っています。それによると『総工期:15年8か月、総作業員数:681万人、総工費796億円(1985年の貨幣価値換算)』でした。600万人以上の人が15年以上工事だけを続けなければならないのです。当時の人口は、日本全体で4~500万人です。日本の人口よりも多い人が、一切の食糧生産もしないで、工事だけを15年間も続けたら、いくら食料の備蓄があったとしても、御陵ができるよりも前に、日本国民全員が餓死してしまいます。



 仁徳天皇陵は、前方後円墳と言われますが、よく見ると方形のところは長方形ではなく台形であり、円形部と方形部の接合部位の両側には、取手のような張り出しがあります。これは食料を蓄えるのに使っていた「マナの壺」と同じ形です。お米の増産の為に土地を開拓し、その土地を護るために盛り土を墳墓とし、そしてその古墳の形は「マナの壺」の形にしたのです。

 どこまでも民の生活の安寧と、どんな天災が襲っても、いつまでも常に豊かに安心して食べていくことができるようにと、大御心を配られた仁徳天皇のお人柄がしのばれる形となっています。

 

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