産経新聞の日曜第1面に掲載される「日曜コラム」を愛読しています。
さだまさしさんと私達夫婦は同世代、グレープ時代の「精霊流し」や「無縁坂」からの大ファンです。8月18日「ああ、日本の8月よ」のさださんのコラムに深く共鳴してコメントを送ったところ、なんと丁寧な返信が届きました。その謙虚で優しい丁寧な文面に、私達夫婦は増々さださんの大ファンになりました。
そのさださんの「日曜コラム」は、私のスクラップブックにとどめておくのは、あまりに勿体ないので、私のブログ・FB友に紹介するものです。共感の輪が広がることを期待します。【さだまさしさんの返信】
心のこもったメッセージと、長年私の仕事をフォローしてくださり、本当にありがとうございます。あなたと奥様がグレープの時代からファンだったと知り、本当に光栄です。「ああ、日本の8月」コラムに対するあなたの思慮深い考察に感謝します。教育と歴史は確かに重要であり、教えられていることが完全で誠実な視点を反映していることを確認することが重要です。教育改革へのあなたの情熱と、歴史教科書の比較をまとめるために時間を割いてくださったことに感謝します。機会があれば、あなたが提供してくれたリンクを必ず見ます。この重要な問題に前向きな影響を与えようと取り組んでいる人がいることを知って、励みになります。あなたのサポートとあなたの洞察を共有してくださったことに改めて感謝します。
R6.8.18
『ああ、日本の8月よ』・・原爆投下の日に思う
「日本人は1年の内、8月だけしか平和について考えない」と皮肉を言われる。確かにテレビ番組を見ていれば成る程と思う。普段は現実逃避のように温度の低い笑いで埋め尽くしているくせに、原爆忌や終戦の日になると突然、真顔で反省やらお詫びやらを口にする。これでは建前にしか見えないだろう。
被爆地生まれとしては、せめて広島の8月6日、長崎の8月9日だけは知っていて欲しい。僕は原爆投下から6年8か月後に長崎で生まれた。当時市内の新生児は全員、「検査すれども治療せず」で悪名高いABCC(原爆生涯調査委員会)で検査された。結果は何でもなかったが、僕の背中のアザが原因で、母は僕を連れて3度通ったという。
子供の頃、原爆の爪痕はまだまだ町中に残っていたし、大好きな叔母や叔父が被爆者だったので、原爆を落とした国が今は日本を守っているという理屈が全く理解できなかった。
子供の正義感は正直なもので、外国に自分の国を守ってもらうという矛盾を呑み込めなかったのだが、これは今でもだ。いや、もう子供ではないのだから事情は嫌になるほどわかっている。なにも今更急に米軍を追い出せだの、自主独立などとは恥ずかしくて言えない。その辺の心はほぼ折れた。日本国首都の制空権の一部を米軍が握っていることは大いに遺憾であるが、正論が通らない事情も理解している。
ああ大人になるってやだね。一般人でも悩むのだから世界も相手にせにゃならん国政政治家は大変だろう。日米安保条約における地位協定一つ触るのが怖いという肩身の狭い哀れな事情は大いに同情するが情けない。しかも経済経済とお金のお話ばかりするから、国民の心根はずんずん卑しくなる。
政治に求めるものは銭勘定だけではない筈。罪を犯してもお金が欲しいなどと、若者の心がお金に対して曲がって育つのも、肉親が殺し合う悲惨な社会も、家庭教育を含めた教育の貧しさの証明ではないのか。もっとも親となる人をきちんと教育できなければ家庭教育もへったくれもないが・・
国の100年後を思うのであれば、最も大切なものは教育であるべきだろう。次が外交・安全保障で、経済は3番目だと思う。目先の政局ばかりに汲々としているから、日本が既に2等国以下になり下がったことにも、この凋落が始まったのも
取り戻せるのも、全ては人々の「心」からだ、という事にも気付かないのだろう。
100年後の日本を明確に示し、夢を語ってくれる人が指導者になってくれるまで、この生命はとても持たんなぁ。ああ愛しき日本の8月よ。
R6.10.20 「勧善懲悪の心はいずこ」・・優しさが薄れた日本人
日本人はもう少し優しい人たちだったのでは?と近頃思う。
いやおまえの勘違いだ、元々こんなものだよ、とおっしゃるのも分からないではないけれど、僕はこの国の人々が本来はとても親切な人達であることを信じたいのだ。
だが近頃は日本人の情が薄れたようだ。他人への慮りや温かさ、いわゆる本当の意味での「もてなし」の心を感じることが減った。「サービス」という言葉の原点には主従関係があるけれども、「もてなし」は相互平等の親切からくるものだから、むしろそこに作為が介入したら「もてなし」の心は死ぬ。
この日本人らしい思いやりが、もはや瀕死に追い込まれつつある理由は、おそらく無意識の卑しい「利益計算」だろう。無意識だけに隠すことができない。心根に「これで幾ら儲かるのか」という計算があると人は必ず醜くなる。これが罪悪感の変質につながる。実は前回申し上げたかった教育の『肝』がここだ。
僕はテレビが好きなのでテレビの悪口は言いたくはないが、放送関係者の矜持から「視聴覚教育」という言葉が綺麗さっぱり消え失せたころから、なにやら日本人の価値観はおかしくなった。昔のPTAは子育てに必死で、パンチラで話題になった「ハレンチ学園」に対して、一部から失笑を買っても放送禁止の声をあげた。暴力や性描写に関して真面目で神経質だったが、いまどきはほぼ無関心で、もはや教育放棄だ。
心を育てるのはとても難しい。大人になっても自分自身の心を育てることが一番難しい。だからメディアはそういう者を育てるきっかけになるようなものを伝えること、受け手はそこから感じて反応することがお互いの成長につながる。勿論素晴らしい番組はあるけれども、なかなか出会わなくなった。
面白くないので、実は専ら時代劇だけ観ている。そういうと若い友人から「時代劇の何が面白いのですか?」と聴かれるけれども、まあ一種の現実逃避だ。だが時代劇には、今どきの番組にはないものが常にある。それは『勧善懲悪』の心だ。悪は滅び禅は栄える。そうでなくては世の中、味気ないだろう、というのが時代劇の矜持だ。だからどれ程つまらない時代劇でも安心して観られる。
もしや今の日本人の心に圧倒的に不足しているのは時代劇であり、この『勧善懲悪』の心ではないかとすら思う。「悪は滅ぶ」「善は栄える」これが当たり前でなくなったのでは、世の中がおかしくなる筈だ。私は桃太郎侍に斬られる側なのか、救われる側なのか、そう思いながら己の行いを顧みると結構怖い。ああ、今こそ本当の正義の味方よ出でよ。
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