2015年12月 国連総会で、日本発議の『11月5日を世界津波の日に』が全会一致可決しました。
安政元年(1854年)11月5日の安政南海地震・大津波から全村民の命を救った和歌山の浜口儀兵衛の『稲むらの火』に基づきます。 ・・当時の安倍首相の強い思い=「津波防災意識を世界で共有したい。それは多くの人命が奪われた”鎮魂の日”(3月11日)”ではなく、多くの人命が救われた成功例の日であってほしい』という願いが込められています。
『稲むらの火』 は、小泉八雲が1896年に英語で “A Living God”(生き神様) として世界に紹介、多くの人々が感動し、数か国の教科書に載り『津波』が国際語となりました。 しかし風化とは恐ろしいもので、肝心の日本人がこの大事な話を全く忘れ去っています。そこで安倍元首相は各自治体や学校で活用しやすいように、内閣府から「紙芝居」の形で提示し、広報・周知徹底・継承を促しました。
【 稲むらの火 】 (紙芝居:内閣府)
➀それは、江戸時代の末のこと、11月のはじめ、ある日の夕方でした。和歌山の広村では、秋の取入れが終わり、田んぼには、いくつもの稲わらが並んでいました。「米がたくさんとれたし、いいわらも残ったし、ありがたい ありがたい」 村人たちは、こういって喜びました。刈り取った後の稲のわらは、大切な使い道があって、束にして高く積み上げておきます。これが「いなむら」です。そして村人たちは、そろそろ冬の準備に取り掛かっていました。
そのとき「ごーっ!」という大きな地響きが起りました。
➁地鳴りがして、大地が、家が大きく揺れ動いたのです。
「おおっ!地震だ!大地震だ!」
村人たちは、家の外に飛び出しました。
「キャーッ!」「こわい!」子供たちは親にしがみ付きました。
壁が崩れ、傾いた家から煙のように、誇りが舞い上がりました。
③広村を収める庄屋として、村人に慕われている浜口儀兵衛も、家族と一緒に外に出ました。
「我が家は大丈夫だが、村人たちは無事だろうか・・」
空には黒い雲と白い雲とが、怪しく入まじって広がり、遠くの雲を切り裂くように、鋭い光が走りました。しかも、その遠い海の向こうから、
ドドン、ドドン、ドドン
大砲が轟くような音が聴こえて来たのでした。
「これは、恐ろしい事になる・・」 儀兵衛は家族に 「いますぐ、丘の上、一本松から広八幡神社の方に避難しなさい!」 と命じて、自分は家の中に入りました。
➃「なにをなさるのですか?」と妻が問います。
「津波だ。間もなく津波がおしよせてくる。村中に危険を知らせて歩く間はない。田んぼのいなむらに火をつけて、合図するのだ。」
⑤儀兵衛は走りました。いなむらのひとつに火をつけます。良く乾いているいなむらは、ぼっと燃え上がりました。次から次へ、次の田んぼへ
「みんな早く集まって来いよ。そして丘の上に避難するのだ!」
⑥「庄屋様のところが火事だぞ!」
「庄屋様に何かあったら大変だ。」
「それっ、火を消しに行け!」
村人たちが、すぐさま集まってきました。こんな時は、村中ひとり残らず、火消しに加わることになっていたのです。
「庄屋さまー!」
⑦真っ先にやってきた若者たちが、火を消そうとすると儀兵衛が押しとどめました。
「津波だ!いなむらの火を消すな!」
「庄屋さま、どうしてですか?」
「津波だ。津波が来る。村のみんなが集まってきたかどうか、確かめるのだ。そして一本松から広八幡神社の方へ、みんなを避難させるのだ。」
「はい、庄屋さま」
こうして村人たちが高いところに避難した時、
「あれをみよ!」
⑧儀兵衛が海の向こうを指さしました。
「なんだろう?」
村人たちは、恐ろしいものを見ました。まさに、暗くなりかけた沖の海に、長く黒い帯が広がり、こちらにぐんぐん迫ってきます。
どどどどっん!
「津波だ!」 「津波が来る!」
ぐぉおーん!
⑨人々は、思わず身震いしました。
海辺の村が、水煙と共に、津波に襲われたのです。村の全てのものが、さかまく波に飲み込まれ、姿を失っていきました。
「津波が来ることを知らず、つい先まで、あそこのいたのだ。」村人たちは気付きました。
「おう、おそろしい事だ。」 時をおいて、津波は二度、三度と襲ってきました。
⑩村人たちは、ずらりと儀兵衛のまえにひざまずいて頭を下げました。
「おかげさまで、いのちがたすかりました。」
「庄屋さま、ありがとうございます。」 儀兵衛はうなずきながら言いました。
「浜口の家には、大地震の後には津波が来るという言い伝えがあってな。とっさにそれを思い起こした。ご先祖様の言葉のおかげだ。」
⑪儀兵衛は若者たちをひきつれて隣町に行き、貯えた米を借りてきました。そして、おかみさんたちが米を炊き、にぎり飯を作りました。
「さあこれを食べて元気を出しなさい。」儀兵衛が先頭にたって、みんなに配って歩きました。
⑫やがて余震が続く中、荒れ果てた村に、幾つもの仮小屋が作られました。村人たちが、立ち直りの一歩を踏み出したのです。
ところが、津波によって全てをなくしたある村人は、儀兵衛に 「もう広村には住んでいられません。働き口を探しに、よその村に移ろうと思います。」
またある村人は、「またいつか、津波が来るのではないかと思うと怖くてなりません。もっと安全なところにいきます。」と、涙ながらに訴えました。
⑬儀兵衛は、浜辺に打ち寄せる波を見つめていました。
「天洲ヶ浜」と、美しく名付けられたこの浜辺。
「ここに津波を防ぐ堤防を作ろう。村人に働いてもらえば、それが働き口になる。ふるさとがよみがえるのだ。」 儀兵衛は、ひとりうなづきました。浜口家では、昔から銚子で醤油を作り、江戸で大きな商売をしています。
「働く人の給料や、堤防づくりの全てのお金を出すと、大金が必要だが、なんとしてでも、やり抜こう!」 と、かたく決心しました。
⑭さっそく工事が始まりました。儀兵衛が調べたところ、広村は、ここ五百年の間に、ほぼ百年毎に大津波に襲われていることが分かりました。昔の津波の様子、今度の津波の様子をもとに、儀兵衛が堤防の設計をし、工事の指図をしました。
村人たちはよく働きました。
「村を守るために頑張ろう!」
「男も女も、働けばすぐに金がもらえる。ありがたい、ありがたい。」
「田畑の仕事が忙しくなれば、工事の方は休みになるとか。」
「こんなに働き甲斐のあることはない!」
⑮四年の月日、多くの人々の力、それに大金をかけて、立派な堤防が完成しました。
いなむらの火が燃えたときの、安政南海地震津波から92年後、昭和南海地震の時には、予想したように、大きな津波が襲ってきました。 しかし堤防はゆるぐことなく、人々を津波から守りました。
⑯和歌山県広川町の堤防では、毎年11月に津波まつりが行われます。
「いなむらの火を忘れません。」
「堤防つくり、ありがとうございます。」
子供たちが夫々に、一袋ずつの土を堤防に運び、積み上げて祈ります。 そして、
「みんなでふるさとを守ります!」と、防災の心を新たにするのです。
『稲むらの火』 は、小泉八雲が1896年に英語で “A Living God”(生き神様) として世界に紹介、多くの人々が感動し、数か国の教科書に載り『津波』が国際語となりました。 しかし風化とは恐ろしいもので、肝心の日本人がこの大事な話を全く忘れ去っています。そこで安倍元首相は各自治体や学校で活用しやすいように、内閣府から「紙芝居」の形で提示し、広報・周知徹底・継承を促しました。(⇒)http://kamuimintara.blogspot.com/2014/02/4_3.html
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