大国主神の国造りにより葦原中国(地の国)は豊かになりました。
しかし高天原の神々は、葦原中国も元来、天照大神の御子が知らす(治める)国であると合議し、どのように説得すべきかを議論しました。そこで二人の使者を続けて送り込みましたがうまくいきませんでした。そこで神々は建御雷神を出雲国に遣わせました。
出雲国の浜に降り立った建御雷神は、十攫剣を抜き、逆さまに波の先に刺し立て、その剣先にあぐらして座りながら、大国主神に「我々は、天照大神と高御産巣日神の命によって遣わされた。あなたがうしはける(領有する)葦原中国(地の国)は、天照大神の御子の知らす(治める)国である。汝の考えは如何なものか」と尋ねました。
すると大国主神は「私は年を取って私の一存では決められません。我が子がお答えします」と答えました。大国主神には沢山の子どもがいましたが、中でも特に優れているのは、秀でた知恵で出雲の人々の助けになっていた事代主神と、並ぶもののない力持ちで父の仕事を協力して頼りになる建御名方神でした。
そこでまず事代主神を呼んだところ、父に「この国は、天つ神の御子に譲りましょう」と言って青々とした柴垣の中に姿を隠しました。
建御雷神が「他に意見を申す子はいるか」と尋ねると、大国主神は「もう一人、建御名方神がいます」と答えました。すると、建御名方神が千人がかりでないと動かない大きな岩を手の先でもて遊びながらやってきました。
そして「我が国にやってきて、こそこそと隠れて物言うのはいったい誰だ。ならば力比べしてやろうじゃないか。私が先に手を取って見せよう」と、建御雷神の手を取った時、たちまち建御雷神の手は氷の柱に変化し、さらに剣となって建御名方神を襲おうとしたのです。これに驚いた建御名方神は恐れて手を引きました。
今度は建御雷神が建御名方神の手を掴みにかかります。建御雷神は、まるで若い葦を握りつぶすように、建御名方神の手を握りつぶし、たちどころに遠くへ投げ飛ばしてしまいました。命の危険を感じた建御名方神は一目散に逃げだしました。すると、建御雷神はこれを追いかけていき、信濃国の諏訪の海(諏訪湖)に追い詰めると、建御名方神は「恐れ入りました。今後はこの地から他へは行かないことにします。この葦原中国(地の国)は、天つ神の御子の命ずるままに献上いたします」と言って頭を下げたのです。
そして二人の神は「今度は神通力抜きにして力比べをやろう!」と、正々堂々と日本初めての相撲を取り、引き分けとなります。
(このあと国譲りが決まったのち、建御雷神は茨城県の鹿島神宮に、建御名方神は諏訪湖のほとりの諏訪大社に祀られることとなりました。そして今も、日本第一の武神として崇められています。)
建御雷神はまた出雲国に帰ってきて、大国主神に「二人の子どもは天つ神の御子の考えに背かないと言っていたが、あなたの心は如何に」と聴きました。大国主神は次のように応えました。
「私も背くつもりはありません。この葦原中国(地の国)は命令に従って差し上げることにしましょう。ただ、地盤に届くほどの宮柱を深く掘りたて、高天原に届くほどの千木を高く立てた、壮大な宮殿に私が住み,祀られることをお許しください」
そして大国主神は、出雲の海岸近くに立派な出雲大社をつくりました。
【コラム もっと知りたい「国譲り神話と古代人」】
「新しい歴史教科書(自由社)」より
「国譲り」は古事記の中でも、最も不思議でユニークな事件です。古代日本人の思想を読み解く手がかりが含まれています。
➀ 天照大神は高天原の神々と相談して使者の派遣を決め、大国主命も息子の意見を聴いて身の振り方を決めています。日本には、古来より出来るだけ話し合いで物事を決める合議の伝統があったのです。
➁世界では、国土を奪い取る皆殺しの戦争になるところですが、日本の「国譲り」の神話では、統治権の移譲が戦争ではなく話し合いで決着しています。
➂大国主神の心境を考えると、自分は何も悪いことはしていないのに、汗水たらし苦心の末に作り上げた国を他者に譲るのですから、さぞかし悔しい思いをしたに違いありません。そこで希望通りの巨大な神殿が作られ、大国主神を祀りました。勝者は敗者に対して、その功績を認め名誉を与え、魂を鎮める祭りを欠かさない。古代人は、こうした譲り合いの在り方を理想としていたのです。
平安時代に子供に教える「雲太、和二、京三」がありました。当時の日本で高い建造物を覚えるのに3兄弟に例えて、➀出雲大社(出雲太郎)、➁奈良の大仏(大和二郎)、➂京都御所の大極殿(京三郎)の順だというのです。
今の出雲大社は、高さが24mですが、平成12年に宮柱の根元が3箇所で発見され、それから推定すると48m以上の巨大空中神殿があったことが分かりました。この宮柱は巨大な3本1組となっており、それぞれの木は直径が1.4mほどで、3本括ると直径約3mにもなります。出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、その一部と考えられます。発見された柱は「心御柱」や「宇豆柱」で、鎌倉時代のものと推定され、この時代までの出雲大社が巨大だったことの証明となっています。
天皇の宮殿や奈良の大仏殿よりも巨大な空中神殿を作って大国主神を鎮魂したのは、日本が国家統一を成し遂げるうえで「国譲り」が、それだけ重要な出来事だったことを暗示しています。
平成15年(2003),出雲大社を訪問された美智子皇后陛下(当時)は、次のようなお歌を詠まれました。
国譲り祀られまし大神の
奇しき御業を偲びて止まず
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