2024年9月6日金曜日

1-11. 古事記物語12 「日本武尊」その1

 神武天皇崩御のあと、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、「〇〇と結婚して□□を生んだ」という記述のみが延々と続きます。具体的な事跡が書かれていないため「欠史8代」と呼ばれ創作だと疑う説もあります。しかし記述された各天皇の皇妃や子女の名から、日本全国の豪族と婚姻を結んで同盟政策を広げ、穏やかな統一国家を完成させた時代だったと分かります。数えると30豪族と160以上の婚姻があり、日本中に天皇家の血縁が広げられました。まさに神武天皇の詔 「八紘為宇 = 一つ屋根の下の大家族のように仲良く暮らせる和の国を実現する」が、この8代の天皇によって推進された平和な治世だったのです。(竹田恒泰「天皇の国史」より)

 第10代崇神天皇の御代には疫病が流行り、人々が死に尽きそうなほどの非常事態となりました。崇神天皇はあらゆる手を尽くして疫病を治め、さらに民を豊かにしましたので、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と人々はその御代を称えました。

 第12代景行天皇の御代には日本武尊(ヤマトタケル)が登場し、古事記最大の山場を迎えます。(景行天皇の項では、主に日本武尊の物語が展開されます。)



 景行天皇は大変立派な体格で、背の高さが1丈2尺(約3m60cm)でした。(いくら何でも大袈裟ですね。恐らく半分の180190cm位だったのでしょう) それでも当時の平均身長は150cm以下なので、人々からは「景行天皇は見るからに威風堂々で恐れ多い」と称えられたことでしょう。

 お后は大勢おられ、子供の数も80人を数えましたが、大碓命、小碓命(のちの日本武尊)、若帯日子命(のち第13第成務天皇)を世継ぎの御子に定めました。そのほかの77皇子は、みな「国造、稲置、県主」(地方官)、「和気」(皇別氏族)に任命され、諸国を与えられました。 

1.    大碓命と小碓命

 景行天皇は、美濃国(岐阜県)に、大層美しい姉妹、兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)がいると聴き、さっそく大碓命に二人を連れてくるように命じました。 しかし大碓命は、姉妹があまりに美しかったので自分の后にして、代わりに他の女性二人を探して連れ帰り、兄比売と弟比売だと嘘をつきました。ところが天皇は、その二人が別の女性だと見抜き追い払ってしまいました。

 こういうことがあり、大碓命は父の天皇に顔を出しにくくなり自分の屋敷に閉じこもりました。そこで天皇は弟の小碓命に「どうしておまえの兄は朝夕の御食に出席しないのか。おまえが教え諭しなさい」と言われました。それから5日たっても大碓命は行事に参加しません。そこで天皇は再び「どうしておまえの兄はまだ来ないのか。おまえはまだ兄を教え諭していないのか」と尋ねられると、小碓命は「とうに教え聡しました」と平然と答えました。

「どう言って教えたのだ」と聴きますと、「朝早く兄さんが便所に入った時、待ち構えてつかみつぶし、手足を引き抜いて袋に包んで投げ捨てました」と無邪気に応えました。それを聴かれた天皇は、小碓命の猛々しく荒い性格を恐れ、遠ざける口実として「西の方に熊襲建と言われる兄弟の悪者がいる。その者どもを討て」と難題を命じられました。小碓命は伊勢神宮を創建した叔母の倭比売命に挨拶に行き、叔母から女衣装を賜り、ひとり西の国に向けて出発しました。

(このとき小碓命は、齢15歳くらいの少年です。「天皇の后2人を奪い、大事な行事に参加しない不正義な兄を“教え諭す”のは殺すことだ」と、真剣に考えた末の行動だったに違いありません。しかし天皇にしてみれば、次期天皇の皇太子を殺してしまう荒々しい性格の持ち主が、いつかは父である自分に向かってくることを恐れたのかもしれません。常識的に考えれば大勢力の熊襲一族を一人で倒せという命令は「戻ってくるな」という追放令だったのです。しかし若い小碓命はそのことに気付かず勇んで出立します。古事記最大の英雄の悲しい物語の始まりです。)



2.    小碓命の熊襲征伐

 西方の熊襲建兄弟の征伐を命ぜられた小碓命は、早速旅立ち九州南部に遠征しました。この時代、交通手段がなく街道もまだ整備されていませんでしたから、近畿から九州までの旅は、大変な道のりで苦労されたに違いありません。

 熊襲建の家について様子をうかがうと、周囲は兵士が三重に守り固めていて、その中に頑丈な家が建てられているのが分かりました。ちょうどその頃、その家の新築の宴をしようと、食べ物などを準備して、人々は忙しく動き回っていました。そこで小碓命は、家の周囲を注意深く観察しながら、その宴の日を待ちました。そして宴の日になると、結んだ髪を若い女性のようにたらし、叔母の倭比売命から借りた女ものの服を纏い、すっかり童女の姿に変装して、女性たちの間に混ざって、その新築の家にまんまと入り込んだのです。

 熊襲建兄弟は、童女に変装した小碓命をすっかり気に入り、二人の間に座らせて宴を楽しみました。そして宴もたけなわになったころ、小碓命は懐から剣を出して、兄の熊襲の着物の襟をつかみ胸につき通しました。弟建はそれを見て驚き、怖くなって逃げ出しました。小碓命は直ぐに追いかけて、その家の階段まで行くと、その背中をつかみ、剣を尻から突き刺しとおしました。すると熊襲建は、「その剣を動かさないでください。私は申し上げたいことがあります。あなた様はどなたですか?」と尋ねたので、小碓命は「私は纏向の日代宮で大八島国を治める天皇の御子の倭男具那王(小碓命)である。天皇は、貴様ら熊襲建二人が我々に従わず、礼もわきまえないので、討取るようにと私を遣わされたのだ」と言いました。

 それを聞いた熊襲建は「まさにその通りです。西の方には私たち二人よりも猛々しい強いものはいません。しかし大和国には、私たち二人よりも猛々しい方がいらっしゃいました。そこで私があなた様に御名を差し上げたく思います。これからは倭建御子と称えましょう」と言いました。熊襲建がそう言い終えると、すかさず小碓命はとどめを刺しました。この時から小碓命を称えて「倭建命」と申します。



3.    倭建命の出雲征伐

さて、倭建命(小碓命)は大和に帰る途中、出雲建も倒せば天皇が更に喜ばれると思い、出雲の国に入りました。すると倭建命は、知友に優れた出雲建とすぐに肝胆相照らす友達になりました。倭建命は密かに樫の木で偽の太刀を作り、それを腰に佩いて、出雲建と共に斐伊川に沐浴に出かけました。

倭建命は先に川から上がると、出雲建が外した太刀を佩いて「太刀を交換しよう」と言い、出雲建は川から上がると、倭建命の偽太刀を佩きました。そこで「いざ太刀合わせをしよう」と倭建命が言って、それぞれが太刀を抜こうとすると、出雲建は偽の太刀を佩かされているので太刀が抜けません。倭建命は太刀を抜くと、すかさず出雲建を撃ち殺しました。

倭建命は、こうして西の国をことごとく平定して都に帰り、天皇に復命されました。 

(倭建命が女装して熊襲征伐、出雲建の騙討ちなど、現代人の感覚ではあまり共感を得ないかもしれません・・しかし、尊敬する父天皇から追放された15歳の少年が、再び認めて赦してもらうために知恵を絞って必死になって西国平定にあたっていると思うと、悲しい同情を禁じえません。須佐之男命の八岐大蛇退治も同じですが、圧倒的な強敵を倒す時は、あらゆる知恵を巡らせて用意周到に計画・準備し、目的に向かって不退転の決意で果敢に攻めること・・これは、生き馬の目を抜く現代のビジネス社会においても全く同じです。・・この頃の傷つきやすい若き倭建命は、あの父の愛を求めて苦しむ「エデンの東」のジェームス・ディーンと重なります。)





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