私達が今あるのは、先人の血の滲む労苦・努力の賜物です。
国際的英語学者の渡部昇一氏は、自信喪失の日本現代人を覚醒させる為に『世界史の中での日本の貢献』を教え続け、遺言として次の言葉を私達に残しました。
『もし20世紀はじめに日本がなかったら、また日本国民がいなかったら、世界はどうなっていたか、皆さんは考えたことがありますか?
』
『20世紀初頭に日本がなかったら、今も間違いなく、世界中が白人主体のアパルトヘイト(人種隔離・差別制度)に覆われていたでしょう。西洋の侵略に反抗しても武力鎮圧され、植民地にされたアジア諸国の中、日本だけは富国強兵、殖産興業に邁進して明治維新政策を成功させ、西洋の卓越した近代文明をあっという間に自分達のものにしました。そしてアジアを支配しようとするロシアから日本を守る為に始まったのが1904年の日露戦争です。
渡部氏が、ある高校でこの講演をしたところ、シーンと静まりかえり熱心に聴講、講演後「こういう話は初めて聴きました!」という感動・感想が沢山寄せられたそうです。
「温故知新」先人の足跡を辿り感謝し、次世代に伝え発展させていくのは私たちの重要な責務です。しかし先の大戦後、占領軍は日本の歴史を消し去り、新聞・ラジオ(NHK)を使って 史実と異なる自虐史観を徹底して植付け「歴史真実を直視しない独立心のない平和ボケ日本人」にしました。そして戦後80年近く経過した今も、私たちは周囲の独裁国家の脅威に目を向けようとせず「自国民の安全と生存を他国に委ねる」とした無責任な憲法を80年間も一言一句変えようとしません。
その残念な実例が「乃木大将を見失った日本人」です。いま乃木大将の事を知っている日本人がどれくらいいるでしょうか? 世界中から尊敬されたこの偉人、乃木大将の生き方を手本として、現代の私たちの生き方を見つめなおしてみたいものです。ただ戦後不幸にも、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が大ヒットし、根拠のない偏見による乃木大将像(愚将・無能)が拡散・定着しています。これを契機に是非、「乃木希典と日露戦争の真実」(PHP叢書)を購読して歴史の真実を知り、誇りある日本を取り戻したいと思われる方が一人でも増えることを願ってやみません。
1.近代日本の幕開け
日本の近代は、1853年7月8日のペリー浦賀来航に始まります。
それ以前、日本と本格的な通商を希望した最初の欧米列国はロシア帝国で、1705年ピヨートル大帝は、日本との和親通商の為にペテルブルグに日本語学校を設け、通訳の養成を始めています。当時ロシアは、飽くまで日本と紳士的な外交を結ぼうとして
江戸幕府との関係は友好的でした。
幕末の賢者 橋本左内は、英国のなりふり構わぬ乱暴狼藉(インド植民地支配、中国アヘン戦争、南アフリカのボーア戦争など)から「英・露は両雄並び立たず。いずれかが世界制覇するだろうが、英国は貪欲剽悍、露国は沈鷲厳整で、世界の人望は露国に集まる」と日露同盟有利と説きましたが安政の大獄に倒れました。
米国のペリーは、英米アングロサクソン族特有の高圧外交で、曖昧な幕府に業を煮やし、品川沖で約100発の空砲を打って脅し、不平等な日米和親条約を結び、諸外国には「日本は外圧に弱い国」という印象を与えました。これが許せないと国内の志士達は奮い立ち明治維新へと突き進みます。
日米和親条約締結7か月後、ロシアのプチャーチンは、国境画定の日露和親条約を友好的に交渉し締結しました。
この時、歴史上明確に「択捉島以南は日本領」と国境が規定されました。
そのプチャーチンは帰国途中下田港で地震津波に会い乗艦ディアナ号は沈没しました。そこで幕府は全費用を負担して100トンの帆船を建造し帰国を援助しています。これに感激した露国皇帝は幕府に深い謝辞を伝え、プチャーチンは日露友好外交手腕を評価され伯爵に叙され、海軍大将・元帥になっています。
江戸時代末期、ロシアは日本に友好的で、1855年クリミア戦争に負けて黒海・地中海への出口を塞がれ、東の友好国日本との通商を求めてシベリア鉄道の建設を始めます。プチャーチンの副将だったポシェットが交通大臣になり、世界を支配しつつある英国に対抗して日露協商で対抗しようという「国運をかけた国際的戦略プロジェクト計画」でした。英国がスエズ運河で上海に行くには45日、シベリア鉄道が開通すれば欧州から20日でアジアと結ぶことになり英国に十分対抗できます。
2.大津事件が日露敵対のきっかけ(明治24年1891)
明治20年代に入ると、欧米重視の明治政府はロシアのパイプが細く軽視するようになり、新聞各紙は「恐ロ=おそロシア」と論陣を張るようになります。他方ロシアは、世界の海を支配する英国に西出口を塞がれ、不凍港を求めて日露友好を深めたい事情がありました。そこで明治24年4月ロシア皇太子が親善来訪し、長崎を起点に日本各地の訪問旅行が始まります。ロシアを強敵とみなす英国は「露国皇太子の訪日は軍事視察。自国の危機を気付かぬお人好し日本!」と危機感を煽り、新聞は「おそロシア」論調を強めます。(メディアが感情論で国民を煽るは現代も同じです)
そして5月11日大津市で、突然警備中の巡査津田三蔵が、二コライ皇太子に切りつけ大怪我を負わせる「大津事件」が発生するのです。津田はノイローゼになるほどの恐露論者でした。ニコライ皇太子は直ぐに帰国の途に就き、これ以降日露友好は壊れ険悪な関係になっていきます。(それにしても大国の皇太子を矮狭な感情で殺害しようとするとは! 5.15事件、2.25事件、浜口雄幸・井上準之助暗殺、卑近な例では安倍元首相暗殺・・短絡的・激昂的な日本人の深層暗黒な一面に戦慄します)
3.「三国干渉」でロシアは不倶戴天の敵に(1895)
1895年、朝鮮李朝を清国支配から独立させることを目的とした「日清戦争」が始まり、世界の予想を裏切り日本は連戦連勝、下関条約で朝鮮の独立と遼東半島の日本割譲が決まります。しかし条約締結後の6日後、ロシアは仏・独を誘い軍事力を背景とした恫喝「三国干渉=遼東半島の清国返還」を勧告します。強国三国と戦争するわけにいかない日本国民は涙を呑んで「臥薪嘗胆」を誓い、ロシアへの復讐心と敵愾心を昂らせていきます。ロシアの目的は、シベリア鉄道の終着駅として不凍良港の大連・旅順を手に入れることであることは明白でした。しかしそうなると黄海~日本海はロシア海軍が支配、日本の命運は風前の灯となります。
日清戦争で棚ボタ式に独立国となった朝鮮李朝は元来独立心なく事大主義、「ロシアに屈服した日本は弱い」とみてロシアに急接近します。地政学的に「朝鮮半島は日本に突き付けられた匕首」です。半島がロシア支配下になると「次は日本がロシアに侵略される!」と日本中が危機感を持ったのは当然と言えます。
4.舌の根も乾かぬ ロシアは遼東半島強奪(1898)
ロシアは1855年クリミア戦争敗北後、黒海・地中海への出口を失い、不凍港を求めて東アジアへ進出します。古来中国では「万里の長城以北は化外の地」とされておりロシアのやりたい放題となっていきました。1895年日清戦争終結6日後の『三国干渉』でロシアは日本に遼東半島を清に返還させ、3年後には 厚顔にも遼東半島を租借し旅順を永久要塞にし、シベリア鉄道~東清鉄道の終着駅としました。これを足掛かりにして朝鮮半島、そして対馬・九州へ侵略してくることは明白でした。東洋弱小国の日本にすら負けた清国に拒否する力はありません。これが「当時の弱肉強食が支配する世界の常識」です。
【1895日清戦争、1900北清事変後の列強による中国分割図】
アメリカはこの時期、スペインと戦争していたため出遅れて、中国利権にありつけなかったために英露仏独伊日の6国に対し「中国への門戸開放、機会均等」を求めます。特にミシシッピ川流域と似ている南満州への執着は強く、やがて日本と対立する原因となっていきます。
遼東半島の租借権を得たロシアは、旅順を堅固な東洋艦隊軍港とするために、セバストポリ陥落の教訓を踏まえて、厚いベトン(コンクリート)で覆われた堅固な要塞群で固めました。
近代要塞の攻防戦は過酷を極め、1854年(旅順攻防戦50年前、日本ではペリー来航の頃)のクリミア戦争セヴァストポリ要塞攻防では、堅牢な要塞に加え数千か所のトーチカ・堀に守られ、1年間の攻防で計23万人の戦死者(英仏土13万人、露10万人)を出しています。(セヴァストポリは現代もロシアの最重要軍港で、2014クリミア半島侵攻でロシアに併合されました。)
この敗戦を教訓に、ロシアのクロパトキン陸軍大臣は、来る日露戦争に備えて予算をつぎ込み「旅順をセヴァストポリの6倍の堅固な永久要塞」に作り替えました。当時の砲撃ではビクともせず、人間屠殺場となる空堀、各拠点を地下通路縦横に結ぶ等、のちに旅順を守る天才的軍人コンドラチェンコ少将が建設した世界最強の永久要塞でした。
クロパトキンは、要塞完成後に日本訪問し(瀬戸内海で魚釣りもした)、その足で旅順要塞を視察して『10万人に攻められても5~6年は絶対陥落しない!』と確信しました。そして日露戦争直前に露満州軍20万人の最高司令官として着任しました。
「その難攻不落の旅順が、乃木軍により僅か4か月で陥落した!」との報に接して最も仰天したのはクロパトキン司令官でした。そのため日本軍を壊滅寸前まで追詰めていた黒溝台会戦、奉天会戦で「鬼神乃木は、5年は陥落しない筈の旅順を4か月で 戦死者僅か1.5万人で陥落させた。その 乃木軍が戦線に加わった!」という恐怖心が、名将クロパトキンの判断を誤らせ、勝利寸前のロシアが退却を繰り返す原因となりました。
ちなみに日露戦争終結10年後に勃発した第一次世界大戦で、主要な戦いだったベルダン要塞攻防戦では、両軍合わせ70万人(仏44万人、独28万人)の死傷者を出しています。このように近代戦争における頑強な永久要塞の攻防戦は多大な犠牲を伴う残酷な戦闘となります。 それと比較すると旅順戦での戦死傷者5.5万人(死者1.5万人)です。乃木大将は、信じられないほど少ない戦死者で旅順を陥落させたと世界から評価されるのは当然と言えます。
しかし日本は、徳川300年の太平の世から初めての大戦争、「戦死者1.5万人はトンデモナイ。もっと犠牲者の少ない作戦・戦術はとれなかったのか?」と捉えるのも無理はありませんが・・感情的で独善的なヒステリーに陥りやすい私達日本人は、もっと冷静に世界標準の視点を持つ必要があります。
現代において、高まる中露朝の脅威、きな臭い中東情勢、米国の混乱と凋落、何回も続く大震災・進展しない復興、少子高齢化、政治の無為無策と腐敗・・等々を考える時、120年前に命を削って国や社会の為に働いた 『世界に誇れる日本人』 を偲び蘇らせ、現代社会に生きる私達の指針としたいものです。
https://www.youtube.com/watch?v=J39RzWFAAr0
【司馬遼太郎、見てきたような嘘を書き!】
嘘だらけの「坂の上の雲」 2024.02.05記
「日露戦争、旅順」と聴くと大半の日本人は司馬遼太郎の「坂の上の雲」を連想します。そしてその中の「無駄な突撃で戦死者を増やした愚将の乃木大将、無能無策の伊地知幸介参謀長」に憤り、さらに軍事天才として描かれた満州本軍の児玉源太郎総参謀長が突然やってきて乃木大将の指揮権を奪い、28センチ榴弾砲を1日で移動させ(ありえない!)「1日で203高地を奪取して観測所を設け、旅順港内のロシア艦隊を砲撃し絶滅させた」という痛快さに喝采します。
しかし司馬氏本人が「戦前の神格化された乃木像を壊したかった」と書いているように、「乃木愚将論」は司馬遼太郎の創作で実際は真逆であったことが「乃木希典と日露戦争の真実(司馬遼太郎の誤りを正す)」(桑原嶷 著 H2発刊、 H16 PHP叢書復刊)、「ロシア敗れたり」(鈴木荘一・ 著)により立証され、大変なショックを受けました。70歳を過ぎて「坂の上の雲」を読むと冗長で感情的で特に「5巻の旅順攻防戦」は、まともな歴史小説とは思えません。この旅順攻撃の日露戦争の真実を知るには、嘘だらけの「坂の上の雲」は捨て、この2書を読むべきだと痛感しました。
「坂の上の雲」はS43~47年の4年間 産経新聞に連載された歴史小説です。当時から元陸軍大将の今村均氏や評論家の福田恒存氏などから反論・指摘がありましたが、司馬氏は反論や公開討論に一切応じず、第5巻のあとがきに「旅順のくだりを書くに当たり乃木神話が煩わしかった。それを信奉される方々が色々言ってきたが、肯綮(こうけい)に当たることもない」と書き黙殺しています。
なぜ司馬遼太郎は、戦史・公文書等を検証すれば分かる真実を曲げて、あえて乃木大将を貶める悪意に満ちた「坂の上の雲」「殉死」を書いたのでしょう?
私は学生時代から司馬遼太郎の大ファンで全作品を愛読してきました。その中でも「坂の上の雲」は何回も熟読し、現役時代に理不尽な上司や幹部対応に苦しむとき、児玉が伊地知参謀長等を叱責する場面は「そうだ、無能な上司に唯々諾々と従ってはいけない!」と闘志を燃やしたものでした。司馬遼太郎の筆致や登場人物の会話は臨場感があり、特に児玉源太郎の言動は鋭く、私も同じ気分にさせられました。(でも何故このような生々しい会話が分かるのか、本当に会話記録が残っているのか不思議でしたが・・そんなものは残っている筈がなく全て司馬氏の創作によるものと思われます)
特に第7師団参謀の白水中佐の戦況図不備を児玉が怒鳴り上げ「おまえなんかこれをつける資格はない!」と軍服の陸軍大学校徽章をもぎ取り「すぐ203高地頂上に行き自分の目で確かめてこい!」と命令する場面は、(現場を知らず朝令暮改の上司を思い浮かべながら)何回も読み闘志を燃やしたものでした。
しかし実は第7師団は、数日前に日本から到着して即前線に出て2/3を失う悲惨の極にありました。その中で激闘が続く203高地の最激戦地偵察を「今から自分の目で確かめてこい」と命令され十中ハ・九生還できない白水中佐を、乃木は「白水君 白水君」と呼び止めて生別死別を分かつような握手をして送り出したそうです。その一部始終を目撃した児玉随行将校の田中国重少佐(のち大将)でさえも「その光景を見て思わず落涙しました」とのちに述懐しています。こういう乃木大将だったからその部下は生死をものともせず戦い抜いたのでしょう。
<続きの乃木大将・伊地知参謀長による旅順攻防戦、黒溝台・奉天会戦は次回とします>
【司馬遼太郎ファンだった私の間違った認識 =2012年1月記】
司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』 は『明治維新から西欧列強に追い付こうと必死に生き、近代日本を世界史の存在に押上げた人々の物語です。前半の秋山真之と正岡子規の熱い青春物語から一転、ロシアとの近代戦争の血生臭い『旅順攻防=203高地の戦い』の残酷な戦闘シーンは『坂の上の雲』全8巻の最大の山場です。特に日本の命運を決めると覚悟した児玉源太郎が、一時乃木大将から指揮権を奪い戦局を大転換する場面は圧巻です。
現代にも通じる『組織における参謀(スタッフ)の役割と責任の重要性』を身をもって教えた先達として、それまで良く知られていなかった児玉源太郎を日本人が深く理解させられた作品でもあります。
元々旅順攻防戦は『旅順港に逃げ込んだロシアの極東艦隊を港外へ追い出すか殲滅する事が目的』だった訳ですが、強固な近代要塞攻略が激烈さを増し犠牲が増えるに従い、要塞を落とす事が目的化してきます。『今、何の目的の為に戦っているのか』 これは私達にも通じる仕事や活動の大事な原点です。
この後に続く日本海海戦で、海軍は参謀秋山真之が、古今東西の海戦を研究して戦略を練り、敵艦隊を一隻も残らず撃沈する完璧な作戦 『T字作戦、7段構えの作戦』 により当時世界最強のバルチック艦隊を全滅させました。他方陸軍の旅順方面師団は、参謀が機能せず肉弾突撃を繰返し死傷者5万人を超えても攻略できず悲惨な戦場となりました。この二つの戦いは私達現代人が大いに学ぶ点があり、日本の若い人達に是非一度は読んで欲しい本です。ただ全8巻と超大作なので、最後の8巻目(日本海海戦)を最初に読むと興味が湧き、全巻読破できると思います。
(⇒この戦争目的のとらえ方が、司馬は根本的に間違っていました。日本陸軍の旅順攻略の目的は3つ。「第一番目は➀旅順要塞の制圧・破壊=永久要塞「望台」の陥落、旅順守兵48,000人の降伏、第2番目が➁海軍要請の旅順艦隊の壊滅、第3番目が➂ロシア軍降伏後速やかに満州軍の合流」でした。従って12月5日 203高地を制圧し旅順艦隊を砲撃・撃沈した後も、本来の主戦場「望台攻防」の状況は何ら変わっておらず更に激闘が続きます。伊地知参謀長は大本営に砲弾不足・補充を強く要請し続け山形有朋を嘆かせています。決して司馬遼太郎が書いたような「203高地陥落後は単なる掃討戦。伊地知のような無能な参謀長でも残しておけばよい」というような生易しい状況ではなく、ステッセル将軍もロシア軍の士気も旺盛で。この後更に1か月の激戦が続きます。分岐点は12月15日敵将コンドラチェンコ少将の28センチ砲弾直撃による戦死で、これにより守護神を失ったロシア軍の士気は下がり、ようやく旅順攻防の山場を越えてロシア軍が降伏したのは203高地陥落1か月後の1月2日、乃木・ステッセル両将軍の劇的な「水師営の会見」が1月5日です。
75歳になった今「坂の上の雲」を読み返すと、歴史小説なのに実に会話が多く「余談だが」と横道にそれることが多くて、実に冗長で読みにくい。私の子供3人が高校時代に「是非読んだ方が良い」と勧めましたが、3人とも1巻目の10~20ページあたりで「面白くない!」と投げだし2度と読もうとはしませんでした。4年間の新聞掲載小説で、読者を飽きさせないために講談調に仕立て、余談で目先を変えて長引かせる必要があったからでしょう。「国民にとって一丸となって戦い辛うじて勝利した日露戦争」を国民に知ってもらうためには、「間違いだらけで真実を歪曲した誠に迷惑な“坂の上の雲”だと言わざるを得ません。
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