2024年10月6日日曜日

1-11. 比類なき「皇室と国民の絆」歴史

 「世界に類のない皇室と国民の在り方」は、古事記・日本書記に示され連綿と続いています。近年の代表的な具体的事例として「昭和天皇とマッカーサー元帥の会談」があります。「戦犯として逮捕」されるかもしれない事態の中で、昭和天皇ご自ら元帥を訪問し、終戦直後焼け野原で生きる手立てもなく苦しむ国民を案じて、食糧支援を訴えられたのです。まさに聖帝「仁徳天皇の民のかまど」そのものの尊いお姿でした。今回はその時の元帥の驚きの回想を紹介します。私たち国民が決して忘れてはならない尊い歴史の一コマです。(令和書籍「日本国史」第6章「現代」からの引用)



 昭和天皇が初めてマッカーサー元帥をご訪問になったのは、昭和20年(1945927日のことでした。元帥は当初、天皇は戦争犯罪人として訴追されないよう、命乞いをしに来るのではないかと考えていたようです。ところが昭和天皇は、元帥の想像もつかないことをおっしゃったのです。当時、侍従長で同伴した藤田尚徳は、備忘録に昭和天皇のお言葉を次のように書き残しています。

「敗戦に至った戦争の色々の責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官(将兵・閣僚・官僚など)は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうとも構わない。私はあなたにお任せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」(藤田尚徳「侍従長の回想」講談社)

 昭和天皇のお言葉を聴いたマッカーサー元帥は驚き、次のように回想しています。

「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨の髄まで揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取った。」(「マッカーサー回想記」朝日新聞社)

 マッカーサー元帥は、昭和天皇との会談を経て、皇室を存続させることを強く意識するようになったとみられます。

 全国からGHQに宛てたおびただしい直訴状のうち、天皇に関するものは、殆どが皇室の存続を希望する意見でした。またマッカーサー元帥の軍事秘書官のボナー・フェラーズが102日付けの元帥宛てのメモで「天皇を戦争犯罪人として取り扱う事は不敬であるのみならず、精神的自由の否定となり、政府機構は崩壊し、暴動は避けられないであろう」と伝えました。

 会談から約4か月後の昭和21年(1946)1月25日、マッカーサー元帥は本国の陸軍省宛てに次の秘密文書を送りました。この電報により天皇の存続が決定されます。 

「天皇を起訴すれば、まぎれもなく日本国民の間にすさまじい動乱を引き起こすことになるだろう。その影響は、いくら評価しても評価しすぎることはない。天皇は全ての日本人の統合の象徴である。天皇を葬れば日本国家は崩壊する。実際のところ、全ての日本人は天皇を元首として尊崇し、善かれ悪しかれ、ポツダム宣言が天皇を維持することを意図していたと信じている。

もし連合軍の行動が、彼らの歴史的な思いを裏切ったならば、そこから生じる日本国民の憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫にわたって続くであろう。幾世にもわたる復讐の為も復讐が引き起こされ、その悪循環は何世紀にもわたって途切れなく続く恐れがある。私の考えによれば、全日本人は、消極的あるいはなかば積極的な手段により、天皇を葬ることに抵抗するであろう。彼らは武装解除されているので、訓練され装備された軍にとって特別な脅威はない。

しかし、政府の全ての機構が崩壊し、文化的な活動は停止し、反体制の混沌無秩序な状態が、山岳地帯や地方でゲリラ戦を引き起こすことは想像できないことではない。思うに、近代的な民主主義の手法を導入するという希望は消え去り、引き裂かれた人々の中から共産主義路線に沿った強烈な政府が生まれるだろう。

これは、現在の占領の状態とは完全に次元の異なった問題が起きることを意味する。そうなった場合、駐留軍を大幅に増員することが不可欠となる。最低100万人の軍隊が必要とされ、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない可能性が極めて高い。その上、行政を行うには、公務員を日本に送らなければならず、その必要数は数10万人にのぼるであろう」 Goreign Relations of the United States

 

「昭和天皇の全国巡幸と沖縄への心残り

 昭和天皇は終戦の翌年から、全国を巡って、傷ついた人々を激励なさいました。全国巡幸と言います。全国巡幸は、昭和21年(1946)から始まり、昭和29年(1954)までの8年半かけて、全行程は約33,000km、総日数は165日に及びました。

 昭和天皇を取り囲む群衆から、どこともなく「天皇陛下万歳!」の掛け声が起き、これに合わせて昭和天皇が中折れ帽子を高く掲げてお答えになるご様子は、まさに君民一体となった美しいものでした。

 昭和天皇のお姿を拝して生きる勇気を得た人がいた半面、疲弊しきった地域をめぐり、傷ついた人たちと接する昭和天皇のお気持ちは、いかばかりのものだったでしょう。昭和天皇が広島でお詠みになった御製があります。

「ああ広島  平和の鐘も鳴り  たちなほる見えて  うれしかりけり」

冒頭の「ああ」のところに、昭和天皇の言葉にならない広島への思いを感じることができます。そして勇気づけに行って、逆に勇気づけられる複雑な思いも混在しているように思えます。



 昭和天皇は、昭和29年(1954)に全国巡幸を終えて還御なさるにあたり、次のようにご感想をお話になりました。

「顧みれば,昭和21年以降全国各地を回り、直接地方の人たちに会い生活の実情に触れ、相ともに励まし合って国家再建のため尽くしたいと念願してきたが、今回の北海道旅行によって一応その目的を達成できて満足に思っている」

ところが、たった一か所だけ、ご訪問になれないまま取り残されていた場所がありました。それが沖縄です。沖縄は当時まだ米国の統治下にあり、本土復帰するには、昭和47年(1972515日を待たなくてはなりません。

しかし復帰3年後の昭和50年(1975)に皇太子同妃両殿下(現在の上皇上皇后両陛下)が、沖縄をご訪問になった時、ひめゆりの塔で両陛下に火炎瓶が投げつけられる事件が起きました。この事件により、昭和天皇は沖縄行幸を毎年ご希望になったにもかかわらず、警備上の都合で実現までに相当の時間を要することになります。

昭和天皇が強く思し召されたことと、県知事と県民から多くの陳情があったことで、ついに昭和62年(1987)に沖縄行幸が決定されました。ところが、昭和天皇はその念願が叶う直前に病で倒れてしまい、そのまま御恢復になることなく、昭和64年(198917日に崩御あそばされました。天皇が病床でお詠みになった御製からは、その無念さがにじみ出ています。

「思わざる 病となりぬ  沖縄をたづねて果たさむ つとめありしを」

昭和天皇が果たすことができなかった「つとめ」を進んでお引き受けになったのが、平成の天皇陛下(現在の上皇陛下)でした。平成の天皇陛下は平成5年(1993)4月に,歴代天皇として初めて沖縄をご訪問になりました。陛下の沖縄への思いは、琉歌をお詠みになるところから察することができます。琉歌は沖縄地方に古より伝承される叙情短詩形の歌謡で、「8・8・8・6」を基本形として詠まれます。陛下は長年、独学で琉球の言葉(沖縄方言)をお習いになり、これまでに多くの琉歌をお詠にになりました。

その一首に、6月23日の沖縄戦終結の日に行われる沖縄全戦没者追悼式の前夜祭で毎年詠まれる陛下の琉歌があります。

「フサケユルキクサ ミグルイクサアトウ クリカイシガイシ ウムイカキテイ」(ふさかいゆる木草 めぐる戦跡 繰り返し返し 思いかけて)

昭和天皇が果たせなかった「つとめ」は、このように、平成の天皇陛下がしっかりとお果たしになりました。










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