「神話の里 高千穂町」(宮崎県北)を訪れると、【厳しい環境の中で人々がいかに努力して苦難を乗り越え、協力し合って生き抜いてきたか、またそういう祖先を神様と仰ぎ大切にしてきたこと・・それが今も神話や神楽として大切に伝承されていること】を教えてくれます。むかし高千穂村には5軒に1社、500を超える神社がありました。そして今も24社が大切に守られています。きっと高千穂の人々は、古代からそこかしこに神々を感じ、神話物語として語り継ぎ、祭りの神楽として脈々と伝承してきたのでしょう。
まさに「高千穂の方々の生き方や伝統や歴史物語そのものが日本神話」であり、古事記や日本書記のもととなった日本人の心の原点であることを教えてくれます。
特に 「12万年前の阿蘇-3カルデラ大噴火から高千穂峡が如何にしてできたか、火砕流で覆われた厳しい大地の中で人々は何を心のよりどころとして努力されてきた」かに深く感動します。
おそらく日本津々浦々、どなたの故郷にもこのような祖先の涙ぐましい努力や感動の歴史が刻まれていることでしょう。
現代は世界の激動と将来が見えない不安の中にありますが、大事なことは『温故知新』です。私たちの祖先が切り開き築き上げてきた「素晴らしい日本の心」を蘇らせ、新たな世代が未来を切り開く基盤を固めていくことが私たち一人一人の使命ではないでしょうか。
高千穂出身の友人から、次のメールをもらい深く共感しました。
【以前ブラタモリ高千穂編は、高千穂出身の私も知らない事だらけで目を見張りました。 Aso3,Aso4の関係しかり、エンタブラチュアしかり、高千穂の名の由来しかり、新しい知見を得ました。天保の大飢饉の苦しみのなか、浅ヶ部地区住民が寄付を募り、五人の代表が四国88ヶ所札所霊場を巡り、帰郷後88ヶ所の札所を祀った事は、神仏に捉われない八百万の神々の理念が根付いていると感じました。また日向(ヒナタ)用水を始めとした山腹用水路への努力、棚田の出現、高千穂三橋にまつわる話など感銘を受けた事をあげればキリがありません。それぞれの地域の方々が過去から現在までの流れを引き継ぎ、伝えている事に感銘を受けます。これらの歴史が風土として定着するように将来に繋げていくことが我々の責務でしょうか。】
そこで今回は「ブラタモリの補足編」として、番組でサラリと紹介された話題を、もう少し掘り下げて紹介します。
1.阿蘇カルデラ噴火・火砕流と高千穂峡の生成
日本列島は大陸プレートに太平洋プレートが沈み込む、地球上でも最も激しい地球活動の最前線です。約2,000万年前に太平洋プレートの大陸プレート下への沈込みによる巨大なマグマの対流で日本列島が大陸から切り離されて以来約500万年、日本列島は今の形になってからも巨大カルデラ噴火を繰り返してきました。
特に九州地区はプレート沈み込みの際に生成される大量のマグマによる「巨大カルデラ大噴火」が、過去10万年間4か所【阿蘇、姶良、阿多、喜界】で起きており、中でも阿蘇は約27万年前から4回もカルデラ噴火を繰り返している最も活発で危険な火山です。
阿蘇の大噴火は、12万年前の3回目(Aso-3)と、9万年前の4回目(Aso-4)が特に大きく、その火砕流は高千穂を埋め尽くし太平洋まで到達しています。
この火砕流は、元の地表と大気の両側から冷やされ、上下から割目が入り柱状節理が形成されていきます。しかし溶岩流主体のAso-3の玄武岩は中心部が高温に保たれ中々固化できず、さらに長い時間をかけて方向の定まらない不規則な岩層を形作ります。これが「エンタブラチュア」です。古代ギリシャのパルテノン神殿などの柱が支える屋根部分に似ていることからこの名前が付きました。ボートに乗り高千穂峡を見上げると、高千穂の大地を支える柱状節理の巨大柱と、複雑な飾り付けが施された軒屋根のエンタブラチュアが延々と続いており、まさに「高千穂は偉大な神々の巨大神殿だ!」と感嘆します。
この高千穂町地形図を見ると、Aso-4火砕流の凄まじさがよくわかります。 元々の3,000~2,000万年前の日本列島形成時に太平洋側から運ばれてきた岩盤の名残の「付加体」やサンゴ礁の名残の「石灰岩層」は、九州山脈の上部にわずかに残っているだけで、あとはすべて火砕流由来の溶結凝灰岩に覆われています。
そして数万年を経てこの上に草木が復活し豊かな腐葉土層が覆った頃の約3~2万年前にホモサピエンスが日本列島に到達して住みつき「前期縄文文明」を築きあげました。高千穂の地にもこの人々が住みついたことでしょう。
しかし7,300年前に九州の南方100㎞で『喜界カルデラ大噴火』が発生しました。この1万年間で世界最大の破滅的大噴火です。九州は厚さ30㎝以上の火山灰で覆われ、前期縄文人は勿論、すべての動植物が絶滅したと考えられています。この時の火山灰層は『アカホヤ地層』として今も残り、関西まで20㎝、関東まで10㎝が確認されます。
かろうじて生き残った関東・東北・北海道の縄文人はその後も文化を発展させ、青森三内丸山遺跡の大規模環濠集落跡(約5,900~4,200年前)や、上信越の200以上の集落跡で発掘・出土された火焔土器(縄文中期)などを生みだし、世界が驚く「人間同士の殺し合いのない高度な文明社会」を築き上げました。日本で出土された約6000体の縄文人骨には、槍やこん棒などで傷つけられた痕跡は一切なく、いかに平和に暮らしていたかが伺われます。
この縄文時代は、南方海洋民が日本列島に到達して独自の文明を築き、喜界カルデラ噴火で西日本が壊滅した後は、生き残った東国が中心地となり、その象徴として日本最古の鹿島・香取神宮が祭られました。のちこの子孫が九州に海を伝って移動し、再び九州にも後期縄文文明が復活しました。その鹿島の民が上陸したのが「鹿児島」と考えられています。古事記の伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みはオノゴロ島に始まり、日本が海に囲まれた島国であることを認識されていたことを示しています。
現代の歴史学者は「文字で書かれた時代以降のみが歴史」として「古事記・日本書記は神話時代は創作」として無視していますが、悠久の人間の生業を軽視した誠に短絡的で狭量な探求姿勢といえます。むしろ1万年も続いた「縄文人の生き様・記憶・生活の知恵・価値観」はDNAにしっかり刻まれ、語り部による神話や、神楽となって大事に伝承されてきた集大成が古事記・日本書記の神話です。近年の考古学上の新発見や各地に残る風土記、地名と神話の一致などから、近年この考えが一般的になってきています。古事記の冒頭序文にはそのことが明確に書かれています。(故渡辺昇一氏、東北大・田中英明教授、元土木学会長・大石久和氏等)
「高千穂の夜神楽」は神楽を愛し神々への信仰を失わなかった高千穂の里人によって守られてきた伝統芸能です。 神楽のルーツ高千穂の夜神楽は、日本神話の天岩戸神話の中で天照大御神が天岩戸に籠もったさい、その前で天鈿女命が舞を舞ったことが起源だと伝えられています。
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