2024年8月3日土曜日

5. 日本の美とゴッホの生涯

2019年12月、上野の森美術館で 『ゴッホ展』 が開催されました。
私は年末の開館直後に入場しましたが、 既に名画の前は黒山の人だかりでした。 日本人が如何にゴッホを愛しているかを改めて痛感しました。
 ゴッホが本格的に画家を志したのは27歳、そして自決したのが37歳。画家として生きたのはこの僅か10年間だけです。太く短く燃え尽きた生涯だったと言えます。 そのスタートはオランダ、5年間独学で絵画の基礎を学び、「ハーグ派」の影響を受けて暗く重い色調の 『貧しい農民』 をテーマに描いています。
その後、画商の弟テオの薦めでパリに出ます。当時の印象派:モネ・セザンヌ等の影響で、明るい光の表現を身に着けます。 しかし 「モネは眼に過ぎない」 と評し物足りなさを感じていました。そして一番衝撃を受けたのは、当時ヨーロッパ画壇を驚嘆させていた日本の北斎・広重などの浮世絵でした。
(左:広重、右:ゴッホ模写)
日本の浮世絵に描かれている 『明るい光あふれる自然』 を求めて、ゴッホは南仏アルルに移り住みます。私達が大好きで有名な代表作の殆どは、南仏アルルに移り住んでからの僅か3年間で制作されています。 制作費・生活費を弟テオの仕送りに頼るゴッホがあこがれの日本に行けるわけもなく、辛うじて南仏の風物に題材を求めるしかなかったのかもしれません。

ゴッホ画家生活10年間、全く売れない駆け出しの気難しい画家の生活を支え、その画期的な才能を信じて物心両面で懸命に支えたのが、4歳年下の弟テオでした。この弟の存在がなかったら、人類の至宝と言われる画家ゴッホは生まれず、私達はその名画を目にすることはなかったでしょう。
しかし、そのゴッホが37歳で自決した理由は、『結婚して子供が生まれたテオの幸せな生活を、自分は邪魔をする存在でしかない』 という辛く悲しい思いでした。 しかし兄をただ一人理解し、愛し、天才と信じていたテオは、敬愛する兄の死の悲しみに耐え切れず、半年後に病死しています。
愛する夫テオ、尊敬する義兄ゴッホを相次いで失ったテオの妻ヨーは、夫が大事にしていた600通にも及ぶゴッホからの膨大な手紙を整理し書籍として世に出しました。
今日、ゴッホの死後150年経過しても、私達がゴッホの作品だけでなく、不器用な人間の心の葛藤や、作品に込めた考えや思いなど、芸術家の心の内を知り、共感しながら追体験し、人生の指針・教科書として愛読できるのは、このテオの妻ヨーの存在なくしてはあり得ません。人類の至宝ゴッホの芸術は、本人は勿論、ゴッホを取り巻く家族によって生まれ育まれ、永遠の芸術になったと言えます。

今回の展覧会では、『ゴッホが影響を受けた画家たち』 がテーマなので、私達が良く知っている 『ゴッホの悩み苦しみ・・耳を切り落とした自画像、死を予感する糸杉・麦畑・カラス』 などの絵は展示されていません。
そこで最近刊行された文庫版 『日本の夢に懸けた画家 ファン・ゴッホ』  (圀府寺 司:著 角川ソフィア文庫) から、重要部分を紹介します。興味を持たれた方は是非購読をお勧めします。
私達も多かれ少なかれ無縁ではない 『生きることの難しさ』 を考える時、ゴッホの生涯は、キリストの教えのように、私達に沢山の教訓を与え、人としての本当のやさしさ、生きる勇気を与えてくれます。

1.
ファン・ゴッホは、生きることの難しい人間でした。その気難しさと真剣さとの故に、妥協ができず、何をやっても人とぶつかり、何をやっても社会に適応できません。今日世界的な名声を獲得したのは、生まれ持った画才のゆえではなく、その生きる難しさの故でした。学校にも、画商にも、教会にもなじめず、万策尽きて残されていたのが 「画家」 という仕事でした。この仕事に集中する以外、彼にはもはやほかに生きる道がなかったのです。
もしファン・ゴッホに天才と呼ぶべきものがあったとすれば、それは決して画才ではなく、生きる厳しさに耐え、生きる厳しさから学び、極言まで追い詰められながらも、残された道に全ての力を傾注した強靭な生命力でしょう。

2.出生から画家になるまで
ゴッホは1852年、祖父・父が牧師の家に長男として生まれ、愛情と教育を受け育ちましたが、少年時代から気難しく扱いにくい子供でした。小学校、中学校は中退し、父は家庭教師をつけています。その後画廊で働きパリ・ロンドンに勤務し、英・仏・独語の文学にも親しむ高い教養を身に着けていました。
しかしロンドン勤務中に失恋し、仕事に熱が入らなくなり解雇され、父と同じ聖職者を目指しますが、神学や古典語に興味が持てず挫折します。そこで炭鉱地区の牧師見習いとなりますが、貧しい炭鉱の家族に持ち物を全て与えるという過度の献身が問題となり伝道師にも採用されませんでした。
やむなく故郷の家族の元に帰りますが、その高い理想と、激しい気性と、有り余る宗教的情熱のやり場を、現実社会のどこにも見いだせない挫折感、人間としては親身で優しい父親の宗教と葛藤を続けます。そういう中で未亡人となった姪に恋しますが、度を越した熱烈な愛情は迷惑なストーカー行為でしかなく、故郷に居づらくなったゴッホは1881年ハーグに移り住み、大きな落胆の中で27歳にして初めて画家になる決心をします。

3. オランダ時代 ― 愛に飢えた修業者
ゴッホは宗教を重く引きずったまま、ハーグ派の画家と交流しながら独学で画家基礎修行し、以後10年間弟テオの仕送りで生活することになります。
しかし半年後ゴッホは娼婦のシーンとの同棲を始めるという大スキャンダルを起こし、支援者テオも父親も友人達も仰天します。 シーンはこの頃30歳、貧困で娼婦に身を落とし、3人の子を産み2人をなくし、4人目を身ごもり男に捨てられました。 病身で身ごもりながら生きるため冬の街頭に立つ悲惨な女を、ゴッホは見捨てることができませんでした。しかし新扶養家族の生活費もテオの仕送りで賄われました。
最初の傑作『かなしみ』 はこうして生まれました。この絵の下余白には、こう書かれ、女の哀れな身の上とゴッホの悲しい心が響きあっています。だがどうして独り身の女が地上に存在するのか、見捨てられて」
  一時は結婚も決心しましたが、ゴッホの激しい性格とシーンの悪い性格がぶつかることが多くなり、同棲は破綻し、オランダ北部の田舎町ドレンテに引きこもって制作に打ち込みます。
その頃の自信作が『ジャガイモを食べる人達』です。しかし画家仲間達からの評価は低く、それに対し激しい怒りを書き残しています。
   こういう最中、父が脳卒中で急死します。弟テオがショックで落胆し憔悴しきっていた半面、ゴッホは淡々と冷静だったといいます。
父の死後半年後に描いたのが『開かれた聖書のある静物』です。この聖書は父親のもので、開かれているページに読み取れる文字は 『 イザヤ書53章』 (旧約聖書)だけです。この章には多くの人々の罪を背負い刑死する救世主の姿が描かれ、キリストを預言しているとされます。
    ゴッホの思いは何だったのでしょうか?  学校でも職場でも故郷でも問題を起こし反抗し続ける扱いの難しい自分に対し、父親は学校を変え、仕送りし、親戚に頼んで仕事を世話し・・様々な取り成しをしてきました。そういう父を「主のしもべ(救世主)として悼む」 というゴッホの思いが込められているのではないかと言われています。

4. パリ時代 ― 豊穣なる混沌の一幕
1886年2月、テオの誘で、ゴッホはパリに出て2年間の同居を始めます。
ゴッホはパリという都市と、画商の弟テオの尽力によって劇的に変化します。 無名のゴッホが、当時高名だった印象派の画家たちと短期間で親交が結べたのは画商テオの紹介があったからです。この2年間がなければ、今日のゴッホの名は歴史に残っていなかったと言われるほど重要な期間でした。
しかしゴッホ自身は、パリを席巻していた印象派の大家達も物足りず、心を奪われたのは日本の浮世絵でした。ゴッホは木版画浮世絵の油絵模写を3枚も残し、『タンギー爺さん』 の背景には6枚の浮世絵が描かれています。これらが触媒のような化学反応を起こして、晩年の傑作が生まれていきます。
そしてゴッホの日本への夢は次第に膨らみ、浮世絵の鮮やかな色彩からか、ある時期から南フランスと日本とをダブらせて考えるようになり、パリ生活2年後に南仏に旅立ちます。後に一人残された弟テオは放心し空虚感に襲われていました。しかしこの時テオは、世界でただ一人、画家ファン・ゴッホの名声を確信し予言していました。

5. アルル時代 ― 夢への逃避行、「日本」色のユートピア
1888年2月20日 ゴッホは雪のアルル駅からテオに手紙しています。
「雪の中で雪のように明るい空を背景に白い山頂を見せた風景は、まるでもう日本人たちが描いた冬景色のようだった。」
そしてゴッホは自分なりの日本人イメージを作り上げ、南仏に画家たちが 『日本人のように兄弟愛に満ちた共同生活を送るユートピア=画家の天国』 の実現を夢見るようになります。そういう希望に満ちた風薫る3月に描かれたのが 『ラングロワの橋』 です。ゴッホの作品中随一の瑞々しさ、穏やかさに満ち溢れています。
ゴッホは画家の共同体 「黄色い家」 に12脚の椅子を準備します。キリストの12使徒を意識してのことですが、参加はゴーガン一人だけで10月に合流しました。 しかし金に困っていたゴーガンの目的は、ゴッホの理想共有ではなく、当面の生活費・製作費の確保で、そのうち絵が売れれば南太平洋に行こうと考えていました。
『理想派と現実派』 こういう目的の異なる個性の強い画家の共同生活が上手くいくはずがなく、2か月後に 「耳切り事件」 が起こります。身の危険を感じたゴーガンは直ぐアルルを離れています。自分を傷つけた1か月後に書かれた 『包帯をした自画像』 でゴッホは何を伝えたかったのでしょう。





6. サン・レミ時代 ― 迫りくる悪夢たち
「耳切事件」 におびえたアルルの住民は、この危険な住民を隔離するよう市長に嘆願書を出します。宗教的幻覚や幻聴に悩んでいたゴッホは、自らサン・レミ療養院に入り約1年間治療を受けます。
しかし発作の合間に描くときの頭脳は明晰で作品は迫力を増していきます。画風は激しくうねる筆致に変わり、逃げ場のない本当の闘争が始まりました。入院半年後の1889年6月鉄格子の入った窓から眺めた風景が
 『星月夜』 です。
1890年1月31日、テオとヨー夫婦に男の子が生まれました。その誕生を祝って描いた絵が 『アーモンドの咲く枝』 です。 この時期ゴッホの容体は悪化を辿っています。 立て続けに襲う発作と、膨らむばかりの不安の中で、新しい命の幸福を願って描いた精一杯の贈り物でした。
   ゴッホの発作原因は分かっていませんが、経済的に10年間支えてきた自分の最大の理解者テオの結婚、甥の誕生で心中穏やかではおられず、自分への援助が減ること以上に 『援助なしには生きられない自分の存在が、テオの家庭の経済的、精神的負担になるのではないか』 という不安が重くのしかかっていったのでしょう。

7. オーヴェル・シュル・オワーズ  ・・・張りつめ切れた糸
1890年5月17日、病状が好転しないので、テオに勧められて サン・レミ療養院からパリ郊外のオーヴェルに移り住んで精神科医ガシュ博士に見てもらう様になりますが、第一印象で当てにならない医師だと見抜いています。
1890年7月6日、ゴッホはパリの弟一家を訪ねています。その前の数日間生後5か月の赤ん坊は瀕死の病気でしたが、テオは手紙で訪問は延期しなくてよいと書き送っていました。
ゴッホは友人オーリエを伴い、ロートレックも加わりテオ宅は賑やかな昼食会になります。しかし若妻のヨーは赤ん坊が生死の境をさまよう日が続き疲れ切っていました。 ゴッホから自分の絵のかけ方が悪いと言われて、多少いらつき邪険な雰囲気で別れています。 ヨーはすぐに反省しお詫びの手紙をゴッホに送っています。
ゴッホは 『ヨーの手紙は福音だった。僕たちが共有していた不安を吹き払ってくれた・・・』 という返信を残しています。しかしゴッホのような敏感すぎる魂には、ヨーの手紙が優しければ優しいほど、その本音も状況も正確に察知し、『自分の存在がテオの家庭の重荷になっている』 と確信したことでしょう。
この時描かれた大作が『カラスの群れ飛ぶ麦畑』です。ゴッホは筆を執り落しそうな精神状態の中で、「かなしみ」 と 「極度の孤独」 を表現しようとしています。ゴッホ死の20日前の作です。
1890年7月27日ゴッホは腹部に銃弾を抱え帰宅、2日後に息を引き取っています。自殺か他殺か異説がありますが、いずれにしてもゴッホ自身、これ以上生き続けることは不可能でした。
敬愛する兄を失ったテオは人目も憚らず泣き崩れ、2か月後に発病、半年後に兄の後を追う様に他界しました。残されたヨーは25年の歳月をかけて1914年にゴッホの書簡全集を刊行し、ユトレヒトにあったテオの墓をオーヴェールのフィンセント・ファン・ゴッホの墓の隣に移設しています。書簡全集の冒頭にヨーはこう記しています。
・・この書は、フィンセントとテオの想い出にささげられる。
 『二人は生くるにも 死ぬるにも離れざりき』

(参考) 
➀「日本の夢に懸けた画家 ファン・ゴッホ」 圀府寺 司:著(角川ソフィア文庫)
➁「ゴッホの手紙」 小林秀雄:著(角川文庫)
➂「ゴッホの手紙 上・中・下」 (岩波文庫) 

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