私の人生の師匠 下山隆三さんと軽井沢旅行しました。
本来弟子の私が運転案内すべきところ、「無言館」「夕焼け小焼けの往生寺」「ジョンレノンが愛した万平ホテル」すべて北海道からやってきた82歳の下山さんが運転する愛車で駆け巡りました。二泊三日の旅の間中、朝6時から夜の22時まで途切れることなく心を打つ下山節は続きました。出光千葉動力課で最初に出会った昭和53年から1年間の上司でしたが、47年間の付き合いの中でも日々研鑽を積まれ、ますます頭脳明晰、暖かい心、行動力、あくなき探求心! とても御年82歳とは思えぬすごい人です。いつ会っても「偉大な父親、尊敬する心暖かい兄貴」という思いに包まれます。・・いま仙台あたりでしょうか。盛岡の次男に会うのをとても楽しみにされています。
1.出光軽井沢寮にて
下山さんにとっては46年前の係長研修以来の軽井沢寮です。
「あの時は徳山リアクター破裂事故の直後だ。本社が全係長にネジを入れ直す研修で、よい思い出じゃないから今まで軽井沢寮は避けていた。こんなに素晴らしい厚生寮なら、息子たちと家族で利用してもいいな!」
「35年前に甥っ子が入院して、姫路から見舞いに来た時に、たまたま“夕焼け小焼けの碑”と、このお寺に出会った。もう一度行ってみたい」と35年ぶりに訪れた往生寺です。「間違いなくここだ! 寺までのリンゴ畑は変わってしまったが・・」
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無言館を象徴する名作です。
戦前戦中の画学生は、みんな貧乏暮らしの中で家族が無理をして東京美術学校(東京芸大)や多摩美術学校などで絵を勉強していました。従って女性人物画の題材はお母さんや妹たちです。
この絵は、遠い故郷で息子のことを案じながら針仕事をしているお母さんを思って描かれたのでしょう。周囲の絵の具がはがれて劣化してきているのが心配です。6.「和子の像」 太田 章 享年23歳
この日本画は、 123×70㎝の大作です。作者が仲の良かった妹を描いたもので、遺作はこの一点だけだということです。この妹は結婚せず、80歳で没するまでこの絵を大事にしました。大好きな亡き兄を慕いながらの人生だったのでしょう。
2.出光軽井沢寮食堂で
客室50室100名以上宿泊できる軽井沢寮ですが、最近は利用客が少なく、この時も土日ながら、利用客は2組です。出光OBが一緒なら同行者は全て一泊二食付きで5,500円です。「息子家族を呼んで家族会やろうかな」と言っておられました。 (利用者の少なくなった軽井沢寮がなくなっては、私としても困るので「ぜひ活用してください!」です。)
3.童謡「夕焼け小焼け」の長野市往生寺にて
「35年前に甥っ子が入院して、姫路から見舞いに来た時に、たまたま“夕焼け小焼けの碑”と、このお寺に出会った。もう一度行ってみたい」と35年ぶりに訪れた往生寺です。「間違いなくここだ! 寺までのリンゴ畑は変わってしまったが・・」
4.「無言館」
5.「編み物をする婦人」
興梠 武 享年28歳
無言館を象徴する名作です。
戦前戦中の画学生は、みんな貧乏暮らしの中で家族が無理をして東京美術学校(東京芸大)や多摩美術学校などで絵を勉強していました。従って女性人物画の題材はお母さんや妹たちです。
この絵は、遠い故郷で息子のことを案じながら針仕事をしているお母さんを思って描かれたのでしょう。周囲の絵の具がはがれて劣化してきているのが心配です。6.「和子の像」 太田 章 享年23歳
この日本画は、 123×70㎝の大作です。作者が仲の良かった妹を描いたもので、遺作はこの一点だけだということです。この妹は結婚せず、80歳で没するまでこの絵を大事にしました。大好きな亡き兄を慕いながらの人生だったのでしょう。
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