百年に一度の傑物と言われた出光佐三店主は、明治44年6月 門司で出光商会(出光興産の前身)を創業しました。
その基本理念は、神戸高商の恩師:内池廉吉博士の教え『消費者本位=生産者から消費者へ直結した流通・販売』でした。当時は日露戦争直後の成金万能の時代で、「金銭の奴隷になるな」と理想を掲げての創業は、死線を彷徨する苦しみの連続だったとあります。そして漸く事業が安定した昭和15年に創業30年間貫いてきた経営理念を『紀元2600年を迎えて店員諸君と共に』として纏め、全社員に徹底しました。その骨子は、【➀人間尊重、➁大家族主義、③独立自治、➃黄金の奴隷になるな、⑤生産者から消費者へ】です。この精神的基盤があったからこそ、戦後無一文になった出光に帰還した1000人の社員が一致結束して戦後復興に当たり、「日章丸事件」のような世界を驚かす偉業を次々と達成しました。
そして昭和32年世界最新鋭の徳山製油所が完成します。当時3年はかかると言われた大建設工事ですが、店主は「人が結束して真に働けば10カ月で完成する!」と目標を掲げ、それに向けて出光社員が猛烈に働き、それに触発されて現場の下請作業員も懸命に働き、ついにはライセンサーUOPの技術指導員までもが突動かされ、本当に10カ月で完成し世界を驚かせました。そしてこの仕事の取組み姿勢が出光技術陣の原点となりました。その後、千葉・兵庫・北海道・愛知・沖縄と次々に製油所が誕生しましたが、出光技術陣の「一致結束して真に働く姿勢」は確実に受継がれて行きました。 そして店主の経営理念をしっかりと咀嚼して身に着けるために、全職場で『紀元2600年を迎えて店員諸君と共に』をテキストとした自問自答会が継続的に開催されるようになりました。
しかしこの基本理念は、出光創業30年間の流通・販売事業苦闘がベースであり 『③独立自治、➃黄金の奴隷になるな、⑤生産者から消費者へ』は、私達技術系社員には頭では理解できても中々実感できませんでした。私は「出光技術者として手本・目指すべき先輩がいる筈」と思ってきました。目の前の仕事をこなすのは勿論大切ですが、『人間として尊敬でき、人生の師匠となる先輩を探し当て、いつも目標にして研鑽すること』 が、私には一番大切なことでした。
自由気儘な学生から社会人になると、初対面の職場の人間関係、上司関係、お客様との信頼関係、初めての仕事、健康な私生活維持・・・全てを自己責任で切抜けていかなければなりません。それだけでなく身の回りに想定外の出来事や大事件が起きたりして、何も手につかず呆然と立ち尽くし悩み苦しむことが屡々あります。 そういう学生時代には想像もしなかった厳しい現実、不安や悩みの多い時期に必要不可欠なのが、心から信頼し相談できる友人や先輩や恩師の存在です。
私は入社3か月目に独身寮同室の4年先輩が不審死する衝撃がありました。また2年後 中央訓練所での新入社員教育でお世話になった寮監さんがガス爆発で殉職されました。訓練棟でガス漏洩発報、寮母さんを安全な場所に避難させて、一人で点検に行きドアを開けた瞬間に大爆発した尊い悲惨な事故でした。・・・社会人生活は、そういう想定外の大事件が突然、何度でも襲ってくるものです。そういう時にパニックにならないよう、常日頃から人生の師匠に学び、『自分は何のために働き、生きているのか・・』を、常に自問自答して心の鍛錬をしていく必要があります。
1.長谷川さんの新人時代
佐三氏の出光商会創業から60年後、長谷川さんは昭和43年に入社、出光の原点:潤滑油部門でスタートしました。
当時は千葉製油所内に高性能潤滑油ベースオイル精製プラントを建設中でした。期待の優秀な新人 長谷川さんは、その新装置重要機器の超高圧水素ガス圧縮機(200気圧≒20MPa≒200㎏/㎠)のメーカー工場立会検査に派遣されました。 国内でも類を見ない最新鋭圧縮機でしたので、メーカーも取扱いに慣れておらずフラッシング不足で、性能検査中に機械内の残留油(潤滑油など)が断熱圧縮で気化爆発して火災が発生したのです。立ち会っていた出光関係者3人は大やけどを負い長期入院を余儀なくされました。
以来、長谷川さん自身のミッション、ライフワークは『安全・安心のプラント運転技術確立・維持向上』となりました。現場復帰後は安全環境部門のスタッフとなり、常に最新の国内外事故事例を入手し、毎朝各現場朝礼で全員に紹介して啓蒙・安全意識の高揚に努力されました。
長谷川さんは 『大事故原因の8割以上は人的要因・ヒューマンエラー』 という厳しい現実を力説し、現場の意識改革を推進されていました。
昭和47年度入社したばかりの私は『長谷川さんは、20歳半ばなのに課長・係長よりも説得力がある。小心者の私には、4年後あのような重要な仕事を使命感持って所員に啓蒙することはとてもできない・・』と、いつも畏敬の念で仰ぎ見ていました。
2.長谷川さんの中堅時代の活躍
私は、昭和54年6月に本社人事部異動発令を受け、挨拶に行ったときの長谷川さんのアドバイスは今も心に鮮明に残っています。 『今までは異動して新しい仕事に就いたら “守破離” を3年で完結せよと言われてきた。時代変化のスピードが速くなったこれからは、それを2年で完結するつもりで頑張れ!』 と・・
昭和54年、長谷川さんは出光創業70周年・千葉製油所操業20年に向けた『業務改革・意識改革にアタックするルネッサンス活動=A70活動』 の初代事務局に抜擢され、北山さん・菅原さんと共に所員を牽引しました。そして40年後の今もエンドレスに続く業務改善・改革活動の基盤を作られました。
長谷川さんの重要ミッションは、創業者の佐三店主が指導された 『“ひとり一人が経営者” を工場現場での実現すること』
です。上位下達・指示待ち・マニュアル人間で保守的な工場勤務者に対し、自ら考え工夫改善・改革しながら限りなく自己変革し成長する人間への脱皮活動推進です。長谷川さん達事務局の役割は、縦割りの組織に小集団活動で横串を差し、織物のような強固で創造的な仕事集団をつくる事でした。特に日頃目立たない大人しく真面目な所員にスポットライトを当て、小集団活動のリーダーにしたり、所内発表させるように現場の課長・係長に配慮・指導を求め
『ひとり一人が自分の持ち場の経営者であることを実感する活動』
を定着させました。 (ただ当時の製造部長は元海軍出身で秩序や上意下達を重視し『改革派は下剋上、秩序を乱す紅衛兵運動だ』
と阻害され続けました。)
その後、兵庫製油所運転課に新任課長として赴任された長谷川さんは、従来の課長と全く違いました。毎週2回行われる課内会議では、『聴きたいことがあったら何でも質問しなさい。職場・製油所の事でも、本社の事でも何でも答えるよ』
と言って、あとはニコニコしながら課員の質問・発言があるまでいつまでも待つのです。質問がないと無言の時間が続くことになりますが気にする様子はありません。むしろ気になって色々考えだすのは部下の方です。そうやっているうちに課員からの主体的な発言・質問が増えていき活発な課内会議になっていきました。
また個人面談や活動目標面接などで最初に質問されるのが
『君のミッションはなんだ?』
と考えさせることでした。 これは何歳になっても答えづらい質問です。(古希の私も、自分が今
生きるミッションは何だ? と自問自答しますが、中々答えられません・・・汗)
こういう運転課員が主体的に自分の頭で考えことを第一義的に重視する姿こそは、創業者出光佐三店主が理想とする『一人一人が自分の現場の経営者』の実現でした。
3.長谷川さんの微笑ましい家族エピソード
長谷川家は当時珍しいほどの子沢山(6名)で、6人目が生まれた時『給与明細の家族手当欄が1桁足りない』と人事部で大騒ぎになり、この時から6桁(10万円越え)に変更になりました。・・この6名が兵庫製油所の家族会に来所した時の話です。
上の3名は徒歩で先に到着し、奥さんは自転車の前後に2名乗せ背中にもう一人を背負い汗を流しながら到着されました。『子供6名を育てるのは本当に大変だな!』と思ったものです。その子供たちは家族会の中でもひときわ活発に楽しく遊んでいました。 さて会が終了して家族を見渡すと4番目の子がいません! しかしそれからの行動が見事でした。
『お母さんたちは此処を動かないで!』と母と幼児二人を残し、上の3人が3方向に散らばり、あっという間に迷子の4番目の子を見つけて連れてきました。『長谷川さんが職場で指導されている “自ら考え自ら行動する“ ということは、このことか!家庭でも実践されているんだ!』と改めて感動した一コマでした。
長谷川さんは、そのあと北海道製油所副所長、九州液化瓦斯基地社長、平成15年9月M8.0の十勝沖地震で発生した大タンク火災の大混乱を収拾する切り札として、出光技術陣トップの製造部長に就任されました。
4.技術部門最大窮地で救世主となった長谷川さん
入社以来、接した先輩方は 店主の教えを実践すべく常に奮闘努力されていました。私が遭遇した会社の一番の危機は、バブル崩壊で約3兆円という会社開闢以来最大の有利子負債を抱え倒産寸前となった時です。当時の経営陣はシェア日本一を目標に邁進し莫大な投資をした直後のバブル崩壊で、多額の借金を負い経営危機に陥ったものです。しかし店主の理念に心酔し研鑽してきた出光社員の総合力は見事でした。僅か2年でこの危機を乗り越えて一部上場を果たし、経済・官界からは奇跡と呼ばれました。
この間 製造部門では、超エリートの独断型製造部長が、人件費削減目的で『操業分業分担 =運転リーダー・制御ボードマンだけを正社員とし、残り大半の現場操作員は転籍・分社化する』を、現場役職者の強い反対にも拘らず強引に進めていました。極限のコストカットを求められる経営危機でしたが、これは根本の経営理念に反する余りに安直な人件費削減策でした。
昭和五十年後半からの高度成長終焉不況、バブル崩壊後の超氷河不況期に、他社が大量解雇・人員削減を実施する中「社員が資本」の出光技術陣は、退職補充なし(運転員新規採用ゼロ)を約二十年間続け、世界一少数精鋭の運転PE(プロダクション・エンジニア=スタッフ業務もこなす多能技術者)を実現しました。「操業分業分担」はその血の滲むような努力を踏みにじるものでした。
かって店主は、もっと苦しかった終戦後、無一文になった出光の社員 1000 人を『社員は家族だ!』と一人も馘首せず、幹部自らタンク底にもぐって残渣油を回収したという『極限危機での家族主義の実践』を示していました。・・えてして「頭の良すぎるエリート」は目先の金銭に囚われたコストの奴隷になってしまいます。(現在、この手の自意識だけは強く理念なきエリートが日本の中枢=国会、官公庁、大企業の幹部を占め、今日の日本の大混乱や危機を引起こしているのはご承知の通りです。)
これに対し長谷川さんは断固反対の信念を貫き通し行動されました。
『そんなことをしたら世界一の少数精鋭の和が分断されチームワークが失われる。 現場の強固な一体感こそが出光の高度な安全安心運転や独創的な改善・改革の源泉だ。 この誤った方針では出光理念の “一人一人が経営者” の精神を捨てることになる。大災害時に果たして一枚岩のチームとして機能できるか?』
と・・・。
長谷川さんがおられなかったら、恐らく出光の製造現場の和の力は失われ、他社と変わらないセクショナリズムや対立闘争の場になっていたことでしょう。 しかしこの時の製造部長は聴く耳がなく、部長方針に反対する役職者の多くは冷遇され異動、長谷川さんは九州の小さな関係会社に出向となりました。(ひとりの権力者が多くの有意の方々の人生を狂わせる・・企業とは恐ろしい一面があります。)
そういうさなか、平成15年9月マグニチュード8.0の十勝沖地震が発生、長谷川さんが危惧した通りの緊急事態となりました。
工場から200km沖合が震源地であったため、長周期波により北海道製油所石油タンク群の浮き屋根が大きく波打ち破壊されて出火、3万トンのナフサタンクで大火災となりました。
この時の現地責任者の 所長は、海外勤務経験もある超エリートで情け容赦ない合理主義のコストカッターでした。工場守護神社や地元の樽前神社の例大祭も、南北海道最大の「港まつり」参加さえも無駄とばかりにカットし「地元と共に発展する」 の社是はすっかり忘れられていました。それゆえ自然災害原因の大火災なのに、地元の同情は全くなく、消火活動で仮眠も満足に取れないほど頑張っている出光を、メディアや市民は連日厳しく追及しました。
そういうなか所長は『火災はコントロールされているからタンクが壊れて港に火災が広がることはない』と発言して火に油を注いでしまいました。 確かに火に炙られたタンク側壁は蛇腹のように縮み裂けることはなく、その通りなのですが「消防車の放水が全く効果ない大火災がコントロールされているとは何事か!」と大反発を受け、二度とメディアの前に出られなくなりました。住民を大不安に陥れている最中に誠に無神経な発言でした。
本社もメディアに厳しく追及され、たまりかねた天坊社長は 『今回の火災の根本原因は地震という天災だ。いわば出光も被害者で全国から社員を集めて災害対策・復旧に不眠不休で頑張っている。何故そのように出光の責任ばかりを追及するのか』と抗弁しました。現場で頑張っている社員たちは『社長が私達を応援してメディアと戦ってくれている!』と百万力を得た心強い感動を覚え、益々頑張りました。
ところが、かの製造部長が『いや、これは人災だ。私も経営陣の一人として責任がある』 とメディア発表し折角の社長発言を打消しました。その為『事故隠しではないか!』とマスコミの追及は増々激しくなりました。・・今でもあの時の製造部長は、何の目的で、何故あのような発言をしたのか・・? と理解に苦しみます。
こういう四面楚歌の状態を打破すべく、長谷川さんが九州の子会社から呼び戻され製造部長となり陣頭指揮を執ることになりました。そして現場対応は勿論、総括課長(現副社長)のメディア対策、現地の新所長を中心とした結束が効奏して漸次収束に向かい、地元の信頼を回復していきました。
そして長谷川新部長は、前製造部長が強引に進めていた『操業分業分担』は出光根本理念に反する非現実的施策であるとして、即中止決定されました。
私はあまり霊魂や超常現象を信じる方ではありませんが、この時ばかりは出光佐三店主が技術部門全社員に対して『君たちのやっていることは出光の進む道ではない!』と鉄槌を下されたのが、あの大タンク火災だったのではないか・・と強く感じました。そして本来の出光に戻すべく長谷川さんを遣わされたのだと確信しました。
長谷川さんは、普遍的真理 『人の和こそが安全安心の基本であり、偉大な成果を生む源泉である』 を出光の製造現場に定着させた出光技術陣の救世主だったと私は今でも感謝しています。
しかし偉大な佐三店主死去後の出光は、宗家2代目社長の顔色をうかがう風潮が強くなり理念と現実の乖離が進んでいました。「生産最優先の製造現場」で出光理念を実現しようと奮闘される長谷川さんのような骨のある真の出光らしいリーダーは、逆風の中で孤軍奮闘の苦しい戦いの連続でした。のちに退職された長谷川さんが『もう出光の事は考えたくない』と言われたのが強く印象に残っています。
5.長谷川さんの第2の人生
長谷川さんは勇退後、元校長だったお父さんが退職後取り組んでおられた農業(甲府名産の干し柿)を継ぎました。まず地元農業大学で半年学び、老舗の農家に弟子入りして技術を磨き、現在 毎年3千個(いずれ1万個を目標)の高級干し柿を生産をするまでになられています。
私は退職後、真っ先に心から尊敬する長谷川さんの山梨の自宅を訪問しました。そして昔と変わらない、気さくで暖かい笑顔で心から歓迎してもらい感激でした。
3種類の干し柿をいただきましたが、その甘さ、適度な柔らかい食感、こんな美味しい干し柿は生まれて初めてでした。
ものすごい集中力と弛まぬ努力、いかにも長谷川さんらしく、感動・感動の連続でした。
そして『長谷川さんこそ私の生涯の心の師匠だ!本当に素晴らしい先輩と巡り合えた!』と、心から感謝しています。
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