2024年8月5日月曜日

3. 出光佐三店主を語る(山田さん➁)

 令和2年(2020)46日、山田治男さんが永眠されました。
奇しくも山田さんがこよなく敬愛された出光佐三店主と同じ享年97歳(数え)でした。心から感謝と哀悼の意を表します。 
山田さんは、生涯を通じて後輩・若者を育てられ、地域社会の福祉に尽力され、近年は『戦争語り部』として、平和ボケした現代日本人に警鐘を鳴らし続けてこられた、本当に偉大な生涯でした。この『シベリア抑留体験』、そして3年後復員して舞鶴港に着いたとき、夢にも思わなかった出光との再会、そして『佐三店主から直接受けた指導の数々』・・この二つを後輩・若者たちに伝えきることが山田さんの晩年の使命感でした。

世界中を震撼させた新型コロナは、日本でも深刻な感染爆発・医療崩壊を引き起こしました。国連常任理事国ロシアはまた2年前、世界平和の大原則である国連憲章を自ら破りウクライナ侵略戦争を開始しました。この緊急事態にこそ全国民が一丸となって耐え忍び、乗り切らなければならない時です。その後 中東ガザ地区でもハマスとイスラエルの悲惨な戦争にイランも加わり大戦争への危機が迫っています。一方東アジアでは軍事力を急速に高める中国が、米国の混乱・分断に乗じて台湾併合しようと虎視眈々です。こういう時に、私達日本人が是非参考にしたい戦後のエピソードを紹介します。
 かって今とは比べられない悲惨な非常事態がありました。戦没者310万人、日本中が焼け野原となり、海外戦地からの復員兵が満溢れ、夜露をしのぐ家もなく、食べるものもない悲惨な非常事態でした。しかし先人達は歯を食いしばって乗切り、戦後の繁栄を築き上げました。
終戦後、出光佐三店主​​会社資産を全て失い無一文となりながらも、​800人の社員を一人も馘首せず、糊口をしのぐ事業を次々と立ち上げて社員の生活を守り抜きました
『焼け野原の中でどうやって暮らしていこうか?』と思いながらシベリアから復員してきた山田さんもその800人の中の一人でした。舞鶴港で思ってもみなかった出光に​​迎えられた時の山田さんの感激!・・この頃を述懐された文は何回読んでも、もらい泣きしてしまいます。日本人なら、苦しい時こそ歯を食いしばり、助け合って乗り切らなければ・・と改めて思います。私達現代人は、物質的な繁栄はあっても誠実・堅実な生き方を見失っています。今こそ原点に立ち返える時です。 
 終戦後、出光佐三氏が、800人の社員を一人も馘首せず守り抜いたこと。 終戦3日後には、打ちひしがれている社員に向け、”日本人に帰れ! 愚痴を言うな。2600年の日本の歴史を思い返せ。そして建設にかかれ!” と訓示されています。 更に自社々員にとどまらず、『イラン石油事件』 のように、日本の復興・国民の幸せの為にとことん働こうとされた経営姿勢。 またそのトップの生き様に心を熱くして、不屈の闘志を燃やして立上がり現代の豊かな日本を築きあげてこられた山田さんら先人の姿を手本にする』しか日本再建の道はないと思います。
 今回は、平成21年の出光OB誌の山田さん随想 『店主を語る』 を紹介します。いつ読んでも何回読んでも涙なしでは読めない山田さんの思いのこもった文章が、日本中の働く人々、とりわけ経営者やマネージメントの方々の心を打ち、参考にして戴ければこの上ない幸いです。



『出光佐三店主を語る』 (平成21年 山田治男さん記 ・・当時84歳)

OB誌の編集委員から、店主との思い出を語って欲しいという依頼がありました。私も高齢になってきたので、これが最後の機会になるかもしれないと思っています。
私は昭和18年末に出光に入社し、20年1月に陸軍に入隊、関東軍の満州国境警備隊に配属、7か月後の終戦とともにソ連のシベリア抑留となり、昭和23年6月に復員しました。後で知った事ですが、この抑留期間中も出光は社員として扱っていてくれました。 
この間、出光勤務は僅か1年そこそこでしたが、爆撃で日本中が廃墟となった中で、出光の会社が残っているとは思いませんでした。もし残っていても、勤務年数が少なく、すでに解雇されているものと覚悟して舞鶴港の土を踏みました。 そこで桟橋に出光の旗を見つけ、出張所長の東堂さんの出迎えを受け、わが目を疑いました。 そして会社の状況を聴き、また未帰還社員の確認情報の収集に努力されているのを目の当たりにして、心底から感激し驚いたことを、今でも鮮明に覚ています。

「一旦郷里にかえり、近くの四日市出張所と連絡を取るように」 と指示を受けました。 1か月後上京し、奇跡的に焼け残った歌舞伎座横の出光本社を訪問しました。 
店主より、『ご苦労さんでした。みんな日本の復興と会社の再建に努力しているので、君も頑張ってくれたまえ。』 と温かいお言葉を戴き感激いたしましたことは、生涯忘れる事はできません。
今の日本、百年に一度の大不況、未曽有のデフレ20年と大騒ぎしています。しかし今とは比較にならない終戦時の混乱の中で、店主は私達に『何を騒いでおるのか、出光唯一の資本は社員である。 会社が無一文になっても解雇はならぬ。 僕は乞食になっても社員とともにある!これが出光経営の根本理念だ!』と宣言された。 あの気概を、今の世の中の経営者の皆さんは、どれだけお持ちだろうかと、寂しい思いがしています。

もう一つ話しておきたいのは、昭和38年11月におきた石油連盟脱退です。
出光は、昭和32年に当時国内最大の徳山製油所を作り、同38年に千葉製油所が完成し国内供給体制は完備しました。  ところが石油業法により各社の生産枠はがんじがらめでした。この年の冬は例年にない大雪となり、灯油不足で国民が困窮していましたが、国も石油業界も既得権益最優先で何ら有効な手を打たず、出光は完成したばかりの千葉製油所の稼働を50%に制限されたままです。『国民の生活困窮を無視したこんなバカな法があるか!』 と店主は石油連盟脱退を決断されます。
丁度 本社会議室で店主を中心に、出光計助副社長、加藤正常務、営業幹部が最終協議を行っている最中でしたが、その席に私も呼ばれました。この時私は、たまたま別件で広島から本社に出張しておりました。
そしていきなり店主から『君たち営業の第一線は、現物が不足して消費者に迷惑をかけているのではないか』と声をかけられました。まさにその通りだったのですが、国や石油業界全体を敵に回すことになるという幹部たちの異様な緊迫した空気から返答に窮しました。そういう私の様子を見て『この通り国民の役に立とうとしても出来ず、第一線は困っている!』と言われ早速行動されました。弘永次長に需要家台帳を持参させ、植村石油審議会々長に面会を求め、急遽交渉に向かわれました。それは 『たとえ政府や業界を敵に回しても、出光は国民と消費者の為に働くのだ』という気迫が言動に満ちており、まさに『士魂商才そのもの!』と感激いたしました。

店主は常に若い社員の育成に気を配っておられました。軽井沢での支店長会議では、何時でも店主が質問されるのは、社員の育成についてでした。そして店主は君たちの使命は、世の中 人の為に真に働いて、人々から尊敬される存在になることだ。これを法律上の定款とは別に、これを精神上の第二の定款として忘れず実行せよ。』 と、いつも訓示されました。
その背景には、かって店主が神戸高商(現神戸大)卒業後、福岡宗像の実家が没落・困窮した時、救いの手を差し伸べ、出光商会立ち上げ後も窮地に陥るたびに支援し『出光君となら一緒に乞食をしても良い』と物心両面で支えた 日田重太郎氏 の存在があったと思います。
 
店主は昭和56年3月7日、97歳で天寿を全うされました。 
昭和天皇陛下は、『出光佐三逝く』 として

  国の為 一世貫き 尽くしたる  きみまた去りぬ  寂しと思う 
と詠まれました。 このような事は一般民間人としては大変少ない事であり、私達の誇りであります。

 最後になりますが、激動する国際・国内環境の中で、多くの会社がいつも存亡の危機にさらされ、各企業は生き抜くために経営統合や合併を余儀なくされています。しかしどのような業界・業種・企業であろうとも、店主が生涯をかけて示された精神、
『世の中 人の為に真に働いて、人々から尊敬される存在になること』を実践していくことを忘れてはならないと思います。その延長線上にこそ、個々人の成長も、企業・日本の永続的発展もあります。

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