若手の入社後定着率の悪さがずっと問題になっています。 入社後3年以内に退職する若者は3~4割、特に製造業が高いようです。
かく言う私も、50数年前、石油会社の装置運転業務が面白くなく、毎日退職ばかり考えていた時期がありました。そんな時に読んだ 『匠の時代』 に登場した三菱電機群馬製作所 神谷昭美所長の 『良い師に巡り合う努力を』 の一文に釘付けになりました。そこにはこんな事が書いてありました。
20歳代の私を育てて下さった上司なくして今日の私はなかった。深い感謝の念と共に、巡り合いの不思議さ、大事さを思わずには居られない。 定年間近になって思うのは次の事です。
1. 人生を左右する教育を受ける大事な時期は入社直後の3,4年。 所謂『三つ子の魂は百まで』。
この時期に学んだ『ものの考え方』は、定年退職するまで変わらない。
2. この時期に、自分にとって本物の先生は誰であるかを判断し選択しなければいけない。そして枝葉末節の小技ではなく、全人格的な薫陶を受けるべく、その師についていくこと
それ以来、心を入替えて『良き師』を見逃さないようにしました。そして出会った『心の師』が大岸さんです。 この師なくしては、その後の人生は全く違ったものになったと思います 。
JR内房線姉崎駅で下車すると、西側正面にひと際高い煙突が聳え立っています。高さ180mのてっぺんから、薄い煙が空高く勢い良く立ち上っていますが、良く見ると煙突の上部が円錐状に絞られています。 この煙突を見るたびに大岸さんを思い出します。
約45年前、この煙突の煙はだらしなく垂下がり、上方の1/4程が汚くよごれていました。それだけでなく風向きによっては濃い煤煙が市街地にまで達し、市民の皆様に迷惑をかけることもありました。
そんなある日、『今度、スゴイ怖い課長が着任するぞ!』 という噂の中で赴任された大岸さんは、着任錚々『なんだあの煙は!これはダウンウオッシュの一番ひどいやつだ。 近隣住民に大気汚染を撒き散らし迷惑を掛けている。何で5年間も放置していたんだ!』 と、大反対する他の課長(特に私の上司課長)を一喝し、あっさりと上部に絞りを設置してしまいました。他の課長が大反対したのは『絞りを入れると煙道に逆圧がかかり、ほかのボイラや加熱炉の火が消えて運転出来なくなってしまうのではないか・・』と懸念していたからです。
『そんな事はありえない。計算すれば直ぐ分る。問題をそのまま放置する方が大問題だ。』
と一笑に付し、そして全く問題ないことが実証され、45年後の今も快調に排煙し続けています。
第一番目の教えは、『問題を放置せず、必ず解決すべし』 (問題点は問題認識した者にしか解決できない)でした。
次に大岸さんが問題視したのは世界初の公害防止設備=湿式排煙脱硫装置です。この装置は、そもそも250トン新設ボイラ二基の大量の排煙を浄化する目的で設置されました。その大型ボイラの燃料は安価なアスファルトで硫黄分が多い為、大気汚染防止目的で世界最初のシステムを採用しました。通常設計は排煙中のSox,Noxを処理した吸収剤は廃棄するのですが、この装置はキルンで蒸し焼き再生利用するシステムで、人手がかかり、事故故障も頻発する大変なプラントでした。これを題材にした 『虚構の城』 という小説が書かれたくらいです。
『何でこんな面倒な装置を作ったのか? 目的は排煙脱硫だから再生系は不要。世界初を目的化するのは本末転倒だ』 と、吸収塔だけの吸収剤使い捨て方式に取替えてしまいました。それまでの30人強の運転課はなくなり、他の運転課の遠隔監視だけで十分となりました。
第2の教えは、『本来の目的を見失うな。見せ掛けの華々しさや名誉に惑わされるな。』『安全・設備設計の基本は、Simple is the Best (単純が一番)、Fool Proof(間違えても大事に至らない設備対応)』 です。
大岸さんが最も力を入れたのは『人の成長』 です。
この当時、入社後20~30年を経過したベテラン社員が目的を失いマンネリに陥りつつありました。 大岸さんの危機感は『こういう時に大事故が起きる。事故はチームのボトム(未熟な者・意識の低い者)を狙って起きる。一握りの優秀な者だけ育てるのでは駄目だ。』 という事でした。 そして始めたのが 『アタック70活動 (一人一人が主役で仕事に取組む活動=業務改善活動。 牽引機関車型から新幹線型=各車両牽引型への脱皮)』 です。 この意識改革活動は事業所のトップから末端まで巻き込み、50年以上経過した今も脈々と流れています。
また専門技術の事しか関心がなく社会性が全く身についていない私達現場の者達に、色々な質問をして啓蒙していました。例えば中国の新指導者 鄭小平氏の来日が話題になっていた頃、『君は鄭小平が “夾竹桃のような人間になるな” と言っている意味を知っているか?』 といった具合です。
私が、『いや知りませんが、大気汚染に強く街路樹に使われているので、“逆境に負けず強くなれ“ と言う意味ですか? あれ?それなら良い意味ですよね?』 と答えると、『君は新聞やニュースを何も知らないな。もっと社会の事に関心を持て。彼が言いたかったのは
”夾竹桃は幹がなく小枝だけなので柱や壁板には使えない。小枝は枯れても燃えないので薪にならない。葉には毒があり家畜の餌にもならならず何の役にも立たない。そういう何の役にも立たない人間には決してなるな。“ と中国10億人に諭した言葉だ。』 私は、ただただ赤面するだけでした。
物凄い読書家で、『これが面白かったから読め』 と、私は毎月1冊くらい渡されていましたが、中々追いつきませんでしたが、それをきっかけに読書が習慣になり、心の財産になり、自己確立の基礎となっただけでなく、今こうやってブログの新刊書紹介等でも役立っています。
大岸さんと出会ってから1年後、現場の運転課から突然、本社人事部分室に移動になりました。「分室?何をするところだ?」と上司先輩に聴いても誰も知らず、赴任して初めて何の職場かが分かりました。「出光は切磋琢磨する厳しい職場だが、他方 会社風土は和気藹藹・家族主義の社是。その出光に、あってはならない労使対立闘争の組合が8つもできた。それを全て円満解決に導いた伝説のヨシダサンという凄い上司がいる部署」という事でした。「なんでこんなところに俺が行くことになったのか?」と呆然とする思いでしたが・・全ては大岸さんによるもので、上司でもないのに「なぜ安藤をこんな現場に6年も塩漬けにして遊ばせているのか!」と直接の上司を説得し所長に掛合い異動となったとの事・・転勤後ヨシダサンから「君が大岸が推薦した安藤か」といわれ、初めて異動の背景が分かりました。・・それから地獄の毎日が始まりましたが・・
しかしこの異動で、他の技術系社員にはあり得ない異質のキャリア人生が始まりました。入社以来 職務変更16回(転居12回)、普通はあり得ない技術系課長(電計)と事務系課長(人事、総務)を経験できたのは「大岸さんとの出会い」なしにはあり得ないことでした。その多彩な経験がベースとなり、退職後10年間『大学キャリア講師』として、若者の指導に携わることができました。
いま大岸さんは、60歳で退職後北海道厚真町の大原野に奥様と暮らし、今年25年目の85歳。歩行困難だった奥様の為に、現役時代から作り始めた足台や椅子などの木工細工が昂じていまや『匠の技を持つ木工師』で、『和机、蕎麦打ち鉢・俎板』などを手始めに、町の集会所などの修理やリニューアルなど、何でもやってのける町の名士となっています。
最大の作品は、住居の前にあった倒壊寸前の古い納屋を、設計から施工まで全て独力で建替えられたものです。『スゴイですね。どうしたらこういう事が出来るようになるのですか?』と私がたずねると、『なに大した事じゃない。要は、“やりたいことをやるか、やらないか” だけだよ』『一歩踏み出せば、何でもやれない事はない』。まさに至言です。 最近は、荒れ放題になっている森の復興にも取組んでおられます。
曰く『かって日本の森は人間が手をいれて、薪や炭を生産し、色々な動物も共生する豊かな森であったが、経済面最優先で杉やヒノキや落葉松林に替えてしまった。 しかも外国材に席巻され山は荒れ放題になっている。 僕はそれを少しでも元の豊かな森にして自然に返したいと思っている。』と、約2ヘクタールを天から預り (決して購入してと言われません)、手入れして見事な花が咲き乱れる森にする。また同じ思いを持つ仲間を増やしていくのが夢だという事です。
そして85歳となられた今も、北海道の野生児です。この大先輩を慕うかっての業務改革仲間は、2年に一回 『A70サミット』と称して、北海道の大岸さん宅に集まり、青年の気持ちに戻って熱い思いを語り合います。まさに 『人は心が若い限り、永遠に青春だ!』 を身をもって示されている 『偉大な心の師匠』 です。
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