会社生活40年間、人生70年間を振り返ってみると、尊敬してやまない恩師に共通するのは、『誠実に生き、厳しさの中にも温もりと人間味のある人』 、『失敗やミスを追求するのではなく、難問回避や検討不足や努力不足・衆知結集不足を決して許さない人』 であることです。 従って、どんなに厳しくても 『本当に部下後輩の為を思って叱っている!』 と素直に受止め成長の糧にすることが出来ました。 また優れた提案は最高責任者の前で説明させ、決定・全社展開するという仕事の醍醐味を体感させてくれました。 そういう経験を重ねながら 『これが創業者の基本理念 “人間尊重と家族主義” なのだ』 と実感し、見習い、有意義な40年間の会社生活を過ごす事ができました。 今回は、その中でも特別な存在として尊敬してやまない花淳さんを紹介します。
入社10年目で上司として出会った花淳さんの印象は、まさに 『妥協を許さない仕事の鬼』 でした。 教育課長着任して直ぐに指示されたのが、工場部門で展開していた業務改善活動を本社・支店にも展開する事でした。 しかし前任地で花淳さんがこの活動に冷ややかだったのを見た私が反論すると、烈火のごとく怒りました。 『前任地は、新設工場業務をゼロから立上げている状態で業務改善などありえない。 しかしいずれ必要になるのでリーダークラスのQC勉強会を開始していた。 その延長線上で全社展開を考えている。 そう言う君は本社に来て一体何の具体的行動を起こしたか?』 と、その叱責の激しさに同席した課員6人全員が凍りつきました。
初めて花淳さんの激しい怒りに接した私は、怯えながらも、『この人は筋を通し手加減しない凄い人だ。 自分もこの人のように強い信念を持ち行動する人間になりたい。
この上司に真正面からぶつかって鍛えてもらおう!』 と決心しました。
花淳さんの姿を最初に見たのは、その5年前にさかのぼる1970年代後半です。 石化千葉工場の建設が終わった頃で、私は隣の製油所で三交代勤務6年目の運転員でした。 当時最新鋭の戦略型石化工場(モノマー:BTX,SM、ポリマー:PE,PP,PS,PC)建設ということで、全社から若い優秀な社員が集められました。 元気があり余っているだけに自己主張が強くチームワーク形成は困難を極めました。 その人心を統一する要として赴任されたのが人事課長の花淳さんでした。 真黒な顔と眼鏡の奥の怖いギョロメ、鼻の横に大きなホクロ、一目見たら忘れない風貌は、『人事課長というより土方の親分か、鬼軍曹』 という印象でした。
他方 隣接する製油所は操業15年目で安定し、二度のオイルショックで新設プラント建設がなくなり、ベテラン所員にマンネリ感が漂い始めた時期でした。 それを打破して活性化する為に『一人一人が主役の業務改善活動=A70作戦』 を展開していました。 その指導者だった大岸課長から 『工場側もこういう活性化活動を始めたらどうかね』 と挑発されても、花淳さんは平然と無視していました。 後で知ったのですが、この時期の花淳さんは、『全国から集められた初対面同志、まずはお互いの交流を深めるのが最優先だ!』 と思い、大岸課長の挑発には、『いずれは始めるが、今はその時期ではない!』 と思っておられたようです。そして今一歩お互いに踏み込んで連帯感を深めようと、社員食堂に 『おめでとうございます。今日は次の方々が、誕生日・結婚記念日です。』 と、該当所員の名前を毎日掲示されました。これにより、お互いの大事な記念日に 『おめでとう!』 と言葉を交わす家族的な雰囲気ができました。 小さなことでも 『これが創業者精神の 家族主義だな』 と工場勤務者は実感しました。 またリーダー層には、質の高い科学的な仕事を展開・指導できるように、小集団活動・QC手法の勉強会をスタートさせました。
そういった中で悲惨な人身事故が発生しました。
BTX装置の定期補修工事の際、塔槽底の残渣ベンゼン抜出し作業中に、大量に漏れ出したベンゼンを全身に浴びた山本さんが事故死したのです。
当時ベンゼンがこれ程危険だとは思われておらず、設備の不備や運転員の知識・経験不足などが絡み合った不運な事故でした。
現場は事故処理、警察等の官公庁対応、現場復旧作業に忙殺されており、倒れた山本さんの病院への搬送や付添い、家族へ対応等は全て人事課員が対応します。花淳さんは課員の陣頭指揮を執り懸命の対応をされましたが,残念ながら帰らぬ人となりました。
感情豊かな花淳さんは、その話をされる時は、いつも言葉を詰まらせ涙ぐまれました。
後日談ですが、奥様は 『もう少し早く救急車が到着しておれば、主人は助かったかも・・』 の思いにかられ、その後30年以上、医療後進国ネパールの救急医療支援の為に日本の中古救急車を贈呈するNPO活動を続けておられます。 またこの時一緒にベンゼン抜出し作業をしていた後輩の福永君は、その時以来、毎年命日に山本家を訪れ仏壇礼拝を続けています。
『まずは先行している製油所・工場の業務改善活動を事務部門に分かり易く広める“情報紙”を発行しよう!』 という事になり、課員があれこれ紙名を考え提案しましたが、いずれもありふれており却下となりました。 そして花淳さんが助言されたのが 『輪』 でした。 その心は・・・『活動を展開する職場の母体は小グループのQCサークル活動で、チームの和がないと上手くいかない。そして小さな沢山の輪が成長して、改善の輪を大きくして全社に広げていく。 人の輪も和も大きく広がって行く・・・そういう思いが全社員に伝わるんじゃないか?』 という花淳さんの思いに関係者は全員納得しました。
『その前に“まず隗より始めよ” だ。 専門性が高くお互いに壁が厚い暗い雰囲気の人事部内にグループ活動を展開して、明るく開かれた
気軽に社員が相談にくる人事部にしよう!』 と、人事部内で業務改善活動を始め、少しずつ風通しの良い職場になっていきました。
そして全事業所に向けて月1回の情報紙発行を始めました。 まだパソコンは勿論、ワープロ専用機も普及されておらず全て手書きでした。
この情報紙は約1年間13号まで続け、 瞬く間に業務改善活動は全社に普及しました。 そして全社に活動が定着したのを見届けて、本来の統括部署である総務部に移管し
業務改善推進班が正式にスタートしました。 その活動は30年経過した今も全社で活発に取組まれており、改善手法勉強会や全社業務改善事例発表会など増々進化して活発化しています。
もう一つ印象に残っているのが、採用人数激減に伴う教育・育成システムの改革です。
この当時、高度成長期が終焉し長い不況が始まっていました。 それまで多い年は500人以上を新規採用していましたが、販売量も生産量も頭打ちとなり、プラント運転要員として大量採用していた工業高校卒採用はゼロに、大卒中心の採用数を技術・事務系合わせて100人程度に激減させる時期に来ていました。
当然技術系社員の教育・育成システムは大変革する必要があり、当時30歳の私自身がそれまで居心地の良いぬるま湯システムに浸りきっていたので、自己反省も込めて業務の合間に問題意識を調査・取りまとめました。そして
『技術系社員数推移から、今後の教育・育成システムの改革・大転換が必要だ』 との趣旨で、 『鉄は熱いうちに打て=入社3年間の育成強化。
3年目社員相互啓発研修開設。 製販一体感の早期醸成=入社1年目に技術系は販売体験、事務系は工場体験を組込む』
という提案書を花淳さんに説明しました。
『うん、これは良い。いまから製造部に説明に行こう。』
その場で判断した花淳さんは、そのまま私を連れて技術部門育成責任者の御舩次長席に行き、『重要な提案がありますので説明させてください。』 と前置きして私に説明させました。 一通り説明が終わると御舩次長は、『なるほどこの提案の通りだ。直ぐ実行しよう。』 と即断即決されました。 そのあまりに早い進展に私はポカーンとするだけでしたが、『良い事は最短で実現させるのが”本当の仕事”』 というあるべき姿を身を持って示された花淳さんは、私の目指す姿になりました。 (この時の改革案は、そのまま採用され、30年経過した今も続いています。)
その年の年末 『みんな忙しく頑張っているけど、時には息抜きも必要だ。 松野さんの得意なボーリング大会でもやらないか?』 という花淳さんの提案で、第1回人事部ボーリング大会を開催する事になりました。 前評判通りマイボール・マイシューズの松野人事部長が平均スコア220 のぶっちぎりで優勝。『なんだ君達、若いのにだらしないな。 時には遊ばないと良い仕事は出来ないぞ』 とにこやかな部長の優秀スピーチで、人事部内は一気に和やかに緊密になりました。
花淳さんの元で色々な事に取り組んでいる内に、あっという間に1年が過ぎて転勤辞令がありました。『君は良くやってくれたから、松野さんが送別ゴルフに連れて行ってくれるそうだ。』
と言われましたが、本当は花淳さんが話を進めてくれたようです。 有難い話でした。
当日は大変な大雨で、殆ど全てのプレーヤーがキャンセルしています。
しかしゴルフ好きな松野部長が 『もちろんやるよな?』 と言われるまでもなく、キャディなしでしたが貸切状態のなか喜び勇んでスタートしました。 そして想像以上の水没状態のゴルフ場で送別ゴルフが始まりました。
グリーン上も完全に水浸しで、力いっぱいパッティングしてもバシャバシャと水煙が立ち、2~3mも前に進みません。 ・・上がってみると4人とも200以上の滅茶苦茶なスコアでした。
するとまだまだ元気な松野さんが『もう1回行くか?』 と言われるので、水没ゴルフの2ランド目が始まりました。私のゴルフは下手くそな付合いゴルフでしたが、この時の送別ゴルフだけは心底楽しくて印象深く、30年以上経過した今でも私の最大の勲章だと有難く思っています。
そして花淳さんの元で経験した公私に亘るひとつひとつの出来事や経験は、遅蒔きながら私の中で血となり肉となり、それからの会社生活、職業人生の柱となりました。
花淳さんと一緒に仕事をしたのは僅か1年半、しかし10年以上も一緒に仕事をしたかのような信頼関係ができていました。 夜 東京から姫路の私の自宅に 『取りたい番組(NHK心の時代 河井隼雄)のビデオセットを忘れたから悪いけど録画して僕の自宅に送ってくれないか?』等の電話があるのです。『また誰かの相談に乗っているんだな・・人事部には頼める部下がいないから・・ま、いいか!』 など思いながら、姫路の私に気楽に依頼されるのを心から嬉しく思ったりしました。
その後退職まで30年間 全く違う部署でした。花淳さんと出会ってから10年後の40歳時、私は胃全摘出手術を受け、集中治療室で麻酔から覚めて苦しんでいるときに、真っ先に見舞いに来られたのが花淳さんでした。家内には『親兄弟にも知らせるな』と言っていたのですが、どうやって知られたのか・・その時花淳さんは千葉の副所長になっておられました。
出光最大の危機、有利子負債3兆円で倒産の危機にあった時、花淳さんは石油化学部門の総務部長で、それまでお荷物とされてきた赤字事業に大ナタを振るい極限までスリム化され、本体と経営統合する牽引車となられました。のちに副社長となられたNさんが花淳さんの葬儀の際、『当時石化部門の終活ともいえる事業整理を一緒にやりながら、出光にここまでやられる方がいるんだ!と 本当に驚嘆した・・』 と述懐されていました。
奥様も花淳さんと同じように終戦時満州から島根県浜田市に引揚げてこられた方です。美しく優しい方で、晩年難病に侵された花淳さんに、少しでも普通の生活をさせたいと、ご自身が脊柱管狭窄症に苦しまれながら、40kg以下の細い身体で献身的に介護されました。なるべく車椅子で昭和公園などに連れ出して、四季折々の美しい花々を一緒に楽しまれたようです。
花淳さんの晩年は、手紙もメールもできなくなりましたが、奥様からのメールで 『花淳さんらしい日々を送られているな・・』 と感じながら嬉しくなりました。
その頃、このブログ 『厳しく温かいリーダー(花淳さん)』を送付した時、奥様から次の返信があり、本当に嬉しく思いました。いずれ私達も同じように老いていきますが『花淳さんご夫婦のような信頼と愛情あふれる素敵な夫婦でありたい!』と話し合っています。
今回は主人を取り上げて頂き感激しています。少し病状も進んできたように思い、悩んでいました折に、今日はこんな素敵なラブレターを主人に送って頂き、心より感謝申し上げます。プリントアウトして主人に見せてあげました。忘れていた記憶が少し戻ってきた様子で、「こんなに尊敬されてたんだなぁ~ 」 と大変嬉しそうにしていました。
何よりのお薬になったと思います。日々 物忘れが進み、本人が一番悩み、自信を失くしている様子が私にはよく分ります。 そんな折に「素敵なラブレター」を頂き少し元気が出てきたように感じます。 「安藤君に手紙を書かなくては」と申していますが、多分 無理かな??と私には思えます。 気長くお待ち頂だければと存じます。
(追悼) 花淳さんは令和元年11月16日旅立たれました。心からご冥福をお祈りします。
下に添付したのは、昭和56年11月より、教育課から花田さんと私が全社に向けて毎月1回発信した改善情報誌 『輪』 です。 まだパソコンは勿論、ワープロ専用機も普及されておらず全て私の手書きでした。 この情報紙は約1年間13号まで続け、 瞬く間に業務改善活動は全社に普及しました。
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