今思い返しても、2011年は本当に大変な年でした。
3月11日に東日本大震災発生、近隣のコスモ石油で地響きを立てて4回爆発発生、600mのファイアーボールが大空へ立ち上りました。20日後に退職を控えていた私は、経験したことのない大揺れと大爆発を間近に見て「ああ これで東京湾は火の海、日本は壊滅だ! 退職どころではない、大変な事態になった!」と呆然としました。そして福島原発の危機、千葉県柏市の放射能値が異常に上昇している情報をキャッチした臨月の娘から「長男を連れて山中湖に避難して!」と懇願され、「どうせすぐに退職だから」と、有給休暇を全て使って山中湖畔に移動し出産する手筈を整えていました。しかしあまりの寒さに「これでは子育てできない」と再び千葉にUターン、直後の3月20日に娘は出産しました。そしてすぐに退職。
その夏の猛暑を避けて山中湖に移動した翌日の7月16日朝、小番さんが逝去されたとの電話が奥様から届きました。「いま主人が亡くなりました。主人が病院で、自分が亡くなった後の諸手続きを説明しても私の呑み込みが悪いので、あとは人事をやっていた安藤に聴けと言われましたので・・」と申し訳なさそうな電話でした。「大恩ある小番さんの葬儀!」とすぐさま取って返し葬儀委員長を務めました。3連休で関係者への連絡が届かない中の通夜に190名が参列されました。平日だったら、恐らくこの倍の方が参列されたことでしょう。小番さんがS37年に入社されて以来、多方面の交流で築いてこられた人間関係、また公私にわたって後輩を親身に指導・育成され、勇退後は協力会のまとめ役として尽力され、本当に頼りにされ尊敬されてきた素晴らしい存在だったことをかみしめました。
小番さんの67年間の人生は、将に『生涯現役を貫き通した人生。誠実に自分の使命を果たし続けた人生』で、私達に大きな教訓を示されました。また小番さんの暖かい満面の笑顔と、秋田弁丸出しの楽しい会話、何時の間にか楽しい飲み仲間を作ってしまう温かい人柄・・・そんな素晴らしい小番さんに接することが出来、楽しい思い出を沢山与えてもらった幸運を感謝し、小番さんの教えを伝え広げたいと紹介するものです。
小番さんは、昭和18年5月、秋田県由利郡矢島町(鳥海山のふもと)に生まれました。小学生時代から高校まで同級生だった友人の話によると、小学生時代はヤンチャで、中学時代は暴れん坊、高校時代は何と『応援団』で活躍する硬派のコワイ存在だったそうです。出光での穏やかな紳士のイメージを高校時代のご友人に話しますと『あの暴れん坊の小番が?信じられん!』と言っておられました。また最県南の矢島町から秋田工業高校への通学は、何と片道1.5時間、往復3時間です!
S37入社の秋田工業高校同期は、鈴木昭悟さん、佐々木武男さん、佐藤賢了さんです。
工務課計装係に配属され、入社4年目で早くも潤滑油精製装置建設PJの計装責任者となります。その大工事の真最中にお父さんが危篤状態になりました。 仕事のピーク時でどうしても現場を離れられません。仕事が一段落して漸く家に駆けつけた時、お父さんは既に亡くなっておられました。そのことは小番さんの人生最大の痛恨事でしたが『長い人生、こういう試練もあるさ』が口癖でした。
また、このハードな建設工事の影響で重度の椎間板ヘルニアとなり、20歳半ばで約1年間休務を余儀なくされました。これには元暴れん坊の小番さんも流石に参ってしまい、人生観を変えざるを得なかったと述懐されていました。
10年後に入社した私達S47入社にとっての小番さんは、『穏やかで優しく、1階の一番会社に近いB101号室で柴田錬三郎の大菩薩峠などの剣豪本を読みながらウイスキーを飲んでおられた最長老の永久独身の大先輩』という、いわば牢名主のような存在でしたが、苦しい腰痛をかばって、仕方なく横になっている事が多かったようです。
そして1年後輩の井上喜義さんとの出会いが人生を狂わせ、尺八の世界にはまり込んでいきます。邦楽界トップの大作曲家、船川利夫先生が尺八部の顧問だった事もあり、井上さんに引きずり込まれる形で、小番さん、猪川さん、本間さん、濱部さん、廣川さん、安藤等が富士見寮の一室で夜の22時、23時までブカブカ大騒音を発して、若い寮生に迷惑をかけていました。(皆さん本当にスミマセンデシタ!)
船川先生からは、『小番君の春の海は、最初の2小節だけは日本のトップクラスだよ』と誉められるほどの絶品でした。
(でも3小節目から息が切れメロメロになることが多かったのですが・・)
井上さんに惑わされて邦楽に入れ込み過ぎて人生設計が狂い、34歳でようやく結婚される時に貯金はほぼゼロ状態でした。これは他の邦楽メンバーも全く同じ運命をたどっています。(私も27歳で妻に結婚を申し込んだとき貯金ゼロで、それを50年過ぎた今も冷やかされます💦💦)一流の先生方との交友関係はかけがえのない体験でしたが、やはり趣味・道楽は程々に。計画的な貯蓄は不可欠です。
小番さんの本領発揮は、オイルショック後のクラブ活動予算削減が吹荒れる中で発揮されたマネージメント力と政治力、会社行事での邦楽演奏の働きかけ、パフォーマンスでした。そして人気がなくなって廃部寸前となった箏曲部存続の為、毎年新入女子社員に働きかけ部員確保に奔走されていた事です。そして出光エンジの木下節子さん、森田裕子さん、若井小百合さん、倉島さんらが出光千葉筝曲最後の黄金期を築きます。この女性達が結婚した後、S37年から約25年間続いていた出光千葉邦楽部は歴史を閉じたのでした。
仕事面では、S50年代に厳しい電計課長が就任し、メンタル不全に陥る社員が出たり、職場内の協力体制が危機に瀕する中、小番さんは常に課長の前面に立って若い後輩を守り抜きました。後輩にとっては、『本当に自分達の事を親身になって考えてくれる、頼りになる兄貴』
でした。そして製油所側の計装係長となられます。この当時若い後輩が次々と結婚しますが、その殆どは小番さんが仲人を勤められ、公私にわたって良き指導者であり、人生の相談相手でした。
2年後の組織変更で係長を外れた後は、S35年入社の山中逸雄さんと共に大型工事のプロジェクトマネージャーを担当されています。
そして大型工事が終了すると、出光エンジの重要課題であった『工事安全・品質の確立の専門スタッフ』として活躍され、出光内での第一人者になられました。そして勇退までの5年間は、苫東国家石油備蓄の出光エンジ所長代理として勤務され、出光と石油公団からの社長が交互に入替わる(当時)対応の難しい職場でしたが、約20名のエンジ所員を見事に指揮・統括されていました。
次々と難しい新たな仕事に就かれながら、常に『人の和』を大事にされ、明るく楽しく仕事に取組み、固い信頼関係で結ばれた強力な集団に育て上げられるマネージメント力は、本当に見事でした。
北海道勤務時代、休日には、二人の娘さんによく携帯メールを送り、娘さん達からの返信メールに細い眼を更に細くして喜ぶ子煩悩な親父でした。このころ良く述懐されていたのが次のことです。
○
俺はずっと千葉勤務だったけど、北海道の単身生活がなかったら家族にメールすることはなかった。北海道家族旅行も何回も出来て絆が深まった。そういう意味で本当に有難い経験だった。
○
最初の息子に対しては、初めての子育てで勝手が分からず厳しくし過ぎたかもしれないと、今頃になってようやく気づき、反省しているよ。
○ 道産子の所員と初めて一緒に仕事をすることになったが、S46の平山義春君を代表として、本当に気の良い有難い仲間だった。平山君には家に何回も招待されて所員全員でバーベキューをやったり、室蘭へウニ取りに連れて行ってもらったりして、北海道の素晴らしさを満喫させてもらった。どっちが所長か分らないくらいだった。
勇退後は、昭和アステックの安全・品質専任者として7年間パート勤務されました。
昭和アステックは、その前身の昭和電工の時代から構内協力会社として入構されていますが、当時大小のトラブルが頻発し、工事安全・品質面の強化が重要課題となっており、小番さんは将に救世主でした。『出光退職後3ヶ月ほどゆっくりしてから』
という希望もありましたが、結局勇退後2ヶ月目から出社されることになりました。そして入社後直ぐに事務所内のパソコンネットを構築し、5S活動を立ち上げて書棚・書類整理を一新されました。構外協力会センター時代の昭和アステック事務所を知る人は、今の製油所構内にある昭和アステック事務所を訪れると、別会社と思うほど5Sの行き届いた様変わりの職場に驚かれることでしょう。これは小番さんの尽力によるものと聴いています。
この7年間で経験された、『外から見た出光、下の立場から見た出光の欠陥、問題点』の話は、含蓄があり、珠玉のように深く心に響き、耳に痛く、反省させられることばかりでした。 いわく、
○ 人として生まれて、自分に与えられた仕事が楽しくなければ、その人生は全くつまらない人生だ。自分の仕事を面白くするのは、自分しかいない。『自分はこの職場に必要とされている、必要な人間だ』と感じるのが人間として一番嬉しい事だ
○ 勇退後働いてなかったら、一日中ゴロゴロして昼間から酒びたりで、今頃は飲み過ぎで死んでいただろう。長生きの為にも人間は働き続けなければいけない。
○
大事なのは“金”ではない。現役として第一線で働き、この世に必要な存在であり続ける事だ。
〇 最近の出光の保全マンが協力会社を紙切れ一枚でアゴで使うようになってきているのを危惧する。協力会社は出光の一番重要な第一線を支えてくれる大事なパートナーだ。
〇 かって協力会社の人達は、出光構内で仕事をする事を誇りにしていたが、今は『出来るなら出光の現場だけは勘弁してください』と言われる。こういう現実と、それは何故かという事を、出光の人間は、もっと真剣に考えなければいけない。
〇 出光はネームバリューで優秀な学生ばかりを採用できるが、一般の保全会社はそういう訳にいかない。出光から『低コストでよい品質の仕事を』と要求されて、一生懸命それに応えようと努力している。過重な要求ばかりしていては信頼を失う。 保全会社は人件費が大半を占め、要求コストに見合い、しかも一流のレベルの人材を揃えるには限界がある。高い人材を集めるとコスト面の要求を満たせなくなる。
〇 『あの担当者は駄目だから人を入替えろ』と簡単に要求する出光の担当者が増えてきたが、これは個人の生活・人生を断ち切る大問題であり、会社経営の根幹に関わる問題であり、そう簡単に実現できる話ではない。 出光の人間は、まずそういう事を洞察できる人間であって欲しい。何といっても、出光の人間は先輩から鍛え上げられ、素晴らしい実力を身につけている。
出光の人間なら当たり前に書ける報告書でも、協力会社に同じような文章力を求めるのは不可能だ。必要に応じて中途採用するので、ある程度の仕事は誠実にこなせても、出光が要求しイメージするレベルにはとても及ばない。それが保全会社の現実だという事を出発点にしないと、出光の保全現場には、『出光の現場で働ける事を誇りに思う協力会社は、全く存在しなくなる。』
○
S32徳山製油所建設から54年間、出光と同じ目的・目標に向かって協力し合う関係だから、『下請や業者』ではなく、『協力会社』としてきた歴史を大事にしなければいけない。
〇 一番心配するのは、今の大ベテランの姿勢・仕事のスタイルを正として育っていく若い世代の事だ。本当に今のままのスタイルで今後世代交代して、技術革新していく計装現場保全を40年50年間、責任持って担っていける人材が育つだろうか・・・そこを一人一人が真剣に考えて欲しい。
0 件のコメント:
コメントを投稿