2026年4月6日月曜日

5. 「赤い靴の女の子」物語り

 私は横浜に来たら山下公園の「赤い靴の女の子像」に会いに行きます。 

幼い頃の懐かしい思い出に再会したような気分に浸ります。・・小学低学年のころ、色白でえくぼの可愛い女の子がいて、私は遠くから見ているだけで幸せな気分になるマセガキでした。・・それが3年生のとき、営林署勤務のお父さんが転勤となり突然いなくなりました。私の幼い脳みそには童謡「赤い靴の女の子」がずっと流れ続けました。好きだった女の子が突然いなくなった悲しみと重なったのでしょう。(小1学芸会 浦島太郎が私、右端が憧れの佐藤絹代さん・・どんな人生を送ったのだろう?)

 就職して横浜に遊びに行った時、一番行きたかったのは、ポートタワー、中華街などよりも「赤い靴の女の子」像です。しかし寂しく海を見つめる姿に胸を打たれました。「あれっ? 異人さんに連れられてアメリカに渡り、青い目になって幸せに暮らしているのではなかったのか・・」と

「赤い靴」作詞 野口雨情、作曲 本居長世

フォレスタ  「赤い靴」(2014年)

 モデルとなったのは実在の少女「岩崎きみちゃん」(1902-1911)です。「本当は、明治時代に病弱のため渡米できず、9歳で東京の孤児院で亡くなった悲しいエピソード」が分かったのは「赤い靴」が発表されて50年後の昭和50年代に入ってからでした。

 モデルの「岩崎きみちゃん」は、明治35年に静岡県清水市で18歳母かよ の私生児として生まれました。周囲の白い目と苦しい生活に、母と函館へ移住し、そこで母は鈴木志郎と出会い原生林が広がる羊蹄山麓 留寿都の開拓生活に入りますが、幼い子供には厳しい開拓生活では生きていけないだろうと、アメリカ宣教師ヒューエット夫妻にあずけられます。しかしその後6歳で結核を患い、帰国命令が出ていたヒューエットはやむなく東京麻布十番にあるメソジスト教会の孤児院に預けますが、きみちゃんは3年間の療養の末9歳で亡くなりました。

 開拓に失敗した志郎は、札幌の小新聞社「北鳴新報社」に職を得、同じころ入社した野口雨情と夫婦ともども交流を深めました。かよからこの別れの悲しい話を聞いた野口雨情は「赤い靴」の詩に「異人さんに連れられて」という歌詞を加えました。 雨情自身が生後僅か7日の娘を亡くしていましたので、母子生き別れの悲しみに共鳴する思いが強かったのでしょう。「しゃぼん玉とんだ」「赤い靴」には、そのような「子供たちが災難に会わず、しあわせに暮らしてほしい」と祈るような思いが込められています。
 母かよは、娘がアメリカに連れていかれて幸せに暮らしていると信じ、死ぬまで「赤い靴」を口ずさみ「きみちゃんごめんね」と謝りながら、昭和2464歳で亡くなったといいます。 


 この「赤い靴の女の子」に実在のモデルがいたことが分かったのは、「赤い靴」の詞が発表されて50年も経った昭和48年の北海道新聞夕刊への投稿がきっかけです。かよさんと志郎の間に生まれた「きみちゃんの妹:岡そのさん 」の投稿は・・

 「私が生まれた10年も前に日本を去った姉。会ったこともない姉ですが、瞼を閉じると、赤い靴を履いた4歳の女の子が、背の高い青い目の異人さんに手を引かれて横浜の港から船に乗って行く姿が目に浮かびます。この姉こそ、後年、野口雨情さんが『赤い靴』に書いた女の子なのです。いまごろどうしていることやら。生きているのなら一目会いたい・・」

 この投稿に心打たれた北海道テレビ記者の菊地 寛氏は、それから5年かけてこの家族の足跡をたどり、横浜、東京、そしてアメリカにわたり『幻の異人さん宣教師』を捜し、とうとう「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めます。 そして女の子は病気の為にアメリカに渡れず、東京麻布十番にあるメソジスト教会の孤児院に預けられて、3年間の療養の末、わずか9歳で悲しい短い人生を閉じたことが分かったのでした。

 明治の末、貧しく苦しく辛い思いで懸命に生きていたんですね。

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