(47歳)「子会社の係長から、いきなり人事課長?」
私は47歳で兵庫製油所人事課長を拝命、経営危機下で「製油所閉鎖前の人事対応」がミッションでした。子会社の電気係長から、いきなり「250人製油所の閉鎖を担う人事課長」です。何という無茶苦茶人事かと唖然としました。
昭和30年代後半、かって兵庫製油所建設時には家島漁港が建設大反対し「魚カギ」を持った漁民が大挙押し寄せて、出光社員が体を張ってピケで守り、ようやく建設できた製油所です。 佐三店主は「大阪・神戸の大消費地を控えた姫路に、徳山の次の第2番目の製油所建設が不可欠」と建設計画しましたが、地元反対で遅れ千葉の方が先に建設されました。そういう悔しさから当地の従業員は頑張り屋が多く、のちに取組んだTPM活動のレベルは極めて高く、製油所には当たり前の「トラップの蒸気」「油臭さ」は全くないため、審査員の「大島東工大教授と佐山岡山大学教授」は、「蒸気漏れ・油臭さの全くない改善日本一の製油所だ!」と絶賛していました。・・こういう立派な製油所が閉鎖となった理由は、二代目社長がRFCC装置建設を北海道に決めたからでした。重脱装置がある兵庫なら500億円で建設できるところ、重脱・RFCC全部を建設する北海道では1,500億円もかかってしまい、バブル崩壊後の経営危機の一因になりました。
私の仕事は「姫路が大好きで、仕事仲間も最高の兵庫製油所で一生働こう」と入社した従業員と家族を、全国各地に異動させなければならない気の滅入る仕事です。「下手をすると三井三池争議の二の舞か」と覚悟して赴任しました。同時赴任した製油所トップは「部下殺し」の異名をとる凄まじいパワハラ所長でした。噂通り、直属の副所長は連続二人潰れて出社できなくなり異動になりました。私は元々子会社係長なので、虚心坦懐に仕え徐々に信頼されるようになり、やがて所長室でじっくり話相手をする唯一の存在になっていました。現場の若者が人事課に相談に来て私がいないと、女性社員は「課長は今お仕置き部屋(所長室)に入っています」と答えていたそうです。(笑) 副所長が呼ばれたときは「お前が行って代わりに話を聴いてきてくれ」と私が所長の相手をすることになっていました。
当時入社5年の、冷静沈着、思慮深く優秀な辻君は、千葉に転勤し兵庫の何倍も大きな工場で努力して最近副所長となりました。まるで自分の事のように嬉しいニュースでした。
(53歳)『役職者使命は、部下が仕事し易い様にすること」
47歳の新任役職者研修では、当時社長の出光裕治さんから「出光の役職者は上ではなく、下(部下)を見て仕事をせよ。部下が仕事し易い様にするのが君達の使命だ」と訓示され、これが私の役職者使命となりました。そして6年後、それを試される大試練が待ち受けていましたが、一歩も引かず組織簡素化の一端を担いました。その結果、私は北海道へ島流しになりました(笑)以下はその背景・経緯です。
私の長年勤務した製油所・石油化学工場は、「運転(交替勤務)と保全(事故故障対応)が車の両輪」です。もし車の両輪が簡素強力に機能しなければ、プラントは、ただの大きな鉄屑です。
昭和50年末、オイルショック後の不況対策として、外工事受注目的の工事会社=出光エンジニアリングが設立されました。新会社発足早々は、外工事は中々受注できないので、工場内の運転(興産)と保全(エンジ)とを分離して、従来工場経費一括りだった保全費をエンジ元請売上げとしました。当時分社化されたエンジ社員の本音は、こうでした。
「同じ仕事なのに、従来直接報告していた事故報告や工事完了報告を、一旦エンジ本社の裁可を受けて興産側に報告するのは無駄な仕事だ」 「クイックリスポンスの使命が果たせなくなった。」 「子会社だから今までの同僚・後輩をサン付けで呼べ? そんなバカなことできるか!」
エンジ保全員は、そう思いながら、約20年我慢し続けた分社体制でした。
その後バブル崩壊して、出光は2兆円超の有利子負債を抱え、ムーディーズに「投資不適格」と格付けされ銀行が融資を渋るという経営危機が訪れました。しかし出光の底力は社員自身も驚くほどのものでした。色々な資産を売却し経費を切り詰め、社員は給与減額、OBは企業年金減額までして2年間で有利子負債を清算しました。更に資本金2000億円超の一部上場会社となり経産省を始め経済界を驚かせました。
これほどの経営危機では、当然各部門は創業者理念「生産者から消費者に直結し 無駄を省く=組織簡素化」を徹底すべきです。しかし私が所属した子会社の社長・幹部は「現状維持の保全別会社存続方針」でした。(「本体復帰すると年間売り上げが200~300億円減となり重役ポストも少なくなる」ので、末端従業員の本音を知ろうとしませんでした)
子会社でも社長が物事を最終決定します。一課長の私には力はありません。しかし「自分の部下たちにとって何が一番幸せか」を常に最優先するのは役職者としての責務です。そこで私は、直属部下と協力会社に『あなた達は、エンジ現状体制と興産復帰体制のどちらが仕事がしやすいですか?』と問いました。当然その結果は次の通りでした。
①部下40名全員 =クイックリスポンスの『興産直属体制に戻してもらいたい』
②全協力会社所長 =エンジ元請けは仕事が極めてやりにくいので『我々元請専門業者に戻して欲しい』
この現場の声をエンジ・興産本社に訴えて「保全の興産復帰」が実現しました。そして私はエンジ本社から出頭命令が出て、本社方針に反して行動した理由を問われました。(所謂
軍法会議です) 私は現場保全員が日頃本音で思っていることを包み隠さず述べ、約2時間一歩も引きませんでした。
〇佐三店主理念に基き「簡素強力な組織」は当然である
〇社長・役職者の役割責任は、社員が働きやすいようにすること
そして決定権がある興産製造部長は「保全の興産復帰」を最終決断し、私は北海道の関係会社へ出向となりました。エンジ社長・部長に逆らい、組合のない出光で組合委員長の様な非常手段をとった私は、他社なら解雇かもしれません。この時ほど『馘首がない出光は有難い』と感じたことはありませんでした。
私は北海道大好人間なので『高倉健さんの映画と同じ境遇になったので、網走に挨拶に行かねば・・』と、赴任早々に網走刑務所を訪問しました。刑務所獄舎を一緒に訪れた家内がしみじみと『時代が時代なら、アナタは間違いなくここに入れられていたね!』と、夫婦で納得でした。(汗)
【20歳代後半、初めて本社人事部に勤務した時の上司は地獄の閻魔様も恐れる出光最強の厳しい(パワハラ?)上司でした。部下で辞表を書かなかった者は一人もいません。
この上司の口癖が『24時間思考を停止するな!それが出光だ!』でした。2年間仕えましたが、その後もずっと夢の中に出てきてうなされた恐ろしい上司でした(笑) 53歳まで「出光らしい仕事漬け人生の25年間!」でした。】
そして53歳で石油備蓄基地勤務となり、初めて週末に行楽に出かけられる人間らしい生活になりました。市内から30分の支笏湖にほぼ毎週末に出かけ、樽前山には3年間で50回以上登りました。『こういうのが本当の豊かな人生だよな!』と、しみじみ思いました。このまま定年まで7年間、この大自然の中で人間らしい生活を送るはずでしたが・・
(56歳)本社製造部で大量採用企画、動かぬ部長に愛想を尽かす】
備蓄勤務は僅か3年で本社製造部に呼び戻されました。新たな仕事は、「5年間停止していた大量採用の再開」=団塊の世代の補充で年200人×10年間採用再開を企画推進することでした。ところが社長説明資料をいくら作っても、部長が全く動かず、苦悩・格闘の日々が始まりました。当時会社経営再建ができたばかりで、「経営コスト最たる大量採用・人件費高騰は経営トップの逆鱗に触れる・・」と、彼は放置・保身を決め込んでいたのでしょう。目前に団塊世代退職を控えながら全く動かない部長を許せず「こんな部長の下では役割責任を果たせない」と、私は決然と早期退職届を出しました。
(57歳~)団塊の世代が出光を救い、定年制を撤廃した
ところが人事部で退職届がストップされ、当時の人事部次長(現会長)から「50歳代研修=60歳退職希望80%を、65歳勤務延長80%に意識転換させる」という重要ミッションを与えられました。そして4年間で46回、のべ600人の意識改革研修を行い、人事部次長から与えられた使命通り「65歳勤務延長者80%を達成」しました。いまでは70歳を超えても現役で働いている猛者が多数います。
出光佐三氏は生前「出光には定年制がない」と公言されていました。しかし会社規模が大きくなって従業員が1万人前後の大所帯になってからは、60歳定年制が慣例化して「依願退職」(実態は定年制)という形式をとっていました。
私は団塊世代の大量退社時期に直面して「大量採用と技術伝承・教育のためには団塊世代が不可欠」という人的課題を担うことになりました。その唯一の解決策が「団塊世代大半の勤務延長」でした。 出光佐三店主の「人間尊重・家族主義の出光に定年制はいらない。働けなくなったら自ら歯車から外れよ。」という出光らしい仕事観・人生観の理念に基づいた勤務延長は「実質的な定年制撤廃」という理想の実現でした。
私の早期退職届を握りつぶし、この重要ミッションを与えてくれた当時の人事部木藤次長(現会長)に、いまも心から感謝しています。

























