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2025年8月3日日曜日

1-5. 苦境を励まし力を与える樹々

私達は生きていく中で、『神も仏もないのか!』 と思うような苦境に何回かは遭遇します。 そういう絶望の真只中で、ふと見上げた木々の葉が風にサラサラと心地よい音楽を奏で、その透き通った美しさに見とれている内に、肩の力が取れ不思議な力が湧いてくることがあります。物言わぬ樹々ですが大地にしっかりと根を張り、どんな厳しい環境でも愚痴も言わず黙々と生き抜く姿を見ていると、『苦難も成長のための試練と頑張って生きていれば、やがて私のように堂々とした大木になれるよ!』 と元気づけてくれます。
 今回は、そのような 『苦境を励まし生きる力を与えてくれる樹々』 を紹介します。

皆様方の苦難を乗り越えていく力の一助になれば・・・と思います。

1.「雪彦山・地蔵岳山頂の松」
 私は、初めて課長を拝命した時 会社生活最大の苦境に陥りました。全社で最も強烈な職圧で部下を何人も潰したという噂があり、また本人も 「かって東名高速で暴走族とカーチェイスをやり相手は自爆して死んだ!」 と自慢するような強烈な個性の所長の下で働く事になったのです。  その工場は数年後に閉鎖されることになっており、私の秘密のミッションは、従業員を動揺させること無く閉鎖準備を進めるというまことに難しい気の滅入る職務でした。 所長は噂に違わず何をやっても激怒するばかりで、土日含め深夜0時過ぎまで頑張っても課題が増え続け地獄のような毎日でした。 そのままだったら神経衰弱になり、私も潰れてしまったことでしょう。 今考えると、所長自身が何をどう進めたらよいか分からず混乱していたのでしょう。 ある時 『このままでは死んでしまう!』 と、全てを投出して登った山が雪彦山です。
雪彦山は兵庫県姫路市にあり、弥彦山(新潟県)、英彦山(福岡・大分県)共に日本三彦山として知られる霊山・修験の山です。1000mに満たないのですが、その岩峰は険しくロッククライマーの隠れたメッカとして人気があります。 そのピークの一つ『地蔵岳』は約300mの切り立った一枚岩の岩壁で、見上げるだけで足が竦む険しい岩峰です。 比較的楽に登れる裏側からピークに立つと、直径20cmにも成長した2本の黒松が、ひとかけらの土もない岩の割れ目に しっかりと根を張り立っています。 その厳しい環境にもめげず逞しく生きる姿に感動し、『よし!俺も負けるものか!』 と心の底から力が湧いてきました。 
 それ以降、『所長よりも、従業員にとって最善・最良の対応は何か』 という本筋最優先に徹することにしました。 そして仕事で行詰まり落込む度に雪彦山に登り、孤高に生きる松の木から勇気と力を貰いました。

2.「支笏湖丸山麓の二重根」
50歳台になって勤務した北海道では、車で30分のところに支笏湖国立公園があり、週末には樽前山・風不死山・恵庭岳・紋別岳に登っていました。中でも樽前山には色々なルートから3年間で30回以上登りました。  冬の厳しい雪景色、待ちわびた芽吹き、鬱蒼たる濃緑の森、真赤に染まるナナカマド・・・いつ行っても感動の風景ですが、2004年の台風18号で支笏湖周辺の木々がなぎ倒され一変しました。特に有名だった支笏湖手前の優美な白樺林が全て根こそぎ倒れてしまったのはショックでした。
支笏湖周辺は、約100年に1回 樽前山が大噴火してできた火山灰の大地で、100年間でようやく30cm程度の腐葉土層が成長するのです。 白樺林は観光用に植林されてから約30~40年目で根が火山灰に阻止されて横にしか延びず、 この台風18号に遭遇し全て根こそぎなぎ倒されたものでした。
しかしその中で直径50~100cmの大木が何事もなかったように生き残っており不思議に思っていたところ、支笏湖ビジターセンターの 『2重根』 の展示物で合点が行きました。 100年に1回の大噴火で1~2mの火山灰に埋もれた木々が、その上に成長する薄い腐葉土層に幹から根を出し二重根の逞しい木となっているのです。 私達もこの二重根の大木ように、絶望的な状況に陥っても、めげないで逞しく根を張って生きたいものです。

3.「羊蹄山の風雪に耐える樹々」
蝦夷富士と称えられる羊蹄山は、どの方角から見ても円錐形で美しく、1回は登ってみたい山です。 しかし平野部から標高差1700mの登山となりますので、かなりの体力を要します。これ程の標高差があると、麓と山頂では植生が大きく異なってきます。 山麓では大木に育っているダケカンバも、五合目あたりから風雪に耐える為に地を這った姿に変わります。 葉を見ると確かにダケカンバですが、全く違う木に見間違います。 さらに八、九合目になるとハイマツが岩土にへばり付く様にして生きています。 こういう厳しさの中で生き抜く木々を見るたびに、『少々の逆境で弱音を吐いたり愚痴を言ったりするのは恥ずかしい』 と思うようになり、腹の底から力が湧いてきます。

4.「田原坂の大楠」
 『雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂』 と民謡に謳われる。明治10年西南戦争で17日間も攻防を繰り広げた最激戦地の田原坂。弾丸同士が正面からぶち当たりくっついてしまった弾丸が残されているほど敵味方の銃弾が無数に飛び交う大激戦でした。この楠も無数の弾丸を浴び、主幹は大砲で吹き飛ばされて地上6m付近でなくなり、そこから大小の枝を横に大きく伸ばして直上し、美しい樹形を作っています。 この木を見ると、人間の争いのむなしさと、理不尽な逆境をものともせず、何事もなかったように生き抜く大楠の生命力に只々驚かされます。

5.「盛岡の石割桜」
 周囲22mもある大石を真二つに引き裂いて、大石を抱きかかえるように太い枝を広げている樹齢350年、幹回り4.3mの桜の大木です。 石の割れ目に落ちた桜の種が芽吹き、成長につれて石を割っていったらしく、樹の成長と共に割れ目は広がっていると言われます。 まさに『石割桜』 で、そのエネルギーには脱帽です!

6.「屋久島の縄文杉」
  世界遺産屋久島に君臨する日本最長老の巨木。 見るものを威圧するような重量感、ごつごつした瘤がいくつも盛り上がって波打つ樹肌、上に「超」を幾つもつけたくなる樹木の王者です。樹高25.3m、幹回り16.1m、推定樹齢7200年から、縄文時代から生き抜いてきたことを示す縄文杉の名が付きました。一説には、その間に近くの喜界カルデラの大火砕流で屋久島の殆どの植物が焼き尽くされた為、樹齢は4000年未満とする説がありますが、その際にも樹肌を焼かれながら生き残り、驚異的な生命力で現在まで生き延びているとも言われます。

7.蒲生の大楠=日本一の大樹
鹿児島県蒲生八幡神社境内にそびえ立つ大楠は、樹齢約1,500年、根周り33.5メートル、目通り幹囲24.22メートル、高さ約30メートルと巨大で、環境庁が昭和63年に実施した巨樹・巨木林調査で日本で一番大きな樹木に認定されています。

蒲生八幡神社が建立された1123年にすでに大木であったことから考えても、樹齢千年を超える堂々たる老木です。蒲生の地を訪れた和気清麻呂が手にした杖を大地に突き刺したところ、それが根付いて大楠になったとも伝わっています。 国特別天然記念物(昭和27年指定)
 樹根部分には、8畳分もの大きな空洞があり、下から見上げる壮大さと、地にどっしりと根をはった力強さは、神秘的で不思議な感覚を抱かせ、私達に身震いするような生きる力を与えてくれます。

2025年6月3日火曜日

3. 蜜柑園復興に取組む(久保さん)

  誰しもが物心ついたころから親しんだ美しい心の故郷があります。

しかし就職して異郷の地で暮らし、家庭を持ち年老いていくうちに足遠くなり、父母の旅立ちにより 故郷はすっかり色あせて見え、『親(特に母)がいたからこそ、懐かしい故郷だったのだ!』と痛感します。そういう中で、父母が汗水たらして頑張ってきた故郷が荒れていくのを放置できず、早期退職して復興に尽力されている方々がいます。

今回は瀬戸内海の周防大島で79歳となった今も第2の人生を「故郷のミカン園復興」に努力されている久保哲夫さんの紹介です。

 

久保さんは、昭和21年に山口県周防大島のミカン農家に生まれました。

そして昭和40年出光興産に入社当然近くの徳山製油所に勤務できると思ったら、何と遠く離れた千葉製油所配属でした。

気さくな親分肌で、独身寮の久保さんの部屋は後輩の溜り場でした。結婚式前夜も後輩達との飲み会となり、酔った勢いで3階の窓枠を伝って隣の部屋にアクロバット渡りを始めてしまいました。それならボクもと久保さんが渡り始めると足を踏み外し下の植え込みに墜落して即入院となり結婚式ドタキャンです。 既に千葉に来ていた花嫁のひろみさんは、結婚式も取りやめで、新郎の看病生活が始まりました。『知り合いが一人もいなかったので心細かったのよ』と笑いながら述懐されます。植え込みへの落下が不幸中の幸いで比較的早く回復しました・・が、今度は新婚社宅独身後輩の溜まり場となっていました。 実は私もその一人で、30年後周防大島で再会した奥さんは「ああ、あの音の出ない尺八の英千代さんね!」と、しっかり覚えていました! (汗、汗・・)

 

 昭和55年に徳山工場に転勤されポリスチレン装置の直長。その後保全課(BTX静機)を担当されました。

父上のご逝去で実家の蜜柑園を継がなくては・・と思っていた矢先、平成2年の19号台風で、蜜柑の木が全滅しああ、これで跡継ぎの必要がなくなった。と、内心ホッとされたそうです。しかし故郷大島の高齢化が進行し、次々と蜜柑園をやめた故郷の山々が荒れ放題、孟宗竹林に浸食されていくのが耐え切れず、平成12年に早期勇退してゼロから蜜柑園の再興に取組み始めました。そして約1ヘクタールの畑に600本を植付けさあ、これから本格的に収穫出来る!と思った矢先の平成1711月、パート勤務していたJA農協)で約1トンの肥料パレットが突然崩れ、足を完全骨折し3ケ月入院されました。

 この時、出光徳山の同僚や、奥様が10年取組んでおられた特養障害者ボランティア仲間が『本当に親身になって助けてくれたと述懐されます。大挙して収穫を手伝い、色々な販売ルートを開拓してくれたそうです。


やっぱり職場仲間は有難い! 

是非、徳山や千葉の仲間に、自慢の美味しい蜜柑を味わって貰いたい。

大島に蜜柑もぎにおいで! いつでも泊めてやるよ!

と話しておられました。 因みに私は言葉に甘え、第16回50歳台研修のあと久保さん宅を訪れて大歓迎を受け、無料で泊めて戴きました。

また次の年には、出光徳山の現役仲間と再訪問し『ミカン狩り』を楽しみました。

2007年3月17日の中国新聞 の第一面に、久保さんの特集記事が掲載されましたので紹介します。是非ご一読下さい。

 

【村は問う 第3話 『親の畑を守る』】

 5月に久保さんの農園を訪れるとミカンの収穫中、季節外れではない。5月が収穫期の蜜柑だ。『1年通して収入があるのは有難い事、サラリーマン時代は思いもせんかったですがね』と、すっかりミカン農家の顔だ。

昭和40年に高校卒業し石油会社に就職。当時は高度成長期の真っ只中だ。長男だが迷うことなく島を出た。70アールのミカン畑を世話する両親も止めはしなかった。

 千葉で13年、周南市で24年、コンビナートの街で暮らす。団塊世代の常として猛烈に働いた。それが子供が成人に達した頃、古里への思いが頭をもたげ始める。

亡き父母が丹精込めた畑が荒れ始めたからだ。周囲の山を見渡せば、ミカン畑を竹林が侵食している。『このままなら、みな竹山になる。やり切れんかったんです。』

 親の手伝いはしてきたが、専門知識や技術はない。それをサポートしたのが2002年にスタートした『周防大島ミカンいきいき営農塾』。毎年50人程度の塾生を募り、土づくりから収穫まで、一年を通じて町内の農家が手取り足取り指導してくれるシステム、そこに第一期生として飛び込んだ。

町内の就農支援はこれだけではない。2006年4月、町と地元農協、舎田布施農林事務所で「周防大島担い手支援センター」を設立、農地の斡旋にも取り組んでいる。島を挙げた受け入れ態勢である。

背景には老いる島の現実がある。高齢化率は45%を超え、農業者平均年齢は70歳を超える。島を支えてきたミカン栽培も低迷の一途だ。 2005年の柑橘類栽培面積は1220haで、この十年間で30%減、その内の20%が荒廃している。農業再生は島の最重要課題だ。

久保さんも近所の農家のアドバイスを受けながらやってきた。今は不在地主の畑20アールの世話をするなど、集落を守る存在にもなっている。

 

『古里への思いを、いかに奥さんと共有化するかがカギ』 周防大島担い手支援センター長の中原氏はこうアドバイスする。 夫以上に地域に根を張っているのが妻。そのつながりを断ち切っての帰郷に加え、ムラの人間関係は濃く 難しい。

久保家の場合、妻のひろみさんは、10年来 周南市で福祉ボランティアを続けてきた。仲間とのつながりが薄れるのはつらく、ためらいもした。『でも 荒れていく畑を守りたいっていう夫の気持ちはよくわかるしね・・』

久保さんは『あれがおってくれたから、ここまでやれたんです。』と述懐する。ひろみさんは『まあ、初めて聞いた』と屈託なく笑い、こう続けた。

『地域と仲良くやっていくには、どんな会合にも顔を出すこと。覚えてもらって可愛がってもらう事。そうしたら村も楽しくなるよ。』

それまで虫も触れなかった妻は今、6アールの畑で玉ねぎを育て、ミカン畑の肥料代でミカンづくりを支えている。

 

(参考) 

『周防大島ミカンいきいき営農塾

    https://www.town.suo-oshima.lg.jp/data/open/cnt/3/2644/1/kouhou201803_08.pdf?20180308133726

周防大島担い手支援センター』 (TEL0820-79-1007

「周防大島みかんいきいき営農塾」では周防大島町内の退職帰郷者や町外に在住しながら町内での就農や農作業支援を希望する方を対象に、柑きつ生産技術の研修を1年間にわたって行っています。 卒塾生は第1期から現17期まで延べ600人を超え、周防大島町の柑橘産地において中心的な役割を担っています。

 

2025年6月2日月曜日

5. 高千穂峰は如何にして成長したか?

 NHK「ブラタモリ」 は、私達が無意識に見過ごしてきた日本の名所を、地質学の観点からわかりやすく掘起こしてくれ『目からウロコ』の魅力的番組でした。日頃見慣れた風景でも『何故この地形がここに生まれたか?』という疑問を持ち追及していくことは、ワクワクする新知見を得るだけでなく、生きていく上で重要な分析力・思考力・論理構築力をも高めてくれます。
 私は都城市山田町で生まれました。 そして毎日当たり前のように美しい高千穂の峰を眺め『何故あのように均整の取れた美しい姿になったのだろう?』 と不思議に思いながら育ちました。
 しかし誰も納得いく答えを与えてくれず、みんな『美しい、大好きだ』とは言っても、どうやってできたかなど興味は無いようでした。
 その後、桜島、有珠山、普賢岳、三原山、三宅島、新燃岳、御岳山・・と続く火山大噴火に、大自然の脅威の前の人間の無力さを感じ、逆に火山への興味は大きくなり、色々な火山関係の本を読み漁りました。その中でようやく出会った『フィールドガイド 日本の火山全6巻(築地書館)』は、日本の代表的火山の形成過程を、詳しい地層解析から説明されており、とてもよくわかる学術専門書です。
 そこで今回は、この本の解説に従い『高千穂の峰』の誕生・成長過程をビジュアルに解説します。この名山がある『霧島連山』 は、20座を超える色々な型の火山の集合体で、その景観の美しさから、日本最初の国立公園として指定されています。



【以下は、書籍『火山に強くなる本』(山と渓谷社)によります】
 霧島山は、加久藤カルデラの南縁部に生じた20余りの成層火山や火砕丘からなる安山岩の火山群で、このうち高千穂の峰、中岳、大幡山、夷守山などは成層火山、韓国岳、大浪池、新燃岳、御鉢などは火砕丘です。いずれも小型の火山ですが、山体に比べて大きな火口を持っているという特徴があります。

 有史以後の活動は、主に御鉢と新燃岳の山頂火口から起きていて、多くの死者を出し、集落が全滅するなどの災害をもたらしています。
 もっとも古い記録は、742年、高千穂峰の山腹にある御鉢での噴火ですが、以後30回以上の噴火記録が残されています。中でも788年の噴火は、有史以後最大の噴火と位置付けられており大量の溶岩が流出しました。
1716年の新燃岳の大噴火では、噴石と火砕流により5人が死亡、600棟あまりの焼失家屋が出ました。
1895年~96年の御鉢噴火では、大量の降灰とともに、火砕流や泥流が発生、死者5人、焼失家屋22棟を数えました。
1900年2月16日には、御鉢の噴火で2人が死亡しました。
1959年2月17日には、新燃岳の噴火により噴石や火山灰が大量に降り注ぎ、森林や農作物に大きな被害をもたらしました。
2011年1月27日52年ぶりに爆発的噴火(ブルカノ式)。観光地として有名だったコバルトブルーの火口湖は消失し、直径500mの溶岩ドームが火口の高さまで成長しました。
2018年3月6日7年ぶりに爆発的噴火、4月5日には噴煙が高さ8,000mまで上がり、溶岩が火口を満たし火口縁を越えて200mほど外に流れ出しました。

 霧島山は1934年、日本で最初の国立公園に指定され、現在でも火山をめぐる多彩な火山美を求めて、沢山の観光客が訪れています。 それだけに火山の噴火に備え、住民や観光客を災害から守らなければなりません。 そのため地元の市町村が合同で「霧島火山防災マップ」を作成していますので、これを活用し、常日頃から火山防災の意識の高揚を図る必要があります。

5. 美しきふるさと(霧島、高千穂峡)

 「ふるさとの山に向かいて言うことなし、
ふるさとの山はありがたきかな」 (石川啄木)
 「幾山河越え去り行かば さびしさの
果てなむ国ぞ 今日も旅行く」 (若山牧水)
自由気儘な学生生活から、厳しい社会人となって故郷を離れて思うのは、懐かしい故郷の父母、友人、そして幼いころから遊び親しんだ故郷の山河です。これは明治の文豪・詩人も、現代の私達も若者も変わりません。
私の故郷は宮崎県都城市山田町、名峰霧島の麓です。もの心ついたころから、嬉しい時も悲しい時も、天孫降臨伝説の神々しい高千穂の峰を見て育ちました。小学5年生の学年遠足=韓国登山のバス車中で宮交ガイドさんが歌った 『思い出のスカイライン』 は、今も大好きな人生を支える愛唱歌です。

峠越えれば高原の 山の青さが目に染みる
歌おうよあの歌 思い出の
   山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う
   ああ霧島の山にきて わが青春ははるかなり
・・・ああ我 人と求めゆきて 涙さしぐみかえりきぬ
  ああふるさとの山にきて わが青春よここにあり
・・・山のあなたのなお遠く 幸いすむと人の言う
  スカイラインの思い出に わが青春よ悔いはなし

今回は、私の青春時代の懐かしい故郷の山河を、私の拙い色鉛筆画で紹介します。機会があったら是非読者の皆さんにも訪問して頂きたいと思います。

1.『真名井の滝 (高千穂峡)』
日本人の祖先が南西諸島や大陸から渡ってきたのは約4万年前です。
 そのはるか昔の27万年前から4回、阿蘇で破滅的巨大噴火がありました。 中でも9万年前の4回目は凄まじく、300㎦の大量のマグマを噴出し、大火砕流が九州全域を覆い、全ての生物を焼き火山岩で覆いつくしました。その火山灰は北海道東部でも15cmに達しており、日本列島の生物は壊滅的被害を受けたことでしょう。 
 阿蘇山の中心部から30kmも離れたこの高千穂にも大量の火砕流が襲って五ヶ瀬川に沿って流れ下り、その厚い堆積物が溶解凝結岩となり急冷して柱状節理が生じました。 
その凝結凝灰岩を五ヶ瀬川が再び侵食し形成されたのが高千穂峡です。高さ80100mにも達する絶壁が7kmにわたって続く渓谷を下から見上げると、阿蘇の破滅的大噴火のすさまじさを痛感します。最後の巨大噴火から5万年、気の遠くなるような生物の輪廻を繰り返して、大地は再び生命で満ち溢れ、美しい大自然を取り戻しました。
そして4万年前、この地に初めて踏みこんだ日本人の祖先は、この世のものと思えない美しく神々しい絶景や自然の造形に神の存在を感じ、美しい神話を作りだし語り継いでいったのに違いありません。中でもこの『真名井の滝』は、神々の住む天空から地上を潤すために降り注いでいるような神秘的な雰囲気を漂わせています。

高校時代に 『ずば抜けた秀才で努力家 剣道有段者=文武両道の畏友』 がいました。その彼が高千穂出身でした。彼は大学卒業後、旧国鉄に入社。親方日の丸体質改革=国鉄民営化を推進し、『赤字脱出は極めて困難!』 とされていたJR九州の中心的存在となって、革新的な経営改革を断行し、九州新幹線の早期開通、七つ星トレインなどのユニークな企画等で経営を立て直しました。その後JR九州専務を経て、万年赤字体質だった九鉄工業社長就任。ここでも社員と一丸になり会社を立て直し、リゾート開発や県庁所在地ターミナル駅の多機能化・ショッピングセンター化等を推進して、九州の発展基盤つくりに大きく貢献しました。
 その彼の活躍を思い浮かべながら『真名井の滝』を描きました。 
そして 『数万年に及ぶ高千穂の風土が育んだDNAが彼の中に脈々と流れ、天が真名井の滝で地上を潤したように、この社会を発展させ物心両面で潤わせたい!』 という思いが、彼を突き動かしてきたのではないかと思い至りました。

2.「思い出のえびの高原の冬」
手前は白紫池、その向こうのひときわ高い雪山は韓国岳(1700m)です。
この景色の思い出は大学時代のスケート旅行です。
真冬のえびの高原・白紫池(標高1300m)の天然スケート場へ友人と2回行きました。当時は貧乏学生で交通手段は単車、温泉宿に泊まる経済的余裕はなく、えびの高原にテントを張ってシュラフで野宿しました。 しかしあまりの寒さに一睡もできずガタガタ震えながら夜を明かし、冬山の厳しさを知りました。それでも下手なスケートを楽しみ、このような高原の雪景色風景に感動しました。

また行ってみたい大好きな風景ですが、残念ながら最近は温暖化のために白紫池は結氷しなくなっているそうです。40年前までは20cm以上の結氷があり、数百人がスケートしてもびくともしなかったのですが・・・
こんなところにも地球温暖化の影響が出ていることに悲しくなります。

都城市側からの天孫降臨の「高千穂の峰」

物心ついてからこの形を見て私は育ちました。「山」という文字の原型となったのでは?と思えるほど均整の取れたこの高千穂の峰は、私にとって日本一の名山です。

5. 「神の音に 涙止まらず 愛に満つ」 

 宮崎の「御神木ヴァイオリン・コンサート」の感動が今も続いています。

 ヴァイオリンは、製作後400年ものあいだ美しい音色を響かせます。「その中で二度とない御神木ヴァイオリン初演コンサート! これは聴き逃せない!」 と、家内との意見が一致し、千葉から宮崎の会場に駆けつけました。そして想像以上の感動を味わい「本当に聴きに行って良かった!」と今日も話し合い、感動を反芻しています。

「御神木ヴァイオリンの物語」は、音楽人:山内達哉氏が故郷・霧島の狭野神社の樹齢400年の御神木が風倒木となり残り少なくなっている話を聴き胸を痛めたことから始まります。山内さんは神様を守る役目を終えた御神木に新たな命を吹き込み、“御神木ヴァイオリン” として更に400年間、人々の心に神の心を届けたい」と、狭野神社と県北の高千穂神社に相談したところ快諾され、早速世界的ヴァイオリンドクターとして有名な中澤宗幸氏に製作を依頼しました。

そして中澤さんは、2年以上をかけて入魂のヴァイオリン制作に取り組みました。 今回は本来の材質とは異なる表(杉)裏(欅)のため制作は困難を極め、最適の響きを得るために通常3㎜程度の薄さに削り込むところ、今回は部分的に1㎜の薄さまで削り込んでいるそうです。

 その音色は・・演奏者の山内さんが、「生まれたての赤ちゃんヴァイオリンで、これほど深い音色を出すのは初めてです!」 と絶賛されるほどの見事な音色でした。


山内さんが 「悲惨なウクライナの戦争悲劇が早く終わってほしい」と願いながら演奏を始めた「ひまわり」・・私は冒頭の低く深い音色の悲しい旋律を聴いたとき、思わず涙があふれ出てきました。

 

今回、この御神木ヴァイオリンのほか、TUNAMI VIOLIN(東日本大震災の津波の流木から作られた)と、天空のヴァイオリン (中澤さんの故郷 兵庫県朝来市竹田城跡「天空の城」の枯死したシンボル松で作られた) の、いずれも一度命を失った枯古木で作られた3つのヴァイオリンで演奏されました。いずれも素晴らしい音色で、演奏者の山内さんの熱い思い= 役目を終えた古木が、もう一度命を取り戻し、『今後400年以上、人々に “命の大切さ” 神々に守られた日本の心“ ”大自然と共に平和に暮らしてきた私達の祖先の思い“ を届けたいという願いに満ち溢れていました。

 私はこれまで、YOUTUBECDで山内さんの演奏を何十回も聴き大ファンでした。 しかし今回の演奏会はそれらの感動を遥かに超え、想像以上の感動を覚えました。

 まず 「天地創造を思わせる和太鼓の乱打」で始まり、次に純白の神主姿で登場された佐野神社の小多田権禰宜さんが、舞台中央の流木のお祓いを、そして中央・右・左と観客席に向かいお祓いを、さらに後ろの演奏者たちにお祓いをして、この演奏会を清めたのち退場されました。まるで歌舞伎名優のような見事な鮮やかな修祓・祈りでしたが、後で聴くと、すべて打合せなしの小多田権禰宜さんのアドリブだったそうです。

この祈りが終わると、高天原から瓊瓊杵尊が降臨されるかのように・・・御神木ヴァイオリンが舞台の天井から厳かに降りてきて主演奏者の山内さんの手に渡り、素晴らしい演奏会が始まりました。

・・始まりから終わりまで、演出構成、演奏、演奏者の語りなどを含めて全てが、『この世は、神々が私達を暖かく包み込んで育んでくれている素晴らしい世界である!』と言う事を実感させられ、感動して涙が止まりませんでした。本当に奇跡と思うほど素晴らしい感動的な 『御神木ヴァイオリン・コンサート』でした。本当に有難うございました。 

その二日後、狭野神社をお参りした後に再び奇跡が訪れました。なんとあの名演奏をされた山内ご夫妻とお会いする事になったのです。そして実際に『御神木ヴァイオリン』をこの手に持たせてもらう幸運に巡り合ったのです。 私も家内もただただ感激するのみでした。その御神木ヴァイオリンの表板には狭野杉の見事な年輪が刻まれており、裏面には著名なフランス人画家マークエステル氏の「天孫降臨」の絵が描かれていました。


 そして宮崎最終日に、三度目の奇跡が起きました。

 帰京フライトまで余裕があったので、九州最大級といわれるイオンモール宮崎へ行きました。そして家内とウィンドウショッピングを楽しみ、食堂街を歩いているとき「安藤さん!」と声をかけられたのです。「エッ!こんなところで誰かな?」と横を見ると、懐かしい元出光後輩の今西くんがにこやかに立っているではありませんか!「エッ!どうしてこんなところで今西くんに会えるの?」と絶句です。

新妻の奥さんと生後2か月強のお子さんを連れて初めての遠出だったようです。赤ちゃん大好きな家内は、早速新生児を抱かせてもらい「じっと見つめながら口真似して話しかける赤ちゃん」に感激してメロメロです。

今西くんは高原中から都城高専を優秀な成績で卒業。出光入社後は千葉工場でポリエチレン装置を担当し、同期仲間では最も早く約10人の部下を率いる優秀な若手リーダーでした。将来は幹部候補で、会社にとっては特に辞めて欲しくない重要人物でした。 しかし過疎化が進む故郷高原町の将来を憂い、「高原町に帰り、若者を指導して何とか復興させたい!」という思いが募っていき、入社10年目を節目に出光を退社しました。 それから7年が経過し、このたびのコンサートに来ないかと誘ったところ「結婚して7月に第1子が生まれたばかりです。」と言う事で残念に思っていたところでした。

その前日、私は高原町の狭野神社に参拝し、JR高原駅前の中心街を散歩したり、「希望の店」で買い物したりして「今西くんと偶然会えないかな・・」と思っていました。その願いを、霧島の神様が叶えてくれたとしか思えない、本当に奇跡的な7年ぶりの再会でした。

5. 日本の心「御神木ヴァイオリン」 

 私たち人間は、悠久の自然の恵みの中で生命をつないできた存在です。

 目を閉じて想像してみましょう。空と大地がもたらす自然の息吹、神々が躍動した遥か昔の世界を・・まずは山内達哉氏が奏でる御神木Violinの神々しい響きを聴いてみてください。

御神木ヴァイオリン奉納コンサート - YouTube


 20万年前にアフリカで誕生したホモサピエンスは、やがて食料を求めて世界中に拡散し、その一団は平和と太陽を求めて東へ東へと移動し、2~3万年前に日本列島に辿り着きました。そこは温暖で食料に困らない自然豊かな土地で、南から西から北から色々な人種・民族がやってきて集落を作り、みんなが仲良く助け合って家族として生きました。この日本草創期の争いのない平和な縄文時代は1万年以上も続き、その間、世界最初の磨製石器や土器を作り、5,000年ほど前には装飾性の高い火炎土器なども作り、世界でも特異な 豊かな 独自の文明を築いてきたということが最近分かり、世界中の関心が集まってきています。


 自然と共に生き、あらゆるものに神の存在を感じ、祖先に感謝してきた日本人の心は、神話として語り継がれ、美しく優しい国民性を育ててきました。


この日本誕生以来の民族の記憶は古事記・日本書記の「神話時代」に記録され、その特徴は、明るく朗らかな愉快な物語が多いことです。

(生存のために部族間で熾烈な戦争が繰り返され、現代も続く西欧や大陸の神話のように「罪悪から生まれた」とか「獣から生まれた」とか、残虐・悲惨・凶悪・冷酷・裏切・姦淫・・などの暗い話は殆どありません。)


さらに日本の「歴史時代」は、初代天皇の神武天皇が全国を平定後、「八紘一宇」(世界のみんなが仲良く和を大切にして家族のように生きていく) ことを建国の基本とされ、そのご子孫の126代 今上陛下の現代まで途切れなく連綿と続き、おおみたから(国民)とともに、信頼と暖かい心で結ばれた日本を作り上げてきました。

この世界で稀有な美しい文明と精神を、戦後は占領政策によって否定され、政治・報道・教育を捻じ曲げられました。1951年のサンフランシスコ平和条約で独立・主権を取り戻した後も、私たち日本人は自らの稀有な歴史・文化を忘却したまま、80年近くにわたり「日本の心」「アイデンティティ」を見失い混迷を深めています。その「忘れ去られた日本人の心」を音楽の力で取り戻そうという音楽家があらわれました。山内達哉氏です。


 都城市が生んだ名ヴァイオリニスト山内達哉氏は、桐朋学園短大卒業後 、主に地域の活性化の音楽祭を企画・プロデュースし、音楽仲間と演奏する活動を展開しています。そして 日本の歴史や失われつつある風景を音楽にのせて後世に伝えていきたい」 という強い想いから、日本各地をテーマにした楽曲を作曲し演奏され、日本人であることの誇りや、故郷を想う心など思い出し育む素晴らしい作品として、多くの人々の心をとらえています。 その代表的名曲が、故郷の天孫降臨の山を歌い上げた「霧島~約束の地~」です。


【物語1】 御神木ヴァイオリンへの思い

 コロナ禍で主な活動拠点を、東京から故郷の都城市に移した山内氏は、過疎化していく故郷や、日本神話で名高い有名な神社神域の風倒木に心を痛めました。 「この御神木を活かしてヴァイオリンを制作したい。そして神々の思いを込めた音楽を400年も500年も奏で、人々を励まし続けられるようにしたい!」 と思い立ちました。 さらに山内氏が総合プロデューサーを務める 『神話の里 文化・芸術育成Association』 からの、「未来を担う子どもたちに音楽などの文化芸術に触れることで豊かな人生を歩んでほしいという願い」も込められました。

【物語2】 思い立ったら即行動


そして早速202012月 山内氏らは、天孫降臨の瓊瓊杵尊が祭られている県北の『高千穂神社』と、初代神武天皇生誕の地と言い伝えられる県南の『狭野神社』に赴きました。どちらの神社も【御神木ヴァイオリン】の趣旨を説明すると「そんな話は初めてだ!」と驚きながら快く賛同されました。 高千穂神社では裏板に使用する『ケヤキ』を、狭野神社では表板に使用する『狭野杉』を預かり、それぞれお祓いを受けました。そして手にした板は「とても畏れ多い感じがした」と山内氏は話しておられます。

【物語3】 2つの説がある天孫降臨の説


 この二つの神社を選んだのには理由があります。日本神話の主神・天照大神が、孫の瓊瓊杵尊を神々が住む高天原から地上に降臨させ統治させたという『天孫降臨神話』の舞台は「高千穂」として有名です。しかし宮崎には県北部の高千穂町と県南部の霧島・高千穂峰のふたつの高千穂があります。「日本書記」では霧島・高千穂の峰、「日向国風土記」では高千穂町の記述があり、どちらが天孫降臨の地なのか古くから議論されてきました。夫々の地の御神木をヴァイオリンとして一つにして神々の声を届けたいという思いが込められています。

【物語4】 御神木ヴァイオリンの製作 中澤宗幸さん


「御神木ヴァイオリンへの思いを実現してもらえるのは、世界的ヴァイオリンドクターの中澤宗幸さんしかいない!」 と、山内さんは制作を依頼しました。中澤さんは「最後の使命だと思って、魂を込めて作ります」と快諾され制作を開始しました。御神木は一般的なヴァイオリンの材質と異なるため製作は困難を極め、約2年の歳月を重ねて2022年末にようやく完成しました。通常ヴァイオリンは良い響きを求めて表・裏板ともに厚さ3mmくらいまで削り込まれますが、この御神木ヴァイオリンは、さらに良い響きを求めて削り込み、部分的に1mmとなっている部分もあるそうです。 

中澤さんはこれまでも、2011311日に発生した東日本大震災で大きな被害を受けた陸前高田市の流木から、TSUNAMIヴァイオリン」を製作され、奥様のヴァイオリニスト中澤きみ子さんと二人三脚で 「千の音色でつなぐ絆」 プロジェクトをスタートされています。追悼の想いと復興への願いを音色に乗せ、「TSUNAMI VIOLIN」を 1,000 人のヴァイオリニストがリレーしながら弾き継いでいくプロジェクトで現在も続き、延べ800人ほどが演奏しています。

『その中澤さんの音のイメージと想いが、御神木ヴァイオリンには一杯詰まっていますので、是非沢山の方々に聴いて欲しい』 と、山内氏は語られます。

【物語5】御 神木ヴァイオリンの製作 マークエステル氏


 御神木ヴァイオリンの裏板には「天孫降臨」をテーマにした絵が描かれています。描いたのは、日本を拠点に創作活動をしているフランス人の画家・マークエステル氏で、日本神話をモチーフにした作品を描き、全国の神社に奉納されている世界的な芸術家です。宮崎県内でも高千穂神社・狭野神社をはじめ、各地の神社に作品を奉納しています。そういうマークエステル氏の描いた作品が、御神木ヴァイオリンの音色に彩を添えます。

【物語6】 宮崎から日本へ、そして世界へ


多くの人たちの思いや技術が結集し誕生した御神木ヴァイオリン。

 今後は、宮崎から飛翔し、全国各地の神社の祭事や、地元のお祭りなどを通して、地元のヴァイオリニストに演奏してもらう予定だそうです。宮崎で誕生した数々の物語とともに、世界のみんなが仲良く和を大切にして家族のように生きていく』という神々の願いを世界中に届くよう、その音色を響かせ続けてほしいと祈ります。そしてヴァイオリンとしての役目を全うするまでの数百年間、私達もその人類の願いを心から支援していきたいものです。

【物語7】 入魂式&奉納コンサート (令和4年12月22日、29日)







【物語8】「鳴響ものがたり」 2022.12.26   都城市山田町のご自宅(Bon Cafe)庭園での野外コンサート。ステージのこんもりした森は、鎌倉時代以前からの歴史ある山田神社。中盤からの「ひまわり」は、ウクライナ悲劇を思い泣かせます。また終盤の娘さんとのデュオ「アニーローリー」は、奥様のキーボードと合わせ 息がぴったり合い心に響きます。まさに御神木ヴァイオリンと山内一家の「鳴響ものがたり」です。

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