それ以降、『所長よりも、従業員にとって最善・最良の対応は何か』 という本筋最優先に徹することにしました。 そして仕事で行詰まり落込む度に雪彦山に登り、孤高に生きる松の木から勇気と力を貰いました。
樹根部分には、8畳分もの大きな空洞があり、下から見上げる壮大さと、地にどっしりと根をはった力強さは、神秘的で不思議な感覚を抱かせ、私達に身震いするような生きる力を与えてくれます。
誰しもが物心ついたころから親しんだ美しい心の故郷があります。
しかし就職して異郷の地で暮らし、家庭を持ち年老いていくうちに足遠くなり、父母の旅立ちにより 故郷はすっかり色あせて見え、『親(特に母)がいたからこそ、懐かしい故郷だったのだ!』と痛感します。そういう中で、父母が汗水たらして頑張ってきた故郷が荒れていくのを放置できず、早期退職して復興に尽力されている方々がいます。
今回は瀬戸内海の周防大島で79歳となった今も第2の人生を「故郷のミカン園復興」に努力されている久保哲夫さんの紹介です。
久保さんは、昭和21年に山口県周防大島のミカン農家に生まれました。
そして昭和40年出光興産に入社、当然近くの徳山製油所に勤務できると思ったら、何と遠く離れた千葉製油所配属でした。
気さくな親分肌で、独身寮の久保さんの部屋は後輩の溜り場でした。結婚式前夜も後輩達との飲み会となり、酔った勢いで3階の窓枠を伝って隣の部屋にアクロバット渡りを始めてしまいました。それならボクもと久保さんが渡り始めると足を踏み外し下の植え込みに墜落して即入院となり結婚式ドタキャンです。
既に千葉に来ていた花嫁のひろみさんは、結婚式も取りやめで、新郎の看病生活が始まりました。『知り合いが一人もいなかったので心細かったのよ』と笑いながら述懐されます。植え込みへの落下が不幸中の幸いで比較的早く回復しました・・が、今度は新婚社宅が『独身後輩の溜まり場』となっていました。 実は私もその一人で、30年後周防大島で再会した奥さんは「ああ、あの音の出ない尺八の英千代さんね!」と、しっかり覚えていました! (汗、汗・・)
昭和55年に徳山工場に転勤されポリスチレン装置の直長。その後保全課(BTX静機)を担当されました。
この時、出光徳山の同僚や、奥様が10年取組んでおられた特養障害者ボランティア仲間が『本当に親身になって助けてくれた!』と述懐されます。大挙して収穫を手伝い、色々な販売ルートを開拓してくれたそうです。
『是非、徳山や千葉の仲間に、自慢の美味しい蜜柑を味わって貰いたい。』
『大島に蜜柑もぎにおいで! いつでも泊めてやるよ!』
と話しておられました。 因みに私は言葉に甘え、第16回50歳台研修のあと久保さん宅を訪れて大歓迎を受け、無料で泊めて戴きました。
また次の年には、出光徳山の現役仲間と再訪問し『ミカン狩り』を楽しみました。
2007年3月17日の『中国新聞 の第一面』に、久保さんの特集記事が掲載されましたので紹介します。是非ご一読下さい。
【村は問う 第3話 『親の畑を守る』】
5月に久保さんの農園を訪れるとミカンの収穫中、季節外れではない。5月が収穫期の蜜柑だ。『1年通して収入があるのは有難い事、サラリーマン時代は思いもせんかったですがね』と、すっかりミカン農家の顔だ。
昭和40年に高校卒業し石油会社に就職。当時は高度成長期の真っ只中だ。長男だが迷うことなく島を出た。70アールのミカン畑を世話する両親も止めはしなかった。
千葉で13年、周南市で24年、コンビナートの街で暮らす。団塊世代の常として猛烈に働いた。それが子供が成人に達した頃、古里への思いが頭をもたげ始める。
亡き父母が丹精込めた畑が荒れ始めたからだ。周囲の山を見渡せば、ミカン畑を竹林が侵食している。『このままなら、みな竹山になる。やり切れんかったんです。』
親の手伝いはしてきたが、専門知識や技術はない。それをサポートしたのが2002年にスタートした『周防大島ミカンいきいき営農塾』。毎年50人程度の塾生を募り、土づくりから収穫まで、一年を通じて町内の農家が手取り足取り指導してくれるシステム、そこに第一期生として飛び込んだ。
町内の就農支援はこれだけではない。2006年4月、町と地元農協、舎田布施農林事務所で「周防大島担い手支援センター」を設立、農地の斡旋にも取り組んでいる。島を挙げた受け入れ態勢である。
背景には老いる島の現実がある。高齢化率は45%を超え、農業者平均年齢は70歳を超える。島を支えてきたミカン栽培も低迷の一途だ。 2005年の柑橘類栽培面積は1220haで、この十年間で30%減、その内の20%が荒廃している。農業再生は島の最重要課題だ。
久保さんも近所の農家のアドバイスを受けながらやってきた。今は不在地主の畑20アールの世話をするなど、集落を守る存在にもなっている。
『古里への思いを、いかに奥さんと共有化するかがカギ』 周防大島担い手支援センター長の中原氏はこうアドバイスする。
夫以上に地域に根を張っているのが妻。そのつながりを断ち切っての帰郷に加え、ムラの人間関係は濃く 難しい。
久保家の場合、妻のひろみさんは、10年来 周南市で福祉ボランティアを続けてきた。仲間とのつながりが薄れるのはつらく、ためらいもした。『でも 荒れていく畑を守りたいっていう夫の気持ちはよくわかるしね・・』
久保さんは『あれがおってくれたから、ここまでやれたんです。』と述懐する。ひろみさんは『まあ、初めて聞いた』と屈託なく笑い、こう続けた。
『地域と仲良くやっていくには、どんな会合にも顔を出すこと。覚えてもらって可愛がってもらう事。そうしたら村も楽しくなるよ。』
それまで虫も触れなかった妻は今、6アールの畑で玉ねぎを育て、ミカン畑の肥料代でミカンづくりを支えている。
(参考)
『周防大島ミカンいきいき営農塾
https://www.town.suo-oshima.
『周防大島担い手支援センター』 (TEL:0820-79-1007)
「周防大島みかんいきいき営農塾」では周防大島町内の退職帰郷者や町外に在住しながら町内での就農や農作業支援を希望する方を対象に、柑きつ生産技術の研修を1年間にわたって行っています。 卒塾生は第1期から現17期まで延べ600人を超え、周防大島町の柑橘産地において中心的な役割を担っています。
宮崎の「御神木ヴァイオリン・コンサート」の感動が今も続いています。
ヴァイオリンは、製作後400年ものあいだ美しい音色を響かせます。「その中で二度とない御神木ヴァイオリン初演コンサート! これは聴き逃せない!」
と、家内との意見が一致し、千葉から宮崎の会場に駆けつけました。そして想像以上の感動を味わい「本当に聴きに行って良かった!」と今日も話し合い、感動を反芻しています。
「御神木ヴァイオリンの物語」は、音楽人:山内達哉氏が故郷・霧島の狭野神社の樹齢400年の御神木が風倒木となり残り少なくなっている話を聴き胸を痛めたことから始まります。山内さんは「神様を守る役目を終えた御神木に新たな命を吹き込み、“御神木ヴァイオリン”
として更に400年間、人々の心に神の心を届けたい」と、狭野神社と県北の高千穂神社に相談したところ快諾され、早速世界的ヴァイオリンドクターとして有名な中澤宗幸氏に製作を依頼しました。
そして中澤さんは、2年以上をかけて入魂のヴァイオリン制作に取り組みました。 今回は本来の材質とは異なる表(杉)裏(欅)のため制作は困難を極め、最適の響きを得るために通常3㎜程度の薄さに削り込むところ、今回は部分的に1㎜の薄さまで削り込んでいるそうです。
その音色は・・演奏者の山内さんが、「生まれたての赤ちゃんヴァイオリンで、これほど深い音色を出すのは初めてです!」 と絶賛されるほどの見事な音色でした。
山内さんが 「悲惨なウクライナの戦争悲劇が早く終わってほしい」と願いながら演奏を始めた「ひまわり」・・私は冒頭の低く深い音色の悲しい旋律を聴いたとき、思わず涙があふれ出てきました。
私はこれまで、YOUTUBEやCDで山内さんの演奏を何十回も聴き大ファンでした。 しかし今回の演奏会はそれらの感動を遥かに超え、想像以上の感動を覚えました。
まず 「天地創造を思わせる和太鼓の乱打」で始まり、次に純白の神主姿で登場された佐野神社の小多田権禰宜さんが、舞台中央の流木のお祓いを、そして中央・右・左と観客席に向かいお祓いを、さらに後ろの演奏者たちにお祓いをして、この演奏会を清めたのち退場されました。まるで歌舞伎名優のような見事な鮮やかな修祓・祈りでしたが、後で聴くと、すべて打合せなしの小多田権禰宜さんのアドリブだったそうです。
この祈りが終わると、高天原から瓊瓊杵尊が降臨されるかのように・・・御神木ヴァイオリンが舞台の天井から厳かに降りてきて主演奏者の山内さんの手に渡り、素晴らしい演奏会が始まりました。
・・始まりから終わりまで、演出構成、演奏、演奏者の語りなどを含めて全てが、『この世は、神々が私達を暖かく包み込んで育んでくれている素晴らしい世界である!』と言う事を実感させられ、感動して涙が止まりませんでした。本当に奇跡と思うほど素晴らしい感動的な 『御神木ヴァイオリン・コンサート』でした。本当に有難うございました。
その二日後、狭野神社をお参りした後に再び奇跡が訪れました。なんとあの名演奏をされた山内ご夫妻とお会いする事になったのです。そして実際に『御神木ヴァイオリン』をこの手に持たせてもらう幸運に巡り合ったのです。 私も家内もただただ感激するのみでした。その御神木ヴァイオリンの表板には狭野杉の見事な年輪が刻まれており、裏面には著名なフランス人画家マークエステル氏の「天孫降臨」の絵が描かれていました。
そして宮崎最終日に、三度目の奇跡が起きました。
帰京フライトまで余裕があったので、九州最大級といわれるイオンモール宮崎へ行きました。そして家内とウィンドウショッピングを楽しみ、食堂街を歩いているとき「安藤さん!」と声をかけられたのです。「エッ!こんなところで誰かな?」と横を見ると、懐かしい元出光後輩の今西くんがにこやかに立っているではありませんか!「エッ!どうしてこんなところで今西くんに会えるの?」と絶句です。
新妻の奥さんと生後2か月強のお子さんを連れて初めての遠出だったようです。赤ちゃん大好きな家内は、早速新生児を抱かせてもらい「じっと見つめながら口真似して話しかける赤ちゃん」に感激してメロメロです。
今西くんは高原中から都城高専を優秀な成績で卒業。出光入社後は千葉工場でポリエチレン装置を担当し、同期仲間では最も早く約10人の部下を率いる優秀な若手リーダーでした。将来は幹部候補で、会社にとっては特に辞めて欲しくない重要人物でした。
しかし過疎化が進む故郷高原町の将来を憂い、「高原町に帰り、若者を指導して何とか復興させたい!」という思いが募っていき、入社10年目を節目に出光を退社しました。 それから7年が経過し、このたびのコンサートに来ないかと誘ったところ「結婚して7月に第1子が生まれたばかりです。」と言う事で残念に思っていたところでした。
その前日、私は高原町の狭野神社に参拝し、JR高原駅前の中心街を散歩したり、「希望の店」で買い物したりして「今西くんと偶然会えないかな・・」と思っていました。その願いを、霧島の神様が叶えてくれたとしか思えない、本当に奇跡的な7年ぶりの再会でした。
私たち人間は、悠久の自然の恵みの中で生命をつないできた存在です。
目を閉じて想像してみましょう。空と大地がもたらす自然の息吹、神々が躍動した遥か昔の世界を・・まずは山内達哉氏が奏でる御神木Violinの神々しい響きを聴いてみてください。
20万年前にアフリカで誕生したホモサピエンスは、やがて食料を求めて世界中に拡散し、その一団は平和と太陽を求めて東へ東へと移動し、2~3万年前に日本列島に辿り着きました。そこは温暖で食料に困らない自然豊かな土地で、南から西から北から色々な人種・民族がやってきて集落を作り、みんなが仲良く助け合って家族として生きました。この日本草創期の争いのない平和な縄文時代は1万年以上も続き、その間、世界最初の磨製石器や土器を作り、5,000年ほど前には装飾性の高い火炎土器なども作り、世界でも特異な 豊かな 独自の文明を築いてきたということが最近分かり、世界中の関心が集まってきています。
自然と共に生き、あらゆるものに神の存在を感じ、祖先に感謝してきた日本人の心は、神話として語り継がれ、美しく優しい国民性を育ててきました。
この日本誕生以来の民族の記憶は古事記・日本書記の「神話時代」に記録され、その特徴は、明るく朗らかな愉快な物語が多いことです。
(生存のために部族間で熾烈な戦争が繰り返され、現代も続く西欧や大陸の神話のように「罪悪から生まれた」とか「獣から生まれた」とか、残虐・悲惨・凶悪・冷酷・裏切・姦淫・・などの暗い話は殆どありません。)
さらに日本の「歴史時代」は、初代天皇の神武天皇が全国を平定後、「八紘一宇」(世界のみんなが仲良く和を大切にして家族のように生きていく) ことを建国の基本とされ、そのご子孫の126代 今上陛下の現代まで途切れなく連綿と続き、おおみたから(国民)とともに、信頼と暖かい心で結ばれた日本を作り上げてきました。
この世界で稀有な美しい文明と精神を、戦後は占領政策によって否定され、政治・報道・教育を捻じ曲げられました。1951年のサンフランシスコ平和条約で独立・主権を取り戻した後も、私たち日本人は自らの稀有な歴史・文化を忘却したまま、80年近くにわたり「日本の心」「アイデンティティ」を見失い混迷を深めています。その「忘れ去られた日本人の心」を音楽の力で取り戻そうという音楽家があらわれました。山内達哉氏です。
都城市が生んだ名ヴァイオリニスト山内達哉氏は、桐朋学園短大卒業後 、主に地域の活性化の音楽祭を企画・プロデュースし、音楽仲間と演奏する活動を展開しています。そして 「日本の歴史や失われつつある風景を音楽にのせて後世に伝えていきたい」 という強い想いから、日本各地をテーマにした楽曲を作曲し演奏され、日本人であることの誇りや、故郷を想う心など思い出し育む素晴らしい作品として、多くの人々の心をとらえています。 その代表的名曲が、故郷の天孫降臨の山を歌い上げた「霧島~約束の地~」です。
【物語1】 御神木ヴァイオリンへの思い
コロナ禍で主な活動拠点を、東京から故郷の都城市に移した山内氏は、過疎化していく故郷や、日本神話で名高い有名な神社神域の風倒木に心を痛めました。
「この御神木を活かしてヴァイオリンを制作したい。そして神々の思いを込めた音楽を400年も500年も奏で、人々を励まし続けられるようにしたい!」 と思い立ちました。 さらに山内氏が総合プロデューサーを務める 『神話の里 文化・芸術育成Association』
からの、「未来を担う子どもたちに音楽などの文化芸術に触れることで豊かな人生を歩んでほしいという願い」も込められました。
【物語2】 思い立ったら即行動
そして早速2020年12月 山内氏らは、天孫降臨の瓊瓊杵尊が祭られている県北の『高千穂神社』と、初代神武天皇生誕の地と言い伝えられる県南の『狭野神社』に赴きました。どちらの神社も【御神木ヴァイオリン】の趣旨を説明すると「そんな話は初めてだ!」と驚きながら快く賛同されました。 高千穂神社では裏板に使用する『ケヤキ』を、狭野神社では表板に使用する『狭野杉』を預かり、それぞれお祓いを受けました。そして手にした板は「とても畏れ多い感じがした」と山内氏は話しておられます。
【物語3】 2つの説がある天孫降臨の説
この二つの神社を選んだのには理由があります。日本神話の主神・天照大神が、孫の瓊瓊杵尊を神々が住む高天原から地上に降臨させ統治させたという『天孫降臨神話』の舞台は「高千穂」として有名です。しかし宮崎には県北部の高千穂町と県南部の霧島・高千穂峰のふたつの高千穂があります。「日本書記」では霧島・高千穂の峰、「日向国風土記」では高千穂町の記述があり、どちらが天孫降臨の地なのか古くから議論されてきました。夫々の地の御神木をヴァイオリンとして一つにして神々の声を届けたいという思いが込められています。
【物語4】 御神木ヴァイオリンの製作➀ 中澤宗幸さん
「御神木ヴァイオリンへの思いを実現してもらえるのは、世界的ヴァイオリンドクターの中澤宗幸さんしかいない!」 と、山内さんは制作を依頼しました。中澤さんは「最後の使命だと思って、魂を込めて作ります」と快諾され制作を開始しました。御神木は一般的なヴァイオリンの材質と異なるため製作は困難を極め、約2年の歳月を重ねて2022年末にようやく完成しました。通常ヴァイオリンは良い響きを求めて表・裏板ともに厚さ3mmくらいまで削り込まれますが、この御神木ヴァイオリンは、さらに良い響きを求めて削り込み、部分的に1mmとなっている部分もあるそうです。
中澤さんはこれまでも、2011年3月11日に発生した東日本大震災で大きな被害を受けた陸前高田市の流木から、「TSUNAMIヴァイオリン」を製作され、奥様のヴァイオリニスト中澤きみ子さんと二人三脚で
「千の音色でつなぐ絆」 プロジェクトをスタートされています。追悼の想いと復興への願いを音色に乗せ、「TSUNAMI
VIOLIN」を 1,000 人のヴァイオリニストがリレーしながら弾き継いでいくプロジェクトで現在も続き、延べ800人ほどが演奏しています。
『その中澤さんの音のイメージと想いが、御神木ヴァイオリンには一杯詰まっていますので、是非沢山の方々に聴いて欲しい』 と、山内氏は語られます。
【物語5】御 神木ヴァイオリンの製作➁ マークエステル氏
【物語6】 宮崎から日本へ、そして世界へ
今後は、宮崎から飛翔し、全国各地の神社の祭事や、地元のお祭りなどを通して、地元のヴァイオリニストに演奏してもらう予定だそうです。宮崎で誕生した数々の物語とともに、『世界のみんなが仲良く和を大切にして家族のように生きていく』という神々の願いを世界中に届くよう、その音色を響かせ続けてほしいと祈ります。そしてヴァイオリンとしての役目を全うするまでの数百年間、私達もその人類の願いを心から支援していきたいものです。
【物語7】 入魂式&奉納コンサート (令和4年12月22日、29日)
【物語8】「鳴響ものがたり」 2022.12.26 都城市山田町のご自宅(Bon Cafe)庭園での野外コンサート。ステージのこんもりした森は、鎌倉時代以前からの歴史ある山田神社。中盤からの「ひまわり」は、ウクライナ悲劇を思い泣かせます。また終盤の娘さんとのデュオ「アニーローリー」は、奥様のキーボードと合わせ 息がぴったり合い心に響きます。まさに御神木ヴァイオリンと山内一家の「鳴響ものがたり」です。