舩川利夫先生との出会いと 『嘆詩』の思い出
私は社会人になって直ぐ、船川利夫先生の音楽の世界に引き込まれました。
仕事中にも「出雲路」や「箏四重奏曲」のメロディが頭の中を流れて離れず、仕事が終わるとすぐ出光会館へ行き空いている会議室で4時間、休みの日は一日中練習していました。
(その経緯は・・将来の見えない工場交代勤務で悩んでいた時に、母校高校教師の勧誘がありました。創業者の社是「仕事を通じて国家社会に貢献せよ」に鑑みると、私には、工場運転の歯車に徹するよりも高校生を育成することが社会貢献することでした。「これぞ天命!」と退職願を提出しました。すると信じられないことに工務部長は退職願いを握りつぶし「会社は2年ただ飯食わせてやった。その恩も返さず退職する? この恩知らずが!」と怒鳴り1年 待てと厳命されました。その間に母校教師は補充され、私は会社生活を継続することになりましたが、建前と本音を使い分ける会社に絶望し、尺八練習に打ち込み、その合間に仕事をしている状態でした。かの工務部長は、その後取締役、常務になりました!)
「将来の夢がない理不尽な会社勤務はいずれ辞めて、尺八のプロになろう!」・・当時は宮崎出身の村岡実(「柔」の伴奏)や、ジャズ尺八の山本邦山が活躍しており、船川先生を通じて広がる美しい世界にあこがれました。そして4年後、先生の初期組曲「嘆詩」を千葉文化会館で演奏することになり「これは夢か?」と雲に乗る気分でした。当日は邦楽界トッププロ=箏の羽賀幹子先生や十七弦の大塩寿美子先生、そして船川先生自身も尺八演奏する演奏会でした。
その後順調に進み、芝増上寺前のABC会館ホールでの演奏会トップバッターとして、憧れの羽賀幹子先生と「春の海」を演奏することになりました。しかし・・ああ、50年経過した今も冷や汗が出ます。緞帳が開くと、目線のはるか上まで埋め尽くした約2000人の観客に肝をつぶし、唇が震え始め・・羽賀先生の箏前奏が始まり、尺八が「ハロー」と低音を朗々と吹き始める筈が、2音目から「ハフー」と掠り音にしかなりません・・後は必死でしたが、ムラ息のような音の出ない状態は増々ひどくなり・・緞帳が降りると酸欠状態で眩暈がして立てませんでした。つくづく「オレにはプロは無理だ!」と思い知り、二度と大舞台の独奏には立つ勇気が出ませんでした。
さらに1年後結婚することになって現実の世界に引き戻され、仕事(家族)と尺八(道楽)の二足の草鞋を履ける器用な人間ではなかったので仕事に打ち込むことにしました。
・・あのまま尺八、邦楽の世界に進んだらトンデモナイ厳しい世界に突入し、大変な挫折と貧しい人生になっていたことでしょう。結婚で現実の世界に引き戻してくれた家内に今も感謝です。やはり趣味は程々に、日常生活で楽しめる程度が良いですね。
(左から、大塩寿美子先生、羽賀幹子先生、船川利夫先生)
『嘆詩』は船川先生初期の作品で、5篇の漢詩から曲想を得られました。
1.峨眉山月の歌・・冒頭の尺八が美しい半月を連想させます
2.易水送別・・刺客荊軻の緊張感が尺八のムラ息で表現されます。
3.春日雑詩・・「山上酒宴の酔払いが千鳥足の様を表現しなさい」
4.事に感ず・・千変万化、諸行無常の世界、終章椿の花がポトリと・・
5.江南の春・・唐末期、杜牧が昔の南朝四百八十寺の帝都を回想
曲中、鶯がさえずりますが、練習でこの可愛い音が出せず、先生から「鶯ではなくコジュケイだね」とよく冷やかされました(笑)
「江南の春」は高校の古文に出てきて大好きな漢詩ですが、中国民主化運動の元闘士で追放され日本に帰化した中国出身の石平氏が初来日したころの感動をこう記していました。
「私は中国人だから漢詩が大好きで、特にかって繁栄した帝都健康(現 南京)を描いた”江南の春” が大好きだった。しかし残念ながら唐末期には、かって繁栄した四百八十寺も衰退し荒廃、唐は滅び、宋、元、明、清、更に共産主義となった現代は仏教は軽視され ”遠い過去の美しい世界” となってしまった。そして留学で初来日して京都を訪れた時、”江南の春” の世界が、現代日本でそのまま生きている奇跡に出会い心底驚き感動した!」
私たち日本人は、世界に類のない京都・奈良の文化遺産を当たり前と日常と受け止め、全く関心のない日本人が多数を占めるようになってきました。しかしその原型となった中国では千年以上前に失われた「奇跡の生き続けている世界遺産」です。私たち日本人が日本人であることの原点としてもっと敬意を払い大事にしていかなければ・・と思います。
「嘆詩」 船川利夫 昭和45年作曲
https://www.youtube.com/watch?v=OWoKLBjlSxM
1.峨眉山月の歌 李白
峨眉峨眉山月
半輪の秋
影は平羌江水に入りて流る
夜清溪を發して三峽に向ふ
君を思へども見えず渝州に下る
秋、故郷の清渓を離れて、三峡に向かえば、峨眉山の上に半月が出ている。その月影は平羌江に写り、船と共に流れゆく。やがて三峡の山に迫り、岸は聳えて名月は没し、月影を見るすべもなく、船は空しく渝州に下る
(峨眉山は、中国の四川省ある山の名前です。李白が故郷を離れて旅を始めたときの歌とされています。)峨眉山・平羌江・清溪・渝州・三峽と、5つもの地名を含めたのは、旅立ちを読み手にリアルに連想させるためでしょう。
2.易水送別 駱賓王
此の地 燕丹に別れ
昔時 人 已に没し
今日 水 猶ほ寒し
この易水の地はかつて刺客の荊軻が燕の太子丹と別れたところだ。当時の壮士たちは、髪が冠を突き上げるほど悲憤慷慨していた。その昔の人々はすでにみな亡くなり、今日、川の水だけが昔のまま冷たく流れている。
3.春日雑詩 袁枚
千枝千枝の紅雨 万重の烟
画き出す 詩人 得意の天
山上の春雲 我が懶きが如く
日高くして猶宿る 翠微の巓
春の雨は花という花に注ぎ、山々は春雨にけぶって詩人画、人々の描き出す絶景を思い出させる。山の上の春雲は怠け者の私に似て、日が高くなったというのに新緑の頂嶺に眠っている。
4.事に感ず 千墳
花開蝶滿枝 花開けば 蝶枝に満つ
花謝蝶還稀 花謝すれば 蝶還た稀なり
惟有舊巣燕 惟だ旧巣の燕 有って
主人貧亦歸 主人 貧しきも亦た帰る
花が咲いているときには枝に集まっていた蝶も、花が散ってしまえば戻ってくることはない。同じように盛りの時に人は集まるが、衰えてくると人は見向きもしない。ただ燕ばかりは古巣を覚えていて、家主が貧乏していても、もとの巣に帰ってきてくれる。
5.江南の春 杜牧
千里鶯啼いて 緑紅に映ず
水村山郭 酒旗の風
南朝 四百八十寺
多少の楼台 煙雨の中
江南千里、鴬はいたるところでさえずり、緑の若葉は紅の花に映じて春たけなわである。水のほとりの村、山沿いの町には酒屋の旗が春風にひるがえる。さてこの辺りは南朝の遷都の地で、仏法興隆の当時建てられたという四百八十の寺院があちこちの堂塔にその名残をとどめ、そぼ降る雨に見え隠れしている。
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