私達は、自分が生きてきた長さでしか歴史の年月は実感できません。
10歳の子供には10年前は大昔であり、10年先は遥か遠い未来に思えます。しかし加齢と共にその物差しが長くなり、遠い過去と思っていた事が、実はすぐ身近に起きていたことを知ります。
私は10歳の頃、太平洋戦争は遥か遠い昔の出来事で、江戸時代や明治維新などの話とあまり区別が付きませんでした。しかし75歳になるいま考えると、自分が誕生するわずか5年前に、広島・長崎に原爆が投下され数十万人が一瞬にして消滅・死亡し、東京大空襲などで全国の都市が焼け野原になった日本民族初めての大国難があった訳です。その悲惨な時代の真只中を生きた両親が話す戦争の恐ろしさを「またか」と聞き流していた自分の愚かさに今更ながら赤面します。東日本大震災・大津波が一瞬にして2万人を命奪い瓦礫の山と化した惨状が日本全土を覆っていたわけです。
80年前、太平洋戦争敗戦で日本は焦土と化し約310万人が戦死しました。
国民の殆どが家族を失い住む家を失って、その日をどうやって生き延びるかで四苦八苦していたとき、会社資産の全てを失いながら、海外からの引揚者800名を含む従業員1000人を一人も馘首せず、仕事を探して生計が立つように死力を尽くした経営者がいました。その名は「出光佐三」終戦時60歳、普通なら隠居して悠々自適の第二の人生を開始する年齢です。 更には世界中を仰天させた『イラン石油輸入=日章丸事件』を見事成し遂げ、日本奇跡の経済成長の元を創り『100年に1人出るか出ないかの大人物』と言われました。
『日本人にかえれ』は、そういう戦後の困難の中、無一文の中1000人の社員を抱えて乗り切り「戦後日本経済を創った一人」として称えられた出光佐三店主が86歳の昭和46年6月に刊行されました。それまでの人生で実践してきた根本理念が示されています。
事業が軌道に乗った昭和41年には帝劇ビルに本社を移し、毎朝8階の自室から皇居を遥拝されて執務されました。昭和45年には中堅社員に日本人としての在り方を自ら教育された「店主室教育」が始まった翌年の刊行です。「100年に一度の傑物」と尊敬された店主が、日本の心を失い迷走する戦後日本人の進むべき道を纏め教え諭された名著です。
店主は大著「わが六十年間」全3巻を筆頭に数多くの名著を残されましたが、「日本人にかえれ」は、それらのエキスが凝縮され、日本人座右の一冊として一生大事にしたい名著です。
1.「日本3千年の歴史を基に建設にかかれ」
「日本人にかえれ」は、単なる企業経営哲学でなく、神代から江戸・明治・大正・昭和の時代背景、国際情勢を、店主独特の慧眼で俯瞰した『日本人の原典、人間学の指南書』です。
冒頭の書き出しは、日本開闢以来初の大敗戦で国民全体が腑抜けになっている中で、店主は微動もせず終戦2日目に本社に集まった社員に対して訓話した『愚痴を言うな、日本三千年の歴史を見直せ、そして建設にかかれ!』 という檄から始まっています。
確かにその通りです。下の世界各国の歴史票を見ると、神話の時代から連綿と続く三千年以上の途切れない歴史を持つ国は日本しかありません。戦勝した米国は建国僅か250年の新興国。もともと住んでいた先住民2,000万人を虐殺して奪った土地にアフリカから拉致した黒人奴隷を牛馬のように酷使して作った人種差別の野蛮国家です。
「中国5000年の歴史」と彼らは胸を張りますが、実際は匈奴やモンゴルや満州人に支配された王朝が林立していった歴史に過ぎません。夫々の王朝は全く関係なく200~300年毎に異民族に支配された歴史です。「中国」という名称でさえ100年前までは存在せず「中華民国」「中華人民共和国」を縮めて使い始めた100年に満たない国名です。本来は「秦、漢、随、唐、宋、元、明、清の異民族支配の ”China" 」と呼ぶべきで、夫々は全く異なる王朝です。
人種差別の米国が「日本人移民排斥法、石油禁輸、ハルノート」で、日本を戦争せざるを得ない状況に追詰めて開戦。310万人が戦死、日本中が瓦礫と化し、呆然自失した日本国民への占領政策は苛烈を極めました。当時貴族院議員だった佐三氏は『占領軍は、日本再起にとどめを刺し、日本の亡国化、日本解体を目指した。日本精神は完全に否定され、一夜漬けの憲法を押付けて一日にして議決させ、国民の意志は完全に無視された。これが何の民主主義か!』 と憤激しています。
(しかし79年経過しても、日本国民の大半は押しつけ憲法を後生大事にして疑問も抱かず、憲法は一字一句変更なく、任期中の憲法改正を確約した岸田政権は不人気でレイムダック化して改正条文明文化さえ目途が立っていません。)
大陸のソ連化・共産主義化を阻止しようとしていた日本を破滅させ、朝鮮戦争でようやく日本の戦いは自衛戦争であったことを知ったマ元帥。しかし時すでに遅く大陸は共産化され長い不毛の東西冷戦がはじまります。 その防波堤となるべく戦っていた日本を隷属化したGHQへの店主の怒りは終生変わらず、GHQ本部があったビルの隣に昭和41年建設する「帝劇ビル」に出資(東宝、出光、三菱地所)、5階以上を出光本社とし、8階西端皇居側で旧GHQ本部を見下ろす位置に自らの執務室「店主室」を置きました。その横並びに会長・社長・重役会議室を配置し、毎朝皇居を遥拝してから執務につきました。
(第一生命ビル:旧GHQ本部) (マ元帥が驚嘆した昭和天皇)
終戦後、第一生命ビルにGHQ本部を置いたマッカーサ元帥ーは、9月11日東条英機以下37名を戦争犯罪人として逮捕。前日アメリカ議会では昭和天皇を戦犯とする決議案が提出されています。こういうなか昭和天皇はマ元帥に会見を求めます。これは9月27日にGHQ本部を訪問した時の会見前写真です。藤田侍従はこう書き残しています。 【・・陛下は、『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』と語られた】
一身を捨てて国民に殉ずる天皇のお覚悟を聴いたマ元帥は、強く感動し態度が一変、回顧録に次のように記しています。「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『 マッカーサー回顧録』1963年)
こういうわが身の犠牲もいとわない尊い昭和天皇とマ元帥の会見=日本の歴史始まって以来の重要な場面を、戦後80年近く日本の歴史教科書は全く取り上げてきませんでした。そして今年、この会見を詳細に記述した「不合格 中学歴史」(令和書籍)が、6年の検定を経て初めて合格となりました。市販されており (アマゾンでも購入可)是非全家庭に一冊常備してほしい、待ちに待った「日本の歴史教科書」です。これを見ると文科省の検定は、まるで戦後GHQ指示の黒塗り教科書です。「文部科学省検定 不合格基準の不透明さ、検閲の理不尽さ、歴史形骸化意図」、「本来子供の為に立派な教科書をつくる立場のはずの文科省の堕落・劣化」がよくわかります。
2.三島事件と店主
この国民の情けない精神的堕落を覚醒させようと、昭和45年11月25日に起きたのが『三島由紀夫事件』でした。三島と同じ思いだった店主は、なんと三島由紀夫の葬儀で弔辞を述べられています。(P173)
『・・あなたは日本民族を三千年の伝統を誇る尊い日本人に返そうとして、死をもって教えんとなさいました。しかも日本民族独特の武士道に則り、切腹という尊い道を選ばれました。日本人はこの尊いお姿に接して愕然として目覚めました。日本の青年は自問自答しつつ本来の日本人にかえらんとしていますから、どうぞ安んじてお眠りください・・・』
3.青年への期待
出光佐三店主は今後の日本を青年に託し『戦後、大衆、政治、教育、産業、文化は退廃し、日本精神は虚脱した。
頼むは純なる青年のみである。青年よ、明治時代を凝視しつつ新しい日本を作れ!』と期待し「日本人にかえれ」を刊行し、10年後に96歳で逝去されました。この名著発刊から50年、店主没後40年経過しましたが・・果たして世の中は店主の期待通り進んでいるでしょうか? 果たして青年は店主が期待されるような存在だったでしょうか?
会社では昭和45年2月に入社12年目中堅社員教育があり、研修生からの質問が出光の根本から乖離していることに驚いた店主は、すぐに稲用人事部長を呼び出し『一体君たちは何を教育しているのだ。これから若い者は僕が教育する! 』と大変な剣幕で激怒、2か月後の4月に第一回目の店主室教育がスタートしています。 前出の中堅社員教育受講者は再招集・再教育され『君たちは出光のガンになっている。これから帰店したら “我が45年間“ や“出光50年史”を心眼を開き眼光紙背を徹す姿勢で研究し実践せよ!』と叱咤されたそうです。(光友会々報59号:H20年吉田保之さん随筆) 右は第20回店主室教育
この本が編集されるころ、私は大学3年で大学紛争真只中、『占領軍に捻じ曲げられた戦後教育』で育った全共闘世代です。S46年出光内定し送付された店主の書籍3冊のうち『マルクスが日本に生まれていたら』を読みましたが、よく理解できず反感が大きく途中で投げ出してしまいました。そして出光入社後も製造現場主体の40年間を過ごし「日本人にかえれ」は、どこか遠くの掛け声に聞こえていました。
4.日本の教育環境の堕落と危機
製造現場で技術面の仕事に打ち込むことが『真に働くこと』と思っていた私でしたが、40歳代になって長女の高校進学で大変なショックを受けました。千葉県一の進学校に合格したことを無条件に喜んでいた私たち夫婦は、入学式で全身にバケツで冷水をかけられたようなショックを受けました。式次第の冒頭『国歌斉唱、一同起立!』の号令がかかったのに先生方は誰一人起立せず「君が代」を歌わないのです。 生徒はどうしたら良いか分からず、シーンと静まり返った中でピアノ伴奏だけが鳴り響いています。今まで見たこともない異様な入学式でした。『これが東大合格者を何十人も出す千葉県立高トップの進学校なのか!こういう中で学び東大に進学し、霞が関で日本中枢の国家公務員になっていく日本は、一体どんな国なのか?』 と、愕然としました。これは全国の有名進学校となるほど顕著となる風景だと聴きます。
それ以来、初めて『日本の常識、戦後の歴史教育』に疑問を持ち、色々な本を読み漁り、それまで常識と思っていたことが全て真逆であったことを知りました。そして『南京事件や従軍慰安婦問題』が、全て朝日新聞の捏造報道で始まり世界に拡散していったこと、マッカーサーやフーバー元大統領やフィッシュ元上院議員などが『第二次世界大戦はルーズベルト(狂人と表現)の陰謀により引き起こされた』 と終戦後総括していることを知りました。 ルーズベルトは、開戦前から『日本の戦後処理はカルタゴ滅亡を手本に、近代技術を徹底破壊し、農業しかできない太平洋小島国に没落させることを戦争目的』にしていました。 その遺志通りGHQはWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)で徹底的に思想教育し、日本人を骨抜きにすることに成功しました。
昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結で独立国となった後も更に浸透し、店主が終戦直後に警鐘を鳴らされた『占領軍が目指した、日本再起にとどめを刺し、日本の亡国化、日本解体』は、いまや 『日本人の誇りを失い、強国に媚びへつらい、無責任で権利だけ主張し、何を言ってもとがめられない政府・体制批判に明け暮れる国籍不明の情けない国』 になっています。一番の危機は、日本人の心の荒廃です。
5.私達国民全員の課題 「日本人にかえれ」
退職後大学キャリア講師を10年間、学生600名と接しながら古希を迎え、初めて85歳の店主が言われた『青年は素晴らしい。青年よ、明治時代を凝視しつつ新しい日本を作れ!』 の真意が分かってきました。
終戦後25年経過し高度成長期を築いてきた優秀な12目社員を『君たちは出光のガンだ!』と中堅社員教育で叱り飛ばした店主の本当の思いは、『国家に示唆を与えるべく真に働き続けた僕の人生も残りわずかだ。僕の真意を引き継ぎ、純粋な若者を育てるのは君達だ。性根を入れてこの大仕事に真正面から取り組め。あとは任せたぞ!』 という叱咤激励だったに違いありません。そしてそれは「日本人にかえれ」が日本人全員に向けて書かれており、読んだ夫々が自らの課題として受け止めるように遺言されたのだと思います。
6.日本人精神の原点は 『古事記・日本書紀』
店主が凝視せよと言われる『素晴らしい明治時代』を作ったのは、江戸時代の藩校や寺小屋で幼いころから『清廉潔白、感謝報恩、滅私奉公、一致協力、互譲互助』など人間の基本を学び鍛錬した人たちです。
また第一次世界大戦で日本は戦場とならず、濡れ手に粟の巨利を得たことが、大正時代の金権主義や昭和初期からの傲慢無知を生み、第二次世界大戦大敗北の原因となりました。その未曽有の大敗北で日本人は腑抜けになり、明日を生きるのにも苦しむ逆境を乗超え高度成長を達成したのは、戦前の教育勅語や尋常小学校教育で鍛えられた国民が不撓不屈の精神で頑張ったからです。まさに店主の言われる 『逆境に楽観せよ、順境に悲観せよ』 を歴史が証明しています。
ならば『自己中心・視野狭窄・強権追従の現代人はどうすればよいか?』
・・まずは、1300年間日本人が大事にしてきた『古事記・日本書紀』を歴史教育に復活させて心の糧とし、聖徳太子の十七条の憲法、特に一条の『和を持って貴しとなす』に立ち返り、「真の日本にかえる」ことが不可欠です。
しかし左傾化が定着した文科省・学校教育(日教組)の改革を望むのは『百年河清を待つが如し』です。その間に日本人の心は完全に消滅してしまうでしょう。
夫々が今すぐ始められることを開始し、また出光本体に働きかけて『開かれた、SNS活用した広報活動で、日本人の心の復活』を推進していくことが必要で、出光OBとして、長く祖先の恩恵を受けて生きた日本人として、その一端を担うべく、次のような取り組みが必要ではないでしょうか。問題意識・志を同じとする諸氏と、是非連携して取り組んでいきたいと思います。
➀ 「古事記」購読 のすすめ(現代語訳「古事記」:福永武彦、「漫画古事記1~7」:久松文雄)
➁ 地方の歴史塾(寺小屋)、子供会、学童保育などで、『古事記』 等の勉強会開設テキスト⇒ 『尋常小学校国語・歴史・修身』 や 『中学歴史(令和書籍)』
『魔法の糸(米国道徳読本)』『言思四録』:佐藤一斎、『啓発録』:橋本左内、中江藤樹、二宮尊徳、大塩平八郎等
➂公開SNS で「日本人にかえれ」情報発信・双方向交流 (ブログ、FB etc.)
7.出光佐三氏の「生涯現役」の生涯
今日本の平均的定年は60歳。豊かな現代でも、『年金破綻、年金満額支給開始の65歳まで特に不安』 と自分の後半生をどうやって生きるか心配です。 そういう初老期に、会社資産を全て失い1000人の生活を背負う事になった訳です。『海賊とよばれた男』
(百田尚樹:著 講談社)は『戦後建設は死ぬより苦しいものと覚悟せよ』と檄を飛ばした出光佐三氏後半生を描いた驚愕の史実小説です。大混迷で強いリーダー不在の現代、あらゆる階層の人に読んで欲しい本です。上下2巻の大著ですが、次から次から襲い掛かる困難を中央突破する迫力と面白さに一気に読了する事ができます。
詳細内容は小説に譲り、佐三氏の年齢に沿って年表を整理してみます。
海外資産全てを失う。二百数十万円の借金。
8月15日 「終戦の詔勅」を聴き帰京
8月16日 瞑想
8月17日 訓示「①愚痴を止めよ、②三千年の日本歴史を見直せ
➂そして今から建設にかかれ」
800人の引揚者 「一人も首は切らない」と宣言し全員収容
1946年(61歳)ラジオ修理 全国50店⇒石油販売拠点、タンク底作業
1949年(64歳)元売指名⇒1951年 日章丸就航(戦後初 自社運行船)
1953年(68歳)イラン石油輸入(日章丸事件)
英国海上封鎖の中 イラン国有化石油を世界で初輸入
1957年(72歳)徳山製油所竣工⇒1963 両陛下徳山視察
1963年(78歳)千葉製油所竣工(1月)⇒新潟豪雪でも、
石油業法の生産調整⇒ 供給不足に抗し石油連盟脱退
1967年(82歳)千葉製油所2期拡張⇒世界初の重油脱硫装置
1973年(88歳)北海道製油所竣工
1975年(90歳)愛知製油所竣工⇒国内最後の新設製油所
1981年(96歳)逝去 昭和天皇御製
➀出光佐三氏が経営の根幹とした 『人間尊重、家族主義』 の真髄は、終戦時「家族を首にはできない」と800人の引揚者を一人も馘首せず、生活費と手紙を送り『仕事は必ず探す』と約束し実践した事ではないでしょうか。この時丁度60歳です。
②そして意気消沈していた日本人が再び自信と誇りを取戻した『イラン石油輸入の日章丸事件』。会社にたった1隻しかなかった外航船を経済封鎖中のイランに差向け、『例え拿捕・撃沈されても日本人の心意気を全世界に示す』と決断・実行したのが68歳です。
③72歳で当時国内最大の徳山製油所を作り、6年後千葉製油所建設.しかし石油業法で生産枠を50%に制限され、冬の大雪時に消費者が困窮しているのを見かねて石油連盟を脱退。国や業界を相手に一歩も引かず『消費者本位』を貫いたのが78歳です!
④96歳で逝去された時、昭和天皇は店主を偲び和歌を作られました。
『人の為、ひとよ貫き尽したる、君また去りぬ、さびしと思う』
『共に戦前戦後の未曾有の国難を全身全霊で生抜き指導し、日本人の誇りを取戻し繁栄を築いてくれた戦友の死がさびしい』 という昭和天皇の深い悲しみが溢れています。(歴代の天皇が一般人の死を悼んで和歌を詠まれる事は例がないそうです。)
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