2025年3月3日月曜日

9. 畏友が心血注いだ博多駅再開発

  令和6年末中学同窓会に合わせて博多の甲斐君を訪ねました。

 博多在住の畏友総治郎君(これからは他人行儀をやめて、総ちゃん、安ちゃんと呼ぶことにしました)が心血を注いだ博多駅周辺再開発の足跡を案内してもらい、家内と感動感激の連続でした。新技術や熱い思いが至るところにさりげくモニュメント化され、利用客が気付かない温かいもてなしの心がちりばめられていました。その一部を紹介しますので、総ちゃんたち鉄道マンの九州発展センターとして、博多駅ビルへの熱い心意気をぜひ感じてください。

 元々博多駅は沢山の路線が集中し、繁華街や商業施設が作れず、天神地区約2000億円の売り上げに対し博多駅周辺は、その10分の一でした。一番のネックは再開発用地がなかったことです。
そこで線路を統合共用して半分の面積にして、駅ビルや駅前広場用地を確保しました。そして床面積で6倍の巨大な駅ビルが完成しました。
そして14年、いまでは天神3000億円、博多駅ビル2500億円とほぼ同格の繁華街として発展を続けています。

なぜ福岡市の中心の駅が博多駅なのか?

その疑問への説明に、私達夫婦は初めて合点がいきました。 博多は古代から発展した商業、貿易の都市。江戸時代に黒田家が那珂川の西側に城下町を築き福岡藩、維新後は福岡県、福岡市となった。その後、福岡市を博多市にしたいという運動が起きたが、最終的に『福岡市』と決まり、その代わり経済中心となる鉄道駅は『博多駅』と決定した。(博多人は名を譲り実を取った訳です。また福岡と言えば『黒田節』ですね。

「福岡国際マラソン歴代優勝者の足跡」

 福岡国際マラソン大会歴代優勝の足形。懐かしい選手探すのが楽しいです。クレイトン、広島日出国、寺沢秀雄、瀬古など・・自分の足を重ねると、意外と小さいのです。

「子を抱く母」(左) ヘンリー・ムーア

 折角の名作が、柵と電飾に邪魔されて鑑賞できません。・・もう少し芸術品に配慮が欲しいです。
ヘンリー・ムーアといえば、箱根彫刻の森の作品が有名ですね(右)

「雨だれ境界」・・在来線(JR九州)と新幹線(JR西日本)の境界

 駅構内で足元に気を付けていると、床タイルが変わるところがあり、この標示に気が付きます。
総ちゃんによると、これは軒下の雨だれカーテンのように、通路には目に見えない「在来線(JR九州)と新幹線(JR西日本)」の境界です。 床タイル、壁模様、テナントまで「雨だれ境界」で分かれています。もちろん行き交う人は、足元を見つめることもなく、誰も気づかず通り過ぎています。(経営トップは本当に変なところで自己主張するものですね)

「駅構内の壁・柱を彩る千住博」

千住博氏監修による壁床柱のテーマ画。無機質な壁柱床に豊かな森のイラストを配し、優しい寛ぎの空間を創出しています。「木の葉、草、花、鳥、虫、魚」をテーマに、市民からイラストを募集して、その作品がちりばめられています。応募した人にとっては「あ、私の作品だ!」と見つける楽しさも盛り込んであります。

「狭い再開発用地確保の決定打」

 元々博多駅は沢山の路線が集中し、繁華街や商業施設が作れず、天神地区約2000億円の売り上げに対し博多駅周辺は、その10分の一でした。一番のネックは再開発用地がなかったことです。そこで線路を統合共用して半分の面積にして、駅ビルや駅前広場用地を確保しました。そして床面積で6倍の巨大な駅ビルが完成しました。
そして14年、いまでは天神3000億円、博多駅ビル2500億円とほぼ同格の繁華街として発展を続けています。

「博多駅ビル屋上

 近代的高層ビル屋上に出たとたんにこの光景です。我が妻が思わず「この稲は本物?作り物?」と聴くと総ちゃんは「もちろん本物だよ。収穫して神社に奉納後ご飯にしていただくよ。格別に美味しいよ!」



「七福童子」

 鉄道神社の前で電車ごっこして遊ぶ七福童子には、「鉄道網を介して、九州7県がともに発展する!という思いが籠められています。過疎の宮崎県人の私は思わず感涙です。

「2代目博多駅で使われていた柱(左)

JR博多シティ建設従事者名板(右)」

 先人の尊い足跡をしっかり残そうという強い思いが感じられます。

 総ちゃんは、「博多駅再開発が成功したのは、一部門のみの都合に固執せず各系統が一致して協力体制を敷き、意識レベルを合致させたことが大きい。高い意識を有する専門家集団が目標に向かって一丸となって進めた時の力はうかがい知れないものがある。この建設従事者名板には上司も部下も関係なく、発注者も元請けも下請けもない。これらを象徴的に表している」と、感慨深げに話しました。 もちろん「甲斐総治郎」の名前も10名くらいの「甲斐さん」の中に控えめに刻まれていました。

「くうてん」 博多駅ビル9、10階はレストラン街

 博多を代表する名店が軒を連ね、最近は天神地区以上のグルメスポットとなっています。(手前の後姿は我妻。小食ですが「どこも美味しそう!」と全部味わいたい様子

総ちゃんお勧め「華都飯店」

 にこやかな話好きな総ちゃん節が止まりません。多種多彩な話題に引き込まれた私達夫婦、我妻は「さすがに大会社JR九州の元重役さんね。一サラリーマンのあなたとは風格が違った」と・・

「目に入れても痛くない美人の娘さん」

 スマホ録画で、音大出身の奥様の素晴らしい歌唱と、低音の魅力の総ちゃんの「君恋し」に酔いしれたあとの話題は可愛い娘さんのスマホ写真。私達夫婦は異口同音で「うわー綺麗!奥さん似かしら?」と言ってしまいましたが・・総ちゃん気を悪くしないでください。あなたも男らしいイケメンです!


9. 高校・剣道勝ち抜戦の想い出

  私の母校は成績重視の高校で、印象に残る事が少ない3年間でした。

しかし体育の綾部先生はスポーツへの熱意が凄く、またクラス全員がスポーツ音痴に近いガリ勉タイプでしたので、スポーツ苦手の私でも、少し努力すれば面白さを満喫出来ました。

1. ラグビー・・よく県大会に出場していた俊足の河野義和君にボールが渡ると独走になるので、私はその前にタックルする役割に徹し、鈍足の私でも『確かに男らしいスポーツだ!』と実感しながら夢中になりました。

2. 剣 道・・私が大好きなTVドラマ 「半沢直樹」 は甲斐総治郎君とダブります。 甲斐君は剣道盛んな高千穂出身、中学時代に有段者で、初めて防着をつける私達は赤子のようなものでした。 しかし綾部先生の 『授業の最後にクラス全員の勝ち抜き戦をやる』 の宣言に、『よし、甲斐君に勝ってクラスの剣道トップに立つぞ!』 と、負けず嫌いの私は燃えました。

それから下宿に帰ってから1~2時間、綾部先生から指導を受けた素振り、足さばきの練習を繰り返し『これなら竹刀のスピードは甲斐君にも負けない』というところまで来ました。しかし目標は有段者の甲斐君に勝つことです。基本の練習だけではとても勝てません。

『なにか得意技=秘剣が必要だ・・』 と考え付いたのが、佐々木小次郎の 『燕返し』です。甲斐君の鋭い第一撃を強く払いのけ、その反動で鋭く 横面か小手 をとる・・これを何回も練習しました。そして実際に試してみたいのですが、残念ながらイワツバメがいません。しかし格好の練習相手を見つけました。夕方に下宿前を何十匹ものコウモリが飛び交うのです。コウモリは自前のレーダーを持っており、障害物があってもひらりとかわして身の安全を確保します。『よし、あれを切り落とせば秘剣完成だ。名付けてコウモリ返しだ!』。そして精神を統一して正面に飛んでくるコウモリに切りつけました。 

コウモリが当然のようにヒラリとかわし、横をすり抜けるのを 『小手!』 と払うとバサリと手ごたえがありました。左足元を見ると翼を折られたコウモリがモソモソとうごめいています。

『できた!』 満足感から覚めると、コウモリの祟りはないか心配になり、そっと傷ついたコウモリを森に逃がしました。(コウモリ仲間に助けてもらえよ・・と念じながら) 

そして待ちわびた剣道最終日、名簿順の勝ち抜き戦が始まりました。

安藤英人君、五十嵐君、石崎君、稲井君、岩切君・・と順調に退け勝進みました。5人とも密かに研鑽を積んだ私の相手ではなく『あと4人で甲斐君だ・・』と思っていたところに、思わぬ落とし穴がありました。それは浦元君(現同窓会会長のお兄さん)です。真面目でおとなしい中高一貫組の中では規格外の西都の野生児です。『構えて、始め!』 の声がかかると、構えも何もあったものではありません。へっぴり腰で『ワー、ワー!』と大声でわめきながら、そこら中を動き回り、まるでガキ大将のチャンバラです。『これは剣道じゃない、どうするか・・』と思っているところに、無茶苦茶振り回していた彼の竹刀が腕に当たりました。

『小手、一本!』綾部先生の無慈悲な声が響きました。

『えー、それはないよ!』・・しかし体育の武道体験授業で判定は覆りませんでした。そのあと甲斐君が勝ち進んでいきましたが、私は放心状態で興味を失っていました。

 『敵わないまでも、甲斐君にコウモリ返しを使ってみたかった』いまでもそう残念に思っています。 

(エピローグ)

〇甲斐君:旧国鉄民営化に尽力、JR九州専務、九鉄工業社長・会長歴任

〇浦元君:国際的活躍、ユニセフ、ILOアジア局長、上智大特任教授

9. 輝き続ける義和君の ”人生讃歌”

  長い人生で高校3年間は、社会飛翔前の「サナギの時代」です

「自分は一体どういう人間か? どう生きるか? 大学で何を専攻し将来どんな仕事をやるか? 」そういう悩みは尽きません。周囲を見渡すと脇目も振らず受験勉強に励む学友だけ、私はボンヤリしていて、あっという間に3年が経過しました。そういう印象に残ることが少ない私の高校時代ですが、ひときわ輝く学友がいました。それが「日向学院の裕次郎=義和君」です。

彼は入学当時から存在感があり、まるで都井岬の野生馬のように自由奔放で存在感があり、大きな旋風を巻き起こしては私達を驚かせました。当時の彼は「日向学院に嵐を呼ぶ男」で、本人も裕次郎を意識して行動していました。(写真のサングラス男が義和君、その右が私)

石原裕次郎は、生涯を心優しく自由闊達に生き、光り輝く国民的大スターでした。そして50年後の同窓会で再会した「学院の裕次郎」の人生も目を見張るようなエピソードに満ちています。今回はその一部を紹介します。(なお50年前であり微妙な話もありますが、本人から掲載了承は貰っています。) 

1.エピソード 「真夜中に女子高の円形校舎屋上に登頂!」

串間中出身の義和君は、野生馬のように奔放で行動的でした。近くの宮崎女子高へ通学する女生徒を寮のベランダから眺め品評会。「今のは80点。今度は今一だ。これは〇〇〇がクサル」などと、およそミッションスクールにはふさわしくない、当方は真っ赤になるような品定めでしたが・・・

そういうことに驚いていたら、ある朝 「昨夜 谷川君と二人で女子高の円形校舎屋上に登ってきたよ」というので、私達寮生友人みんなビックリ仰天です。「おい義和君、バレたら退学ものだぞ!」しかし彼はケロリンタンです。「昼間ここに登ったら、全校の女生徒を眺められたのに・・と残念だったよ」ムムッ!この男は本当に大物だ!

ところがその10年後に本当の動機を聴いてさらにビックリでした。彼の本当の目的は、円形校舎のてっぺんから宮崎女子高の女子寮を覗きたかったからだとのこと。‥その結果、「あいつら勉強などせず、お化粧の勉強に一生懸命だったよ」

2.エピソード 「英語詩暗記宿題に真向から反抗」

 2年一学期の授業で、スマイルマークそっくりの英語東後先生が 『H・W・ロングフェローの英詩 A PSALM OF LIFE(人生の讃歌)を次の授業まで暗記してきなさい』 と宿題にしたのを『そんなこと何の意味があるんですか!』と、義和君が真向から異議を唱え大激論が始まりました。 

中高一貫組35名は中学3年間、米国人のマックリンデン先生が担任して県の英語弁論大会で上位独占してきた英語力抜群の生徒たちです。「そんな簡単な宿題に反抗して・・」と迷惑顔です。
 他方地方から高校転入の私は、ピコ太郎の PPAPPen-Pineapple-Apple-Pen )レベルの英語力・・「義和君頑張れ!」と内心応援です。しかし教師の名誉にかけて頑張る東後先生が「覚えてもみないのに何故意味がないといえるのですか。まず覚えてから抗議しなさい!」と一歩も引かない姿勢を見せ、それ以上食い下がっては先生の顔をつぶすと悟り「わかりました!」と義和君は引き下がりました。・・そして次の日、彼は見事「4行9節の英詩」をスラスラと暗唱して見せました。彼は自身の美意識からガリベン嫌いで、納得できないことを率直に述べていただけで、本当は抜群の頭脳の持ち主でした。(私は残念ながら半分くらいしか暗唱できませんでしたが・・)

この場面は50年以上経過した今も深く印象に残り、高校・大学の全テキストはとっくに処分しましたが、この英詩 A psalm of life が掲載されている高2英語Reader だけは捨てきれず、今も大事に保管しています。義和君の思い出とともに・・この文末に全文を掲載していますので、ぜひ皆さんも味わってみてください。

【なお、1年生から担任だった西島先生は、試験の点数や成績しか眼中にない初老の偏屈な数学教師で、高校スタートから腹立たしく暗い授業でした。義和君が最初から反抗的になったのは西島先生のこういう態度でした。「甲斐は今回100点満点だったが、義和は今回98点で、まだまだダメだな」

西島先生は雑談で自分の奥さんを「うちの飯炊きは」と蔑称で話されるのにはみんなウンザリでした。自由奔放で型にはまらない義和君には特に風当たりが強く、何でもないことで毎日文句をつけぶつかり、授業出席不要と草むしりをさせられました。「義和君もよくめげないな・・」と感心しましたが、若い数学教師の丹生先生が、義和君を陰で援護してくれたそうです。(丹生先生は後に教頭になられました)。 西島先生は2年生時、脳溢血で倒れられ担任は国語の大川先生となりました。人格者の大川先生が「入院中の西島先生をお見舞いに行こう」と希望者を募りましたが、みんな顔を見合わせるばかり・・自主的に大橋君ら寮生が見舞いに行くと西島先生は涙を流して喜ばれたそうです。

一方で「義和がまだ見舞いに来ない」と愚痴っていたそうですが・・50年たっても彼は「あんな扱いを受けて誰が見舞いに行くかよ!」です。全く同感です。】

3.エピソード 「仮装用女性服を 宮女高教頭先生宅へ借りに行く!」

 毎朝学生寮ベランダから眺める宮女高通学生の中で抜群の美形が、寮近くの宮女高教頭先生の娘さんで、下宿生も何人かいることを突き止めた彼は、なんと教頭先生宅を堂々と訪問。「体育祭の仮装行列で使うので女性服を貸してください」と交渉したのです。何しろ品行方正で有名な日向学院の生徒の依頼ですから教頭先生も娘さんたちも快く受諾してくれました。それが今も残る女装の義和君です。あのヤンチャ坊主が中々の美形です!(後述しますが、彼は社会人になってからもっと美人で素晴らしい女性と出会い一目惚れ。その直後プロポーズして結婚しました。)

4.エピソード④ 『足が長くスタイル・運動神経抜群!」

「学院の裕次郎」を自認するだけあって、彼は足が長くスタイル・運動神経抜群でした。体育祭の200m走は後続を20m以上離してブッチギリ。サッカーもラグビーも彼がボールを支配すると試合にならないので、束になって彼にパスができない様に壁をつくりました。俊足の彼は中学時代から陸上競技選手、高校でも毎年県大会出場しました。 

・・高校時代のエピソードは、まだまだ沢山あったと思います。そいう規格外の義和君の社会人生活はどうだったのか・・2年前の50年周年同窓会で一番興味ありました。そして聴いた話は私の想像以上の波乱万丈人生で感動の連続でした。(次からは、その談話記憶です。)

5.エピソード⑤ 『大学入学後視力を失い大手術し中退』

 大学1年の時遊びで上京したとき、偶然にも山手線で、かってのクラスメートと(藤沢君?)ばったり出会い、お互いに『東京で会うなんて奇跡だね!』と、その時のやり取りを50年たってもはっきりと覚えているそうです。

 電車の中で突然『義和君、まだ暴れているの?』と話しかけられ『いや、今は暴れていないよ』と答えると『ああ、やっぱり義和君だったんだ。目つきが前と全然違うよ!』と返ってきました。そして電車の中で先ほどから義和君に似ている人がいるが、本当に彼だったら声を掛けると大変だと思い、声を掛けられなかった。しかし、目つきが昔の義和君でなかったので、恐る恐る声を掛けたんだ・・』

大学1年の時、彼は突然視力を失いました。回復の兆しがないため串間の自宅に帰郷し療養することになりました。この時は暴れん坊の義和君も、さすがに『いったい、オレのこれからの人生はどうなるんだろうと、暗澹たる気持ちだった』 ということです。 

自宅近くの眼科で治療を受けていましたが、精密検査を受ける必要があり、眼科医から「精密検査結果が出ても当院では治療ができないので鹿児島医大に入院したほうが良い」ということになりました。彼はこのかかりつけの眼科医を今も感謝しています。 大学病院で検査すると、かなり黄斑変性が進んでおり「眼球を外に取り出して網膜を縫合する」という大手術を受けました。幸いなことに手術は大成功、療養すること半年で視力はすっかり元通りに戻りました。

6. エピソード⑥ 『奥様との運命の出会い」

視力が回復した彼は大学を中退し宮崎市でホテルマンとして働くことになりました。

そういうある日、お客さんを観光案内して堀切峠の「フェニックスドライブイン」に立ち寄った時、これからの所要時間が読めず、観光案内していた宮交のバスガイドに「鵜戸神宮に行って空港に帰る所要時間はどのくらいか?」と尋ねたところ、若いガイドさんが実に適切に対応してくれて感心しました。

彼女に「お客さんを送ったらすぐ戻るから待っていてくれ」と言い残し、お客様を空港に送った後、彼女がまだそこにいるのを願いつつ急いで引き返しました。しかしあの素晴らしい宮交バスガイドは出発しており、当然そこにいません。・・それから義和君は宮交に問い合わせ、その時間帯に堀切峠にいたガイドを必死で探します。それらしい女性が宮交女子寮で暮らしていることを突き止め、女子寮の玄関前に自家用車で乗り付け、かの女性との面会を求めました。その当時「宮交バスガイド」といえば全国で有名な超エリート花形集団です。もちろん女子寮に直接乗り付ける男性など前代未聞です。「何事なのか?」と若い女子寮生のやじ馬が鈴なりの中、現れたのは確かにあのときの素晴らしい対応をした女性でした。義和君はその場で「僕と結婚してくれ!」とプロポーズしました。その女性は大分から宮交に就職したばかりの20歳、あまりの突然の結婚申し込みに返事もできず、目を白黒させていたそうです。そして数日、この義和君の強引なプロポーズに運命的なものを感じた彼女はすぐに退職し、大分の実家に帰って事情を話し、結婚準備のために宮崎に帰ってきました。

驚いたのは義和君のご両親です。「そんな若い女性が一大決心したんだから、向こうのご両親に正式に挨拶に行かなければ義理が立たない!」と、義和君を連れ立って大分に赴き、正式な結婚申し込みの話し合いとなりました。

それから50年、二人はいまもアツアツの熱愛夫婦です。「24歳の自分のインスピレーションに間違いはなかった。いまも最愛のできた家内だよ」と語る義和君の目は穏やかで優しく、あの高校時代の野生の目はすっかり消えています。

「真面目に生きていれば、必ずいいことがある」が彼の口癖です。

7. エピソード⑦ 『LEMAN HOTEL支配人に、そして今』

その後南宮崎に1973年オープンのLEMAN HOTEL の支配人となりました。色々な独創的企画でホテルは順調に伸び、「ホテルマンとして充実した仕事人生を送った!」と、40周年となった2013年9月に 区切りとしてホテルを閉鎖しました。その後は要請に応じ 経営者団体や官公庁で講演や指導を行って、宮崎市の発展に貢献しています。

A Psalm of Life(人生讃歌)   

               Henry Wadsworth Longfellow

Tell me not, in mournful numbers,

Life is but an empty dream!

For the soul is dead that slumbers,

And things are not what they seem.

 

Life is real! Life is earnest!

And the grave is not its goal;

Dust thou art, to dust returnest,

Was not spoken of the soul.


Not enjoyment, and not sorrow,

Is our destined end or way;

But to act, that each tomorrow

Find us farther than today.

 

Art is long, and Time is fleeting,

And our hearts, though stout and brave,

Still, like muffled drums, are beating

Funeral marches to the grave.

 

In the world’s broad field of battle,

In the bivouac of Life,

Be not like dumb, driven cattle!

Be a hero in the strife!

 

Trust no Future, howe’er pleasant!

Let the dead Past bury its dead!

Act,—act in the living Present!

Heart within, and God o’erhead!


Lives of great men all remind us

We can make our lives sublime,

And, departing, leave behind us

Footprints on the sands of time;—

 

Footprints, that perhaps another,

Sailing o’er life’s solemn main,

A forlorn and shipwrecked brother,

Seeing, shall take heart again.

 

Let us, then, be up and doing,

With a heart for any fate;

Still achieving, still pursuing,

Learn to labor and to wait.

 

悲しげな調子で言わないでください、

人生は儚い夢だ!と。

眠っている魂は死んでいるも同然、

その魂が見るものは真実ではない、

 

人生は現実だ! 人生は本質だ!

そして人生のゴールは墓場ではない;

塵から生まれ、塵に還る、

魂のことではない。

 

最終の目的地、進む先は、

喜びでもなく、悲しみでもない、

行動すること、今日の行動が明日を導き、

明日の行動がそのさらなる明日を生む。

 

芸術は長く、時の流れは速い、

我々の頑健で勇敢なる心臓も、

常に、重苦しい太鼓のように、ビートを刻む、

それは墓場へと向かう葬送行進曲。

 

この世界の広い戦場で

人生の野営地で、

黙って追い立てられる家畜になるな!

戦い、英雄となれ!

 

未来を信じず、今を楽しめ!

過去は死んだ過去に埋葬させよ!

行動あるのみ 生きている現在に行動せよ!

心に勇気を、頭上に神を抱いて、


偉大な人々の人生は教えてくれる

我々も人生を昇華できると、

死んだときには、

時の砂の上に残した足跡を残せることを

 

その足跡を、ひょっとしたら他の誰かが、

人生の大海原に船を進め、

侘しく難破した仲間が

見つけ、勇気を奮い起こすことだろう。

 

やらせておくれ、奮起して励もう、

どのような運命が待ち受けようが勇気を持って;

必ずやり遂げ、絶えず追い求め、

力を尽くし、待つことを学ぼう。

9. 「快男子 石崎君」の充実人生

  1年前の5月25日、快男子「石崎豊和 君」は旅立ちました。

その3日前まで、入院先の日赤渋谷病院から「生活に酸素ボンベが必要となり、その訓練入院だ。自宅に帰ったらボンベをリビングのある1階に置くか生活空間の2階に置くか悩んでいるよ。」と、のんびりしたメールのやり取りをしていた私は「彼が退院したら見舞いに行こう・・」と思って安心しきっていました。実に彼らしい気遣いの旅立ちでした。

石崎君は宮大入学以来、我々宮大電気科S43生仲間の親睦を深めるために、いつも尽力してくれました。大学一年の夏、彼の鹿児島実家に学友の岡本君が訪ねてきて長逗留。お父さんが堪り兼ねて息子に「岡本君はいつ帰るのかな・・」と訊いたほどです。石崎家は親子ともに周囲に安心感を与える優しい人柄の家族でした。



卒業後も、関東地区で同窓会や新年会が続いたのは石崎君のお陰です。

勤務先は富士通、第一線のシステム技術者として活躍していましたが、彼の穏やかで友好的な人柄が見込まれたのか、営業部門へ引き抜かれて営業部長に! 「安藤、会社の金で酒が飲めるんだから最高だったよ!」と現役時代を振り返ります。きっとあの人柄で大きな商談を沢山まとめたことでしょう。

現役時代も退職後も仲間との懇親を大事にして、その中心にはいつも彼がいました。次の2017「箱根天成園温泉に寛ぐ3人衆」以降、石崎君の姿がないのは、2018年から癌闘病に入ったからです。

6年に及ぶがんとの壮絶な闘い、しかし彼は最後まで「安藤、人生で大事なのはクオリティーライフだよ!」といつも笑い飛ばしていました。旅立ちから1年、改めて石崎君の存在の大きさと、彼がいない寂しさを感じています。彼との57年にわたる「思い出画像」を振り返りながら、ご冥福を祈りたいと思います。

最初に両肺に影が見つかり片方を手術、摘出癌の細胞診をしたところ膵臓原発性と判明、体力回復を待って膵臓手術となりました。体力回復後に「残ったもう一方の肺がんを手術するか・・」ということになりましたが、この時の石崎君の判断はすごいと思いました

「両肺手術後の生活を考えるとその選択肢はない。たとえ短くてもクオリティーライフを楽しみたい!」

 そして化学療法を選びました。自分がそう言う立場になったらどうするだろうか・・といつも考えさせられます。(俺だったら一日でも長く生きたい・・と手術を選び、外出もままならず細々と生き長えるだけかも・・・と)

彼はクオリティライフのために化学療法を選びましたが、転移を抑える抗がん剤は強烈で「髪も眉毛もチン毛も抜けたよ。ヤーさんみたいになったので安藤とも会えない」というので、家内がアイラインを送ったりしました。

コロナ渦後、大分の友人夫婦が最後の関東旅行したいというので、その来訪の1カ月前に、小康状態となった石崎君と「彼の歓迎宴をやろう!」と新宿宮崎館で打合わせのために5年ぶりに再会しました。

彼が「抗がん剤治療で指紋もなくなり箸が持てない」というので、やせ細っているかと思いきや、なんとお相撲さんのように太り、体重は90kg超えで足の甲を痛めたとのこと。「食事も酒も旨い!」と、この時の写真で彼が持っている銘酒「杜氏潤平」7号瓶を買い、一晩で飲んでしまったそうです。(さすが鹿児島出身の酒豪です!)


一カ月後に同店で大分の友人を囲んで歓迎会、翌日、腰痛で参加できなかった小田原の友人を訪ねてロマンスカーで箱根天成園への2次会にもしっかり参加して旧友を温めてくれました。(その小田原の友人夫婦は、石崎君と最後のお別れ会でもあったのに2時間でさっさと帰ってしまいましたが・・😢)

しかしクオリティライフを追求する彼は、その一カ月後には奥様と二人で一週間の北海道ドライブ旅行に出かけました。 大好きなドライブ旅行のために数年前に買ったマニュアルシフトのディーゼル車で!大丈夫か?と心配する私に「安藤、これこそがクオリティーライフだよ!旅先で往生しても本望!」と笑っていました。

それから1年もたたない旅立ちでしたが、おそらく今も天国でマニュアルシフト車で駆け巡り、夜は焼酎を飲みながらお父さんお母さんと談笑し、「安藤、噂通り天国の酒は旨いし姉ちゃんは綺麗だ。天国クオリティライフは中々大したもんだぞ、お前も早く来いよ!」と言ってるような気がします。

『悪いけど、オレは今しばらく家内と現世クオリティライフを楽しむから、もう少し待っていてくれよ』(笑)