2024年5月10日金曜日

10. 地域福祉に生きた偉大な 飯野さん

 日本の戦後復興は、昭和26年の川崎製鉄千葉工場建設に始まります。

 当時川崎製鉄の拡大路線に政府や日本銀行が難色を示す中、世界銀行は昭和31~35年にかけて総額3400万ドル(現在で約3000億円)の巨額貸出しを実行。世界最新の生産設備が次々に稼働し、粗鋼生産能力は昭和31年の43万トンから35年には158万トンまで大幅拡大しました。この大成功を契機に日本の高度成長が始まり、川崎製鉄以南の東京湾の京葉海岸は全て埋め立てられ、日本最大の石油コンビナートが出現しました。今も日本最大規模の出光千葉製油所は昭和38年に建設を完了し稼働を始めました。

 飯野徳栄さんは昭和30年明治大学理工学部を卒業し荏原製作所に入社、ガスタービン部門の建設・運転指導技術者として全国で活躍されてきました。私の勤務した出光千葉製油所でも平成10年に、1500kwhのガスタービン発電機2基建設でお世話になっています。昭和30年代半に結婚され、市原市国分寺台の新興住宅街に新居を構えられ、地域の発展にも中心となって尽力されてきました。

そして平成5年に退職されてからは、地域の老人ボランティア活動 「たすけあい」 の中心となって様々な企画を立ち上げ、有意の仲間を集め指導されてきました。 中でも特筆すべきは、15年前に小学低学年で不登校に悩む孫娘さんを元気にさせようと、広場で2人で始めた 『早朝ラジオ体操』 が、1人増え2人増え・・・と段々増えて今では常時60~80人、夏休みには子供約40人が加わり100名を超えるほどになり、『子供からお年寄りまでの健康づくり・コミュニケーションの場』 として定着したことです。

飯野さんは 『早朝ラジオ体操、茶話会、公園掃除・花壇整備、防犯パトロール、通学路 緑のおジイチャン、小学校PTA支援廃品回収、一人暮し宅植栽剪定・・』 など幅広い企画で地域に働きかけ、活発な活動を指導・展開されてきました。 その基本精神は 『無理をせず、やりたい時に、みんなで元気に仲良く朗らかに取り組もう!』 で、飯野さんをはじめ会員全員が、「実年齢より10歳は若い!」 と評判のボランティア活動に成長しました。写真は86歳のころですが、10年来の付き合いの私は、つい最近まで 「飯野さんは70歳代半ば」 と思い込んでいました。

その飯野さんが今年早春から体調を崩し入退院を繰返され8月11日旅立たれました。享年88歳。 その間、退院された1~2週間は、お孫さんに付き添われながら広場にこられ、ベンチに座って、益々活発化しているラジオ体操を満足そうに眺めておられました。

約10年間リンパ癌という難病に果敢にも 「新薬試験投与」 で闘いながら、これらの地域ボランティア活動を主宰し、私生活では車椅子生活の奥様の為に介護資格を取り献身的な介護を続けられました。(5年前に奥様は逝去) 加えて同居する共稼ぎの息子夫婦と3人の孫の為に、朝晩の食事、洗濯掃除も一手に引き受けられてきました。本当に 『常に前向きで周囲の幸福のために尽くされた偉大な人生』 でした。 

 いつも私達を温かい目で見守りながらリードされてきた飯野さんは、これからも私達の心の中で強く生き続けます。私達は飯野さんの教えを大事にしながら、みんなで更に楽しく魅力ある地域活動にしていきたいという思いを強くしています。 どうぞこれからは天国で、仲の良かった奥様と再会され、仲睦まじく安らかにお休みください。本当に有難うございました。 (合掌)

1.2019夏 早朝ラジオ体操 

元々飯野さんがお孫さんと2人で始めらましたが、現在60~80名と活発になりました。




2.2019冬 茶話会

『ギターと歌おう』 斬新な企画立案者です。

このほかカラオケ&OHPプロジェクターシステム等も揃えて楽しめる様にしています。




3.2019初夏 「ひとり暮らし身障者宅の植栽剪定・草取り」  

この時85歳。いつも率先垂範でした。



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