2024年11月8日金曜日

1.近代日本の基礎を作った橋本左内

 橋本左内は 『歴史上稀有な先覚者』 です その足跡と書簡を数編読むだけで、『160年前にこんな凄い日本人がいたのか! 私達はもっと活眼を見開いて努力しなくては!』 と衝撃を受けます。 近年このような偉大な先人を忘れ、研究者が少ないのは誠に残念なことです。

橋本左内は、幕末の賢候名君やその側近に多大な影響を与え、明治維新への指導的役割を果たしました。 それゆえに反動勢力の大老井伊直弼は左内を最も恐れ、安政の大獄では「遠島」とされた罪状をわざわざ「斬首」と自筆で書き換えました。 左内の公的活動期間は22歳から26歳の僅か4年です。 この短期間に、四賢候と謳われた福井藩主松平春嶽公の懐刀・相談役として、また将軍継承問題では老中首座の安倍・堀田や水戸・福井・薩摩の雄藩を周旋し、京都公卿の三条實美らに働きかけるなど重要な役割=明治維新への基盤づくりをしました。

また左内は由利公正に新時代の政府基本構想を説き、 「五箇条の御誓文」 の原文 「議事之体大意」 を由利が作成する下地をつくったと評価されます。また現代にも通じる国際政治のパワーゲームを冷静に見通し 「荒々しく獰猛な英国よりロシアとの同盟が望ましい」 と主君松平春嶽公に進言しています。(その後、ロシアも獰猛な国となっていきますが・・)

 当時薩摩島津斉彬の元で同じ立場にあった西郷隆盛は、初対面で左内の偉大さに感服し 「刎頚の友」 となり、左内が4年後刑死した後も西郷の畏敬の念は終生続きました。また吉田松陰も左内との会見を熱望しましたが、大獄に倒れ叶いませんでした。

「橋本左内とはどんな人物だったのか?  どういう人生を歩んだのか?  なぜ井伊直弼は弱冠26歳の左内を恐れ、遠島も重すぎるとされた刑罰を死罪と書き直したのか?」 

幕末の思想家といえば吉田松陰ばかりが注目されますが、私達日本人は、いまこそ160年前の橋本左内の危機感・勉学の姿勢に学びかってない凶暴な軍事・経済大国となった隣国中国の脅威に備える必要があります。


1.英傑は英傑を知る 「西郷と左内」

島津斉彬の命で江戸出府し特命工作員となった29歳の西郷は、1855年(安政2年)に22歳の橋本左内と江戸薩摩屋敷で初会見しました。左内は国事を論じる為の訪問でしたが、西郷は縁側から小柄で楚々とした左内を見て(150cmだったそうです)相撲が終わるまで待たせました。

ようやく対座したとき左内は、「私は、あなたと国の大事について意見を交わしに来たのに、放っておくとは何事か」 と叱責しました。 続いて「攘夷ではなく、開国して国の力を強くすることが必要だ。」 と、広い知識と洞察を示しながら語りました。 左内は海外渡航経験もないのに「民主主義」 「地政学」 「植民地政策」を深く理解しており、当時世界の誰も考えていない国際連盟のような構想を描いていました。 そして「鎖国で弱体化した幕末日本は、どの国と同盟を結んで外国をうまく利用すればよいか」 を弱冠22歳で提言し、雄藩の賢候連合を作るために国論を纏めようとしていたのです。

西郷は左内の見識と行動力に驚き、「これからも指導願いたい」 と 失礼を心から詫びました。翌日、西郷は正装し福井藩邸を訪ねて昨日の無礼を改めて詫びています。 後日、西郷は 『私は先輩では水戸の藤田東湖氏、同年齢では橋本左内氏が立派だと思う。この二人の学問や人物の大きさは、私の到底及ぶところではない』 と述懐しています。

残念なことに4年後、左内は安政の大獄で26年の生涯を閉じます。西郷が西南戦争で鹿児島城山に果てた時、胸に書簡を忍ばせていました。 それは20年前に刑死した橋本左内からの最後の手紙でした。





2.左内の短くも偉大な生涯

1834年・・・誕生。越前藩医・橋本長綱の長子。7歳で学問本格開始

1849年(15歳)・・大阪適塾・緒方洪庵に蘭医学ぶ。『啓発録』

1852年(19歳)・・父の病気で帰藩、父病死後 藩医となる

1854年(21歳)・・江戸遊学。杉田成卿に蘭方医学を学ぶ。

      藤田東湖、西郷吉之助、梅田雲浜、横井小楠らと交流

1855年(22歳)・・藩医を解かれ御書院番、藩主側近として登用

1857年(24歳)・・藩校・明道校御用掛、藩主側近・江戸詰

1858年(25歳)・・大老直弼「安政の大獄」、春嶽隠居、左内入牢

1859年(26歳)・・11月斬首刑 (左内予想外の死罪)

1860年3月24日(安政7年)・・桜田門外の変、井伊直弼暗殺

1866年  ・・・徳川慶喜第15代将軍に

1867年11月・・大政奉還

1868年 1月・・「五箇条の御誓文」発布、「明治政府」発足

1892年(明治24年)・・明治政府 左内に正四位が贈られる


3.現代も重宝される志学の戒め 『啓発録』 (15歳)

 15歳の時、藩内の勉学で飽き足らなくなった左内は、もっと広い視野で本気で勉強したいと、近代医学の祖といわれる緒方洪庵の大阪適塾に学びます。この時勉学に励む一大決心・戒めを『啓発録』として5項目に纏めました。これは160年を経た現代でも、勉学を志す若者の心構えとして重宝され受け継がれています。左内は食事中も書物を離さないほどの学問好きで、オランダ語、ドイツ語、英語を読解できるようになり、視野を世界に向けていきました。

1.   去稚心(稚心を去る) 目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心や親への甘えは、学問の上達を妨げ、武士としての気概をもてないので、捨て去るべきだ。

2.   振気(気を振う) : 人に負けない、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する。士気を奮い起こしたら、次はしっかり志を立てることが重要。

3.   立志(志を立てる : 自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。志を立てる近道は、聖賢の教えや歴史の書物を読み、学ぶべき点を書き出し、足らぬところを努力し、自分の前進を楽しみにすること

4.   勉学(学に勉む) : すぐれた人物の素行を見倣い、自らも実行する。また、学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、自らの才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう、自らも用心し慎むとともに、それを指摘してくれる良い友人を選ぶよう心掛けること。

5.   択交友(交友を択ぶ) : 同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切。もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。【益友の目安】厳格で意思が強く正しい人、温和で人情に篤く誠実な人、➂勇気があり果断な人、④才知が冴えわたっている人、⑤細かいことに拘らず、度量が広い人


4.左内の国政指針と安政の大獄

諸外国と対峙せざるを得ない危機だからこそ、日本を一家と見なし、優秀な人材を全国から分け隔てなく登用することが必要だ」 と藩主に進言しています。当時としては、画期的な政策でした。見識の高さを見込まれた左内は、24歳の若さで侍読兼御内用掛を拝命。藩主・松平慶永の懐刀として、将軍継嗣運動に邁進します。 当時の征夷大将軍は13代の家定でしたが「病弱で意志薄弱」、とても国家の危機を担う器ではありませんでした。その後継問題で松平春嶽と薩摩藩主・島津斉彬が同じ考えを主張していました。 彼らは激動期には英傑が必要と判断、聡明で人望のある水戸藩・徳川斉昭の七男で一橋家養子に入った慶喜(21歳)を、14代将軍に据えようと考え “一橋派” と呼びました。 左内は京都にのぼり、次期将軍に慶喜を推すよう皇族や公家を説得。当時、大名が朝廷と直接連絡を取り合うのは、国禁に触れる危険な行為のため、「桃井伊織」の偽名を使いました。薩摩藩からは、西郷が公家説得の応援に派遣され、左内は青蓮院宮(中川宮)や三条実万・實美など、味方を増やしていったのです。

これに敵対したのが彦根藩主・井伊直弼などの“南紀派”で、彼らは紀州藩主の松平慶福(12歳)を推し、13代将軍家定(病弱)や大奥の支持を得て南紀派が勝利します。しかし凡庸な12歳の将軍ではこの難局を差配できるはずもなく、井伊直弼が大老で実権を握りました。大老直弼は、『議論無用。 開明藩主や志士共は、自分の考える幕府再興には邪魔』 と大弾圧、一橋派の公卿、大名を隠退させ、幕吏を罷免し、沢山の志士を検挙処断し歴史を逆に戻しました。 左内斬首から約5か月、直弼が桜田門外で暗殺されたのは歴史の必然だったといえます。しかし左内を失ったことは『近代日本の道標、指導者』 を失った』のも同然で、左内の死を知った西郷は呆然自失したそうです。

5.左内の抜群の世界認識、外交方針

 左内は、15歳から大坂の適塾、21歳から江戸の杉田塾で、オランダ語、ドイツ語、英語に習熟、当時日本にあった重要な外国文献は原文で読み咀嚼し自分のものにしたようです。 「我が国の外交方針」 については、福井藩の同志:村田氏壽(うじひさ)宛ての手紙で次のように述べ、主君春嶽公との共有化を説いています。 当時の世界情勢と西欧列強の野望を的確につかんでおり、160年後の安倍元首相の『地球俯瞰外交』 『インド・太平洋戦略』 を彷彿とさせる、驚くべき高度な外交戦略です。

 ・・・外交問題について最近の海外情勢を見ますに、世界はやがて五大陸が手を結んで同盟国としてまとまり、盟主を選んで四方の戦乱を収束する方向へ進んでいくものと思われます。その盟主はイギリスかロシアのどちらかでしょう。イギリスは素早く荒々しく貪欲であり、ロシア帝国は重厚な落着きがあり厳正なので、いずれはロシアへ人望が帰すると思われます。

さて目下の日本は、とても独立自尊することは不可能です。独立を維持するためには、朝鮮国・満州・蒙古を合併し、かつアメリカ大陸、インド地域に属領を持たなくては実現できず、現況ではその実行は誠に困難です。インドは既に西洋列強に属領化されており、蒙古もロシアが手をかけています。その上、日本は力不足で西洋諸国の強兵を敵に回し、年々連戦してはとても勝算はなく、いまのうちにしかるべき国と同盟国になっておくのが得策です。

その時、日本はどの国と同盟するか。アメリカ等の諸国は並立が可能ですが、イギリスとロシアは利害の対立する強国同士で並び立つことができず非常に扱いが難しい国です。イギリスは必ずや我が国に対してロシア攻撃の先陣役を頼んでくるか、あるいは蝦夷・函館をイギリス軍事拠点として借り受けたいと願い出てくるでしょう。その時、日本は断固拒否するか、それとも従うか、今からその対策を考えておかなければなりません。

私としては、ぜひロシアと同盟すべきと思います。ロシアは信義ある国であり、国境を挟んで隣り合う国であり、唇と歯のように利害関係が密接です。ロシアと同盟すれば、かの国は我が国を有難い国と思い、イギリスは怒って我が国を討伐しようとするでしょう。しかしこれは我が国にとって望むところであります。日本一国では西洋諸国と敵対することは困難ですが、ロシアの後ろ盾があれば、例え敗れても壊滅するまでは至らないことは明らかです。そうなればこの一戦は我が国の弱を強に、危機を安泰に変える一大転機になって、これにより日本も真に強国となるでしょう。・・・(以下略)


6.春嶽と左内の主従愛

福井藩の開祖は、徳川家康の次男「結城秀康」で、関ヶ原の功により越前67万石を与えられ、松平姓に戻しました。しかしそのあと13代斉善まで名君なく、幕末までに家格を32万石まで落とされていました。

幕末、慶永(春嶽)は第14代目として田安徳川家から養子に入りました。春嶽は英明な君主で、藩医だった橋本左内らの有能な家臣を抜擢し国政にあたらせました。また熊本から横井小楠を招聘して藩政改革を行いました。そして将軍継嗣問題では、260年続いた鎖国・太平の幕政が西欧強国により破られ,日本属国化の危機が迫っていると捉え、「次期将軍としてふさわしいのは英明な一橋慶喜(21歳)しかいない。幕閣・親藩・外様雄藩による 挙国一致の政権運営で乗り切るしかない」 と、春嶽は中心になって活動しました。日本生残りの為には、誰が考えてもそれしかない唯一無二の最善の策でした。

しかし旧弊に固執し、世界情勢や国情に全く関心のない暗愚な13代将軍家定と無能な幕閣や無知な大奥の暗躍で、老中首座堀田正睦が京都御所に勅許奏上で留守の間に、井伊直弼が大老に就任。 次期将軍は紀州家茂(12歳)となりました。そして理不尽で苛烈な「安政の大獄」により春嶽は隠居、左内は斬首となりました。

まるで天罰のように、半年後 井伊直弼は桜田門外の変で暗殺。 歴史は再び左内や春嶽が描いた方向へ動き出しました。春嶽はすぐに謹慎解除され、「公武合体派」の重鎮として幕政に復帰。維新後も新政府の内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任しています。

左内が春嶽の側近だったころ、左内に全幅の信頼を置いていましたが、左内はそういう春嶽に対し 「殿は英邁だが押しが弱い」 と厳しく直言、叱咤激励しています。こういう信頼関係こそ本当の主従です。

・・・わが殿は、御気性がおとなしく、中根様や私を頼りにして御自身で考えることが少ない。 そこで私も中根様も意見具申は取りやめ、殿ご自分で苦慮して御決断されるようにしています。その結果お示しになる方策は実に立派な内容で感服し奉ります。このたびの幕府への御上申書も何回もご推敲され、御家老方もたじろぐほど立派な内容です。 殿様はそのあたりの御勇断は充分お持ちですが、ただ慈しみの心と柔和の気性が強すぎて誠心一辺倒に陥っており、奸智にたけた天下の豪傑を巧みに手なずけ自由に操るといった術に乏しく、乱世を鎮定する御器量を持つに至っておられず、その点を非常に不安に思っています・・・

春嶽は四賢候の筆頭で、藩祖は家康の次男秀康、実家は8代将軍吉宗の次男宗武を祖とする御三卿・田安徳川家、そういう名門出身の主君に対し、左内は歯に衣を着せず直言しています。こういう誠心誠意の左内を春嶽は心から信頼し愛していました。

維新後の明治8年、左内の実弟橋本綱維は春嶽邸に亡き兄の肖像画を持込み、「橋本左内小伝」の画讃を春嶽に依頼しています。春嶽は16年前の左内の理不尽な運命を思い出し、落涙しながら次の小伝を書き残しています。


『橋本左内小伝』 明治8年5月21日  松平春嶽:書

家臣橋本左内は、人となり誠に聡く、子供の頃から学問を好み、藩の儒学者吉田東篁について経書や歴史を学んだ。成長するに従い、世の中のあり様を嘆き、大志を抱くようになった。その人物見識は余人を遥かに超え、しかも性格は、あくまで温和・純粋で謙虚さを失わず、一度も人と争ったことがなかった。嘉永二年(1949)16歳(満15)の時、発奮して次のように言った。

「このような片田舎で学んでいたのでは、井の中の蛙から出ることはできない。何とかして中央に遊学し、天下の大学者に師事して知識を拓いてもらいたいものだ。」

 そしてこの年の秋、ついに大阪に出て、当時第一等の蘭学者であった緒方洪庵の適々斎塾に入門し、西洋医学を学んだが、嘉永四年(1851)、父が病に倒れ、帰国して父を助ける事となり、翌五年二月福井に帰り、十月父没するや直ちに家督相続を許され、藩医の列に加えられた。

 安政元年(1854)2月21歳、改めて江戸に遊学し、蘭学者杉田成卿に入門した。成卿は、まず洋書一部を与えて習熟を命じ、その学力を試した。左内は日夜これを研究し、片時も怠ることなく、僅か一月で読解を終えた。成卿はその才能の鋭敏に驚きつつ、内容について質問してみたが、答弁は淀みなく流れるようで、しかも一つとして誤りがなかった。成卿は非常に感嘆して、「わが学業を継ぎ得るものは、必ずこの人である」と称賛した。

 翌安政2年10月、藩医を免ぜられ御書院番に列せられた。翌3年5月、藩校幹事に任じ、藩の教育改革に当たらせた。従来福井藩の学風は観念論に陥り世の実際から遊離しがちであったが、左内はこれを憂慮し、教育関係者をよく諭氏、正しく導いて、従来の弊害を取り除いた。

 安政四年(1857)7月24歳、左内を江戸に召して侍読(主君への教授)に任命し、内用掛(主君側近)を兼務させ、枢要な任務に参画させた。

当時の日本は、嘉永6年アメリカ使節ペリーが来航して国交を要求して以来、極めて多事多難で物情騒然としていた。ところが時の将軍家定公は病弱で将軍職の重責に堪えず、世嗣ぎもなかったので、各藩の有志は協議して、英才の誉れ高く天下の人望を集めている一橋慶喜公を立てて、将軍の後継者にせんとし、かつ条約や神奈川開港などの外交問題は、充分に公共の論議を尽くすべきであって幕府の独断によって決定するものではないとした

こうした状況下に、左内は薩摩・土佐など諸藩の豪傑や、土岐頼旨・岩瀬忠震・永井尚志などの幕府有司と親交を結び、右の事を実現するために尽力し周旋に努めた。また、水戸の徳川斉昭公・土佐の山内容堂公、それに私なども皆、この説を主張したのである。 しかるに大老井伊直弼は、ひとり群議を排して紀伊の徳川慶福公を擁立線と願っていた。

安政五年正月、左内は京都に上り、ただちに鷹司太閤政通公・近衛左大臣忠煕公、及び公卿の家臣有志と議論を交わし、外国との条約締結・開国通商に二大問題は、しかるべく朝廷の御採決を得たうえで行わなければならないとした。 この年7月、13代将軍家定公が薨じ、紀伊の慶福公が14代将軍家茂公となった。

慶喜公を立てんと運動した尾張の徳川慶勝公・水戸の斉昭公・土佐の容堂公、及び私は、これにより厳しい処分を受け、夫々の屋敷に幽閉された。やがて10月22日夜、数名の幕府役人が藩邸に来たり、左内の役宅を捜索し、翌日左内は江戸町奉行から召喚され、藩邸禁固を命ぜられた。翌安政6年10月2日、伝馬町入獄を命ぜられ、同7日山系に処せられた。この時わずかに26歳(満25歳)。後にその遺骸を郷里福井に移し葬った。 左内は、獄中にあって次の詩を賦している。

  二十六年如夢過    二十六年夢の如く過ぐ           

      顧思平昔感滋多  平昔を顧思すれば感ますます多し

  天祥大節嘗心折  天祥の大節嘗って心折す                

  土室猶吟正気歌  土室なお吟ず正気の歌                   

(26年の我が過去を振り返ると、色々の感慨が次々と湧き起り尽きない。その昔、宋の忠臣文天祥は,土牢の中にあり「正気の歌」を作ってその決意を述べたが、私も昔、彼の態度に深く心打たれた。今私は同じく牢中の人となって、その人物を思うこと切なるものがあり、「正気の歌」を吟じてその態度を学ぼうとしている。)

 もはや死罪を免れぬことを知って、その覚悟を述べたものであろう。

 近頃、左内の弟の綱維が佐々木長淳に左内の肖像を描かせ、私のところに持参し、これに付属させる小伝の執筆を願い出た。この肖像を見るに、驚くほど真に迫っている。 ああ、左内は多年国家の命運にかかわる問題を解決するため、さまざまに思いを巡らし、寸暇なく活動したのであるが、時勢はそれを許容せず、ついにああした悲劇的な結果となってしまった。はなはだ遺憾に堪えないところである。 いまこの肖像と対面して当時を回想し、思わず涙がこぼれおちてしまった。かくして記憶するところの大体を記して、左内の小伝を作り、もって綱維に与えるものである。

明治8年5月21日        正二位 源慶永 撰ならびに書

【参考図書】『啓発録』:講談社学術文庫(伴 五十嗣郎:全訳注

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