2024年4月1日月曜日

5. 岩切章太郎氏に学ぶ人生の志

6月は採用活動ピークで、学生は内々定を1~3つ貰う時期です。
先行きが分からない混沌とした世の中ですが、しっかりと自分の人生を見つめ、自分らしい生き方を熟考して進路決定し、それを実現できる企業を見極めて欲しいと思います。特にコロナ禍の厳しい試練を乗り越えた学生は、まさに『艱難辛苦、汝を玉にす』の筋金がはいっています。自信をもって社会の荒波に立ち向かって欲しいと思います。
  就活に当たって『自分はどういう人間か? 一生の仕事として何が自分に向いているか? この企業で本当に遣り甲斐のある仕事ができるのか・・』 と、まだまだ迷いは大きいと思いますが、そういう若者に是非参考にしてほしいのが『岩切章太郎氏の志と人生』です。

 かって宮崎は農業、林業、漁業以外これといった産業のなく、『陸の孤島』 と呼ばれていましたが、昭和に入って観光の名所になります。 元々日本誕生の神話=天孫降臨の地として長い歴史がありますが、有名な保養地の熱海や別府を抑えて全国一位の観光地、新婚旅行のメッカになりました。
 その一番の貢献者は岩切章太郎氏で、故郷をこよなく愛し磨き上げ、観光バスで景勝地を結びつける 『宮崎の大地に壮大な絵をかく夢の実現』 に注いだ独創的な企画と努力の賜物です。

 宮崎県民は岩切章太郎氏を「宮崎県観光の父」と呼びます。
章太郎氏は高等小学校1年の時、新渡戸稲造の講演を聞いて感動、人間どこに住んでいてもいい、大きな夢を持つ事が大事と思い、それが後に宮崎に帰る契機となりました。

そして東大卒業後 3年の約束で住友に勤務、自分の意志を貫き宮崎に帰郷しました。 大正15年にバス4台で宮崎市街自動車株式会社(宮崎交通の前身)を創立、南宮崎駅と宮崎神宮間に市内バスの運行を始めました。
また昭和11年から、日南海岸にフェニックスを植栽、3年後に こどもの国 を開園、戦後も 橘公園、えびの高原と次々に「大地に絵をかく夢を実現、宮崎観光ブームを作りました。そして皇太子時代の上皇・上皇后陛下が宮崎に新婚旅行された事により、新婚旅行のメッカとなりました。


思い出のスカイライン - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=XtNJKFJgn_0
 
両陛下の新婚旅行時、私は小学五年生でした。 自転車で1時間かけて都城市志和池の沿道に駆けつけました。
黒塗りの御料車の窓から上品に手を振られる若き両陛下の姿を見たとき、子供ながらに電撃に打たれたような感動を覚えました! その優美で高雅なお姿は、高齢となられた今も全く同じです。


『宮崎の偉人』(鉱脈社)
岩切章太郎は九人兄弟の長男として宮崎市中村町に生まれました。
 小学校を卒業する時、優秀な友人はみんな中学校へ進学しました。章太郎も中学に進むだけの能力は充分ありましたが、病弱だったため、父はしばらく体を鍛えてからでも遅くないと考え尋常高等小学校に入学させました。ところが一年たっても、二年たっても章太郎の病弱は治らず、とうとう高等小学校四年課程の全部を修了してしまいました。
 ある日、旧制の県立宮崎中学校に通っている友達が、学校帰りに章太郎の家に寄って、「今日、大学者の新渡戸稲造先生からすばらしい話を聞いたよ。」と、目を輝かせながら、博士の朗読した英語の詩を、節をつけて口真似してみせました。 章太郎はこの時、中学校に進学しなかったことを悔しく、羨ましく思いました。幸い友だちが「明日も農学校で博士の講演があるよ。」と教えてくれたので、矢も盾もたまらなくなり、翌日は学校を体んで宮崎農学校に駆けつけました。
 「よその学校の生徒に聞かせるわけにはいかない。」 と農学校の先生から言われましたが、章太郎は校長先生に直接お願いするために校長室に行きました。あまりにも熱心な章太郎を見て校長は、「そんなに聴きたいのか。一番後ろの席でおとなしく聴くなら聴いてもいいぞ。」と言ってくれました。
新渡戸博士の一言一句は本当に格調高い大講演で、章太郎の心をゆさぶりました。中でも、章太郎が感激したのは豆腐屋の話でした。
 「これからの日本は、一日も早く欧米の一流国家に追いつかなくてはならないが、そのためにはまず日本人の体格を立派な大きなものにつくり変えなければなりません。体格が立派になれば、脳細胞も発達します。欧米人が体格が良いのは、肉を常食としているからです。従ってこれからの日本人も肉を食べなくてはなりませんが、日本人には肉食の習慣がありません。しかし、幸いにも日本には豆腐という最高のタンパク源があります。日本人は、もっともっと豆腐を食べて、立派な体格をつくろうではありませんか。」
 さらに新渡戸博士は「私は、大学者になろうか、それとも美味しい豆腐を作る日本一の豆腐屋になろうかと、夜も寝らずに真剣に考えたことかあります。」と、熱を込めて話しました。
 「そうか、そうなんだ。大学者になるということも、豆腐屋になるということも、国の為、人の為に尽くすことでは目的は同じなんだ。」こう考えると、章太郎は目からウロコが落ちたような気がして、未来に明るい希望が湧いてきたのです。

生来病弱でしたが、宮崎中学に入る頃から健康になり柔道部選手、学生相撲の大関をつとめるほどになって、一高、東大に学びました。

一高時代特筆すべきことは愛鷹丸事故です。一年の冬休みの時、三年の平島敏夫さんと二人で伊豆一周の徒歩旅行をしました。伊東、下田、松崎と一回りして土肥の旅館に泊まって、いよいよ今夕、船で沼津へ出発という時のことです。 散歩の途中宮崎屋という菓子屋を見つけ、これは懐かしいと枇杷羊羹を買って、田の畦に腰をおろして二人で食べました。そのため帰りの時間がおくれ夕食の最中に船が来たとの知らせが来ました。 すぐ立ち上がろうとしたら、お手伝いさんが食事を半分にして出発するものではないと泣くようにとめます。それで出発を延期しました。 ところが、その時乗るはずだった汽船愛鷹丸が、土肥を出てから間もなく沈没して全乗員中助かった者は三名だけという大事故が起きたのです。

「土肥の浜辺では既に渚を出た艀を呼び戻して乗った人もあったそうだし、私たちを泣いて止めたお手伝いさんの父親もその船に乗っていて死にました。私共も乗っていたら、もちろん死んだろうと思います。正月三日で、正月になって初めての航海だったので乗客が多く、積み過ぎが大事故の原因のようです。宮崎でも父などは事故の新聞記事を見て、もうすっかりあきらめていたそうです。人生とは妙なものです。 もし散歩の途中宮崎屋で枇杷ようかんを買わなかったら、もしお手伝いさんが泣くように引きとめてくれなかったら、もちろん私どもは船に乗っていただろうし、当然今の私もないはずです。全く感無量です。」

大学2年の冬、26歳の12月タメ夫人と結婚、翌年長男省一郎(宮崎交通2代社長)が生まれました。 しかし宮崎に帰るという方針は変わることなく、3年間は中央の実社会に触れることにして住友銀行総本店に籍を置きました。

『宮崎の偉人』 (鉱脈社)
章太郎は住友総本店でそれなりに仕事の成果を上げていましたので、東京で働くことに未練がないわけではありませんでしたが、「民間知事」になる夢を実現するために、住友総本店を三年半で辞め、大正13年(19244月、31歳の時、ちょうど宮崎市が誕生した年に宮崎に帰りました。
さて、宮崎に帰ってみたものの何をするかなど目的は何一つありません。そこで仕事の方は後回しにして、まずこれから宮崎で仕事をするのに、どのような考え方で進むべきか、その指針というか基本方針をしっかり固めておこうと三つの方針を心に決めました。
 (1)世の中には中央で働く者と、地方で働く者がいるが、自分は
   飽くまで地方で働くことに徹しよう。
(2)上に立ち旗振る人と、下で旗の動きを見て仕事をする人がいる。
   自分は旗振りでなく、旗を見て仕事をする方の仕事をしよう。
(3)人のやる事、やる人の多い仕事はしない。
   新しい仕事か、人のやらない仕事を引き受けてやってみよう。
以上の三つの方針を心に固く誓いながら、その実現のためには、地位とか、名誉とか、財産とかの欲望はすべて断ち切ろうと考えました。そして何でもいい、どんな小さなことでもいい。自分がやる仕事は、日本一とはいかないまでも、何か日本の新しいモデルになるようなものをつくり上げていこう。それを自分の生きがいにしよう、と考えたのです。
後に章太郎は、宮崎でいろいろな仕事を成功させ、名声が県民に知られるようになってから、幾度か国会議員とか、知事、市長に出馬したらと薦める人が数多くいましたが、国会議員になることは、中央で働くことになるので第一の方針に反することになる。 知事や市長になることは上に立って旗を振る側の人になり、第二の方針に反することになる。 として断固として断り続けました。

宮崎に帰り、宮崎回漕内海港代理店の代表社員に、続いて宮崎農工銀行監査役に就任。
大正15年(1926)宮崎市街自動車㈱を設立し取締役社長に就任。
昭和8年(1933)日向中央銀行頭取、昭和14年(1939)宮崎商工会議所副会頭、同年日米商会代表社員、宮崎木材工芸㈱社長、翌1940年祖国日向建国博覧会会長を務めた。
宮崎市街自動車は昭和17年(1942)宮崎交通㈱と改称、終戦直後に労働争議に直面し、宮崎交通らしい労使関係をつくりたいと理想を掲げたが、5ヵ月の大争議となった。争議のあと私鉄総連の幹部は、章太郎を評してソシアルユートピアンと呼びました。

宮崎交通の経営では、創立の当初から今日まで、市民の足になるという一貫した理念に燃えて、幹部をはじめ全従業員の末端に至るまで微に入り細にわたって、飽きることなく繰り返して信じるところを説きました。例えば、観光ガイドの訓練においてさえ、孫にあたるぐらいの娘たちと共にバスに乗り、説明のしかた、ポーズやしぐさまで手をとって丁寧に指導しました。
膨大な観光案内文も自ら調査をして起草したものです。

心を揺さぶる名経営者の言葉(PHP文庫)
「自分のしている事が世の中に必要かどうか自分が組織に必要な人間かどうかを常に反省しなければならない」
自らの言葉通り地方で働くことに終始した章太郎でしたが、波は「井の中の蛙」ではありませんでした。政財界と太いパイプを持っており、池田首相からは国鉄総裁を、佐藤首相からは全日空社長に就任してほしい」と依頼されましたが、自分が貫いてきた方針に反するとして断っています。
様々な理由で大都会へ出ることができず、地方で生活し続ける人は多いです。
「こんな田舎にいては成功など望めない」と考えることもあるでしょうが、住む土地と成功とは何の関係もありません。大切なのは、世の中に求められる人間になれるかどうかです。求められていれば、どこにいても必ず脚光を浴びることになります。
実業家の小林一三は「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ、そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ」という名言を残しました。大切なのは場所や職種ではなく、求められる人間になることです。

各種の公職のうち特筆されるものは、総理府の観光政策審議委員就任でしょう。 19601973年まで13年間在任、会長代理を務めたこともあります。章太郎在任中に観光基本法の制定をみました。 このほか多くの公職に在りましたが、19801981年に殆どの公職を退き、昭和56年(1981)の株主総会において取締役を辞任、55年にわたる役員の席から退きました。
その後は相談役の肩書だけが残り、宮崎の大地に絵をかくという終生の念願に没頭しました。

『宮崎の偉人 上』 (鉱脈社)
ある日、宮崎に移ってきた一人の画家と章太郎が親しくなり、歌や詩を作っては章太郎を訪ねて意見や感想を聞いていました。ある時、画家が 「今日は私の絵を是非見てください。」 と言うので、章太郎が彼の画室を訪ねてみますと、芭蕉と女の絵や青の洞門の絵など大きな絵が掲げてありました。そこで章太郎も 「今度は私の絵を見て下さい。」 と言うと、彼は驚いて 「あなたも絵を描くのですか。」 と尋ねました。
章太郎は早速、彼を車に乗せて、こどものくにや堀切峠、サボテン公園などの日南海岸の宮崎交通が経営している施設を案内して回りました。そして、「あなたの絵はキャンパスに描いてありましたが、私の絵は大地に描いてるのです。」 と言いました。
章太郎の一生を見ても金儲けが上手な方ではありません。儲かるかどうかよりも必要かどうかを考え、必要ならばソロバンを度外視して実行に移しました。世の中に必要なものなら世の中は大事にしてくれるであろうし、きっと拾い上げてくれるであろうと考えていたのです。

こうして章太郎は、「宮崎県観光の父」と言われるようになり、最近では小学校の教科書にも紹介されています。 そして宮崎県の観光開発史は岩切章太郎史であるとまで言われます。(『宮崎県大百科事典』)

1 件のコメント:

  1. とても志しの強い方を初めて知りました❗️ありがとうございます‼️

    返信削除