2024年4月3日水曜日

3. 高校学友の真摯な人生に学ぶ

 高千穂太郎氏(甲斐君)から川柳集「あるがままに」が届きました。

 彼が古川柳に取り組み始めてから8年、令和2年の第1集に続く、この3年間の心の遍歴を余すところなく詠み込んだ胸を打つ作品集です。その表題のように「あるがままに」の境地に達して、74年間の人生の折々に思いを馳せて詠んだ川柳満載です。(なお「俳句=自然の写生、川柳=人生の写生」で、 川柳は人間風詠といわれます。最近はやりのサラリーマン川柳とは違います.。

 何回読んでも感動で胸があつくなります。甲斐君の74年の人生が凝縮されていると感じます。これは私一人で楽しんでいては申し訳ないので 皆さんへ紹介するものです。しかし90ページの大作ですので全部という訳に行かず 少し編集して紹介します。

1.   生い立ち

 甲斐総治郎君は、昭和24年神話の里 高千穂町に生まれました。


高千穂町は宮崎県北の山深い山村ですが、町の発展の為に無我無私で働くお父さんの姿に、彼自身も物心ついたころから人一倍努力することが当たり前と思って育ちました。またそういう総治郎少年をお母さんは、いつも暖かく優しく愛に包みこみながら応援しました。そして一昨年お父さんが旅立ち、お母さんは93歳となられ、甲斐君は古希を過ぎてもなお奮闘努力の生き方を貫き通しています。

〇古希迎えなお越えられぬ父の壁

〇病む老母今なお祈る子の未来 

2.中学生時代

彼は生来の真面目な性格と、お父さんの刻苦勉励の姿に学び、小学・中学校とも高千穂町始まって以来の秀才で、町の期待を一身に背負いました。中学時代、延岡・日向市を含めた県北統一模試では常に上位でした。また高千穂は剣道が盛んで、彼は中学時代に初段を獲得、文武両道に秀でていました。

〇ふるさとの期待背負って数十年

〇五十年期待の星の重荷負う

〇のぼり旗郷土の華と見送られ

小学6年生の時、担任の先生から「中学になったらラジオ英会話を聴くように」とアドバイスされましたが、当時彼の自宅にはラジオもテレビもなく、町民向けの有線放送しかありませんでした。丁度その頃、お父さんが技能教育実習で真空管式ラジオを作ったので、早速これを使って英会話の勉強を始めました。(お父さんは息子の話を聴いて、急遽制作されたのでしょう。)そして夕方、剣道の稽古が終わって帰宅すると、ラジオ英会話を聴取するようになります。これはのちに日向学院に進学し、米国人の神父さんに中学3年間ネイティブ英語を学んだ学友にも、一歩も引けを取らない英語力の元となりました。

  〇手作りのラジオで学ぶ基礎英語

  〇剣道のあとに汗かく英会話

  〇ラジオ聴く部活の後の英会話



他方高千穂中の学友は、経済的に恵まれず殆ど中卒で集団就職しました。日本の高度成長を支えてきた労働力は、東北や九州の中卒の集団就職組、金の卵と言われた次男・三男・女児で、京浜・阪神・中京地区に大量に送り込まれました。高千穂中も大半は中卒就職組で「総治郎君は高校に行けていいな」などとつぶやく友もいました。

 〇集団で就職の友いまいずこ

 〇中卒で集団就職友いずこ

3,高校生時代

高校は学生寮のある日向学院に進学、そこでも常に学年1・2番を争う秀才でした。高1の中間試験中に、大好きだった祖父が逝去したと寮監に知らされ、試験終了後すぐ帰路につきます。

〇試験明け家路を急ぐ報受けて

〇家路つく祖父の逝去報を受け

日豊本線で宮崎市から延岡へ、さらにローカルの日之影線、更にバスを乗り継ぎ、高千穂町の自宅についたときは既に葬儀は終わっていました。「おじいちゃんを偲んでお別れしたい」と思って帰宅した息子に、お父さんは葬儀の後片付けをしながら、つっけんどんに「早く学校に帰れ」と言います。お父さんは(こっちのことは良いから気にせず勉学に励め)という思いと、お父さん自身が弔問対応を終え、漸く父の死と向き合っていたのでしょう。

  〇「はよ帰れ」葬儀の後の父の言

やむなく後ろ髪ひかれる思いで宮崎市へ帰路につきます。延岡からは夜行の鈍行列車となり、切ない思いで、お母さんの心のこもった赤飯の握り飯を頬張ります。塩味に涙が加わったのでしょう、彼の心にはいつまでも しょっぱさが残りました。

  〇塩辛い夜汽車に揺られ握り飯

  〇赤飯の握りに込めた母心

  〇両親の思いを込めた握り飯

 当時の日向学院は「鹿児島ラサールに追いつけ!」と受験勉強一色でした。数学・英語は高2までに3年間の教科書を全て終え、高3は実戦形式の模擬試験、3年間テストテストで有名大学合格目的の授業でした。徳育を忘れたこういう教師に彼は幻滅し、期待せず、いつも超然としていました。しかし心温かい高千穂の地で育まれた彼の人柄は、心を大切にする学友を惹き付けました。・・先年その親友の永友君が逝去したとの報を悼み、共に大淀川の土手をサイクリングした懐かしい思い出の句を残しています。

  〇夢を乗せ走る自転車川堤

  〇並走す大淀川の爽風(かぜ)うけて

  〇夢語る大淀川の川堤

  〇爽風受けて宮崎弁で語る君

  〇友の逝く大淀川の爽風寒し



. 大学受験

 高校3年間 抜群の成績で、全国模試でも上位常連だった甲斐君と下村君は、当然のごとく東大を受験し、誰もが二人は絶対合格と確信していましたが・・下村君は文Ⅲ合格、甲斐君は理不合格で駿台予備校へ。しかしこの年の秋から大学紛争が激化、安田講堂事件が発生して昭和44年度入試は中止、彼はやむなく東工大へと進学します。(下村君は安田講堂に籠って戦い中退、その後進学塾を経営しています。つくづく「人生万事塞翁が馬」と感じます。)



「もしあの時東大入試が実施され合格していたら、どんな人生を辿っただろうか・・」と、彼は時々考えます。

  〇一度だけ開かぬ赤門道を変え

  〇一浪に閉ざす赤門道を変え

 この2句から、不運にも大学紛争で入試中止となった口惜しさが伝わります。実施されていれば彼のことだから必ず合格して、建設省(国土交通省)か、通産省(経済産業省)に入省、次官・大臣になって、もうとっくにリニアは運行開始していたことでしょう!・・でも東大ではなく、東工大から国鉄~JR九州専務~九鉄工業社長として活躍し、その一方で古川柳に取り組み「あるがまま」を追求している今の彼の人生の方が『甲斐君らしい生き方だ!』と、川柳集を通読して、私はそう思います。




. 国鉄入社、国鉄分割民営化へ

東工大で土木工学を修めた彼は『新幹線網を全国展開し国の発展に寄与したい!』と旧国鉄に入社。土木技術を生かせる建設部門志願でしたが、意に反して『保線部門』に配属されました。保線とは『列車が安全に走行するために、人知れず肉体を駆使して、主に深夜に線路状態を維持・改善工事をおこなう』労務中心の大変な仕事です。例えば、当時の列車は垂れ流しだったので、保線職員は汚物に暴露されるような劣悪な環境の仕事でした。甲斐君はそういう色々な問題をかかえる保線部門の管理者として、劣悪環境の改善や労使関係改善に尽力しました。この苦労・経験が、のちの国鉄改革・民営化に優れた経営手腕を発揮します。

旧国鉄は『親方日の丸』で やる気のない職場となっており、国労・動労が支配して仕事よりも組合活動が優先され、経営陣の統率が取れず、真面目に働く人が馬鹿を見る破綻した職場でした。もはや一刻の猶予もなく『国鉄分割民営化』が進みますが、彼は中堅管理者として重要な役割を担いました。全国規模の分割民営化なので、配置転換、出向転籍、早期退職などの大規模な人員整理が必要となります。対応を間違うと三井三池争議以上の労働争議になりかねず、日本の交通は長期的にマヒしてしまいます。この頃寝食を忘れて部下と共に対応尽力した彼の姿が次の句でよくわかります。(現代では想像もつかない凄い上司です)

 〇はしご酒シメはもちろん部下の家

 〇酒びんを持って訪問部下の家

 〇真夜中の家庭訪問ゆがむ笑み

 〇仕事終え家に帰らず部下の家  (妻 詠む)

(分割民営化前後は、社員の処遇、今後の効率的な体制、社内規定・ルール見直しなど、勤務時間はあってもなきが如しだった。勤務後一・二軒飲み屋で議論を続け、最後のシメは部下の家へ家庭訪問。今までの議論に加え、仕事への熱意を互いに確認し、奥方や家族を知り、今後の赴任地の可能性も探った)

6. JR九州、九鉄工業、そして現在

昭和62年に旧国鉄は、6旅客会社、1貨物会社、鉄道総研などの11経営形態に分割されました。分割スタート時は赤字会社と見込まれた『九州・四国・北海道』でしたが、甲斐君はJR九州の経営陣として、主に施設関係の体制づくりに腐心し、関連事業を拡大させるために駅ビル建設・運営・不動産開発、マンション・戸建て住宅事業、ホテル、飲食、流通など多方面の事業開発・運営に尽力しました。その結果、平成28年には売上3829億円、経常利益605億円となり、東証一部に株式上場する優良会社となりました。



甲斐君はJR九州専務を最後に、九鉄工業㈱社長に就任。その後会長・相談役・顧問を経て、令和2年6月退任しました。



現在は、分岐器・レール溶接が専門の鉄道関連会社に勤め、仲間内のゴルフ、会食で級友を温めるほか、ウォーキング、OB会活動、町内会活動,オヤジバンドの発表会など多彩な活動に取り組んでいます。

中でも九鉄工業時代から、ロータリー活動で主導的役割を果たし、またその後の“懇親・精神鍛錬の場”として『川柳同好会=イブ川会』を8年前に立上げ、会長・世話役を務めてきました。その8年間の句作の集大成が 『あるがままに』 川柳集(2)です。



A4版90ページにびっしりと、作品・随想が盛り込まれています。古川柳が『人生の写生」を目指している通り、彼の74年の濃密な人生の集大成です。その中心には甲斐家の温かく深い絆が貫かれており読むたびに胸が熱くなります。

なお表題の『あるがままに』 は、4度目の転職で仕事が思い通り進まぬ甲斐君に、奥さんが「あるがままに生きていけば」とアドバイスされ、その一言にハッと目覚め生き方を変えたことにちなんでいます。なんと謙虚で柔軟な心を持った男なのでしょう!『この大人物の陰に、この良妻賢母あり!』ですね。「転んでも立ってもお釈迦のたなごころ」は、きっとその奥様を詠んだ一句なのでしょう。

, 最後に・・愛する奥様への熱い思い溢れる句の紹介

 〇おかあちゃんやっぱりあんたでよかったよ

   〇新鮮だ!突然のハグ誕生日

 〇薔薇よりも桔梗のような君が好き

 〇食に惚れ雰囲気に惚れ妻に惚れ

〇昔妻いまは俺泣く夫婦愛

〇ちょっとした妻の動きに思い知り (我家は下5:ビクビクし)

〇「あれ、あれ!」にピンとくるまで40年

 〇歳重ね虚心に順応妻(カミ)の声

 〇妻(カミ)の技 炊事洗濯風呂掃除

 〇忘れ物無いかと車中で妻が問う

 〇家事家計しっかり者のゴリョウサン

〇忖度す妻と二人の三が日

〇手料理に愛しい妻が味見する

〇華やかな薔薇より痛い妻の棘

 〇夜更けまで薔薇百万本を唄う君

 〇惚れ直す舞台の妻の晴れ姿


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