2024年4月2日火曜日

4. 「レグルス」と カルタゴ化の日本

ルーズベルトの陰謀『日本を太平洋小島の最貧国に押込めよ!』

2022年は凶暴独裁国家の恐ろしさに、世界中が覚醒した年でした。

2月24 ロシアが突如ウクライナ侵略! ソ連崩壊後の1994「ブダペスト覚書」で核放棄させウクライナの安全保障を約束したロシアが「そんなものは紙屑」と嘲笑い侵略して8か月、延べ四千数百発のミサイルを撃ち込まれたウクライナの人々の悲惨は深まるばかりです。

8月3日 米国ペロシ議長の台湾訪問に怒った中国は、5日ミサイル9発を発射し恫喝、うち5発が日本の排他的水域に落ちました。

7月8日「日本・世界を救うリーダー」として期待された安倍元首相が凶弾に倒れました。

日本は「危険極まりない中露朝に囲まれ、ウクライナ以上の危機にある!」と目覚めたでしょうか?「喉元過ぎればすぐ痛みを忘れる脳天気な日本人」です。しかし世界は昔も今も、狂暴国家の欲望・陰謀に満ちていることを国民一人一人が認識し万全に備えるのが不可欠です。

それを考える契機として、2000年以上前から西欧が国家戦略の根本にしてきた『レグリス伝説とローマ・カルタゴの戦い』 を、日本人は学ぶ必要があります。 ローマによるカルタゴ滅亡は 2200年前の歴史事実ですが、地中海貿易で700年間も繁栄していたフェニキア人国家は100年以上の執拗なローマの攻撃にさらされ地球上から消滅しました。先の大戦でルーズベルト・GHQが目指したのは『日本のカルタゴ化』です。現代のロシアも全く同じで、目指すのはウクライナ隷属か殲滅です。

全世界が侵略国ロシアの非難・制裁で纏まるかと思えば、傍観する国々の方が多い・・世界・人間社会って全く進歩・進化しないものです。昔も今も「自ら国を守る気概のない国は滅亡する』のみです。 


『レグルス物語と疑問』

誰しも、心に残り頭から離れない名画があると思います。 私は以前 東京都美術館で、イギリス最高峰画家ターナーの名画『レグルス』と 出会い強い衝撃を受けました。そして古代ローマの英雄レグルスの物語を知り、益々この絵が好きになりましたが、一方でレグルス物語に強い疑問が湧いてきました。

  

今回この疑問を掘下げ、私たち日本人の進むべき道を模索します。  東京都美術館展示の絵には、次の衝撃的な説明文が添えられていました。

『この絵の主題は古代ローマのレグルス将軍。 紀元前264年の第1次ポエニ戦争で敵カルタゴの捕虜となったレグルスは瞼を切り取られ、暗い地下牢から強烈な陽光の中に引きずり出され失明した。 ターナーはレグルスの姿ではなく、まばたき出来ないレグルスの目が眩しい陽光に晒される瞬間を描いた。 この絵を見ていると、あたかも私達自身がそのレグルスとなり悲惨な運命を追体験させられる。』

それ以来、この絵の強烈な印象と、『このような平和な港町で、何故レグルスは、そんな残酷な仕打ちを受けたのだろう? 失明した後どうなったのか? という疑問が脳裏から離れませんでした。
 それが、ウィリアム・ベネットの道徳読本『魔法の糸』(実務教育出版)の第8章『素直な心を持つ正直』 のなかでレグルスの物語 :レグルスは決して約束を破らなかった英雄として、ローマ史の中で不滅の存在となった と掲載されており疑問が氷解しました。以下はその全文です。 もちろん子供向けの道徳読本なので、失明後の残虐な虐殺の記述は省かれています。おそらく欧米の人は、この有名な史実を熟知しており、そのレグルスの悲劇の一瞬を切り取ったターナーの絵を見た時に、レグルスの誇り高い生涯を想起し、自分に問いかけるのでしょう。
『もし同じような境遇にあったら、果たして 自分はどうするだろう?』
『ローマで本当の戦況を話したら、約束を破ってローマに残るのでは?』 
『何故、わざわざ死ぬとわかっているカルタゴに帰っていくのか?』

もし、レグルスが約束を破ってカルタゴに帰らず、ローマで晩年を平和に送ったのならば、恐らく二千数百年も人々の記憶に英雄として鮮明に残ることはなかったでしょう。

我が国の社会科、歴史教育(日本史、世界史)は、出来事・事件や年代の暗記主体で味気なく、わざわざ歴史嫌いを作っているようなものですが、こういった偉人の逸話や生き方、心の葛藤なども紹介するように改善すれば、もっと魅力的で印象に残る大事な授業となっていくのではないでしょうか?

 【ウィリアム・ベネットの道徳読本『魔法の糸』より】

かって地中海をはさむローマの対岸に、カルタゴという偉大な都市があった。ローマの人々はカルタゴの人々と友好関係を築けず、ついに戦争が始まった。長い間勝敗の決着がつかず、ローマが戦闘に勝ったかと思うと、次にはカルタゴが勝つという具合に戦争は何年も続いた。 

ローマ人の中にレグルスという勇敢な将軍がおり、決して約束を破らない男として名高かった。 戦争の間にレグルスは捕虜となりカルタゴに連れて行かれてしまった。やがて病に冒され、非常にさびしい思いをしていたレグルスは、海の向こうの遥か遠くに置いてきた妻と幼い子供たちの事を夢に見た。だが二度と家族に会える望みはなかった。レグルスは心から家族を愛していたが、まず国家に対する義務を果たさなければならないと信じ、家族を残してこの過酷な戦争に赴いたのだった。

レグルスは一戦に敗け捕虜となってしまったが、ローマ軍は日々優勢に向かいつつあり、カルタゴの人々は敗北を恐れ始めていた。カルタゴは他国に使いを送り、兵を雇おうとしていたが、それでも、ローマと長く戦い続けることは、もはや不可能であった。ある日カルタゴの統治者が数人、牢獄にいるレグルスを訪れた。

『ローマと和平を結びたい。お前の祖国の支配者は戦局を知ったら喜んで和平を結ぶだろう。お前が言うとおりにすると約束するなら自由を与えてローマに帰してやる。』

『条件とはなんだ?』レグルスは尋ねた。

『第一に、ローマ人にお前が負けた戦の事を話し、戦争では何も得られない事を明確にするのだ。 第二に、もしローマが和平に応じなければ、監獄に戻ってくる事だ。』

『わかった。ローマが和平に同意しなかったら、監獄に戻ってこよう。』

そこでカルタゴ人はレグルスをローマに帰した。この偉大なローマ人は必ず約束を守ると分かっていたからだ。ローマに戻ると、誰もが歓喜してレグルスを迎えた。妻と子供たちは、もう二度と別れ別れになる事はないと思い大喜びだった。 長引く戦争で和平に傾きつつある元老院の白髪の長老たちが会いに来て戦況をたずねた。

『私は和平を結ぶためにカルタゴから送られてきたのです。でも、今、和平を結ぶのは得策ではありません。 確かにいくつかの戦闘に敗れましたが、わが軍は日増しに優勢になっています。カルタゴは敗北を恐れていますが、もっともです。もうしばらく戦争を続ければ、カルタゴはローマの手に落ちるでしょう。私は妻と子供たちとローマに別れを告げに参りました。明日カルタゴの監獄に戻ります。そう約束したのです。』

それを聴いて、長老たちはローマに留まるよう、レグルスを説得しようとした。

『身代わりに、誰か他の者を送ろう』

『ローマ人が約束を守らないというのですか? 私は病気です。そう長くはない命です。約束通り、カルタゴに戻ります。』


レグルスの妻と子供たちは泣き、息子達は行かないでくださいと頼んだ。『私は約束をした。それを破る事はできない。』そしてレグルスはみなに別れを告げ、勇敢にも残酷な死を覚悟の上で、カルタゴの監獄に戻って行った。 このような勇士がいたからこそ、ローマは世界で最も偉大な都市でありえたのだ。   


2.Wkipedia:マルクス・アティリウス・レグルス
レグルスは、和平交渉の際に仮釈放されローマへと同行させられたが、カルタゴの狙いを無視して元老院に徹底抗戦を呼びかけた。その後、ローマの人々の反対を押し切り、仮釈放という約束を果たすためカルタゴへと帰っていった。

カルタゴに帰った彼は拷問の末殺された、とローマでは言い伝えられ、彼の態度は市民のあるべき姿のお手本とされた。一説によるとその最後は、釘を打ち込まれた桶に入れられ不眠の拷問の末だったという。 この残酷な夫の最期に怒った妻マルキアは、カルタゴの囚人幾人かを夫と同じように拷問死させたという。

3.レグルス伝説への疑問

さて、瞼を切られ外に連れ出されて失明した瞬間のターナー名画 『レグルス』 に衝撃を受け感動した私ですが『魔法の糸』 に描かれるレグルス物語の『約束を守った偉大な男』のストーリーには、納得できない疑問・違和感があります。それは次の点です。

レグルスは和平交渉の約束を守ったのか?

約束を守って帰還したレグルスを、カルタゴは何故虐殺したか?

日米開戦時にFD・ルーズベルトが『日本を二度と戦争できない国にして4島に押込め、貧しい農業国にしろ』 と言ったのは何故か?

GHQが日本統治の手本とした『ポエニ戦争後のカルタゴ処理』 で、カルタゴはどうなったのか?

- 果たしてレグルスは約束を守ったのか?

私は、西洋人が考える『魔法の糸のレグルス観』に大きな違和感があったのですが、次のようなとらえ方をして納得できるようになりました。

『約束を守る男』として敵・味方で評判だったレグルスが、カルタゴと交わした一番大事な約束は『これ以上の戦争は、お互いを不幸にするだけだ。和平の使者を頼む。』でした。この時レグルスは自分の名声を捨てて『嘘の約束=ローマに帰ったら和平ではなく戦争続行した方が有利であると伝える』 と決心しました。『約束を守る事』が信念のレグルスの苦渋・苦悶の決断ですが、その時にレグルスは、和平交渉決裂後カルタゴに帰って虐殺される覚悟を決めたのだと思います。いわば自分の信念を曲げてカルタゴとの約束を破り、戦争続行を主張した自分への罰として受け入れた』というのが、レグルスの『約束を守る男』としての究極の矜持だったのだと思います。

そう考えると、レグルスの行動は尚更に崇高で尊敬する英雄的行動に思えます。恐らく瞼を切られて失明しても、釘を打ち込まれた桶に入れられ苦痛・不眠の拷問を受けても、戦う戦士としての名誉として受け入れ、肉体は苦悶にまみれながら、心は晴れやかに死を迎えたのではないかと思います。まさに『不世出の英雄=約束を破った自分を許せない男の最期』だと思います。

- 約束を守ったレグルスを、カルタゴは何故憎んで虐殺したか?

カルタゴは『開戦から14年も続いている戦争は、自分たちは勿論ローマをも不幸にしている筈だから和平交渉しよう』と考え、捕虜の『約束を守る男』レグルスに持ち掛けました。レグルスも快く納得 (したように見せかけ) 和平交渉使者を引き受けました。しかしローマに帰ったレグルスは、戦争続行を主張し、カルタゴとの和平交渉の約束を破ります。このため平和を願ったカルタゴの願いむなしく、この後も9年間第一次ポエニ戦争は続行され敗戦することとなりました。

カルタゴにしてみれば『レグルスは、嘘をついて大事な約束を破り、平和を阻害し、戦争の不幸を長引かせた極悪人』ととらえるのも無理はありません。西欧社会の歴史観はローマ帝国支配によって始まりますので、その敵だったカルタゴは 『極悪国家』として描かれます。私達はカルタゴからの視点も持たないと歴史の真実を見失います。

またレグルスにしても、この残虐な結末がローマ市民を逆上させ、戦争続行・勝利へのインパクトになる事を念頭に、カルタゴからの虐殺運命を受け入れたのでしょう。 まさに『リメンバー!レグリス!』となってそれからカルタゴ滅亡までの100年間の合言葉になりました。 そしてこの精神は2000年以上も引き継がれ、 西洋人の好きなスローガン『リメンバー!アラモ砦!』や『リメンバー!メイン号!』『リメンバー!パールハーバー!』となって近代・現代にも活用されているのです。

-日米開戦前F・ルーズベルト大統領が『日本をカルタゴのように二度と戦争できない国にして4島に押込め、貧しい農業国にしろ』と言ったのはどういう意味か?
 この理解には、第一次~第三次まで118年にも及ぶ、ローマとカルタゴの覇権争い=ポエニ戦争の顛末、カルタゴの結末を知る必要があります。


ローマは、かっては地中海の覇者だったカルタゴをポエニ戦争で次第に追い詰め、ローマに反抗する力も意思もなくなったカルタゴを、第三次ポエニ戦争では一方的謀略で宣戦布告し、3年間の兵糧攻めのあと総攻撃をかけ、街は2度と再興出来ぬよう徹底的に破壊され瓦礫の山となりました。生き残った5万人は全員奴隷にされ、地面は平らにならされ、その上に一面に塩がまかれ植物も育たぬ、人も住めない地となりました。

なぜローマは、ここまで残虐なカルタゴ潰しを行ったのでしょうか?
なぜルーズベルトやGHQは、日本をカルタゴのように憎悪したのでしょうか?

古代フェニキア人は、エジプトとバビロニアの狭間(現レバノン当たり)に住んでいましたが、紀元前15世紀から紀元前12世紀ころに繁栄を極め、紀元前9世紀にアフリカ北部(現チュニジア)に植民都市国家カルタゴを建設し、盛んな海上交易により地中海を支配するようになります。 

一方アテネやスパルタなどの古代ギリシャ都市国家は限界を迎え、マケドニアのアレクサンダー大王BC356~323)の出現によって大帝国が築かれますが、大王は33歳の若さで急逝し、そのあとローマが勃興しイタリア半島を統一します。

ローマは更に地中海への進出を目指しますが、そこで立ちはだかっていたのが海洋国家のカルタゴです。(二千数百年後、北アメリカ大陸を征服したアメリカが太平洋を支配しようとしたとき日本が目障りで排除したかった状況と酷似します。)
 ◇  マケドニアのアレキサンダー大王 大遠征。33歳で急逝
 1. 第一次ポエニ戦争(BC.264241)23年間【レグルス(BC307250)】
 2. 第二次ポエニ戦争(BC.21820117年間
 3. 第三次ポエニ戦争(BC.149146) 3年間 

【第一次ポエニ戦争(BC.264241)23年間】
 そもそもポエニ(ローマ語でフェニキア人)戦争の発端は、シチリア島の小都市シラクサとメッシーナの戦いでした。二つの小国は 夫々大国のカルタゴとローマに支援要請した為に、代理戦争・覇権戦争へと拡大し、収拾がつかない状態となりました。第一次から第三次ポエニ戦争でカルタゴの滅亡・消滅まで延べ118年も戦っています

目と鼻の先のシチリア島メッシーナの要請を受けたローマは、それまで地上戦で勢力を伸ばしてきた為、軍艦も輸送船もなく最初は参戦を躊躇しました。しかし強烈な執政官アッピウス・クラウディウスは、BC.264年17,000人の兵を乗せた船で渡海し第一次ポエニ戦争が勃発しました。(この執政官の名がアッピア街道に冠されました。)


最初海戦に弱かったローマでしたが、何事にも勤勉で研究熱心なローマ人は、当時の軍船に改良を加え「カラス」と呼ばれる巨大な桟橋を船首に取付けました。敵が近づいたら桟橋を敵の甲板に落下させ兵を突撃させるのです。ローマが得意とする陸上の戦いと同じになれば負けることはありませんでした。 

第一次戦争開始後11年目の紀元前255年レグルス将軍はチュニスの戦いで敗れ約5年間捕虜となり、紀元前250年 和平交渉使者としてローマ派遣されました。この和平交渉が決裂して戦争は継続。11年後ローマが勝利してシチリア全島を属州とします。ローマの地中海進出の足掛かりができた訳です。

【第二次ポエニ戦争(BC.218201)17年間】
 敗北したカルタゴでは、29歳の若者=ハンニバル・バルカがローマに復讐心を燃やしました

カルタゴの総督となったハンニバルはスペインを制覇すべく南岸サグントを攻撃、サグントはローマに支援要請しました。BC218年、第2次ポエニ戦争の始まりです。

ハンニバルは、歩兵5万、騎兵9千、象37頭を引き連れてピレネー山脈を越え、フランスに入り、アルプスを越えてイタリアに侵入するという途方もない戦略を取りました。第1次ポエニ戦争でシチリアはローマの属州になり、制海権はローマがにぎったので、ローマがまだ完全に制覇していない北から攻略したのでした。  

しかし15日間もかかったアルプス越えは難関を極め、軍勢は約半分の2万6千に減り、象は1頭になっていました。 しかしイタリアに入ってからのハンニバル軍は連戦連勝、特にBC216『カンナエの戦い』では、ローマ兵力が多かったにもかかわらず7万人の犠牲者を出し、ローマ史上最大の完全敗北を喫しました。ハンニバルには戦闘で勝てないと悟ったローマは、敵の周囲を固め持久戦に持ち込みました。それは本国カルタゴからの補給を閉ざしハンニバルをイタリア内に孤立させる戦略でした。これが功を奏し、カルタゴ本国からの支援を受けられないハンニバルは決定的な勝利を得られず孤立していきます。

BC210年ローマからスペイン戦線に派遣された24歳の指揮官スキピオは、BC206年スペインを制圧します。そしてBC204年スキピオが率いるローマ軍はアフリカに上陸しカルタゴ本国を巧みな戦法で制圧し、講和交渉を打ち出しました。
 カルタゴは自国の戦いで初めての敗北でした。そこでハンニバルに帰還命令を出します。ハンニバルがイタリアに侵攻してから16年も経っていました。44才のハンニバルは精鋭15,000人と共にイタリアを去りました。ローマはやっと喜びに湧いたといいます。
カルタゴはローマとの講和交渉中にハンニバルが帰還して強気になり、交渉は決裂し戦争の再開となります。ハンニバルは5万の兵と80頭の象を引き連れていました。

最終決戦となった『ザマの会戦』は、カンナエの会戦のような激しさでしたが、スキピオはカルタゴの象軍の小回りが利かないという弱点を突き、ハンニバルの兵は大敗北・全滅し、スキピオの完勝でした。
 ローマはカルタゴにこれまでの敗戦国のように市民権を与えませんでした。
アフリカ以外の領土をすべて放棄させ、返済に50年はかかる銀260トンという莫大な賠償金を課し、ローマの承認なしに他国と戦争をしないと条約を結ばせました。 カルタゴの経済や政治を追い詰め、ローマなしでは国家が成り立たないようにしたのでした。BC201年第2次ポエニ戦争は終結しました。

このカルタゴ戦後処理を見ると、第二次世界大戦後アメリカ=GHQが日本に対して行った占領政策と全く同じです。とくに『不戦条項』 は、この後第3次ポエニ戦争でカルタゴを地上から消滅させる最終意図が隠されている のです。 (2200年後、GHQはこのカルタゴ消滅陰謀を踏襲し、日本国憲法第9条に『不戦条項』を忍び込ませました。

この同時期、東地中海では、ギリシャの都市国家アテネがマケドニアから侵攻され、アテネの同盟国ローマは 3次50年にわたるマケドニア戦争(BC215~168)を戦い、BC168年ローマはマケドニアを滅亡させ属州としました。これで地中海の覇権はローマのものとなりました。この間ローマの強硬派カトーの陰謀により失脚した穏健派の英雄スキピオは、BC183年52歳で亡くなりました。またカルタゴの英雄ハンニバルも同年黒海沿岸のビティニアで64歳の波乱の生涯を閉じました。

第三次ポエニ戦争 (BC149~146)3年間・・・カルタゴ滅亡】


ローマが東方へ支配を拡大している間、カルタゴは北アフリカに生産性の高い農園を運営し、貿易に力を入れ、驚くべき経済復興を遂げていました。 


ローマでは第2次ポエニ戦争で20年近く痛めつけられた経験から、強硬派カトーを中心にカルタゴを徹底的に破壊すべきとの意見が強くなりました。その頃カルタゴではローマ同盟国のヌミディアと境界紛争が起こり、それが他国との戦争を禁じた『不戦条項』に違反したとして、ローマはBC149年にカルタゴに宣戦布告を出したのです。 

驚いたカルタゴは無条件降伏を申し出ましたが、強硬派カトーの反カルタゴ派は執拗をきわめ『戦争回避の為には何でもする』というカルタゴに対し『首都カルタゴは破壊するから、住民は海岸から15km離れた内陸に街を建設せよ』と要求したのです。これは海の民カルタゴにとって滅亡を意味し、絶対に承諾出来ないことでした。
 反発したカルタゴの民衆は決死の覚悟で戦いを挑みました。籠城に備え食糧を蓄え、傭兵を呼び戻し、戦う為に囚人や奴隷まで解放されました。

  

カルタゴはチュニス湾に張り出した3方が海の自然の要塞です。陸は3重の城壁で守られ突破は難しく、3年間の籠城で食糧の底がついた頃、ローマ軍は海から侵攻し、市街戦は一週間も続きカルタゴ市街は炎に包まれました。


街は2度と再興出来ぬよう徹底的に破壊され瓦礫の山となりました。

(二度の原爆投下、東京大空襲等で焼野原となった日本と何と似ていることでしょう!)

生き残った5万人は奴隷にされました。地面は平らにならされ、その上に一面に塩がまかれ植物も育たぬ、人も住めない地となりました。そして700年以上も地中海を支配し栄えたフェニキア人国家は、地球上から完全に消滅したのでした。 

GHQが日本統治の手本とした 『ポエニ戦争後のカルタゴ処理』 で、カルタゴはどうなったのか?

この第三次ポエニ戦争前の平和国家カルタゴがローマの陰謀で、否応なく戦争・滅亡に追い込まれていく過程は『太平洋・東アジアの覇権を握るためにFD・ルーズベルトが日本を追詰めた過程・・ 日本人移民排斥法、石油・鉄屑禁輸の経済封鎖、宣戦布告に等しいハルノートによる最後通牒、そして真珠湾攻撃(=第二次世界大戦)に追い込んでいく陰謀』と何と酷似していることでしょう。

『ペリー来航、日本初の咸臨丸 渡米』 以来、アメリカを近代化の父・師匠と仰いで友好関係を築いてきた日本が、アメリカを激怒させる何をしたというのでしょう。当時の日本人は、その理不尽なアメリカの外交姿勢が分からず反感を募らせたのは当然です。

 大戦直前、日本消滅に向けて一方的に陰謀ヒートアップするアメリカ政府=ルーズベルトに対し、日本政府が1年にわたりオロオロと取りすがるように続けた情けない外交交渉は、理由もなく離婚を言い渡された無知で貞淑な若妻と全く同じ状態で、何とも哀れな姿です。
ルーズベルトは、中国への進出に邪魔な日本を戦争でボロボロにして『日本を太平洋小島の最貧国に押込めよ!』という明確な陰謀をもって「日本人排斥法」「石油禁輸」そして実質的な宣戦布告である「ハルノート」で、最初の一発(真珠湾攻撃)を打たせるように日本を追い込んでいきました。

 その後アメリカは、一般市民の殺戮を禁じた国際法(
=ハーグ陸戦条約 1899批准)に反して、日本中の都市を爆撃、東京大空襲、二度の原爆投下で一般市民を大量殺戮の戦争犯罪を犯してまで日本を消滅させようとしました。 それは 2200年前の この第三次ポエニ戦争の情け容赦ないローマの非道と全く同じです。
私達お人好し日本人は、愚かなことに、もうすっかりこの絶望的な風景を忘れ去っています。しかし躊躇いもなく、一晩の空襲でここまで破壊しつくす人間の残虐さ』を決して忘れず、地球上の人類の平和・共存共栄のためにその愚かさ・残虐さを阻止する役割を担うのが、日本人に課せられた役割・使命です。

もし1945年8月15日敗戦の5年後に朝鮮戦争勃発がなく、GHQ統治がそのまま続いていたら・・間違いなく『日本人の精神性・価値観、歴史・文化・伝統、日本人の誇り』はずたずたに引き裂かれ、カルタゴのように心が奴隷化された異質の民となり『日本の心を持った日本人』は消滅していたでしょう。

GHQ統治者マッカーサーは、朝鮮戦争が始まると恥ずかしげもなく日本政府へ「再軍備して協力せよ」と指示します。しかし吉田首相は苦笑いしながら「残念だがGHQがつくった憲法で日本は軍事力は持てず戦争協力はできない」と断ります。そのあとベトナム戦争ではニクソン副大統領の「再軍備て派兵してほしい」という要請も同様の理由で断っています。統治者とはかくも恥も外聞もなく自己中心なものです。

吉田首相はの句を残しています。

西欧、中国の歴史は、有史以前から三千年以上、常にこのポエニ戦争と同じような覇権をめぐる残虐な戦争を繰り返し、敗戦国家・民族は虐殺されたり、奴隷にされてきました。現在も中国では、チベット・内モンゴル・ウィグルに対して前近代的な民族浄化が進行中です。

大戦敗戦後77年、私たち日本人はそういう厳しい歴史真実に目を背け、GHQに洗脳された虚構の平和、アメリカの庇護下の自立なき無責任な平和』 に安住してきました。しかしその日本と同じように 『国防力を失ってローマの言いなりになり、経済と平和だけを最優先したカルタゴの末期』はどうだったでしょうか。『カルタゴの繁栄は将来障害になるので、カルタゴ滅ぶべし』として、強国ローマに滅亡させられました。 

 これからの日本は、古代ローマよりも更に剣呑で邪悪な中国・韓国・北朝鮮が『日本 滅ぶべし』の強い意図をもって攻勢を強めてきます。

そういう危機的状況の中で、日本人の国防意識は無きに等しい状態です。

カルタゴを滅ぼした『不戦条項= 日本国憲法9条2項は当然削除すべき』ですが、平和ボケした今の日本人には、とてもそこまで望めません。そこで安倍元首相は苦肉の妥協策=『9条2項残し、3項に自衛隊を明記する』を提示しましたが、これでさえ国民の60~70%が反対しています。本当に信じられない、滅亡したカルタゴにさえ及ばない最低の国民意識です。

あのカルタゴは、無条件降伏さえ許さない非道なローマに対し、滅亡を覚悟して3年間城に立てこもり、最後までローマと戦い滅亡しました。その700年の誇り高い歴史は、敵対したローマの子孫=西欧の人々たちに今も語り継がれています。

また 現代のウクライナ国民も同じ覚悟で戦い続けています。

『国民としての誇りを持たない国の存続はありえない。』

『国の歴史に誇りを持たない民族は必ず滅び去る。』

私達日本人一人一人がこの格言を肝に銘じ、いまこそ『日本人としての誇りをもって生きる!』 と第一歩を踏み出す、最後のチャンスです。

虐殺を恐れず国益のために命を懸けたレグルス、

智謀あふれ勇猛果敢なカルタゴの勇士ハンニバル、

大胆不敵なローマの戦士スキピオ、

2200年を経ても燦然と輝く生き方に学び、また古今東西の歴史に学ぶ!

カルタゴのような過酷な運命に陥らないように、日本の誇りある歴史・文化・繁栄と平和のために、私達は今何をすべきか、しっかりと考え行動していきたいものです。

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