2024年4月3日水曜日

3. “稲むらの火” 津波から村人を守った男  

 あの恐ろしい東日本大震災から12年が経過します。

死者・行方不明1万8千人以上という、とてつもない大勢の方が津波で犠牲になられましたが、その中で常日頃から大地震直後の津波を想定した真剣な避難訓練を繰り返していた釜石の小学生達は全員避難して助かり、『釜石の奇跡』 と呼ばれました。  津波の恐ろしさと、常日頃の真剣な避難訓練の大切さを全国民が教えられました。

かって戦前の尋常小学校5年の修身教科書では、1854年の安政南海地震で和歌山広川町を襲った大津波から村人を救った浜口五兵衛の話 “稲むらの火” が1937年から掲載され、数ある教材の中でも特に深い印象を国民に与えていました。

上皇后美智子様は1999年10月の宮内記者会の中で、次のような話をされています。

『子供のころ教科書に、 “稲村の火” と題し津波の際の避難の様子を描いた物語があり、その後長く記憶に残りました。 津波であれ洪水であれ、平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや、対処の可能性が、学校教育の中で具体的に教えられた一つの例として思い出されます。』

しかし残念な事に、戦後この話は教科書から削除され、国民は忘れ去っていました。 そこで、今回は戦前の尋常小学校国語教科書から、“稲むらの火” 全文を紹介します。

江戸時代末期の1854年、紀伊半島を大津波が襲った時の事です。

『これはただ事ではない。』 とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきました。 いまの地震は、ことさらに激しいものではありませんでした。 しかし長いゆっくりとした揺れ方と、腹に響くような地鳴りとは、年老いた五兵衛もかって経験した事のない不気味なものでした。

五兵衛は、高台にある自分の庭から、心配げに下の村を見下ろしました。 村人たちは豊年を祝う宵祭の支度に心をとられているのか、地震をさほど気にかけない様子で働き続けていました。

ふと海の方へ目をやった五兵衛は思わず息を呑みました。 大波が風に逆らって沖へ沖へと動いて行き、その後を追うように、海水で見えなかった黒い砂原や岩底が、グングンと広がっていくではありませんか。

『大変だ。津波がやってくる。このままでは四百人の村人がひと呑みにされてしまう!』

急いで家に駆けこんだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出しました。 そこには取入れたばかりの稲束を積重ねた 稲叢(いなむら) が、たくさん並べられていました。 一年の収穫の全てですから、農民にとって命の次に大切なものです。

『これで村人の命を救うしかない!』 五兵衛はいきなり、稲むらの一つに火を移しました。 風にあおられて、火の手がぱっと上がりました。 一つまた一つと稲むらに次々と火をつけながら五兵衛は夢中で走りました。 こうして自分で刈り取った全ての稲むらに火をつけてしまうと、五兵衛はまるで気を失ったように突立ったまま沖の方を眺めていました。 日は既に没して、あたりはだんだん薄暗くなってきました。 次々に燃える稲むらは天を焦がしました。

『火事だ。庄屋さんの家が火事だ!』   村の若者が急いで高台へ向かって駆け出しました。 続いて老人も、女も、子供も、若者の後を追って駆け出しました。上から見下ろす五兵衛には、それが蟻の歩みのように遅く、もどかしく思えました。やっと20人ばかりの若者が駆け上がってきました。彼らはすぐに火を消しにかかろうとしましたが、五兵衛は大声で止めました。

『火を消してはならぬ。 村中の皆に少しでも早くここに来てもらうんや!』

村の人々は次々に集まってきました。五兵衛は、後から後から駆け上がってくる村人達を一人一人数えていました。

集まって来た人々は、命がけで育てた稲が燃えている様と、これまでにない厳しい目をした五兵衛の表情を不思議そうに見つめました。 その時、五兵衛は力いっぱいに叫びました。

『見ろ、やってきたぞ!』   たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方に目をやると、暗い海の彼方に、かすかに白い一筋の線が見えました。 その線は、みるみる太くなり広くなって一気に押し寄せてくるではありませんか。

『津波だ!』   誰かが叫びました。海水が絶壁のように盛り上がって迫ってきたかと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷が一時に落ちてきたような轟で陸にぶつかりました。 人々は我を忘れて、後ろへ飛びのきました。 水煙が雲のように高台に降りかかって来たので、一時は何も見えなくなりました。

村人は、波にえぐり取られて跡形もなくなった村を、ただただ呆然と見下ろすばかりでした。

収まりかけていた稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、夕闇に包まれたあたりを明るく照らしました。初めて我に返った村人は、自分たちがこの稲むらの火のおかげで救われたことに気付くと、ものも言わずに五兵衛の前にひざまづき、手を合わせるのでした。


2004年12月26日スマトラ島沖でM.1の巨大地震・津波で死者22万人の大災害が発生し、ジャカルタで緊急の東南アジア諸国連合首脳会議が開かれました。その時シンガポールのリー・シェロン首相が当時の小泉首相に、『日本では小学校教科書に “稲むらの火” という話があって子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?』 と尋ねました。 小泉首相は戦後世代でこの話を知らずすぐに東京の文部科学省に照会しましたが誰も知らず それっきりになりました。

そして7年後の2011年3月11日 東日本大震災が発生しました。 

もしあの時、小泉首相が即座に調査して、小学校教科書に“稲むらの火” を復活させ、国民に周知徹底させていたら・・・ 『釜石の奇跡』 は、もっと大きく広がって、津波による死傷者の大半は助かった可能性があります。

 (参照)http://kamuimintara.blogspot.jp/2012/04/blog-post_09.html

“稲むらの火” は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が1896年に英語によってA Living  God”(生き神様) として世界に紹介し、多くの人々が感動し、数か国の教科書に載って 『津波』 が国際語になる起源となりました。

しかし風化とは恐ろしいもので、肝心の日本人がこの大事な話をすっかり忘れ去っています。

2011年から光村図書出版の国語教科書(5年)で 『100年後のふるさとを守る』 として、“稲むらの火”の一部と、浜口儀兵衛(=五兵衛) の事蹟を紹介していますが、果たして皇后様の言われた『戦前の教科書のような深い印象』 を与えてくれる話になっているか疑問です。

また千葉県が採用している教育出版社の国語教科書では全く記載がありません。

今回、現代小学校3~6年の国語教科書を通読しましたが、心に響き、心に残る話が少ないように感じました。 小学校時代は、心が柔らかく鋭敏で人間性形成の上で最も大事な時期です。小学・中学の教科書は、学校だけでなく家庭でも子供と一緒に学び共有化する事が不可欠です。現代人の心の荒廃や、無目的で怠惰な若者が増えている最大の原因の一つは、初等国語教育にあるのかもしれません。私達一人一人が、人間形成の基盤となる国語や道徳教科書に対して、出版社や学校任せにせず、もっと関心を持って、より良いものを求めていく努力が必要だと思います。

残念なことに、書店には教科書は置いてなく、アマゾンなどのネット販売でも取り扱ってなく、膨大な蔵書がある市立図書館でさえ小学・中学校教科書は置いてありません。

日本国民の関心の薄さ・低さを証明しており、某国の捏造・歪曲の歴史教育を笑えない危機的状況といえます。

  http://kamuimintara.blogspot.jp/2014/03/5.html

2015年12月、国連総会は『115日は世界津波の日』 と決定しました。 日本の発議で142ヶ国が共同提案、全会一致での制定です。 東日本大震災大津波の3月11日(2011年)でも、インド洋大津波の12月26日(2004年)でもありません。 安政元年11月5日(西暦1854年12月24日)の安政南海地震・大津波の大災害から全村民の命を救った和歌山県広川町の浜口儀兵衛の実話 『稲むらの火』 に ちなんで記念日を11月5日に制定しました。

 それは 『津波防災の意識を世界が共有する日、多くの人命が奪われた”鎮魂の日” ではなく、多くの人命が救われた成功例にちなんだ日であってほしい』 という人類共通の願いが込められています。


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