2024年4月3日水曜日

3. 桜島噴火難民の極貧を救った3偉人 


 ビッグバンで宇宙誕生してから138億年、地球が誕生して46億年、日本列島が大陸から切離されて現在の位置に移動したのが3,000~2,000万年前です。そして20万年前にホモサピエンスがアフリカで誕生し、食料を求めて世界に拡散し、日本列島に到達したのが4万年前ころです。

 こういう宇宙規模の時間軸で見た時、私達人類の歴史20万年は本当に一瞬ですが、その中の人間の営み、特に偉人と尊敬される人々の『利他の精神』は、私達の心を揺さぶり『宇宙の存在と同じくらい 有難く素晴らしい!』と感動に満たされます。
 現代の私たちの身の回りには沢山の情報が満ち溢れていますが、その殆どは凶悪事件やスキャンダルや低次元な政府批判・誹謗中傷だけで『世の中はこんなにひどいのか!』と若者をネガティブにしている原因になっています。本当はその何千・何万倍も心温まる美談や心の交流がある筈ですが、ニュースで取上げられることは極めて稀です。
 私達が本当の人間らしい心や生き方を身につけるには・・温故知新・不易流行の精神で、先哲・偉人・尊敬する先輩達の美談や生き方を学び、手本として自分を磨くことが欠かせません。そこで今回は、明治~大正時代にかけて極貧の農民を救い 120年経過した今も尊敬されている坂元源兵衛翁、前田正名翁、石川理紀之助翁 の3偉人の伝記を紹介します。

1. 舞台となる南九州の地勢
日本列島は、ユーラシア プレートの東端がマントル対流で引裂かれて移動し、約2000万年前に現在の位置に固定されました。そして太平洋プレートとフイリピン プレートが沈込む境界線の地下100km付近で高温・高圧下で水と岩石が溶け合ってマグマを形成し、世界でも有数の火山地帯を形成しています。
中でも九州地方は、この10万年で4回の破滅的噴火で巨大カルデラを形成している最も激しく若い火山フロントです。この南九州で約2.2万年前に破滅的噴火が発生し姶良カルデラができました。


      この時、周辺に膨大な火山灰が降り積もり、その厚さは数10m~150mに達し、シラス台地と呼ばれています。シラスの成分はケイ酸を主成分とする火山ガラスで水捌けが良過ぎる為に水田・稲作はできず、養分が少ないためにサツマイモや大根などしか栽培できない厳しい環境でした。

   

鹿児島や宮崎県南部には下の図に示すようにシラス台地が広がっています。






2.桜島・安永の大噴火と島移り貧民
   その後も姶良カルデラ真下のマグマ溜りに は膨大なマグマが供給されており、カルデラ南端に形成された桜島は、頻繁に噴火を繰り返す日本有数の危険な活火山となりました。


 中でも240年前の1779年10月1日に発生した、安永の大噴火では、南岳から北部へ、そして錦江湾へと噴火が移動し、最後の錦江湾中央部の噴火では6m以上の大津波発生で 150名の死者が出るという大被害となりました。島内では井戸が沸騰し、灼熱地獄で人は住めなくなり、全島民は全てを失って帰島も叶わず、垂水島津家の殿様は都城島津家に避難民の受け入れを依頼、148名の島民が谷頭地区に移住しました。しかしここも約2万年前の姶良カルデラ巨大噴火で出来たシラス・軽石台地で、水田はできず荒れた土地だったため、取れる作物はソバやサツマイモだけで想像を絶する貧困の苦しい開拓生活でした。
 それから120年後、明治中頃に、この貧困に苦しむ村人達が心豊かに暮らせるよう使命感に燃え、気の遠くなるような苦難と英知を結集し奮闘した3人の偉人がいました。 庄内川の上流にある関之尾の滝から用水路を作り、開墾事業を興し、更に人づくりへと発展させ繁栄の基礎を築いた『坂元源兵衛翁、前田正名翁、石川理紀之助翁』 の3偉人です。

3.坂元源兵衛翁(1840~1916 享年77歳)
  坂元源兵衛は、現在の都城市吉之元町に生まれ、みんなから慕われた心優しい人でした。薩摩藩に伝わる「水流し工法」というシラス台地に適した土木技術を使って、付近の荒れ地を開墾し、多くの水田を造成しました。その技術を買われて明治2年に庄内町に移住し、今でいう助役に就任して福祉と教育に尽力しました。当時関之尾地区は水田がなく貧しい生活を強いられていた為、村人は源兵衛に開田を依頼しました。そこで源兵衛は明治20年、 落差18mの「関之尾の滝」の上流に隧道(トンネル)を掘り用水路を作って開田し、また安永川(庄内川)の洪水対策に役立てようと工事着手しました。

 当時は土木機械はなく「クワ、スキ」で土を掘り「もっこ」で運ぶ大変な重労働でした。トンネル工事も「ノミ、カナヅチ」 で岩を削り、想像を絶する難工事が3年間続きました。源兵衛は 『人間の意志が固いか、この石が固いか根競べだ!』 と不撓不屈の精神で人々を励まし難工事に挑み続けました。そして明治24年(1891)、約16町歩(≒ヘクタール)の水田を得ることができ、念願の叶った村人たちは喜びに沸きました。
 さらに下流域の延長工事に着手しましたが資金が底をつき断念せざるを得ませんでした。 そして明治31年、明治日本の農政に大きな力を有していた前田正名が、この中断していた用水路の権利を買い、谷頭・志和地地区までの大規模灌漑「前田用水」が動き出しました。
前田翁は潤沢な人脈・資金を使い、東京の技師たちを呼び、最新鋭の土木技術でダイナマイトを使って最短の直線ルートで工事を進めましたが、軟弱で透水性の高いシラス・ボラ土壌の為に崩落や漏水で水が届かず工事は失敗。前田翁は失意のうちに東京に引き上げました。
しかし村人たちの強い要請を受けた前田翁は、改めて源兵衛親子に従来の「水流し工法」での改修工事を依頼しました。そして前田翁が『3年間と9万円』と見積もった難工事を、源兵衛親子は、わずか『6か月と5千円』の費用で竣工し、現在の満々と水を運ぶ『前田用水の基礎』を造り上げました。

4.前田正名翁(1846~1921 享年75歳)

前田正名は明治の一大傑物で、数多くの人士を世に出しました。

 前田翁は鹿児島藩士の6男として生まれました。若い頃兄弟2人で外国船に密航して渡航しようとして見つかり、兄は弟の助命を哀願し、兄は殺されましたが弟は生かされて、フランスに渡って傭奴となって苦学、フランス語・英語を覚え、やがて仏国公使館二等書記となりました。
 そして欧米事情を視察研究し、産業・実業界の機運旺盛を見聞し明治15年に帰国、熱心に実業界の発展を説いて、農商務省と教育省を兼務勤務し国政を牽引しました。さらに明治18年官を辞して鹿児島・宮崎・大分・福島の払下げ地を纏めて『一歩園』とし 各地に支部を置いて園芸適産物の生産を興しました。 明治21年には山梨県知事となり、この時に秋田の農村改革者として高名だった石川理紀之助を呼び県内巡回講演を依頼しました。 両氏は意気投合し無二の同志となります。
 その後 前田翁は殖産興業を進め、自ら実行者として北海道・福島・宮崎・鹿児島で開墾事業を行いました。 
 特に宮崎の谷頭地区は不毛のシラス台地で、桜島安永大噴火の際に移り住んだ住民が、120年続く極貧の生活で心も身体も衰退しきっていました。前田翁は 『ここを豊かにすれば全国のモデルケースとなり、全国の農家は豊かになる!』と考えていました。そして明治31年に坂元源兵衛から用水権利を取得して、34年から都城地区の『庄内・谷頭・志和地』の開墾事業に資金をつぎ込み、近代的疎水工事を進めました。しかしシラス台地の特性を無視して直線ルートで強引に進めた為に、水は目的地に届く前に地中に消えていきました。この失敗から坂元源兵衛に旧来工法での工事継続を依頼しました。

 前田翁は『用水路が完成しても村人の心は荒んだままでは生活向上はない。しかしこの住民は人智幼稚だが純朴な心は全国比類ない。ここはあの農聖と謳われる秋田の石川理紀之助先生の助けを依頼するしかない! と、渾身の手紙を書き、現地指導を依頼します。 理紀之助は、この手紙に心打たれて7名の同志を連れて協力することを約束しました。前田翁の感謝感激は言うまでもありません。理紀之助の手紙の末尾には旅費・日当報酬等は一切不要と書かれており、まさに無我無私、利他の精神そのものでした。

5.石川理紀之助翁(1845~1915 享年71歳)
➀生いたち
 石川理紀之助は、秋田郡金足村小泉の奈良家3男として生まれました。奈良家は弘治年間(1555~58)に奈良から移住した十数代続く庄屋で、天保時代に士籍を与えられている名家です。幼少から利発で、祖父が句会で硯の墨が凍らないように酒を入れたのを思い出し『硯にも酒を飲ませる寒さかな』と詠み句会一等賞。それが9歳児の作と知り宗匠は仰天しています。
 20歳の頃、隣の秋田山田村で没落した石川家の再興のため婿養子に入りました。そして経費節減・昼夜農耕に努め、僅か5年で債権者に売り渡した田畑や土地を買戻し、その後も同じように精励したのでたちまち村一番の身代となりました。

➁長男・民之助の死
 明治維新の地租改正があり、算法にも秀でた理紀之助は総代となり公共の為尽くしました。 また山田村耕作会の指導者として農事の改良、耕作奨励、研究指導で有名となり、秋田県庁に採用、山田村から県庁まで毎日往復13里(約50km)を歩き、登庁は1番、帰宅は夜中という厳しい勤務を続けました。しかしこれは本意ではなく、県庁に30数回の辞職願を出し、後任の篤農家4人を推薦して漸く辞職が認められます。理紀之助の気がかりは、火が消えたように貧しくなっていた山田村の救済と、石川家の農業経営と我が子の教育、特に長男の教育でした。
 明治20年10月、長男民之助は父親の生き方を受入れられず、武道で身を立てようと家出し行方不明になります。半年たっても長男は帰らず音信不通です。
明治21年4月 長男の徴兵検査が間近に迫ったので理紀之助は覚悟を決めて民之助探しの旅に出ます。少ない情報の中から千島国後の鉱山で働いていると聴き、流氷で足止めをされながら漸く国後の鉱山に辿りつくと既に民之助は死亡、その亡骸は荼毘に付されたあと粗末な石油缶に入れられ、墓標もなく打ち捨てられていました。理紀之助は、愛児民之助の希望を叶えてやらなかった自分への反省、鉱山職場が墓標も立てず打捨てた我が子への侮蔑と人間とは思えない薄情さに慟哭し、後悔の念に苛まれながら遺骨と形見を背負って帰村し、ねんごろに葬りました。その時の心情述懐の一首です。
  なさけなき人の仕業を見てしより 涙も出ずになりにけるかな

➂前田正名との出会い
 明治21年の秋、農商務大臣井上薫の内命で上京、農商務省で農家経済の方策を講演、その講演録が公報として全国の各官庁各有志に頒布されたので、理紀之助の名声は全国の篤農家に知れ渡りました。この旅行は長男を失った夫婦の悲しみを癒す旅でもあり、旅の途中 山梨県に赴き県知事の前田正名を訪ね、この時初めて日本の実業の先覚者二人が出会うのです。両氏は意気投合して無二の同志となりました。

④草木谷山居

理紀之助の全国的名声が高まるにつれ、地元秋田では反論する者も増えました。その最たるものは『石川理紀之助は相当の資産家で極貧者の暮らしを理解していない。貧しい家に限って病人があったり子沢山だったりする。そういう極貧者には適合しない経済論である。』というもので、理紀之助は『それなら実証して見せよう』と心に誓いました。




 

長男の葬式が済むと、わずか18歳の次男老之助に家督を譲り、自分は母屋から離れた草木谷で単身移転し、米、味噌なども一切自給自足し自力だけで生きる生活を始めました。その生活は明るい昼間12時間働き、6時間は夜業のワラジ・竹籠作り、睡眠時間は6時間と、普通の人の1.5倍働きました。そして結果的に1年間の『山居生活』でも年間収入7百円、純益2百円を得られ『いかなる貧民も勤倹を守って怠らなければ、十分収益を上げられる』と証明したので、全国の名声はさらに高まりました。


⑤前田正名との再会、九州巡歴講演
 明治28年11月、盟友となった前田正名から電報があり上京します。前田翁は北白川宮殿下を総裁とする大日本農会を創設し幹事を務めていました。再会した二人は、日本の農業・殖産の重要性を再確認しあいます。そして北白川宮殿下から理紀之助に九州巡歴委嘱の辞令が発令され、理紀之助の九州巡歴講演が始まりました。
 12月19日の天草郡山口村を皮切りに、翌年4月21日の大分県四日市での講演まで、その全行程は延べ166日、聴講者は15,000人を超え、農業振興・刻苦勉励の精神を作りました。その講演を聴いた長崎県松浦郡の山川郡長は、『日本人で二宮尊徳先生を知らない人はいないが、石川理紀之助先生の話は尊徳先生と同様に素晴らしかった。それは全て実践によるものだから当然の道理である。』 と称賛しています。

⑥ 桜島安永大噴火難民の貧困の救済決心
 明治34年12月、前田正名から手紙が届きます。前田翁は同年、宮崎県荘内・谷頭・志和地で開墾事業を起こし、特に桜島噴火で避難した谷頭の貧民を救済し、模範的疎水工事によって水田を作り全国の農業者に範を示そうとしていましたが、中々思うように進まない状況でした。そこで失敗した疎水工事は坂元源兵衛に、農民の指導・教化を石川理紀之助に協力を求めたのでした。 この 『模範疎水事業を成功させ全国の貧しい農民を救おう』 とする前田翁の手紙に心を打たれた理紀之助は、直ちに森川他数名に相談し、了解の返事を出しています。
 『私共は開拓のお手伝いに過ぎない事をご承知下されたく候。従って旅費・日当報酬等は一切不要で、滞在中の宿舎だけを考慮していただきたい。何しろ私も老衰にて、我が家の後事を託し後顧の憂いなきよう整理してすぐに出立し6か月滞在します。』 当時人生50年の時代で理紀之助は57歳、決死の覚悟の出立でした。その時の覚悟をこう詠んでいます。
  世をかりの旅と思えば行きめぐる 千里も家の内にぞありける
  いたづらに寝ても老いゆく年月を 世の為めぐる旅で嬉しき

⑦ 以下 「秋田からの爽風」-石川理紀之助翁物語―(著者:瀬之口ヤス子)より
 前田正名からの手紙には『開田事業のため事業費が膨らみ、私財を投じた上に無一文となり、夢が果たせなくなっている。理紀之助翁が秋田の村々を貧乏のどん底から見事に立ち直らせたように、谷頭の民に農家経済、風俗改良などを指導して模範となる村づくりをしてほしい。滞在中の生活費は、最低限 寝起きする小屋と食べ物くらいは用意できるが、報酬も往復の旅費も準備できない。しかしどうか力を貸して欲しいと必死の思いが綴られた内容でした。
 秋田県でこの手紙を受け取った理紀之助は、嬉しさで胸がいっぱいになりました。親友がこれまでの自分の仕事を認め、頼んできたのです。理紀之助は意志の強い優れた農業指導者でした。どんなに遠くても、どんなに困難が待ち受けていようとも、苦しんでいる村の人々を放っておけませんでした。

明治35年正月、58歳となった理紀之助は、ともに苦労して村づくりに励んできた同志たちを集め手紙の内容を話しました。そしてその高い志に感動した7人(森川源三郎、伊藤与助、佐藤政治、伊藤甚一、田仲源治、伊藤永助、佐藤市太郎) が同行を希望しました。いずれも理紀之助に心酔し適産調などの責任者として活躍した人たちでした。

みんな夫々の家族を納得させ身辺整理をしたうのち、一人100円(現在換算:百万円位)の旅費・予備費を用意し、滞在中は決して帰らないと心に決め、死を覚悟して旅支度を整えました。

 そして明治35年4月2日、8人は秋田能代から出発しました。長い距離を歩き、汽車や船を乗り継ぎ、鹿児島を経て、錦江湾国分から馬車に乗って谷頭についたのは 4月20日でした。一歩園谷頭事務所に着くと、旅装も解かずに明日からの行動計画と生活時間割を壁に貼りました。
 翌日、理紀之助は、およそ70人の村人を前に、谷頭に来た目的を話しました。
「私達は、みなさんの暮らし向きが少しでも良くなるように手伝いに来た。その為には、早寝早起きすること、節約して貯金をすること、勉強や仕事に精出すこと、悪い生活習慣を改める事が大事だと秋田弁で話しました。しかし薩摩弁の村人たちはその内容が理解できず、只々びっくりして聞いていたのでした。
理紀之助たちは、早速 人々の暮らしぶりを見て回りましたが、目にしたのは想像をはるかに超えた貧しさでした。家は小さい上にとても古く、屋根が破れ壁も囲いもありません。食器もなく、ソバやサツマイモなどを手掴みで食べています。人々は破れた長い着物を着て裸足で歩き、働く意欲もなく遊んでばかり、文字の読み書きもできませんでした。
 「さて何から始めたら良いか・・」秋田弁と薩摩弁では言葉が通じないため、理紀之助は村の人々に相応しい指導法を懸命に考え、7人の同志たちに指導法の方針を話しました。
 〇まず、指導に来たという考えを捨て、こちらから村人に溶け込もう
 〇この村の人々の悪口は決して言わないこと
 〇我々の生活の仕方や行動を見て、欠点に気づいてもらうようにしよう
そこで、村を回り行きかう村人とにっこり笑って挨拶し、心を通わせることから始めました。すると、まず子供達と仲良しになり、やがて村人たちも自然に笑顔で挨拶を交わすようになりました。
 谷頭に来て4日目、理紀之助は、一歩園に夜学を開き人々に学問を教えることにしました。最初の生徒は、一歩園の世話役で36歳の福島嘉之助ただ一人でしたが、次の夜から村の有力者たちが進んで参加しました。当初早朝2時起床としていた生活時間割は、谷頭の生活リズムに合わせて起床3時に変更しました。
 そして次の朝から3時に板木をたたく音が響き渡りましたが、まだまだ村に起きる気配はありません。理紀之助は、人々が早起きしないのは仕事がないからだと考え、竹細工やワラ細工の指導をしました。まず8人が秋田に伝わるワラジ、モッコ、竹細工を作って見せます。そして 「今朝、ワラジを作り荘内の店で売ったら10銭儲かった。竹かごを打ったら15銭儲かった」などと教えました。すると張り切って朝仕事をする人が段々増えてきました。さらに理紀之助は、この土地のことを知るために各家を訪ね、農具を調べ絵に書き写したり、地区の地図を作りしました。
 そのうち理紀之助たちの慎ましく誠実な人柄を慕って、一歩園には大勢の人達が訪ねてくるようになり、夜学会では子供たちが目を輝かせて学ぶ姿がありました。
 そこでは読み書きやソロバン、ワラ細工や竹細工、稲作りの基本、お母さんたちには料理や裁縫、衛生、身だしなみ、言葉使い、女性の心得など沢山のことを教えました。やがて勉強が楽しくなった生徒たちは、帰る時間も惜しんで一歩園に泊まるようになりました。小さな事務所に60人から80人がひしめき合ったと言います。学ぶ喜びは素晴らしい効果を上げ、夜学生たちは短歌も詠めるようになりました。
 次に「人々が貧しさから抜け出す為には、節約して貯金することが大切だ」と考え、庄内郵便局に協力を頼みました。そして雨の日も風の日も、各集落に通い、貯金の大切さや節約すること、真面目に働くことなどを教えて歩きました。時には竹細工などの展覧会を開き賞金を出したり、ワラ細工や地区の人々が差し入れた卵なども買い上げ、まとめて郵便局へ持っていきました。
 村人は届けられた通帳に感激し、生活に張り合いを感じるようになりました。
理紀之助たちの親切な指導は人々の心を動かし、早起きする人もぐんと増え、そのエネルギーは、大きなうねりとなって村中が明るく生き生きとしてきました。

 さて、島移りの歴史は120年以上の歳月を経て人々の記憶から消え去ろうとしていました。これを心配した理紀之助は、先祖の苦労と慰霊を将来に伝える標(しるし)として「島移りの碑」を建てることを提案し準備にかかりました。
 8月の半ばの炎天下、早朝から村民総出で御池の護摩壇から石材を運び、下旬には老人を集めて、噴火当時の移住民について調査しました。古老からの聞き取り役は、山田小学校教員だった松元才之丞が務めました。

そして碑前面には、理紀之助みずから「しまうつりの碑」と書き、裏には移住した33戸の名前を伊東与助が書きました。9月中旬になると鹿児島から石工が到着し碑は完工しました。その費用の多くは理紀之助たちの寄付金によって建立されました。人々は「心のよりどころができた」と喜びを噛み締めながら記念写真に納まりました。(※なお現在の碑は、街路拡張工事のため昭和27年に移設。新しい土台は人々の望郷の思いもあり、桜島から溶岩を運んで作られたものです。)


 秋風が吹き、理紀之助たちが秋田へ帰る日が迫っていました。一行は忙しさを縫って、こつこつ調べた谷頭の人口や、この土地に適した作物のこと、実施した活動や生活指導のすべてを記録し、その文書を「置き土産」として残しました。また青年達には、理紀之助の志を受け継ぐことができるように「夜学生108人・158日間」に及んだ夜学会の事や、日課としていた貯金の纏め方を教え、帳簿を引き継ぎました。
 9月28日、夜学生の今村磯盛という14歳は、わずか2か月の夜学指導で次の見事な惜別の文を書いて別れを惜しんでいます。このほか15,6名の子供達も同じように惜別の文を残しています。佐藤・田中は農事だけでなく教育者としても優れていたことを示しています。
「拝啓のぶれば、私共は秋田から御出になった佐藤、田中先生のお陰により夜学会を始めてくだされ、勉強の都合よろしく御座候、・・・・石川先生は、吾等の如き者を親切になし下されて誠に有難く存じ候、然るに只今に至り申しては、いつか別れを致すかもしれぬ時と相成り申しては、実に別れ惜しきことと存じ候 匆々」

 明治35年10月1日、6か月の指導を終えて村を去る日が訪れました。理紀之助は午前3時に別れの板木を叩きました。松明の明かりに、夜学生や村人たちの涙でくしゃくしゃになった顔が見えました。共に「島移りの碑」を拝み、見送りは鵜ノ島までと約束して出発しました。長い坂を2キロほど下り、鵜ノ島のたもとに夜学生108名が並び、その後ろに各村から大人たちが200人、みんな別れを惜しんで泣いていました。挨拶に立った理紀之助はじめ7人の同志たちも同様に泣いていました。その後も夜学生たちに帰るように促してもなかなか帰らずどこまでもついてきます。理紀之助たちは身を切られるような思いで別れたのでした。
 会い難きことを語れるつらさは 死に別れよりかなしかりけり 
                      (石川理紀之助)
 ふるさとに帰る心のうれしさも 忘るるまでに悲しかりけり 
                      (田仲 源治)
 理紀之助たちが命懸けの真心指導に訪れてから130年がたちました。谷頭は商店街が立ち並び、水を満々と湛えた豊かな田園風景が広がっています。商店街中心の交差点わきに「島移りの碑」があります。
 またそのすぐ横には、平成8年に山田町民が感謝の意を込めて建立した石川理紀之助翁の胸像があり、いまでも優しいまなざしで町の移り変わりを見つめています。その胸像の下には理紀之助翁の人生訓が刻まれています。

 石川理紀乃助翁が村民に教えた生き方は、この碑の名言「寝ていて人を起こすことなかれ」に集約されます。その意味は『自分は何もせずに人にさせてはいけない。人に先立ち自ら進んで努力しなさい』ということです。 その言葉通り、当時の理紀之助翁は誰よりも早く起き、雨風の日でも朝3時に木を打ち鳴らして村人を起こして 『お金になる草鞋作り、竹細工仕事』 を教え、明るくなると夕方まで先頭に立って開墾仕事に励み、夜は夜学を開き読み書きを教え続けました。働くことで農民たちのやる気を引き出していきました。

 理紀之助翁の和歌に「世にはまだ生まれぬ人の耳まで 響きとどけよ掛け板の音」があります。ある秋田の吹雪の朝に村を回った後、いつものように朝3時に理紀之助が村人を起こすために掛け板を打鳴らすと、妻の志和子が、「こんな日は誰にも聞こえないし、起きてこないでしょう」と言ったことに、こう答えたと言います。 「掛け板は、この村の人々だけではなく、遠く500里離れたところの人々にも、また500年後に生まれる人々にも聞こえるように打っているのだ」

7.『120年を超えた秋田と宮崎の心の絆」令和2年1月14日宮崎日日新聞
石川理紀之助翁の言葉通り、120年を超えて掛板の音が現代中学生の心に響き現代に蘇りました。理紀之助翁の出身地=秋田県潟上市の中学生が1月10日、都城市・山田中(田口校長 166人)を訪れました。



この交流の始まりは、10年前に山田町の瀬之口ヤス子さんが自費出版した絵本『秋田からの爽風(かぜ)』がきっかけです。 内容は 『明治35年に、命も惜しまず遠く秋田県潟上市から山田町谷頭地区の貧困を救うため訪れ指導した理紀之助翁と7人の同志が、村人に農業技術や人としての生き方などを教え、村を変えていく物語』 が描かれています。この本を元に平成23年に『山田のかかし笑劇団』が設立され、地元の小中学校や一般公演で伝承活動し、秋田の地でも公演されて山田中と潟上中との交流が始まりました。

8.山田中学校田口校長のお話(令和元年11月訪問時の談話)
『私は30年以上県内の中学校を異動してきましたが、山田中学校の生徒たちは、他校とは違う面があり感心します。真面目で頑張り屋が多く公共心がとても高いのです。
例えばボランティアに70%以上が参加しています。(他校なら30%くらい)川翁・しまうつり碑清掃かかし祭やラジオ体操運営、公民館清掃など、活発に活動して町民に感謝されています。全校生徒160名(各学年60名以下)と生徒数が少なくなりましたが、勉学面でも部活でもみんな頑張っており、素晴らしい生徒たちです!』
 参考文献:「秋田からの爽風」著者:瀬之口ヤス子
      「石川理紀之助の生涯」著者:田中 紀子

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