2024年4月3日水曜日

3. 神父になった学友と長崎原爆

  高校時代の野口君は、宮沢賢治の詩 『雨ニモマケズ・・イツモシズカニワラッテイル・・』 の雰囲気の学友でした。 彼は神父さんを志しており『凄い男だ。そのきっかけは何だったのか?』とずっと疑問でした。そして50年ぶりに再会し、そのきっかけが父母やお叔父さんの長崎被爆体験だったと聴き本当に驚きました。以下はその彼との再会、そして彼から学んだ聖書の導きです。

  55年前、私が霧島山麓の田舎中学から宮崎市内のミッション高に進学した時、大きなカルチャーショックを受けました。国立大進学クラス50名の内35名は中高一貫生のエリート達で、常にトップの下村君は全国模試で一番になるほどの秀才、35名全員が洗礼を受けており、米国人マックリンデン先生に鍛えられた英語力はネイティブレベルでした。 高校編入組も高千穂中出身の甲斐君は勉学抜群の剣道有段者で、近寄りがたい雰囲気がありました。『頑張っても こりゃかなわん!』と早々に戦線離脱した私は、何かと拘束される学生寮を出てマイペースの下宿生活を送りました。
 そういう落ちこぼれの私にも、眩しいほど気になる学友がいました。それが野口君です。いつも穏やかでニコニコしており、神父を目指して日向学院中に入学したと聴き『なるほど!』と納得する雰囲気を持っていました。しかし迷える子羊(いや迷える狼!)で神様に顔向けできない私には、イエス様同様に彼は近寄りがたく、一度も話すことなく卒業し、その後は全く交流はありませんでした。

 2018年5月『卒業後50周年記念クラス会』 の企画があり、卒業後初めてみんなと会いました。残念ながらあの聖人学友の野口君は欠席でしたが、そうなると尚更会いたくなり、赤羽の星美学園の神父さんであることが分かり、電話して会いに行きました。 
50年ぶりに再会した野口君は、想像していた通り『"レ・ミゼラブル" で銀の燭台を与えたミハエル司教』のような暖かく包みこむような雰囲気の神父さんになっていました。

 『僕は未だに 増々迷える狼だけど・・・この50年間聖書を読んできて、益々疑問が募るばかりで、いくら考えても、誰に聴いても疑問は解けない。・・ぜひ野口君に教えてもらいたい。』と切り出した私は、彼の神父さんらしからぬ友人としての会話で、疑問が氷解していきました。以下はその記録です。(記憶をたどり順不同です。)

1. 野口君 高校卒業後の足跡
上智大哲学科に進学、当時学生運動真只中で、入学後2か月で構内はロックアウトされ講義が受けられなくなり、1年は全てレポートで単位認定する異常事態だったそうです。
上智大を卒業後、サレジオ神学校を経て、小平市にある『児童養護施設 東京サレジオ学園』 に36年間(後半20年間は園長)勤務しました。 学園生は最大130名、現在95名です。
児童養護施設とは保護者のない児童、虐待されている児童など、環境上養護を要する児童を入所させて養護する。また退所した後も相談や自立のための援助を行う施設】です。心に大きな傷を負った2歳~18歳までの子供たちを実父母になり代わって、心身共に健やかな若者に育て社会に送り出す】という本当に難しい仕事です。 誰にでもできる仕事ではなく、心の寂しい子供への深い愛情と博愛精神に満ち溢れる人にしかできません。その仕事を36年もやってこられた事に心から敬意を覚えます。

 2.(私)  なぜ神父を志したの?どうしてあんなに早く自分の人生を決められたの?
(野口君) 「僕が生まれる5年前、父が長崎で被爆した。当時造船所勤務だったので助かったが、浦上天主堂のミサに行ってたら生きていない。 母は長崎県北の田平に疎開していたが、長崎の実家にいたら死んでいて僕は生まれていない。 またのちに神父になった叔父がすぐ浦上天主堂に駆けつけたとき、瓦礫の中に頭部だけ焼け残ったマリア像を見つけた。それはのちに復興した天主堂に安置され、国連にも貸し出されて、原爆の悲惨さを伝えている。 ミサに参加していた信者は全員犠牲となったが、父も母も叔父も奇跡的に助かった。物心ついたときからその話を聴いて自然と神に仕える気になったように思う。」

 3.(私) 新約聖書は最初から騙された思いになる。マタイ福音書は 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」で始まり、旧約聖書で描かれるアブラハム子孫の血統が延々と続く。そして最後が「・・ヤコブはマリアの夫ヨセフの父である。このマリアからイエスが生まれた」とある。つまりヨセフはアブラハムの子孫であるが、マリアはアブラハムの子孫ではない。なのに何故、神の子を宿した処女受胎のマリアから生まれたイエス(ヨセフの子ではない)がアブラハムの子、ダビデの子なのか?
(野口君)「それは、ヨセフもマリアも神の子につながる家族になったということだよ」

4.(私) 聖書の神は何故人間を疑い試すような事ばかりするのか。「エデンの園の禁断の実」「カインとアベルの供物への差別」「敬虔なアブラハムの息子イサクを生贄要求」・・・
     特に人間の情からして、最愛の息子を生贄にしろという命令は納得・理解できない。私も妻も「そういうひどい要求をする神様ならいらない!」と意見が一致している。

 5.(私)民数記で神はモーゼに 「イスラエルの敵であるミデアンの民を、女も子供も家畜も全て殺せ、全て焼き払え。男を知らない娘だけはあなたたちの為に残してよい」 と命じている。こういう恐ろしい教えが堂々と旧約聖書にあるから、ナチスのホロコーストや原爆や化学兵器など使った大量殺戮戦争や、アラブ過激派テロが正当化される。(ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書は共通に信じている)
(野口君)「旧約聖書が成立する頃、中東は数多くの部族が勢力争いをしており、部族の結束を強めるために、あのような厳しい戒律が必要だったのではないか。そういう歴史的環境を理解しながら聖書を読むと違った理解ができるよ。」

6.(私) 洗礼を受けたはずの西欧人の歴史は、イエスが山上の垂訓で教えたことと真反対の事が多い。「汝の敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」とあるが、キリスト教圏復活の為に十字軍は1096年の第1回から、1272年の第9回まで約2百年間も敵イスラムを攻撃している。その他も数えきれないほど宗教がらみの戦争を行っている。
『悪人に手向かうな、右の頬を打たれたら左の頬も出しなさいとあるのに、キリスト教信者のヒットラーは、イエスを十字架にかけた復讐としてユダヤ人を迫害し、清教徒は新天地を求めてアメリカに流れ着きインディアンに助けられながら、恩を仇で返してインディアン殲滅に走り、黒人奴隷社会の繁栄を築いた。近代でも、洗礼を受け聖書に手を置き宣誓するアメリカ大統領が「汝姦淫するなかれ」をケネディもクリントンも平然と破り恥じなかった。
(野口君)「それは、イエスの教えをよく理解していない人たちの間違った行動。イエスの教えを守り実践し続けることは本当に難しく厳しい狭き門だ。」

7.(私) イエスは、「100匹の羊の中の1匹が迷い出たら、99匹を残し迷える羊を助けよ」と教えているが、イエスの弟子でイエスをローマから解放してくれる救世主と信じながら、イエスの本心を理解できない迷える羊はユダであった。 
なのになぜ最後の晩餐で 『裏切り者はあなただ。行って自分のなすべきことをやりなさい』と突き放しているのだろう。ユダの目的は金ではなかった証拠に、金を投げ捨て絶望で自殺している。イエスの目的(みんなの罪を背負い十字架にかかる)為に利用しただけのように思え、ユダが可哀そうに思う。一番イエスの救いを求めていたのはユダではなかったのか?(・・この問いへの野口君の答えは哲学的で、中々理解できず、今も自問自答しています。)
(野口君)「死ぬ間際の事は誰にも分からない。ユダが死ぬ瞬間、あるいは彼は自分のそばにイエスを感じていたかもしれない。」

<エピローグ>
浦上天主堂は、設計から20年をかけて1914年に完成しました。高さ25メートルの双塔の鐘楼を備えたロマネスク式大聖堂で、「東洋一の大聖堂」と謳われました。
しかし、194589日午前112分、米軍が長崎市の上空に投下したプルトニューム型原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残されました。
「カトリック浦上教会」は、1954年に「浦上天主堂再建委員会」を発足、募金のためにアメリカとカナダを訪問、19582月に信者達に説明会を実施しました。天主堂の解体撤去が濃厚になったことに、長崎市議会から 「原爆の恐ろしさを伝える歴史的資源にするべき」などと反対意見が続出し、218日の臨時議会で天主堂の保存を求める決議が全会一致で可決されました。
しかし市議会の要請も空しく、教会は同年3月から解体工事を開始、被爆した浦上天主堂は解体撤去され、鉄筋コンクリート製の新しい天主堂が作られました。
 広島市の「原爆ドーム」も保存か撤去かをめぐって議論が起きていました。「悲惨な思いがよみがえる」として取り壊す案もありましたが、1966年に広島市議会は永久保存を決議。被爆から51年後の1996年には、世界遺産に指定されました。人類史上初めて使用された核兵器による負の遺産として、平和を願うシンボルとしての価値が評価されました。
もし被爆当時の浦上天主堂が現存していたら「確実に世界遺産になり、世界一信者の多いキリスト教徒の世界に向かって、もっとストレートに核兵器の恐ろしさ、核廃絶のメッセージが発信できるのに・・」と、悔やむ声は今も根強くあります。青森公立大学教授の横手一彦さんは次のように著書で書いています。
『天主堂は、被爆後の13年間、最も象徴的な被爆遺構であった。そして、半ば崩れ落ちた煉瓦壁や、鼻先や指先を爆風に吹き飛ばされ、熱線に傷ついた聖像たちは、あの瞬間の恐怖を、無言のうちに語り続けたに違いない。天主堂は、原爆の極限的な破壊をありのままに示した歴史遺産になったであろう。しかし、今となっては、それは幻の世界遺産なのである。』
(「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 ― 失われた被爆遺産」岩波書店)
・・この焼けたマリア像は、野口君の叔父さんが瓦礫の中から見つけ出したものです。国連からも貸し出し要請があり、世界中に原爆の悲惨さを今に伝えます。

長崎平和公園 『平和祈念像』に思う
 『平和祈念像』は、被爆10周年記念行事として長崎市が建設を計画、195588日完成しました。制作者は南島原市生まれの彫刻家「北村西望」70代の頃の作品です。

【像の柔和な顔は神の愛と仏の慈悲を、天に向けて垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている】と、製作者は述べています。 しかし私は初めて訪れ 像のポーズの説明を聴いても、

「何だ、このプロレスラー像は?  被爆者の祈りもイエスキリストの祈りも微塵も伝わらない。どんな意味が込められようと 彫刻家の自己満足だけではないか!」

と感動も何もありませんでした。当時の長崎の信者への違和感が募り、次のようにと腹立たしく思いました。

『こんな分かりにくい彫刻をつくるよりも、そのころ未だ残っていた破壊された浦上天主堂を、何故残さなかったのか!その方が「人類の原罪を背負って十字架にかかったキリストの2000年後の信徒が、原爆で無辜の民を消滅させた愚かな行為」として、広島原爆ドームよりもっと直截に、人間の恐ろしさと、 反省と祈りと平和への誓いを、未来永劫 世界が共有化できたのに・・』

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